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ANSWER??

立岩真也 2002/08/01(立命館大学教員・http://www.arsvi.com
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』36
特集:保育園・幼稚園がイヤになるとき


  最初、「悩みに答える」みたいな原稿を、ということだったんですが、それはごめんなさい書けませんとお断りして、役に立たない抽象的で恐縮な話でよろしければ、ということになりました。
  保育園や幼稚園や学校に関わる場合、「自由化」という言葉が、自由はよいものだと思っている人にも、うさんくさく聞こえる理由はいくつかあります。
  まず、たいていの場合、自由に選ぶというほどたくさん選ぶ相手はいないということ。かたちの上で選べることになっていても、通える距離の中には一つしかなかったりします。そして受け入れる側が「お客」の数を確保できていて、むしろ逆に選べたりすると、自分たちの流儀に合わない人は来なくてよいということにもなります。とすると、選ぶもなにもなく、実際にはそれを受け入れないとならなくなります。
  しかし考えてみても、保育所や幼稚園の方が「自由」に好きなようにやってよいという理由はないわけで、それをわざわざ規制したりする必要がないのは、ひどいことをすると客が逃げてどうせつぶれてしまうから放っておいてもかまわないという場合です。そういうふうになっていないなら、そうむやみなことをされたら困る。だから、困るときには困ると言い、変えてもらうしかないということになります。
  次に、たとえば国に決めさせるのはよろしくないのは、自分のことは自分で決めたらよいから、だとしましょう。けれども、子どものこととなると、決めているのは、多くの場合、自分=子どもではなくて親です。子どもにとっては国家も他人だけれども、親も他人で、その他人が決めているという点では同じだと言うほかありません。
  ならば、本当にその子ども本人に決めさせればよいのではなかろうか、となります。それは今でも、きれいごとだと言われても、ばかにしてはいけない大切なことだろうと思います。けれども、それでも結局、何かを教えること、押しつけることから大人が逃れることはできないことも認めざるをえません。子どもにしてみれば、「自由」も含め、まずは上の世代から与えられるしかないのであり、そういう広い意味では、上の世代は何を与え何を与えないのかを決めざるをえないのです。
  となるとどう考えたらよいのでしょう。だれがなにを教える、のか。もちろんこれはとても大きな問題なのですが、ここでは一つについて少しだけ。だれが、の答えが親が、だとすると、なぜか。自分の子どもだからでしょうか。しかし、これは理由になっているようで、なにも理由を言ってはいないことがわかります。それでも親を優先するとしたらそれはなぜか。私は以前、ひどく長い本のほとんど最後の方で、次のように書いたことがあります。「産み育てるという行為に関わる当の者は、ある者を統御しようとしても、そのことの不可能性を知り、最もその存在に近い者でありながら、むしろそれゆえに、他者が他者であることを知っている存在ではないか。」(拙著『私的所有論』、勁草書房、四二七頁)
  言ってることはわりあい単純なことです。例えば「国」とか「教育者」みたいな人というのは、なにか目的があって、その方向に子どもをもっていこうとします。その目標や信念を貫ぬこうとしてしまえるところがあります。もちろん、親もそういうだいそれた望みをもったりもすることもあるわけですが、実際に子供に接しているとそれが無理なこと、こちらの勝手が効かないことがわかってしまう。だからこそ、社会は、子どもについて親に特権を認めるのだろうということです。つまり、親は自分の自由を通せないだろう、そういう意味で子どもに自由を与えられる、だからこそ親に委ねるということです。
  けれど実際にはいつもそうなるとは限らない、むしろ親が一番強力に子どもに介入することがある。とするとただ親を信用していればよいとも、残念ながら、なりません。それは露骨な虐待に限られないでしょう。「自由化」したら、結局親の欲の部分が大きくなってしまう、妙にあせってしまう親たちが乗せられてしまう、だから実際には親の自由でしかない自由をいつもそのまま認めることはできない。基本的にはそういうことだと思います。では誰がどのように口をはさむか。これで決まりという妙案があるわけでもなく、パスさせてもらいます。すみません。


UP:2002
子ども  ◇立岩真也
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