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知るべきこと考えてよいこと

立岩真也 2002/09/28
第10回日本介護福祉学会大会・シンポジウム 15:15〜17:00
http://www.jarcw.gr.jp/tu19sita.htm
於:長崎ブリックホール国際会議場 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/brick/index.html



  ◆「専門性」について。私は、もちろん言葉の定義にもよるけれど、専門性の存在を否定しないし、専門家の必要を認める。しかし同時に、専門性・専門家に対する、とりわけそのサービスを利用してきた人たち、指導されたりしてきた人たちからの批判があって、それにはもっともな部分があったことを知っている。その批判がなんであるのか、それさえも知らないとすれば、また知らないで、あるいは知らないことにして「専門性の確立」について論議したりするのは、やはりよいことではないと思う。
  *このことについては、「資格職と専門性」(進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』、1999、世界思想社)。また「だれにとってのなんのための、資格?」(『ばんぶう』2002-06、2002、日本医療企画)は全文をホームページ(http://www.arsvi.com→「立岩真也」)からご覧になれます。

  ◆ケア・介護の社会の中での位置づけ、その語られ方について。社会福祉学、フェミニズムの側からなど、ある程度のことが言われきた。しかしまだ考えて言うべきことがある。あるいは言われてきたことをそのままに受け取ってよいのか。家族の負担が大きい――のは事実だ――「から」、それは社会的に供給されるべきなのだろうか。また、上記した論点に関わり、素人のできない専門家の仕事である「から」、それは職業者によってなされねばならないのだろうか。私は、いずれについても原則的には「そうではない」(それと関係なく「社会化」されなくてはならない)と言うべきだと考えている。
  *このことについては、介助・家族と家族との関わりについてそれまで書いた文章を抜き書きして論点をまとめた「過剰と空白――世話することを巡る言説について」(副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』、2000、ミネルヴァ書房)。また、下記する『生の技法』『弱くある自由へ』所収の文章の中でも述べている。

  ◆何をしたらよいかよくないか。私自身は身体障害の人のことしか調べたり考えたりしたことがなく、その場合には比較的に単純なのだが、それでもいくらも考えないとならないことがある。それが精神障害の人や知的障害の人となるとさらにずっと厄介になる。「自己決定の尊重」という標語があって、私は基本的にそれに賛成だ。ただ、こういう学会だとか講演会の場ではそれが謳われながら、しかし「現場」に戻るとそうではない。その差が何であるのか、がほんとうは(例えば「学」において)主題化されるべきことではないか。私は「パターナリズム」を否定しきれないものと考えるのだが、同時にそれがきわめて危険なものであることもわかる。とすると、どんなときに「お節介」は許容されるのか、されないのか、それを考えなくてはならないということである。
  *「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」(石川准・長瀬修編『障害学への招待』、1999、明石書店)、「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」(後藤弘子編『少年非行と子どもたち』、1999、明石書店)。「パターナリズムについて――覚え書き」(『法社会学』、2002、日本法社会学会)は全文をホームページに掲載。

  ◆機構・システムについて。一方に(「生身の人間」に接するのはよいが)「仕組み」の話となるとほとんど受けつけられない人がいる。他方に、「支援費制度」等々国の「政策の動向」を紹介することに専心する人がおり、また他方に、その「政府の策動」を批判することに熱心な人がいる。いずれもわからないではない。しかし、やはり仕組みは大切であり、それをもっとましなものにすることはできるはずである。直接の供給システムの組み方をどうするか、とともに、そこに生じうる問題に対処する機構をどう作っていくか。それ考え、作っていこうとする試みが、とくに民間に、利用の当事者達の側に、実は様々にある。それを知ること、またそれに関わることの意義があるだろう。その上で、さらに考えることもできるはずだ。いまどきは「アドボカシー」が大切だ、くらいのことは誰でも言う。それを現実にどのように実現していくか、そのためにどんな仕掛けを作っていくかである。

  ◆そして、介助・介護されること、それ以前に介助・介護されることにつながることにもなる障害をもって生きていることについて、知らない。むろんそれを知りうるのかという問いもあるのだが、しかしそんな問いが意味をもつ以前に、なにも知らない。毎日仕事の場で接しているのだから知っていると思う。しかしそんなことはなく、近くにいるから見えていない、あるいは見ないことにしている部分がある。例えば知的障害があって、精神障害があって生きていることについて、施設や病院で暮らすことについて。いくつか書かれたものはあるから読めばよいと思うし、まだ書かれていないこともあるから調べればよいと思う。ところが、様々な論文を読んでも学会報告を聞いても、意外なほど、それはなされておらず、伝わってこない。

  何をお話ししたらよいのかわからない。「学会」であることにどれほどの意味が与えられているのか、与えられてよいかわからない。ただ、「学」であろうがなかろうが、知ったり考えたりした方がよいことはあるだろうと思ったから、いくつかを並べてみた。
  おわりの2つの◆、また全体に関わり、拙著『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(2000、青土社)所収の「遠離・遭遇――介助について」、それ以前には共著の『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(増補改訂版1995、藤原書店)がある。短い時間の中で話せることはもちろん限られているから、これらを読んでいただければありがたいです。
  そしてさきにも記したホームページhttp://www.arsvi.com(私の名前で検索しても出てくるはずです)にも(ここのところ介助・介護に関わるものは多くないけれど)、障害についてもっとストレートに見よう考えようという「障害学」の試みや、「生命倫理」と呼ばれる領域の事々など、いろいろと載っています――このところ『現代思想』(青土社)という雑誌にALS(筋萎縮性側索硬化症)について連載で書いているのですが、例えばそれは、医療倫理・生命倫理と介助・介護の問題が合わさっている、そういう場所です。ご覧ください。

シンポジスト紹介文

立岩真也(たていわ・しんや)専攻:社会学。1960年佐渡島生、1990年東京大学大学院社会学研究科博士課程修了、千葉大学文学部助手、信州大学医療技術短期大学部専任講師・助教授を経て、2002年より立命館大学政策科学部助教授。2003年、現在申請中の大学院・先端総合学術研究科に移動予定。著書に『生の技法』(共著、1990、増補改訂版1995、藤原書店)『私的所有論』(1997、勁草書房)『弱くある自由へ』(2000、青土社)等。

  コーディネーター:賀戸 一郎(西南学院大学)
  シンポジスト  :大塚 忠廣(特別養護老人ホーム 蓬莱荘)
           西口 守(東京家政学院大学)
           立岩 真也(立命館大学)
           本間 郁子(特養ホームをよくする市民の会)


UP:20020924 REV:0929
介助・介護  ◇立岩 真也
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