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これからの介助のこと

―知ってることは力になる・21―

立岩真也 2002/03 『こちら”ちくま”』26:
筑摩工芸研究所
http://www.azumino.cnet.ne.jp/human/chikuma


 以下、「DPI日本会議」(DPI=Disabled Peoples' International=障害者インターナショナル)から執筆を依頼され、その機関紙『われら自身の声』に掲載された「二兎を追う――問題「介護保障について論ぜよ」に」の再録です。今年の秋、世界会議が札幌で開かれるDPIについては次回にでも紹介することにして、ではさっそく。
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 介助制度の具体的な動向から遠ざかってしまっているので、このテーマについて私は適役ではない。本誌(『われら自身の声』)の読者だったら紹介するまでもないと思うが、「障害者自立生活・介護制度相談センター」の『全国障害者介護制度情報』(フリーダイヤル0120-870-222にかけると、まず最新号を送ってくれる)、同センターのホームページ(http://www.kaigo.npo.gr.jp)を見ていただくのが一番よい。また「全国自立生活センター協議会」の『I.L. EXPRESS 自立情報発信基地』にも中西正司さんが毎月のように文章を書いている。とにかくまずそれらを、よくよく読んでみることをお勧めする。
 読むと、なんだか複雑なようだが、要点は二つである。一つ、かたちが(かたちだけは)変わる。一つ、量は(ほっとけば)変わらない。前者は、基本的には、好機と捉えられる。後者はそうではない。
 一つめ。サービスの供給のかたちが変わってきている。「社会福祉基礎構造改革」の一環ということになるが、サービス提供団体=事業者の要件が緩和され、利用者はどこからサービスを得るかを選べるようになる。よいものが作られれば、また自分たちがよいものを作っていけば、そこからサービスを受けられる。2003年から変わるが、介護保険のサービス提供者については既にその方向に行っている。
 これは自立生活運動が主張してきたことだ。政策側が言い出す前から利用者=障害者側は「措置から契約へ」を言ってきたのである。ただ、これが質の向上を自動的にもたらすわけではない。供給主体が複数出てこないところでは、選びようがなく、競争による質の向上は実現しない。供給者が出てこないところでは出てくるよう責任をもたねばならないのだし、また、質の悪い事業者の排除など利用者=消費者保護を必要な場面で行うことも大切である。
 と同時に、自分たちが主体となってサービスを提供すること。といってもそうかまえることはない。かなり小さくともそれなりにやっていけるようになった。そこで当事者の運動は、実績とノウハウをもっているところが手助けし、全国にそういう組織を作っていこうという方向に動いている。急ぎに急いで、2003年までに当事者主体の事業所を300に増やそうとしている。
 「全国障害者介護保障協議会」(上記の相談センターが具体的な情報提供団体で、こちらは協議し立案し交渉する運動体)、「自薦ヘルパー(パーソナルアシスタント制度)推進協会」(全国で事業立ち上げのための研修会等を行っている)、「介護保険ヘルパー広域自薦登録協会」(介護保険のヘルパーの自薦での利用を支援)等、次々になんだか似たような、同じ人たちが関わっている長い名称の団体は立ち上がるし、動きが目まぐるして、人によっては半信半疑、かもしれない。しかし私は、運動がいま、急いで全力をあげてやろうとしていることには大きな意味があると思う。益があると思う。これにみなが乗って、盛り上がっていったらよいと考える。
 もう一つ、量。これは今までもそうだが、市町村にまかせるということで何も決まりがない。少なくとも増やすという姿勢は見えない。他方、判定された要介護度に応じて一律に決まる介護保険の方は、一番「重い」人でも、訪問介護にだけ使えば1日3時間がいいところである。たまに誤解する人がいるから言っておくが、「量」こそが生活の「質」を決定的に左右する。地域で暮らすための介助の量がなく、それで施設へということになったら、なにが選択だろう。それでも選択だとか自己決定だとか言うのは、詐欺である。例えば施設で暮らすか暮らさないかが選択の問題だとして、同じだけの介助を得られるという前提で選べるのでなければ選択とは言えない。まったく依然として、量が足りない部分は増やさなくてはならないのだし、ないものは作らなくてはならない。従来の一つ一つのサービスはそのままで、それを契約という形にしようというだけに止まってはならないのである。
