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生存の争い

―医療の現代史のために―

立岩 真也 2002-2003 『現代思想』
立岩真也:青土社との仕事 


第4回からはALSについて、です。


◆2002/02/01「生存の争い――医療の現代史のために・1」
 『現代思想』30-02(2002-02):150-170
◆2002/04/01「生存の争い――医療の現代史のために・2」
 『現代思想』30-05(2002-04):41-56
◆2002/06/01「生存の争い――医療の現代史のために・3」
 『現代思想』30-7(2002-6):41-56
◆2002/08/01「生存の争い――医療の現代史のために・4」
 『現代思想』30-10(2002-08):247-261
◆2002/09/01「生存の争い――医療の現代史のために・5」
 『現代思想』30-11(2002-09):238-253
◆2002/10/01「生存の争い――医療の現代史のために・6」
 『現代思想』30-12(2002-10):54-68
◆2002/11/01「生存の争い――医療の現代史のために・7」
 『現代思想』30-13(2002-11):268-277
◆2002/12/01「生存の争い――医療の現代史のために・8」
 『現代思想』30-15(2002-12):208-215
◆2003/01/01「生存の争い――医療の現代史のために・9」
 『現代思想』31-1(2002-1):-
立岩 真也 『加害について』(2016・期間限定版) \200 Gumroad
◆2003/03/01「生存の争い――医療の現代史のために・10」
 『現代思想』31-03(2002-03):268-277*
◆2003/04/01「生存の争い――医療の現代史のために・11」
 『現代思想』31-04(2002-04):224-237
◆2003/06/01「生存の争い――医療の現代史のために・12」
 『現代思想』31-07(2003-06):15-29
◆2003/08/01「生存の争い――医療の現代史のために・13」
 『現代思想』31-10(2003-08):224-237
◆2003/10/01「生存の争い――医療の現代史のために・14」
 『現代思想』31-12(2003-10):26-42


[目次]

◆1 『現代思想』30-02(2002-02 特集:先端医療):150-170

 「サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。…生存こそが最大の関心事である。」(Haraway[1991=2000:339])…冒頭の引用

□ 予告

□□1 構図
□1 得て、失う人
□2 供給・生産者
□3 その他の人たち
□4 技術
□5 (再)計算とその困難
□□2 問い方
□1 相対化したこと
□2 滞留
□3 歴史(を知らないこと)について
□□3 争いの歴史について
□1 効かないという批判
□2 何を大切にするかという問い

◆2 『現代思想』2002-04

 「私は突然、正しい本の正しいページをめくったらしい。そこには私がいたのである。  単なる偶然と片づけるには、あまりにもあてはまることが多すぎた。ところが、…先生は…あくまでも家庭環境のせいだという立場を崩さなかった。…こういう人たちにかかると、脳に損傷があると言われてしまうんですよ、そして、うまく行かないことは何でもかんでも、脳の損傷のせいだといって片付けられてしまうんですよというのが先生の話だった。」(Gerland[1997=2000:257])…冒頭の引用

□3 原因の帰属先のこと
  1 前言
  2 社会という帰属先
   (1) 批判としての社会要因論
   (2) 社会の維持のための社会要因論
  3 医療者の位置

◆3 『現代思想』30-7(2002-6):41-56

 「私は、このレッテルを持って帰った。レッテルなど無駄だと言う人もいるだろうし、害になるだけだと言う人もいるだろう。でも私には、このレッテルは役に立つと思えた。」(Gerland[1997=2000:262])…冒頭の引用

  4 家族、ではないこと
  5 本人が認めること
  6 残ること・生じること
  7 少し道を変えること

◆4・◆5… 話変わって?ALSについて


 
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■1〜3&9で言及した文献(◆=著者名アルファベット順)
 > BOOK

