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生存の争い

医療の現代史のために 3

立岩 真也 20020501 『現代思想』30-7(2002-6):41-56 http://www.seidosha.co.jp/


 ※この文章に書いたことは『自閉症連続の時代』の第3章「誤解は解ける、が」1「家族ではないこと」他でさらにいくらか考えてみています。

■立岩真也 2014/08/25 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

『自閉症連続体の時代』表紙

 「私は、このレッテルを持って帰った。レッテルなど無駄だと言う人もいるだろうし、害になるだけだと言う人もいるだろう。でも私には、このレッテルは役に立つと思えた。」(Gerland[1997=2000:262])★01

 この文章は、医療をめぐって様々に新しいとされる事態が起こっていることを受けて企画された本誌の特集(2月号:特集「先端医療」)に書く機会を与えられたときに、そんなことを考えるためにも、少し時間を戻して、これまでどんなことが問題にされ、考えられたり言われてきたのかをみた方がよいと思って書き始めて、長くなってしまっている。
 その第1回(2月号)では、まずふまえておいてよい基本的な要素を示し(第1節)、社会学等による事態の捉え方についていくつか記した上で、ここ三、四十年の間に何が問題にされてきたのかを検討するとよいと思うと述べた(第2節)。そして、近代医学・医療は病気に対する対処法を間違っているから別のものを代わりに示そうという動きについて(第3節1)、次に、得るものと失うものをもっと広くとらえ、医療にともなう本人の支払いを点検し、医療が直接に与えようとする健康よりもっと大切なものがあるかもしれないから得失を計算しなおそうという動きについて(第3節2)記した。この部分はごくあっさりした記述だった。
 次回以降は、第3節に記した批判が、そこに内包させていたいくつかの問題を問うことなくあるいは問われないことによって、一般化し普及していった過程をたどり、そこに積み残されたものが、新しいものとされる技術への対応を含め、実は論点・争点となる部分であることを述べ、さらに、その部分を問題にしてきたもう一つの流れを取り出し、その含意を考えることによって、何を言うことができるかを言ってみる、そんな筋になるはずである★02。
 4月号に掲載された第2回と今回が第3節3「原因の帰属先のこと」に当てられた。前回は個人にもっぱら注目することを批判し社会の側を問題にする医療者の側からの動きがあったことを述べた。それは良心的な行ないなのではあるが、その意味、妥当性はよく検討されるべきであること、その理由を述べた。今回は、家族、当人の側からは、いやそれはただの病気なのだと言われたことについて、その意味について考える。
 長くなってしまっている。それはこの主題がここで触れられない部分も含めて大きな主題であり、そこから考えるべきことがどうしても広がっていってしまうからでもあり、そしてこの連載の後の部分で述べようとすることにいくらかは立ち入らないと何が問題なのかもはっきりしないので少し先取りして述べないとならないことがあるからでもある。また、第1回、第2節にも述べたことに関わり、これまで批判は、医学が示す病因論に対してはそれが確実でないことを指摘し、また社会的因子を強調するというのが常道だったのだが、その意義を了承しつつ、しかしそれだけではすまないはずだという思いにもよっている★03。

4 家族、ではないこと

 例えば精神分裂病は家族関係の病であるといった理解があった。それを単純にしかしすなおに解すれば、その病気は家族のせいだということになる。また子どもが自閉症であるのは家族関係に由来するとされ、親のせいだとされた。そしてその他ほとんどありとあらゆることについて、その原因として家族が、もっと具体的には女性、母親が名指しされた。これらひどく粗雑なものからそうでもないものまで様々な家族要因説に対して、批判がなされる。その大きな部分はフェミニズムの側からのものだった。
 「母性剥奪」といった語が使われ、「母性」の「欠如」が問題にされる。例えば、子どもは三歳までは親、母親がつききりでみないといけないといういわゆる「三歳児神話」が語られ、それが、小さい子どものいる母親は外に出て働かない方がよいという教えと結ばれ、子が大きくなって引き起こす問題、問題とされる事々のあらかたが「女性の社会進出」に関わらせられる。そんなはずはないと思い、調べてそのことを言う。例えば「三歳児神話」が実証的に否定される。
 けれどもフェミニズムは常に全面的に家族要因論、正確には母親要因論を否定してきたわけではない。あるべきかたちの関係においてはともかく、現実の実際の家族には様々の問題があって、少なくとも第一次的にはそれが病理を生じさせていることを言う。むろんそれは個々の成員を有責者として名指すものではない。まず、加害者であるより被害者であることがある。そしてひとまずは加害者と言えることがあるにしても、それは家族や女性のあり方を規定しているもっと大きなものに問題があるとする。つまり基本的には家族や女性の問題を社会の中で問題にするのだが、その上で、それは直接的に関わり問題を作り出す主体が家族であることを否定するものではない。社会の側のまちがった女性や家族のあり方の規定によって、それに規定された家族や女性のあり方によって、問題は生じている。社会はそのようであるべきでなく、また女性も、家族もそのようであるべきではない。先の論は母親がつききりで子どもの傍にいないことを問題の原因とみたのだが、むしろ、つききりでいること、そうすべきであると思っていることが問題を作り出しており、そして、そのようにさせている社会に問題があるとする★04。