 利用者=障害者の側は、もっと大きな改革の中に契約や自己決定といった言葉を位置づけてきた。他方、官庁がやっていることを見る限り、普通の、当然の意味での生活の質の向上も自己決定も目指されてはいない。その差は依然として大きい。(かけるお金が変わらず、民間がいろいろやってくれるならそれでよいと財政側が思うのは、当然と言えば当然である。だから一つめの「形」についてだけ、たいがい意見が一致しない政策側と運動側が同じことを言うことにもなった。より詳しくは青土社刊の拙著『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』の356頁以下。)
 日本の自立生活運動の偉大なところは、供給−利用の仕組みの変革と、社会的な負担による十分な量の供給、この両方を同時に求めてきたところにある(安積他『生の技法 増補改訂版』、藤原書店、1995年の第9章、全国自立生活センター協議会編『自立生活運動と障害文化』、現代書館、2001年の高橋修さんのところ等)。両方を同時に進めていかなくてはならない状況は今も変わらない。
 さてどうするか。これなら絶対という方法はない。今までは、各地域での行政の担当者との個別交渉、一点突破で当たってきて――そのための技を前記した相談センターが提供してきて――、それで相当の成果は上がってきた。どんな経緯であれ一箇所に穴が空けば、後が続くというわけだ。この方法は有効だから、今後も使われるだろう。ただ、それだけでどこまで行けるかということもあるかもしれない。正面から主張し、人にわからせるということも同時に必要だろう。
 必要な水準にまで介助をたくさん行っても、この社会が維持していけないなどということはないことをわかってもらいたいと私は思う。家族がやっていた分を代わりに別の人がやるのであれば、社会全体としての介助の量は変わらない。社会的負担による有償化により、より多く受け取る人もおり、逆の人もいるが、仕事の量にせよ暮らし向きにせよ平等・公平に近い方がよいと考えれば、今は少しも公平でないのだから、より好ましい状態になる(『生の技法』第8章)。では介助の量が純粋に増える場合はどうか。すなおに考えると、いま労働力は余っていて、少子化社会だろうが高齢化社会だろうが、それは今後とも基本的には変わらない。ところで、仕事がなく仕事をしない人ももちろん生きていけてよいのだから、その人の生活のために社会は支出すべきである。ならば、いま働きたいが働いていない人の数に対応する数の人に働いてもらい、それに対して社会が支出してもそう変わらない。おおむねこういう理屈になると思うのだが、私はそれをもう少していねいに言おうと、ものを書いてきたりした。理屈にたいした力はないが、それでもないよりはましということもある。
 そしてとにかく、介護保険の水準などではまったく、人が死んでしまうほど、足りないことを言い続けることだ。介護保険の利用者に「特例」としていくつかの難病の人たちが入った。いまALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちのことを少し調べているのだが、24時間の介助が必要となるその人たちの状況は依然としてまったく深刻で、家族の負担が大きいことを背景に、人工呼吸器をつければもっと生きられるのに、つけないで亡くなっていく人が7割いるとも言われる。この人たちの団体(日本ALS協会)の運動は厚生大臣への陳情などもっぱら表玄関からのもので、かえってなかなか成果をあげるのが難しいところもないではない。ただこういう行動も必要だと思う。表からと裏からと、うまく戦術を組み合わせ、今まで障害者運動とあまりつながってこなかった、しかしやはり障害者である人たちとも連携してやっていけるとよいと思う。
 ※この文章の全文と関連項目、団体へのリンクをホームページに掲載します。私の名前で検索してみてください。



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