Andrews, Lori B. 1999 The Clone Age: Adventures in the New World of Reproductive Technology, Henry Holt=20000831 望月弘子訳『ヒト・クローン無法地帯――生殖医療がビジネスになった日』,紀伊國屋書店,318p. 2300 ※
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店→ 1995 増補改訂版
唄 孝一 19700320 『医事法学への歩み』,岩波書店
◆「病」者の本出版委員会 編 1995 『天上天下「病」者反撃――地を這う「精神病」者運動』、社会評論社
◇Colen, B. D. 1976 Karen Ann Quinlan : Dying in the Age of Eternal Life, Nash Publishing=1976 吉野博高訳,『カレン 生と死』,二見書房,225p. <207> ※
◇Eysenck, H. J. vs. Kamin, Leon 1981 Intelligence : The Battle for the Mind, Pan Books=1985 斎藤和明訳,『IQ論争』,筑摩書房,366p. <260>
Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge=2000 高橋 さきの訳,『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』,青土社 [1]
◇Friedson, Eliot 1970 Professional Dominance : The Social Structure of Medical Care, Atherton Press=1992 『医療と専門家支配』,進藤雄三・宝月誠訳,恒星社厚生閣
◆布施 佳宏 1996/09/30 「自閉症の神話」,『京都外国語大学研究論叢』XLZ
 http://member.nifty.ne.jp/starbird/ [3]
◆布施 佳宏 1994/03/31 「自閉症という問題」,『京都外国語大学研究論叢』XLU
 http://member.nifty.ne.jp/starbird/ [3]
◆Gerland, Gunilla 1997 A Real Person=20000430 ニキ・リンコ訳,『ずっと「普通」になりたかった』花風社,286p. 1700 [2][3]
後藤 弘子 編 1999/08/31 『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5
◆Gould, Stephen Jay 1981 The Mismeasure of Man, W. W. Norton=1989 鈴木善次・森脇靖子訳,『人間の測りまちがい――差別の科学史』,河出書房新社 [2]
◆―――――  1996 The Mismeasure of Man, revised edition, W. W. Norton=1998 鈴木善次・森脇靖子訳,『人間の測りまちがい――差別の科学史 増補改訂版』,河出書房新社 [2]
◇Hacking, Ian 1990 The Taming of Chance, Cambridge University Press=19990530 石原英樹・重田園江訳,『偶然を飼いならす――統計学と第二次科学革命』,木鐸社,353p. 4500 ※
◆Herrnstein, Richard J. 1973 I.Q. in the meritocracy, Little, Browm=1975 岩井勇二訳,『IQと競争社会』,黎明書房 <63,310> [2]
◆Herrnstein, Richard J. & Murray, Charles 1994 The Bell Curve: the Reshaping of American Life by Difference in Intelligence, Free Press [2]
◇Ho, Mae-Wan 1999 Genetic Engineering- Dream or Nightmare ? Gateway=20001120 小沢元彦訳『遺伝子を操作する――ばら色の約束が悪夢に変わるとき』,三交社,406p. 2800 ※
◇Hubbard, Ruth: Elijah, Wald 1997 Exploding The Gene Myth: How Genetic Information is Produced and Manipulated by Scientists, Physicians, Employers, Insurance Companies, Educators, and Law Enforcers, Beacon Press=20000901 佐藤雅彦訳『遺伝子万能神話をぶっとばせ』 東京書籍,505p. 3500 ※
池田 光穂 20010330 『実践の医療人類学――中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』,世界思想社,390p. 5800
Illich, Ivan 1976 Limits to Medicine Medical Nemesis: The Expropriation of Health, CR: I.I.=19790130 金子嗣郎訳,『脱病院化社会――医療の限界』,晶文社,325p. 1500 [1]