 それに対して、放任として捉えるにせよ密着の問題として捉えるにせよ、そのいずれでもないと批判がなされることになる。家族が、少なくとも第一義的には、ときにはまったく関わらない場合があると言われる。例えば自閉症の親、親の会が、過剰であれ過少であれ家族のあり方に原因が帰属されることを批判する★05。
 一方の側にとっては家族のせいにした方が都合がよいから家族要因説を支持し、他方の側はそれでは都合がわるいから支持しないというのは、つまらない理解だ。例えば自閉症の子どものいる家族にとっては、そんなはずはない、思いあたるところがないという感覚があったはずだ。家族に問題があると言われ、問題があるはずだと言われて何も思いあたることのない家族などないのだから、そうかもしれないと思ってもみるのだが、しかしやはりそんなはずはないと思う。それが脳生理学的にこんなことになっていると説明されると、そうかやはりそういうことだったのかということになる。そして、そうした理解が関係者たちの間では当然のことになってからかなりの時間が経った後にも家族との関わりが語られてしまうから、それに対して苛立ち、怒ることを続けなければならない。
 家族を要因にあげた人たちの見ていたものがはじめから異なっている可能性がある。その人は医学的に自閉症と診断のつく人のことをそう知っているわけではなく、たぶんに自閉症という言葉から受け取る印象に基づいて何かを言うことがあるのだが、そこには大きなずれがあり、前者の意味での自閉症の人やその関係者にとっては耐えがたい誤りを言っていることになる。だからこのことについて間違いを間違った側は認めるべきだし、実際認めることになる。そしてそれは、家族や性を巡る抑圧に関する基本的な主張を覆すものではない。その誤りを認めることが主張の総体を否定することにはまったくならないからだ。
 とすると、家族に由来するのかそれとも家族には直接の関係がないのかについては予断を排して慎重に考えるべきだという、それ以前に家族と何かを結びつける科学的・医学的と称するお話をまずはそのまま受け取ってはならないという、そしてそうしたお話に一定の需要があるのにはそれなりの社会の仕組み・仕掛けがあるのでありそうした仕掛けがどんなものであるかを見ておくことの方が先であるという、当然の教訓を得ればよいということになるだろうか。おおむねその通りだと思う。当然のことは多くの場合に大切なことなのである。
 ただとくに家族という関係に限らず、ここにはやっかいな問題が残されてもいること、あるいははじめから存在していることは──当座の行論からは少し離れてしまうのだが──記しておいた方がよいだろう。一つに心的な要因の位置がある。それがさまざまなことに影響を与えていること自体は認められる。そして家族という小さくそしてなかなかに逃れがたい関係のなかにそれが大きく作用することがあることも認められるだろう。このときに、決定不可能性、むしろ否定の不可能性が現われる。私の心理について私は独占的な解釈者であることができない。例えば、このように私は思っているからなにかをする、と私が思っていることについて、実は、そのようにあなたが思っていると思いたいあなたの別の思いがあるのだと常に言うことはでき、そしてそれを完全に否定することはできない。ではそうしたお話をすべて、原因・罪を個人に帰着させそこに内閉させようとする詐術として否定すればよいのか。そんなことでもないだろう。とするとどのように考えたらよいのか。
 ここは解釈と記憶の場であり、ことが人間に関わるなら、説明と説明の対象との独立性は保たれない。原因を巡る了解が社会に流布し、因果関係についての説明を私は知ることができる。それを私に照らし合わせてみるとそうかもしれないと思う。私は実はアダルト・チルドレンの一人であり、だから今のような私なのだと考える。ただ他方からは、そういう了解の仕方が安易だと後知恵だとさらには虚構だと批判され、そんなことであなたはそうなっているのではないのだと言われることもある。ことの真偽を確かめるのは、特に一人一人の個別の場合については難しい。親から子に伝わる傷というものの存在は、そうした言説の循環の中から生まれ、再生産されていくものでしかないのだろうか。そうした性格のあることを認めながら、しかしそれだけでもないだろうと思う。今述べた決定不可能性に包まれながら、なにかしらの説得力をもつように思われる。家族に要因を見出す主張を巡る議論がなかなか終わらないのはそんなことになっているからでもある。それをどう考えていけばよいのか、私にはよくわからない。このことについてもずいぶんのことがもう語られてきたはずなのに、それは蓄積され吟味されているように思えず、考えるときの助けになってくれない★06。

5 本人が認めること

 これは病気ではないと、あるいは障害ではないと言うことがあり、隠そうとすることがある一方で、これは病気だからと本人が言う場合もある★07。どういうことになっているのだろう。
 まずわかると対処法があることがある。原因究明もそのために求められてきたし、一人の人の個別の場合についても、それがなんであるかわかるとその状態を脱するために、あるいは軽減するために何をしたらよいかがわかることがあり、いまの状態がどうしてそうなっているのかを知りたいということがある。ただここではともかくよくなればよいのだがら、その原因はそのために必要なことがあるということであり、必ず必要なのではない。理由はわからなくともなおること、なおせることはある。他方、わかることは治療の方法がないこと、状態が悪化していくことがわかることであることもある。「告知」をめぐるやっかいごとがここに現われるのだが★08、ここではそのことはひとまず置くとしよう。
 以上と別に、狭い意味での治療法がわからなくても、置かれている状態の原因がわかること、名前がつくこと、少なくともなんらかの機構が働いているらしいことがわかることが意味を持つことがある。なにかを測定してそれがある数値を示しているということは苦痛の記述ではない。それは言葉の使い方の間違いである。さらに、検査しても異常が発見されないから苦痛はないはずだなどと言うのは、実際にはしばしばそのようなことが言われてしまうのだが、まったく転倒している。ただそのことは確認した上で、その私の痛みにはそれなりのわけがあることがわかること、病名が特定されないにしても、たしかに熱があるとか、なんらかの数値が上がっているとか下がっているとか、それがこの状態に関係するらしいことがわかって、やはり身体のどこかがどうかなっているのかと思う。そんなことが気になるのは、いつもの自分と比べてこのごろどうも変だ、これはなんだろうということもあるが、周囲の人たちと比べてということもある。どうも私は多くの人と違って、もの忘れがひどい、ひどく疲れやすい、あるいは突然強い眠気に襲われてしまうのだが、私以外の多くの人はどうもそんなことはないようだ。とくにそれは、外見からは違いがわからず、そして「気のもちよう」とか「努力」によって変わってくるものについて気にされる。少なくとも人並みには努力しているはずなのだがどうもうまくいかない、なぜだろうと思う。どうやらそれは脳の中にしかじかのことが起こっているということらしい。その仕掛けのことはわからなくても、どうやらこれは仕方のないことであるらしいと思う。そして、その私と同じような人が他にもいるらしいことがわかる。
 そしてそれは私の私に対する納得のさせ方だけではない。周囲が、どうもあの人はようすが変だというときに、実はこれこれで病気だったのだという納得の仕方がある。そしてこのこととつながって、本人の周囲に対する納得のさせ方、説明の仕方として私は病気だからということがある。人からなぜあなたはそうなのかと聞かれて、それはこれこれの病気のせいだからだと言える。
 第二に、態度や努力と相関する部分でとくに納得や説明が求められることからもわかるように、それは単に認知上の違和の解消だけのことではなく、具体的な行動に関わることである。たんに様子が変わっているというだけでなく、例えばその人の行ないが一般的な作法に抵触することがあるのだが、それを遵守することができないのは病気だから仕方がないとされることがあり、それでしなくてはならないことをしなくてもすむことがある。しようとしてもできないのだから、きまり通りにしなくてすむ、しないことについて仕方がないとしてもらえるということがある。外見からはなかなかわからない場合、単になまけているのではないかと見られるような場合、それを知ってもらうことは大切なことになる。例えば「居眠り病」とも呼ばれたりする「ナルコレプシー」(narcolepsy)の人たちが、これは病気なのであり生理的なところに要因があることを知ってもらおうとしている★09。
 こうして、違っていることについて納得したいし、人との関わりの中で、対他関係のなかで、わかってほしい、私なりに遇してほしいということがある。どうにも気力が出なかったり、すぐに疲れてしまうことがあるのだが、周りからはなまけているのだろうと思われ言われる。それに対してこれは病気なのだと言い、それで周囲の人も納得し、それで楽になることがある。具体的な原因はわからなくても、ともかく努力が足りないからではなく、本人が統御できるものではないものによっているとなると、できない以上は仕方がないではないかということになる。それまで努力を強いられてきた(にもかかわらずどうにもならなかった)のだが、それを強いられなくなる、できなくても責められなくなることがある。だから「病人役割」★10の役割は必ずしも消極的なものではない。できるなら働けという社会においては、できないものはできないと言えること、できないのにできるようにしろと言われなくてもすむのはよいことである。そして、できる範囲のことを無理せずにでき、かえって以前よりうまくものごとをこなせるようになることもある。ここまで「治療」に直接に結びつかない場面を取り出して見てきたのだが、これは既に生きていくにあたっての具体的な方策を得ることに結びついている。
 以上と、生理的な原因があること、社会の側に原因があるとすることとの関わりはどのようなものだろうか★11。
 例えば摂食障害の場合には、家族、社会という説明がわりあい受け入れられているように思える。その関係の中で型どられた自分の自分に対する関係、自らの身体に対する関係のあり方がそれに作用しているのはどうやら確かなようであり、少なくとも、その関係を自分から差し引いてみると少し楽にはなれることがある。それに対してやはりその種の説明では腑に落ちないことがある。家族にしても納得できないが、本人にとっても思いあたるところはない。家族関係が変わったとしても、そしてそのこと自体はよいことだとしても、それで自分の状態が変わるようには思えず、実際変わらないことがある。脳内の物質がしかじかであるために自閉症と呼ばれる症状が発症するという説が学界で主流になっていったのは、そんな当人たちの現実感とあまり関係のないところでであったかのかもしれない。その業界の人たちは、ともかく自分たちの学問の流儀で調べていっただけで、そのときに脳の中になにかしらのものが見出されたというわけである。ただその本人や家族にとってもその方が納得できるし、それが採用される。これは社会的要因説に対する生理的要因説を積極的にとったということではない。神様がそういうことにしたのだというのでも、神様が十分に信じられているような世界にあっては、よかったかもしれないのだが、それへの信頼がそう強くないとき、それよりは確からしいものとして科学の説明を受け入れる。そう強い意味での科学信仰がここにあるとも言えない。
 そしてそれは自らが負わされた荷をおろすことでもあった。前回述べたように、社会を問題にする立場は社会に対する批判派であると同時に、社会の進歩・改良というこの社会の本流の中にもあった。病をもたらす社会問題は解決されるべきであり、そのための人々の努力を促す。解決できないときには、そこにいる病者は社会の矛盾を体現するものとして見られる。社会の問題が刻印されている存在とされ、その象徴とされることになる★12。それに対してこれはただの病気だと言う病者の側の言い方はそこからの離脱でもあった。病や障害についてその本人たちと支援者がいるとき、本人の方が冷めていることがしばしばある。支援者、自らの仕事に批判的な医療・福祉従事者は、その批判と支援の活動を、大きな社会の中に位置づけようとする、あるいは位置づくと考えることによって批判し支援する。だが当の当人はそのように自らを位置づけるとは限らない。まずはどうやって生きていくのが生きやすいかを、それが結果として社会の問題化につながることがあるにしても、考える。
 次に「なおす」こととの関係について。医療化に対する批判の大きな部分は、医療の対象とされる必要のないものがその対象になってしまうこと、なおされる対象になることに対するものだった。治療の対象になるもの、なおしたい状態が病であるという言葉の使い方もあるから、その場合には病気ではないものを病気だとされてしまうということになる。そして一般に医学・医療は人の生理的な部分に関わる不調に対する介入だとされるのだから、人の状態に対する生理的な説明がなされるということは、医学的な介入につながることがありうるし、そのつもりで研究などもなされる。しかし、生理的な機構があること、あるらしいこと、あるいは特定されていること、場合によってはその「治療法」があることは、それをなくすべきこと、治療すべきことを意味しない。例えば、仮に同性愛者であることがなんらかの生理的な根拠をもつとして、だからそれを治療し異性愛者にすべきだとはならない。であるのにそのようにさせられてきたことが問題であるというのはその通りだが、これに対しては、生理的な根拠をもつとしても、それは治療すべき対象ではないと主張するしかない。それでもそれをなおす技術があるということになれば、なおしたい人がいてなおさせられてしまう可能性はある。だが他方で、少なくとも今の技術ではそれはなおらないということにひとまず決まってしまえば、それから逃れることはできる。それに対し、それが「心の問題」であり、例えば「心掛け」や「努力」によってなおってしまうということになれば、なおすほうへの圧力はより強くなってしまうかもしれない。だから今の状態を変えたくない、あるいは無理して変えるほどではないと思う人にとっては、むしろ「生物学的決定論」が都合のよいことはありうる。