◇Inlander, Charles B.; Levin, Lowell S.; Weiner 1988 Medical on Trial: The Appalling of Medical Ineptitude and the Arrogance That Overlooks It People's Medical Society=19971125 佐久間充・木之下 徹・八藤後 忠夫・木之下 明美 訳『アメリカの医療告発――市民による医療改革案』 勁草書房
◆石田 翼 2001 「『増補改訂版 人間の測りまちがい 差別の科学史』」(私の読書メモ),http://www.mars.sphere.ne.jp/tbs-i/bokrev/mismeasure.html [2]
◆石川 准・長瀬 修 編 1999/03/31 『障害学への招待』,明石書店
◆石川 准・倉本 智明 編 2002 『障害学の主張』,明石書店
石川 憲彦 19880225 『治療という幻想――障害の治療からみえること』,現代書館,269p. 2060 <432> ※ [2]
◇香川 知晶  2000 『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』,勁草書房
◇患者の権利法をつくる会 編 19970210 『カルテ開示――自分の医療記録を見るために』,明石書店,183p. 1500円 ※
◆加藤 まどか 19970601 「家族要因説の広がりを問う――拒食症・過食症を手がかりとして」,太田省一編『分析・現代社会――制度/身体/物語』(八千代出版):119-154 ※ [3]
◆加藤 真規子 2001 「YES。セルフヘルプを生きる――ぜんせいれんの歩みを振り返って」、全国自立生活センター協議会編[2001:123-132]
小松 美彦  1996 『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』,勁草書房
黒田 浩一郎 2001 「医療社会学の前提」,黒田編[2001:2-52] [1]
◆黒田 浩一郎 編 1995 『現代医療の社会学――日本の現状と課題』,世界思想社 ※ [1][2]
◆―――――  20010310 『医療社会学のフロンティア――現代医療と社会』世界思想社 [1]
◆Lawson, Wendy 1998 Life behind Glass: A Personal Account of Autism Spectrum Disorder, Southern Cross University Press=20010519 ニキ・リンコ訳,『私の障害、私の個性。』,花風社,219p.,1600円 [3]
◇的場 
松原 洋子  2000 「日本――戦後の優生保護法という名の断種法」,米本・松原・ぬで島・市野川[2000:169-236]
◇松田 道雄  『』
◆三島 亜紀子 1999 「社会福祉の学問と専門職」,大阪市立大学大学院修士論文 [2]
◇森村 誠一  1981 『悪魔の飽食――「関東軍細菌戦部隊」恐怖の全貌!』, 光文社,カッパブックス 
森岡 正博  2001  『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』,勁草書房
向井 承子 19900320 『病いの戦後史――体験としての医療から』,筑摩書房,246p. 1495円 品切(2001)
 *著者から送っていただいたものをお頒することができます。
◇―――――  20020201 「医療の転換点としての脳死臓器移植」,『現代思想』30-02(2002-02):171-183
武藤 香織 20020201 「検体のまま取り残されないために――ハンチントン病をめぐって」,『現代思想』30-02(2002-02):228-245 ※
◆灘本 昌久 199411 「河合文化教育研究所編『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって」(新しい差別論のための読書案内・2),『こぺる』(こぺる刊行会)20
 http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199411.htm [3]
◆長野 英子  2002 「参考人意見」、衆議院法務委員会「心神喪失者等医療観察法案」参考人質疑 http://www.geocities.jp/jngmdp/sankou.htm
◇中川 米造 
◆日本臨床心理学会 編 1979 『心理テスト・その虚構と現実』,現代書館,445p. <260,319> ※ [2]
◆―――――  1987 『「早期発見・治療」はなぜ問題か』,現代書館,445p. <319,431,437> ※ [2]
◆日本社会臨床学会 編 2000 『カウンセリング・幻想と現実』,現代書館(上巻:理論と社会、下巻:生活と臨床) ※
◆ニキ・リンコ 2000 「訳者あとがき」,Gerland[1997=2000:281-286] [3]
◆―――――  2002 「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断――人が自らラベルを求めるとき」(仮題),石川・倉本・長瀬編[2002] [3]
野口 裕二 19960325 『アルコホリズムの社会学――アディクションと近代』,日本評論社,198p. 2000 ※ [2]
◆野口 裕二・大村 英昭 編 20010730 『臨床社会学の実践』,有斐閣 [1]
ぬで島 次郎 20011220 『先端医療のルール――人体利用はどこまで許されるのか』 講談社現代新書1581,222p. 660 ※
大林 道子  19890420 『助産婦の戦後』,勁草書房 [1]
◆小倉 利丸・立岩 真也 2002 「情報は誰のものか」(対談)、『現代思想』30-11(2002-09):66-79
大熊 一夫 1973 『ルポ・精神病棟』→1981 朝日文庫,241p.
◆重田 園江 2001 「正しく測るとはどういうことか?」,http://www.kisc.meiji.ac.jp/~shisou/sensei/tadashikuindex.htm [2]
◆小澤 勲  1974 『反精神医学への道標』,めるくまーる社 ※ [2]
◆小沢 牧子  2002 『「心の専門家」はいらない』、洋泉社
◇Rothman, David J. 1991 Strangers at the Bedside: A History of How Law and Bioehtics Transformed, Basic Books=20000310 酒井忠昭監訳,『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』,晶文社
◇佐藤 哲彦  1999 「医療化と医療化論」,進藤・黒田編[1999:122-138]
佐藤 純一  19950425 「医学」,黒田編[1995:002-032] [1][2]
◆―――――  19991030 「医学」,進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』,第1章 [1]
◆―――――  2001 「抗生物質という神話」,黒田浩一郎編[2001:82-110] [1]
◆佐藤 純一・黒田 浩一郎 編 1998 『医療神話の社会学』,世界思想社 [1]
◆「精神病」者グループごかい 1984 『わしらの街じゃあ!――「精神病」者が立ちあがりはじめた』、社会評論社
先天性四肢障害児父母の会 編 19820210 『シンポジウム先天異常I――人類への警告』批評社,278p. 1700円
◇先天性四肢障害児父母の会 編 19820310 『シンポジウム先天異常II――いのちを問う』 批評社,230p. 1500円
清水 昭美  1964 『生体実験』,三一書房(1979年に増補版)
 *著者から送っていただいたものをお頒することができます。
◆進藤 雄三  1990 『医療の社会学』,世界思想社,241p. 1950 [1]
◆進藤 雄三・黒田 浩一郎 編 1999 『医療社会学を学ぶ人のために』,世界思想社 [1]
◆Shorter, Edward 1997 A History of Psychiatry: From the Era of the Asylum to the Age of Prozac, John Willy & Sons=19991110 木村定訳,『精神医学の歴史――隔離の時代から薬物治療の時代まで』,青土社,391+19p. 3400 ※ [2]
◆Sonntag, Suzan 1978 Illness as Metaphor=1982 富山太佳夫訳,『隠喩としての病い』,みすず書房  [3]<308> ※
◆Solden, Sari 1995 Women with Attention Deficit Disorder: Embracing Disorganization at Home and in the Workplace, Underwood Books=20000531 ニキ・リンコ訳,『片づけられない女たち』,WAVE出版,392p.,1600円 [3] ※
◇鈴木 善次  1983 『日本の優生学――その思想と運動』,三共出版
◇高城 和義  20020125 『パーソンズ――医療社会学の構想』,岩波書店,233+9p.,2600
立岩 真也  1989/10/22 「生命工学への社会学的視座」,日本社会学会第62回大会報告 [1]
◇―――――  1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226]→1995 安積他[1995:165-226]
◆―――――  1996 「医療に介入する社会学・序説」,『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14),pp.93-108 [1]
◆―――――  1996/03/30 「書評:黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』(世界思想社,1995年,1950円)」,『日本生命倫理学会ニューズレター』10,pp.6-7 2.5枚 [1]
◆―――――  1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房 [1][2]
◇―――――  1998 「一九七〇年」,『現代思想』→立岩[2000]
◆―――――  1998/07/01「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定)→立岩[2000:13-63] [1]
◇―――――  1998 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」,『現代思想』26-9(1998-9)(特集:遺伝子操作)→立岩[2000]
◆―――――  1999/03/31 「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの」,石川・長瀬編[1999:79-107]
◇―――――  1999/08/31 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」,後藤編[1999]