6 残ること・生じること

 このようにして、わかることによって、そしてその原因が人為にかかわらないところにあることによって当人が落ち着く、すっきりすることがある。ただ、これに批判がなされ、反感が抱かれることがある。それへの対応も含め、当人にとってもうまくいかない部分がある。それはどんなところに発しているのだろうか。さきに、連続しながらも大きく二つの要素があること、わかることとしなくてよいこととがあることを述べた。それに応じて、やはり連続しながら大きく二つがある。
 第一にわかること、説明することにについて。人が医学に捉えられるとき、分類され、一括りにされ、烙印を押されることの問題性が指摘されてきた。それに対してこのたびのものは、自分でそれを受け入れてはいるのだからその点がひとまず違うには違う。とはいえ、ある型を使いそれにあてはめるということがここで行なわれていることはある。これが一つ。次に、そのようにして私を説明しようとすること、私の出自を探そうとすることに対する反感もあるのかもしれない。自分の状態がどうこうであるという説明をいちいち求めること、自分はどんな由来でどうなっているのかといったことにあまり執着するのはよした方がよいのではないかと思う人がいるようなのだ。さらに、しかもそれに医学の説明を持ち出すことを残念に思う気持ち、その説明に拠ることへの反感のようなものがある。説明を「科学」に求めることは、客観的なものへの依存であり、医療に対する従属ではないかと言われる。以上、それは自分を型にはめることであるとともに、私への拘泥であり、そしてその答えがそんなに簡単で安直で出来合いの都合のよいものであってよいのか、既存の権威を借りたものであったよいのかということになる。
 しかしこれには反論があるだろう。まず繰り返しになるが、わからないことが常に不安であるとは限らないにせよ、なんであるのかわかること、名がつくことによって、なんだかわからないという不安から逃れられることがあり、安心する、あるいは心構えができることがある。それは格別よいことでもないかもしれないが、わるいことでもない。そして、分類されいずれかの集合に配属されることは常にあり、その上でそれぞれの人がそれぞれとして存在することは可能ではある。そして、複雑なものを単純なものによって説明すること、例えばなんにでもDNAを持ち出してくるのはたしかに安直ではあるだろうが、その人はそんなだいそれた、あるいは乱暴なことを言いたいのではなく、エンジンのかかりが悪いと思ったらそれはこのプラグの接触がおかしくなっているということだったというのと同じで、具体的なわからなさを解消しようとしているだけなのかもしれない。そして何が説明を与えるのかについても、科学がそれを与えなくてはならないと考えているわけではなく、ただあまりに自分に都合よくどうとでも変えられる説明というのではその人自身にとって役に立たない。そんな意味でそれはなにか「客観的」なものでないと困る。そこにこの説明がおさまる。少なくともある程度はあてにできる。それでよいではないか。まずはこのように応じることはできる。
 ただ、その枠に収めたり、枠を使ったりするのはその本人だけではない。その枠の中で解釈され、その人の言うことが聞かれなかったり、あるいは都合のよいように割り引いて聞かれたりすることがある。だから、その人は自分の病気のことを隠しておこうとすることもあるのだ。これは第二の、現実の行為や他人との関係の場面につながる。そこでうまくいかないことがあり、また反発を受けることがある。一つには、病気であるとされることによって、行動その他が制約されることである。その病気のためだとして行動の制限を受ける。仕事や責務を免除されたくないのだが、免除されてしまう。
 これは偏見に由来するのだろうか。しかし他方の側は実際に能率が低下していると言う。回復する見込みがなくあるいは悪化が予測され、仕事ができないことが予測されるから、雇用されないと言う。あるいは客が嫌がったりすることはあり、これは客商売だから仕方がないと言う。あるいは、その人についてはだいじょうぶかもしれないが、しかしうまく仕事が遂行できない可能性はあり、その確率は他の集団に比べて高いと言う。これらを少なくとも偏見の一言で片付けることはできない。これらの理由づけ、言いわけのどこまでを排することができるだろうか。
 また他方では、病気なのだから仕方がないという言い方に対して、病気として扱うことはその人を楽にさせている、本当は病気ではない、病気かもしれないがそれが原因なのではない、さぼっている、責任を回避しているという批判がなされる★13。そしてさらに、病気のためだと制限されていることに対して、病気ではあるがしたいことがありできることがあるという当人の主張に対して、それは一方では責任の免除を言い立て、他方ではしたいことをさせろというむしのよい主張だと反発されることになる★14。
 病気だから仕方がないと言う側と、いやそんなことはないはずだと言う側と、どちらに言い分があるか決し難く、しかしいずれの言い分をとるかを決めなくてはならない。この場から完全に逃れることはできないだろう。人に害を与えるという行為とそうでない(例えば生産といった)行為とは区別されなくてはならず、害をなしたときにその人が何を引き受けなければならないかという問題と、労働と生産物の配分・分配の問題は──どのように異なるのかまだうまく言えないのだが──別種の問題ではあるはずだ。ただ前者について、わざとやったことならそれについての責任をとる必要のある場面はある。また後者についても、できるのであればしなくてはならないことがある。本人ではどうにもならない、となんとかなるというこの区別──それは必ずしも二値的なものではないのではあるが──がある限り、そしてなんとかなるのであればすべきだという規範をいくらかでも認めるなら、なんとかなることなのかそうでないのかという事実が問題になる。できることならしなくてはならないが、あるいはするべきでないが、そうでなければ仕方がない。そして、本人の報告に委ねる場合には嘘をつくことはでき、そこでなにか証拠がいるとなり、そこで医師の診断書が必要だということになる。
 だからきちんと診断すればよいということにもなる。病気だからできることできないことをもっと正確に把握して過不足のないようにすればよいということになる。正確な情報を自らも得、そして社会に対しても提供していこうとする。実際、当人たちのあるいは当人のための運動がそのことをずっと主張し、事態を変えようとしてきた。そのことの意味は否定されようがない。そのことはこの続きものの文章の後の方でも再度確認されるだろう。けれど、これは病気だからという言い方で人に納得してもらい、それなりの待遇を要求することが終着の場所なのかと考えるなら、そうでないかもしれない。
 もっとも基底にあるのは、偏見という把握で間に合わない部分をどう捉えるかという問題なのだが──結局、この連載はこのことについて考えることになるだろうし、以下に述べることもここに戻ってくるだろう──、それとともに病気という括り方、範疇による把握の仕方の限界もある。私はどうにも不調でその仕事をするのがつらいのだが、その原因を一つ一つ特定できたりはしない。すべてになにかの病気を貼りつけられるというものではない。病気であること、その病気がどんなものであるかを証明しないとなまけられないのも困ったことではある。理由はよくわからないにしても、しかし調子がわるいのだから仕事はできないと言えればほんとうはその方がよい。また病気あるいは障害として括るにしても、それは個別のその時々の人がどのくらいつらいのか、そしてどこまでのことができるかには対応しない。ある程度の不調はあるにせよ、それは人によって場合に様々で、状態がそれほどひどくないときにはそこそこやっていけたりもするのだが、そのようには受け止められない。だからどんな種類に属するのかを特定しそのラベルを貼りつけ、それによって相手から一定の譲歩を得るというこの戦略も最善のものというわけではない。自分が(できないほど)病気であること、あるいは(病気ではあるが)できるくらいであることを証明しなくてはならず、しかも大雑把に括られてしまう、そうでありながらその人がどのような範疇に属するのかは特定されてしまう★15。
 同様のことは、わかる、わかってもらうという一番目にあげたことについてもある。普通なら不愉快なことであったり、あるいは不都合なことであるのだが、しかしわざとやっているのではないのだからそれは仕方がないとされる、そんなことがこの世からなくなることはないとして、そこに病気や障害という項が必ず必要なわけではない。例えば、あの人は変な人だが、あの人はああいう人だ、ああいう人だから仕方ないという以上は問わないということもある。それに名がつくことや、その原因がなんであるかがわかることがつねに要されるのではない。変わったことがたんに変わったこととして認められた方がよいことなのかもしれない。不都合であることや役に立たないや迷惑であることについても、それらがどの程度のものとして社会の中に繰り入れられるかによって、病気であることや、病気であることを理由にすることの重みは変わってくる。標識を掲げることは当人にとって使える手段だが、もっともよい手段でもない。私は、この標識を使って生きていく側の言うことが常に正しいなどといったことを言おうしているのではない。問題はそれが占める位置と重みなのであり、それを決めているのは基本的に病や障害を取り巻く側なのであり、そのあり方によって自分や周囲を病気だからといって納得させようとするその力加減もまた変わってくるはずだということである。病であることを言うことにそれほど重みをおかなくてすむ社会に現実にいられるかどうか、そのことを無視して、その人が言い訳がましいこと等々を責めても仕方がない。

7 少し道を変えること

 身体への還元論に対する批判は、身体に対してなされる乱暴な行ないに対する反対、歯止めとして、まず有効だった。そして問題を個人の水準にとどめることへの反対、もっと大きなところを見なくてはならないという提起だった。病気をしていることの全体に社会はたしかに関わってくるから、社会という次元を持ち出すことが間違っていたのではないし、社会を言う説に意味がなくなったのでもない。
 しかしそれが直接の原因論として示されると、別の要因によることがある程度のたしからしさで言われるとき、かえってその力を失うことになる。原因論であるという理解には、意図的あるいは非意図的な曲解もあり、そう解されることによって不当に批判、非難された部分もある。例えば、病気など存在しないといった極端な主張をかつてした輩がいたのだが、その非科学性が明らかになり、当然の報いとしてそうした主張は衰退していった、といった見方がどのくらい確かなのかは調べておく必要がある。ただそれでも、たしかに原因論として語られた部分もあり、それを単純に受け取るかぎり、そのあるものはそのまではもう使えなくなっている。遺伝子の働きの解明は過去の遺伝子決定論をむしろ否定するものだとも言われ、それはその通りなのではあるが、遺伝子が特定され、それが診断で明らかになり、かかる病気が確定的にわかることもまたある。こうした事態に社会性を単純に対置する議論だけでは対応できない。
 これは因果関係についての事実問題なのだから、どちらかに決するではないかと言われるかもしれない。一般論として様々ありうるといったことを言っても仕方がない、もっと事実は事実として見ればよいということになるだろうか。きちんと場合分けをして、たしかに生理的な要因がもっぱら効いている病気、その要因の発現に社会的な要因が関わっている場合、等々という具合に慎重に考えていけばよいのだろうか。それはそれでたしかに必要なことではある。しかしそれだけではない、あるいはその際に考えにいれておいた方がよいことがある。
 まず起こっている事態を基本的にどう見るかである。その症状の直接の原因がなんであろうが、それを有する人は社会の中に暮らしている。とくにその人自身にとっては、その症状を抱えている自らへの自らの対し方、周囲の対し方を含めたものが病の体験であり、いわゆる症状として発現しているものとそれに関わる因子だけが問題なのではない。その因子が作用するしないに関わる社会的経済的条件があり、また同じ症状を発現していたとしても、扱い方いかんによって症状が重くなるといったこともある。これらの場合にはすでに社会的なものがその症状に直接に影響しているのだが、そうでない場合、その身体的な状態自体は変わらなくとも、生きていきやすくなったりならなくなったりする。例えば幻覚や幻聴はなくなったりはしないのだが、それでもなんとかやっていけるときとそうでないときとある。このときにも、広い意味でのあるいは普通の意味での病に、社会は因果的に作用している。だから症状に対して直接的に社会的因子が効いていないことと、その病が社会的に規定されていることは矛盾するわけではない。そして病気であることを知ること言うことやその原因を語ることの位置もまたこの場に規定されているのだということ、このことを今回確認してきた。
 次に(ここからは、この文章の流れからすれば、さらにひとわたりのことを述べてから記した方がよいのかもしれないのだが)、何をするしないかは原因論とは別に立ちうるし、立てるべきである。原因が何かという問題は何をすべきかという問題には直結しないし、直結させるべきでもない。いまある知識と技術では手をつけられないなら、少なくとも心を入れ替えたり鍛練したとしてもなくなったりなおるものではないことが明らかなら、そっとしておいてもらえるから、生得説、生物学的決定論もわるくない、という受け止め方があることをさきに述べたのだが、基本的には、操作が可能であろうがなかろうが、しなくてもよいことはしない方がよいということである。そのなかにはなおし、なくしてしまうこと自体すべきでないものもあり、それはそれではっきりと言えばよい。ただもっと面倒なこともある。なにもしなくてよいとまでは言えないが、様々考えたときには、原因としてどんなものを強調するにせよ、原因を探し出してそれを除去すればそれでよしとなるとは限らない場合があるということだ。
 このことを考えるとき、問題は社会性を持ち出す議論の内部にもある。前回記したように、「社会派」のある部分は真面目な改良主義者・進歩主義でもあり、その部分は批判の相手と共通しており、その押し付けがましさも共有していた。それは社会が原因だからその原因を除去する、社会全体に問題があるから社会全体をよくしていくという線で考えてきたところがあるのだが、しかしそれは少なくとも当人にとってよいとは限らない、むしろ迷惑なことでもありうる。
 例えば対症療法でだましてやっていくのと身体を日常的にきちんとしておくのと、どちらがどうなのか。批判は、「真の原因」を看過してとりあえずのことをしてしまうことに向けられ、それに対して根本的な問題を解決すべきことを主張した。もちろんその主張にはもっともな背景があった。安くあがる姑息な手を打つだけで何も解決されないことが多かったのだ。しかし、すべてについてその主張を通そうと考えるなら、それはすこし単純すぎる。根本からよくすることがその場しのぎでやっていくより常によいとは言えない。例えばこのことについて思い違いをしてしまっているとすれば、それは、ある事態にどんな要因が作用しているかということと、その事態をどうするのかまたその要因をどうするのかとは、関連しながら別のことだと幾度も述べたことが、そのように言えば誰もがその通りだと言うに違いないのだが、ふまえられていないということだ。
 そして問題はその人個人のことでなく社会的なものだということになったとしても、そこでなされることと私がすべきこととは無縁ではない。社会の問題だから社会がということになるのだが、その社会の中には本人が含まれている。その社会はお金ぐらい少し出すかもしれないが、結局身体を動かしたり汗をかいたりするのはその本人であったりする。また直接に個人、個人の身体に向わず、環境を変えるのだとなったとしても、その環境とはその人が暮らしている場でありその暮らしの一部なのだから、それを変えるということはその暮らしを、そしてその人を変えるということにもなる。
 とすると、どこにどのように働きかけるのか、様々ありうる選択肢から選ぶ基準はどこにあるか。私が決めればよいのだろうか。しかし、その私とはこうした連関の中に生まれ存在を始める私ではないだろうか。
 社会的要因を問題にするという思考・運動について考え始め、そこから少しはみ出してしまい、長くなってしまった。ある必然からいくつかの道が分かれていくのだが、それぞれに未決の問題が残る。ただ現実の大勢は、こんな面倒なところで立ち止まることはしなかった。次回は批判の一般化と普及、その背景、そこに落とされたものについて述べる。