◇―――――  1999 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」後藤弘子編『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5,264p.,pp.21-44
◆―――――  1999 「資格職と専門性」,進藤・黒田編[1999:] [1]
◆―――――  2000 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下),『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149
◆―――――  2000 「遠離・遭遇――介助について」(1〜4)『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→立岩[2000:219-353] [2] ◇―――――  2000 「正しい制度とは,どのような制度か?」,大澤真幸編『社会学の知33』,新書館,pp.232-237
◇―――――  2000 「死の決定について」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版:149-171 35枚
◆―――――  2000 『弱くある自由へ』,青土社 [1][2]
◆―――――  2000/11/01「たぶんこれからおもしろくなる」,『創文』426(2000-11):1-5 [1]
◆―――――  2001- 「医療と社会ブックガイド」,『看護教育』 [1][2]
◆―――――  2001-2002 「自由の平等」,(1):『思想』922(2001-3):54-82,(2):924(2001-5):108-134,(3):927(2001-8):98-125,(4):930(2001-11) [2]
◆―――――  2001/07/30 「なおすことについて」,野口・大村編[2001:171-196] [1]
◆―――――  2001a 「国家と国境について」(1〜3)、『環』5:153-164,6:153-161,7::286-295
◆―――――  2001/12/01 「所有と流通の様式の変更」(創刊70周年記念特集:あなたが考える科学とは),『科学』71-12(2001-12 832):1543-1546 http://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo200112.html [1]
◆―――――  2001/12/01 「これからおもしろくなる」,『La Vue』8:1-3(発行:るな工房/黒猫房/窓月書房) [1]
◆―――――  2002/**/** 「ないにこしたことはない、か?・1」,石川・倉本・長瀬編[2002]
◇―――――  2002/**/** 「パターナリズムについて――覚え書き」,『法社会学誌』(日本法社会学会)
◆―――――  2003 「<ジェンダー論>中級問題」、『環』12(藤原書店・近刊・特集:ジェンダー)
土屋 貴志  199703  「生命倫理学(bioethics)の成立史の日米比較研究」,『研究助成報告論文集(第7回)』上廣倫理財団、1997年3月、pp.139-154
◇―――――  199801  「『bioethics』から『生命倫理学』へ――米国におけるbioethicsの成立と日本への導入」,加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社、pp.14-27
上野 千鶴子 19860525 『マザコン少年の末路――女と男の未来』,河合文化教育研究所,発売:進学研究所,90p. 400 ※ [3]
◆浦河べてるの家 2002 『べてるの家の「非」援助論――そのままでいいと思えるための25章』、医学書院
◆臼井 久美子 編 20020110 『Q&A障害者の欠格条項――撤廃と社会参加拡大のために』,明石書店,149p.,1300円 (障害者欠格条項をなくす会・企画) ※ [3]
◇和田 仁孝・前田 正一 20011015 『医療紛争――メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』,医学書院 ※
◇和田 努  1996 『カルテは誰のものか――患者の権利と生命の尊厳』,丸善 ※
◆Weiss, Lynn 1992 Attention Deficit Disorder in Adults, Taylor Publishing=20010228 ニキ・リンコ訳,『片づかない! 見つからない! 間に合わない!』,WAVE出版,398p.,1500円 ※
◇米本 昌平・松原 洋子・ぬで島 次郎・市野川 容孝 2000 『優生学と人間社会』,講談社現代新書
吉田おさみ  1974 「”病識”欠如の意味するもの――患者の立場から」、『臨床心理学研究』13-3
◆―――――  19831201 『「精神障害者」の解放と連帯』,新泉社,246p. 1500
◆Young, Allan 1995 The Harmony of Illusions: Inventing Post-Taumatic Stress Disorder, Princeton University Press=20020205 中井久夫・大月康義・下地明友・辰野剛・内藤あかね訳,『PTSDの医療人類学』,みすず書房,441+29p.,7000円 ※ [3]
◆全国自立生活センター協議会 編 2001 自立生活運動と障害文化』、現代書館