■註

★01 「ところが、ストックホルムに帰ってみると、私はひどく落ちこんでしまった。」と続く。もちろん、現実に起こることはなかなかに複雑なのだ。私は以下で、そこからいくつかのことを抜き出し少しふれるだけのことしかできない。
 ホームページが変更になった(www.arsvi.com→「立岩」→「生存の争い」)。そこに以下にとりあげるホームページへのリンクもある。
★02 近刊予定の講座の一つの章として書いた立岩[2002]にだいたいの粗筋を記した。ただ本稿の第2回・第3回の分にあたる部分はそこにはない。他方、医療化自体をどう考えるかについては、その後のことをもっぱら考えている本稿ではふれず、そちらの文章で私が想定するその過程について簡単に記してある。
★03 「社会性」を言えばそれでよいということにはならないことについては立岩[1997](第7章「代わりの道と行き止まり」の第1節「別の因果」)に述べた。それと別に、事実関係、因果を巡る事実問題を留保するという姿勢がある。いずれからも距離をとり、原因について言われてきたことをきちんと記述すること、まずそれは大切だろう。ただその上で、私たちは、日常的な意味でものごとには原因があることを知っており、それを否定することは容易でないはずだ。もちろん、世の中にはさまざなことがあって、様々に因果連関があり、その中のどれが採り出されるか、争点となるかは、私たちの側の事情によっている。しかし、例えば自閉症の原因がなんであるかという議論が生じるその背景を認めた上で、その原因は何かという議論が成立することは否定されないし、その平面で議論はなされてきた。後に出てくる母性剥奪の議論にしても、それは「実証的」に否定されたのである。とすると、因果論に対する懐疑は何を懐疑しているのか。そこにはいくつもの要素が混在しているように思える。その全体を論ずることはとてもできないのだが、そのことを考えるに際しても、そして社会に起こっている事態をどうやって捉えていったらよいかを見出そうとするに際しても、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」の歴史についての医療人類学者の巨大な著作(Young[1995=2002])はいくつかの示唆を与えてくれるように思う。ここ数十年の歴史を辿ること、と初回に述べたのだが、このような仕事がその意義を明らかにしている。
★04 ボウルビィのいわゆる「母性剥奪(maternal deprivation)」仮説、それがいくらかあるいは極端に誇張された主張、それを巡る議論の歴史等々については、それが女性、フェミニズムに関連する領域であるために比較的に言及は多いが、きちんと調べてまとめたものがあるのか──「家族要因説」について検討した加藤[1997]等もあるにはあるのだが──私は知らない。調べたらよいのにと思う。
 ただ、こうした領域の資料を集めている人はわかると思うのだが、こんな本は買いたくないというだけでなく、見たくないし、知らせたくない、存在を無視したいというようなものがいくらもある。けれど、すでに十分に普及してしまっているものもいくらもあるから──久徳重盛の『母原病』(教育研究社、一九七九年)は「八一刷に達し、その後、新装版になってからも四版を重ねています。教育研究社はその後サンマーク出版と名を改め、一九九〇年にさらに『新・母原病』を出版しています。」(上野[1994])のだそうで、さらにまだまだある──ただ無視してしまえばよいというのでもなさそうだ。
★05 例えば上野千鶴子の講演の記録(上野[1986])における自閉症についての記述に対して抗議がなされた(このことについて灘本[1994]等)。上野の反省文を加えた版(上野[1994])が現在は出ており、その経緯について『河合おんぱろす・増刊号──上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』(河合文化教育研究所、一九九四年)がある。布施[1994][1996]では、上野の(反省文を含む)文章を含む幾人かの著作における自閉症者の扱われ方が取り上げられ批判される。大山[1994]にはベッテルハイム『自閉症 うつろな砦』に対してなされた絶版要求の経緯が記されている。こうした主題について灘本昌久のホーム・ページ(http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/)が参考になる。また、日本自閉症協会愛知県支部の機関誌『SHARE』(http://www.nucl.nagoya-u.ac.jp/~taco/aut-soc/share/)等で自閉症についての正確な理解が繰り返し呼びかけられているのを読むことができる。
 家族要因論は他の障害・病気についても様々に言われ、例えばホームページで以下のような記述を拾うことができる。
 「一般的に喘息と言う病気に対し、母源病といわれた時代、今と昔は治療方法など喘息に関する考え方は大きく変り、是非偏見を無くし正しい知識をもって見守って欲しいと願っています。」(「いつか、きっと!」http://members.tripod.co.jp/ituka685/)。
 「障害にしたがるけど、みんな結局根っこのところでは母子関係でつまづいてるんだよね。基本的信頼感(※乳幼児心理の研究をしていたボウルビィという研究者の生み出した概念)がみんなできてない。ADHDとか言って ...」 (「あるカウンセラー、ADHDを大いに語る」、www2.ocn.ne.jp/~psyche/adhd_th.htm ※は引用文の著者の注、ADHDは「注意欠陥・多動症候群」)
★06 罪の場としての内面が見出されることによって、罪は人のすべてに個別に備わることになり、その赦しに関わる存在はすべての人を個別に捉えることになることについて立岩[1997:249-250]に記した。本文に記したのは、そんなことがたしかにあるとして、ではその次にどう考えたらよいかという問いである。註1に記したこと、あげた文献もこのことに関わる。
 その問いを残しながら、私たちは、不在・過少と過剰という対の中では、過剰であるという把握に与してきた(岡原[1990])。そして私は、過剰と過少とを一つのところから捉えることができるのではないか、そしてそれは密着という心理の出来事であるより、支配・責任・制御という小さいまた大きな政治的次元に、そして他者の生存・存在の位置づけに関わることだと考えている。そしてそのことの問題はいわゆる「病理」との関わりで、またその原因であるのかないのかという次元で言わなくてはならないことでもない。病理を引き起こさなくても十分に困ったことは存在するのだから。
★07 ここに述べることは、広義の自閉症(自閉症スペクトラム)に含まれるとされるアスペルガー症候群の人、注意欠陥障害(ADD)の人たちについての本、とくにずいぶんの時を経たのちにそう診断された人の書いた本(Solden[1995=2000]、Gerland[1997=2000]、Lawson[1998=2001])や、それらを翻訳して紹介してきたニキ・リンコが自身のことを含めて書いた文章(ニキ[2000][2002])の中で、何度も自問され、答えられている。私はその中のいくつかの断片や、もっと以前に類したことが幾度か言われたように思う記憶から、以下を記しているに過ぎず、それから取り出して考えるべきことはもっとたくさんあるはずだ。