 

■第1回・注

★01 いつものことながら具体的な事例を具体的にとりあげることができない。いくつかの事項についての年表、文献リスト等をホームページに置いた。この論文の題名で検索すると出てくるファイルから各ファイルにリンクされているので、それを見ていただくのがよい。例えば本稿の関連文献リストの他、関係する単行書を発行年順に約三〇〇冊ほど並べたリストがあり、その一部については目次等の紹介がある。そこからある程度、言論の傾向、その推移、趨勢を知ることができる。また、クローン、ES細胞等については近年の報道を単に羅列したファイルなど。なお本稿は、立岩[1989][1996a]等を継ぎ、科学研究費・基盤研究(C)12610172の研究助成を受けてなされている仕事の中間的な報告の一部でもある。
★02 例えばエイズの治療薬の生産と流通のこと。ホームページに斉藤龍一郎の協力を得て作成しているファイルがある。科学技術と所有・国家という主題については後述するが、とりあえず立岩[2001b]でいくらかのことを述べた。
★03 立岩[1997:390-393][1998→2000b:31-33]。
★04 体外受精について、あれほど批判があったのに今は普通のことになっているではないか(だから、今とやかく言われているものもいずれ普通のことになっていくのだ)といった言われ方がよくなされる。しかし、その問題(cf.立岩[1997:156ff])は、この技術の使用が普通のことになったとして、終わらない、永続する。
 cf.◇体外受精
★05 この節でふれたいくつもの主題のいくつかについて、後に私が考えることを記し、そこで関連文献や私がこれまで書いたものを示すが、それはまだだいぶ先のことになるだろう。出生前診断については立岩[1997:373ff](第9章「正しい優生学とつきあう」)があり、一九九七年までの文献もいくつかあげた(その後についてはホームページに掲載)。遺伝子治療については[2000b:185-189]で少し考えている。
★06 このことについては、そしてそれはそのままではないはずであることについては、立岩[2000a][2000c](少し加筆して[2001c]に再録)等で述べた。また[1997:269ff](第7章「代わりの道と行き止まり」)も本節(以降)の議論に関連する。
★07 黒田[2001]で述べられているのは、少し翻案すれば、近代医学に奉仕する医療社会学/批判する医療社会学という対比を(この国の医療社会学の歴史と現状を捉える上でも)採用すべきではなく、よりよい医療を追求する医療社会学(それは医療の現状を批判し代替的なものを提出する医療社会学でもある)/あくまで医療を相対化する医療社会学という対を考えるべきであり、そして黒田自らは後者の二項のその後者の立場をとるのだということである。とすると、私がとるべきだとする立場(特別な変わった立場であると私は思わない)は、これらのいずれともまたすこし異なるということになる。
★08 入門書としての進藤・黒田編[1999]に収録された立岩[1999]で私が述べたのは、例えば資格はAの要件からのみ正当化されうるのだが、実際にはBの利害が作用しうるし実際していることに注意すべきであり、その上でどのようにどこまで(利用者にとって)不要なものを除去できるか考えてみようというようなことだった。そして、双方の要因・要件が混在して複雑になっているいくかの具体的な場面を調べてみたらきっとおもしろいと宣伝してみたのだった。そうした実証研究――それが不足していることをこれから述べる――として、大林[1989]は例外的な業績の一つである。立岩[2001-(8)]で紹介したが、本稿でも後で言及する。
★09 「既視感」という言葉を、黒田編[1995]の(ごく短い)書評である立岩[1996b]でも使った。
★10 ここまで、医療社会学の一部についていくらかのことを述べたということになるのだが、しかしそんなことの前に、たんにまったく実証研究が足りないということを言えばそれでよいのかもしれない。例えば米国における医療社会学の展開を紹介する進藤[1990]の他、進藤、黒田、佐藤らが編集した本が何冊か出ている(黒田編[1995]、佐藤・黒田編[1998]、進藤・黒田編[1999]、黒田編[2001])のだが、それらは、内容がどうという以前に、一つ一つの文章に書かれていることがあまりに少ない。
★11 これまでも、専門性・資格に関わる(争いの)歴史が調べられるべきだと(cf.注8)、そして、なおそう(なおろう)としたがなおらなかったことの歴史を調べるとおもしろいと(立岩[2001a])述べた。
★12 医療社会学の一部は、近代医学・医療が病気をなおすことに成功したことを実証的に否定する。そうした論として佐藤[2001]。読む限りではその説明はうまくいっているようだ。だとして、ならば医療化はどうして進展したのか。あるいは例えば平均寿命が伸びたのはなぜか。後者については栄養状態や衛生状態の改善が指摘される。これらの指摘、確認は重要な意味をもつ。ただ、いくつか考えるべきことも残る。次の注に関連することを記す。医療化についてどう考えるについて後述する。
★13 もちろん、既存の非・近代の医学が陣地取りでそう有利になれないということは、近代医学の限界のあるなしとは別のことであり、このことについて考えるべきことはいくつもある。とくに原因の捉え方が問題になる。近代医学が特定病因論を採用しているとしてよいか、おおむねよいとしてそれと特定病因論でない立場との対立がどこまで有意な対立か。これとも関連してさらに、原因を個人に見るか社会に見るかの二つの立場の間の争いがあり、近代医学は前者の方だと言えるとして、ただ後者の方をより重視すべきと言えばよいのか、等。最後の点については、どんな医学が正しいのかというのとはまた違った視点からではあるが、本稿の後の部分でも検討する。近代医学をどう把握するか、医療社会学はそれをどう理解するかについて佐藤[1995][1999]。
★14 もちろん、それは成員が信ずる信仰や価値の体系の中に組み込まれてもいる。そこに近代医学が入ってくることによって、それが揺らぎ壊される可能性はある。しかし、近代医学が対応できる病についてはなおったらよいだろうとも思えてしまう。こうしたことについて、もちろん言及はいくつもあるけれど、そこに困難があること以上のことはなかなか言われてきていないように思う。もちろん難しい問いだからではあり、問題の設定の仕方によっては答が出ないような問いだと言うこともできよう。しかしそれでも、こうしたことを考えずに、医療化について、あるいは「海外援助」について、なにか考えたことになるだろうか。