★08 わかるにも、ある病気の原因がわかるといった場合と、その人の置かれている状態についてその病名がわかるといった場合と二つある。ひどく苦しい病気であったり、とくに死を招くような病気であったりすれば、とにかくなおりたいと思い、どこに原因があるのかという原因究明が治療法の開発に結びつくなら、それは大きな課題となる。患者や患者の組織も熱心にそれを求める。他方、病気については既に知られ、その上で自分がどんな病気だとわかるとそれに応じた対応策がとられる。そのためにわかることは必要になる。ただこれらでは、つまりはなおればよいのだから、原因究明それ自体が目的であるとは言えない。よくはわからないのだがある策をとったらうまくいくということもある。
 むろん、わかったからよかったとは限らない。よいことがあることを知ればうれしいが、よくないことがわかることもある。とくに死に至るような病であれば、病名がわかり、あるいは原因もわかって、しかし治療法がないことがわかるのはまったく深刻なことである。だからあえて知りたくないということもある。ただ、なおらないならなおらないなりに、どうしてやっていくかを考えたり決めないとならないから、知っておいた方がよいということもある。さらに、自分によいことなら知りたいが、でなければ知りたくないと思うにしても、どちらなのかはあらかじめわからず、それを知ることがここでの知ることなのである。そしてさらに、そういう厄介事にまきこまれるのいやだから、知らないことにするというやり方はあるのだが、しかしそのときにも知ろうと思えば知ることができるということを知っているという状態からは逃れることはできない。そしてわかるときにも、すべてが明白にわかるわけではなく、例えば確率としてわかる。その曖昧さはときに救いではある。しかしそれが決定のための前提として与えられるとき、それをどのように考えたらよいものか、わからず途方に暮れても当然である。こうしたことについては、「情報を得た上での決定」という方法について考えるところで触れることができればと思う。
★09 その人たちの会に「なるこ会」がある。http://www2s.biglobe.ne.jp/~narukohp/index.html。同時に、運転免許の取得をめぐり障害を理由にそれを与えないとする「欠格条項」(→註15)には強く反対している。
★10 これはパーソンズが述べた「病人役割」をどう捉えるかということでもある。パーソンズと医療社会学について高城[2002]。
★11 もちろん、いずれか一方だけが作用するというのではない。両方が同時に作用したり、一方がもう一方を強化することがあるというだけでなく、例えば言葉が発せられるのも身体の器官とその動きがあるからであり、記憶が存在するのも脳になにがしかのことが起こっているからではあるだろう。何が両者を分けるのか。ここでは立ち入ることができないが、ひとまず、人の選択可能な行ないとされるものが関わっているか否かであるとしよう。註3にあげた文献はこのことについても考えさせる。
★12 「象徴」としての病の捉えられ方に対する批判としては、ソンタグの論がよく知られている。(Sonntag[1978=1982][1989=1992])。病気についての人間学はときにこういう──例えば人間は「受苦的存在」だと言われたりすると「痛いものはただ痛いのだ、ほっといてくれ」と言いたくもなるといった──感覚について鈍感なことがある。
★13 こうした批判・非難は、とくに「注意欠陥障害(Attention Deficit Disorder=ADD)」についてはいかにもありそうで、実際にある。もちろんこれを障害として受け取る側はこうした非難をすでに十分受けていて、よく知っているから、それに対して何を言うかを考えて言うことになる(Solden[1995=2000]、Weiss[1992=2001])。
 ニキ[2002]には次の部分が引かれている。「ADDのために起こる失敗と、人間なら誰でもやらかす失敗は、どうすれば見分けられるのでしょう?」に対して、「見分けることはできません。…「普通の」人たちも、ADDの人と同じ失敗をします。両者を分けるのは、失敗の質ではなく、頻度なのです。ADDの人の人生では、失敗はしじゅう起こり続け、重篤な問題を引き起こします。ADDでない人の人生では、失敗は頻度もはるかに低く、いら立つというよりは、冗談の種になってくれます。」(Hallowell & Ratey[1994:97])
 このように答える姿勢は、じつはとても賢明だと思う。また次のような言明。
 「「障害者になる」という表現には二通りの意味がある。一つは受傷や発症により何らかのインペアメントを持つようになることであり、もう一つは社会的に「障害者」として認められることである。「なぜ自分から障害者になりたがるのか」という言辞は、この二つをあえて区別せずに用いることで、意味を二重写しにする悪意を含んでいる。つまり、実情の方は、最初からインペアメントを持っていた者が内実に合わせたラベルを得ようとしているのに対し、あたかも自傷か何かによってインペアメント自体を得ようとしているかのような連想が働く表現だといえる。
 また、社会的に「障害者」としての承認を求めることは、決して「障害者」というレッテルに付随する蔑視を求めることでもなければ、肯定することでもない。先の疑問はこの二つをも区別せず、あたかも診断を求める者が自ら蔑視を求めているかのような印象を作り出しており、無意識なら不注意、意図的なら卑怯である。〈事実〉のレベルでは「障害のある人」としての承認を求めつつ、重度障害も含めた「障害」全体に対するスティグマは拒絶するという姿勢もあるはずである。身に合わない「健常者」というレッテルに苦しみ続けるか、差別も〈コミ〉で障害者として認めてもらうかという二者択一に追い込まれる必要はない。」(ニキ[2002])
★14 だから、病気であり障害であると自ら言う側に対する反発には、一つに自分に対するこだわりに対するものがあるのだが、もう一つは自分の責任を逃れ楽をしていることに対するものになる。もちろん両者は並存できないわけではない。他人に責任を転嫁しつつ自意識過剰な人間もいそうではあるから。ただ、同じものに対する非難に性格の違う要素があること、そして非難する側も同じようなことを言い返されそうであることはわかっておいた方がよい。自分でできることを自分でしないという非難は、すなわちその人に責任を帰している(自分は逃れている)のだとも言いうるのだし、「こだわり過ぎ」をとやかく言う人が、人が楽になりたいという思いに対してもっと自分から逃げないでがんばれと言っているのでもある。
★15 できる、できないについては その原因に関わるなにかではなく、またそれで括った集合・集団に対してでなく、現在その人がなにができるかできないかに即して判断すればよいという主張をすることができる。註9で少しふれた欠格条項に対する批判派の運動はほぼそういう戦略をとっている。これは、その前にいくつかのことを言い足した上で、正しい戦略だと考える。欠格条項については臼井編[2002]。
 加害については、保安処分、このたび提出された「心神喪失者医療観察法案」──関連文書等をホームページに掲載した──への批判のあり方にも関係し、可能性を論じ、確率を用いることをどう考えるかが一つの論点となる。これまで批判勢力は、精神障害者が犯罪を犯す率が他に比べて高くないことを主張してきた。間違って高いと思われているのが現実であるからにはそのことを言い続ける必要はある。しかし仮にある部分を区切ったときにいくらかでも高いとしたら、どのように言うか。

■文献

布施 佳宏  1994 「自閉症という問題」,『京都外国語大学研究論叢』42 http://member.nifty.ne.jp/starbird/book2.html
―――――  1996 「自閉症の神話」,『京都外国語大学研究論叢』47 http://member.nifty.ne.jp/starbird/book.html
Gerland, Gunilla 1997 A Real Person=2000 ニキ・リンコ訳,『ずっと「普通」になりたかった』,花風社
Hallowell, E. M. and J. J. Ratey 1994 Driven to Distraction: Recognizing and Coping with Attention Deficit Disorder from Childhood through Adulthood, Pantheon Books=1998 司馬理英子訳『へんてこな贈り物』,インターメディカル
石川 准・倉本 智明・長瀬 修 編 2002 『障害学の主張』(仮題・近刊),明石書店
加藤 まどか 1997 「家族要因説の広がりを問う――拒食症・過食症を手がかりとして」,太田省一編『分析・現代社会――制度/身体/物語』,八千代出版:119-154
Lawson, Wendy 1998 Life behind Glass: A Personal Account of Autism Spectrum Disorder, Southern Cross University Press=2001 ニキ・リンコ訳,『私の障害、私の個性。』,花風社
灘本 昌久  1994 「河合文化教育研究所編『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって」(新しい差別論のための読書案内・2),『こぺる』(こぺる刊行会)20 http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199411.htm
ニキ・リンコ 2000 「訳者あとがき」,Gerland[1997=2000:281-286]
―――――  2002 「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断──人が自らラベルを求めるとき」(仮題),石川・倉本・長瀬編[2002]
岡原 正幸  1990 「制度としての愛情──脱家族とは」、安積・岡原・尾中・立岩『生の技法──家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店 :75-100→1995 増補改訂版
大山 正夫  1994 『ことばと差別──本の絶版を主張する理由』,明石書店
Solden, S., 1995 Women with Attention Deficit Disorder: Embracing Disorganization at Home and in the Workplace, Underwood Books=2000 ニキリンコ訳『片づけられない女たち』,WAVE出版
Sonntag, Suzan 1978 Illness as Metaphor=1982 富山太佳夫訳,『隠喩としての病い』,みすず書房→1992 富山太佳夫訳,『新版 隠喩としての病い エイズとその隠喩』,みすず書房 :3-131
―――――  1989 Aids and Its Mataphars, Farer, Strauss and Giroux=1990 富山太佳夫訳,エイズとその隠喩』,みすず書房→1992 富山太佳夫訳,『新版 隠喩としての病い エイズとその隠喩』,みすず書房 :133-287
高城 和義  2002 『パーソンズ──医療社会学の構想』,岩波書店
立岩 真也  1997 『私的所有論』,勁草書房
―――――  2002 「医療の現代史のために」,今田高俊編『産業化と環境共生』(講座社会変動2),ミネルヴァ書房
上野 千鶴子 1986 『マザコン少年の末路──女と男の未来』,河合文化教育研究所,発売:進学研究所
―――――  1994 『マザコン少年の末路──女と男の未来 増補改訂』,河合文化教育研究所,発売:進学研究所
臼井 久美子 編 2002 『Q&A障害者の欠格条項──撤廃と社会参加拡大のために』,明石書店
Young, Allan 1995 The Harmony of Illusions: Inventing Post-Taumatic Stress Disorder, Princeton University Press=2002 中井久夫・大月康義・下地明友・辰野剛・内藤あかね訳,『PTSDの医療人類学』,みすず書房
Weiss, Lynn 1992 Attention Deficit Disorder in Adults, Taylor Publishing=2001 ニキリンコ訳,『片づかない! 見つからない! 間に合わない!』,WAVE出版

□文献追加

◇Bettelheim, B. 1967 The Empty Fortress: Infantile Autism and the Birth of the Self, The Free press=1973, 1975 黒丸正四郎他訳,『自閉症 うつろな砦 T・U』,みすず書房,T:371p. ASIN: B000J9WG22 [amazon],U:431p. [amazon] ※
加藤 まどか 20040326 『拒食と過食の社会学――交差する現代社会の規範』,岩波書店,211p. ISBN-10: 4000265164 ISBN-13: 978-4000265164 [amazon][kinokuniya] ※ s.sm.
◇ニキ リンコ 20080601 「昨日の私、今日の私、明日の私――リタリンで垣間見た〈脈絡ある自分〉」,『現代思想』36-7(2008-6):
◇――――― 20080825 『スルーできない脳――自閉は情報の便秘です』,生活書院,456p. ISBN-13: 9784903690247 ISBN-10: 4903690245 2100 [amazon][kinokuniya] ※ a07. m.
◇岡野 高明・ニキ リンコ 20021210 『教えて私の「脳みそ」のかたち――大人になって自分のADHD、アスペルガー障害に気づく』,花風社刊,315p. ISBN-10: 4907725485 ISBN-13: 978-4907725488 1680 [amazon] ※ a07.
◇Rutter,Michael & Schopler, Eric eds. 1978 Autism: A Reappraisal of Concepts and Teatment, Plenum Press, New York=19820410 丸井 文男 監訳,『自閉症――その概念と治療に関する再検討』,黎明書房,662p. ISBN-10: 4654020373 ISBN-13: 978-4654020379 [amazon][kinokuniya] ※ a07.
cf.トチ タロ 2009 「『自閉症――その概念と治療に関する再検討」http://ameblo.jp/tochitaro/entry-10207690736.html,『私のお薦め本コーナー 自閉症関連書籍』http://ameblo.jp/tochitaro/

 ■20031101 特集:争点としての生命
  『現代思想』31-13(2003-11) 1238+税=1300 ISBN:4-7917-1112-2 [amazon]
 ■20041101 特集:生存の争い
  『現代思想』2004年11月号 32-14 1300円(本体1238円) ISBN:4791711297 [amazon] ※
 ■20080601 特集:ニューロエシックス――脳改造の新時代
  『現代思想』36-07(2008-06) 238p. ISBN-10: 4791711815 ISBN-13: 978-4791711819 1300 [amazon] ※


UP:20080105 REV;20090401, 20150815
原因  ◇立岩 真也
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