■第2回・注

■注
★01 ホームページに前回・今回の原稿の注、文献表を掲載し、ホームページへのリンクを置いた。また「知能テスト」等の項目については関連するファイルにリンクされ、そこにも文献リストがある。そして医療と社会に関連する書籍の発行年順リストは五五〇冊に増えた。なお今回の部分は立岩[1997:271-280](第7章1節「別の因果」1「社会性の主張」2「真性の能力主義にどう対するのか」3「間違っていない生得説に対する無効」)の記述に対応している。
★02 「…近代医学が様々な疾患において、現在どのような因子を危険因子と設定しているかを概観すると、いくつかの特徴が浮かび上がってくる。/第一に、「疾病の発症率と、所得・階層との相関性」については、多くの病気に関して疫学データが存在するにもかかわらず、所得・階層が危険因子と設定されることは少ない。/第二に、社会システムより個人の日常生活の行為が危険因子と設定される。…/第三に、第二の「システムよりは個人」に加えて、「社会的因子よりは生物学的因子」を危険因子に設定する傾向があり、このことにより、個人の遺伝子レベルまで危険因子の設定範囲が広げられようとしている。」(佐藤[1995:31])佐藤[1999]、本稿1の注13(二月号・一六九頁)も参照のこと。
★03 IQ論争については立岩[1997:310-312]に文献をあげた。関連して社会生物学論争についての文献は立岩[1997:309-310]。その後出た本としてGould[1996=1998]があり、立岩[2001-(12)]でも紹介した。この本はGould[1981=1989]の増補改訂版であり、付け加えられた部分には論議を呼んだHerrnstein & Murray[1994](著者の一人は立岩[1997:63,310]で一部を紹介したHerrnstein[1973=1975]の著者でもある)に対する批判がある。グールドによるこの書に対する批判の紹介から知能テストの創始者ビネの論の検討に進む重田[2001]、グールドの本の統計学的手法についての検討と訳書の日本語訳のわからなさについて石田[2001]がある。
★04 このことと、病気なのだからできない、仕方がないという了解との関係について次回に考える。他方の、やめようと思えばやめらられるのにやめられない(とされる)「意志の病」としてのアルコホリズムについて野口[1996:21-28]。
 cf.◇アルコール依存/アルコール依存症/アルコホリズム
★05 「戦後四十年。脳性麻痺の治療学は、古典的医学の治療という発想の下では、まったく進歩がなかったといってよい。なぜなら「一度破壊された脳細胞は再生しない」という、医学の命題はまだ解決されていないからである。/にもかかわらず、…相次いで日本に上陸した早期療法の宣伝によって、一九七〇年代は「脳性麻痺は直る」「紀元二千年に脳性マヒ故に歩けない人は存在しなくなるであろう」といった宣伝が公然と登場してきた。これは、…”戦後の人権意識”に強く支えられた”療育”の立場から語られ始めた。…/しかし、この数年、次第にその熱気は冷めつつある。」(石川[1988:140-141])
 事態はなかなかに複雑である。このようなできごとの歴史について調べておこうと本稿1(二月号)の注11で述べた。
 cf.◇脳性麻痺 (Cerebral Palsy) 379,431,440
★06 このことへの専門職の対応のあり方は職種によっても異なるだろう。例えば医学はおおむね無視する。自らにとっても都合がよいか、社会の方が変わってその需要に対応せざるをえないか、そんなときにはじめて取り入れられるところを取り入れる。ただ、社会福祉の仕事の場合は、そもそも自己を完全に肯定することはないような仕組みになっているところがある。批判は、無視したい異物であるのだが、しかし無視できないことがある。単行書として刊行されるとも聞く三島[1999]が注目される。この論文の意義については立岩[2000a→2000b:345]でも述べた。
★07 立岩[2001-2002(2):125-126](注5)に記したことはこのこととも関わる。
★08 例えば、様々のことがそれなりの分量をもって書かれており、先にふれたロボトミーや電気ショックの歴史も扱われていてそれなりに勉強になる精神医学の歴史の本でショーターが反精神医学に割いているのは約5頁なのだが(Shorter[1997=2000:325-330])、そこではフーコー、サス、ゴフマン、シェフ、レインと、ベン・キージーの『カッコーの巣の上で』がまとめていっしょにされ、過去のものとされる。必ずしも病因論として括っているわけではないのだが、それにしてもずいぶんな情報の圧縮である。では日本ではどうだったか。私はこの時期以降の精神医療の言説の歴史についてほとんど何も知らず、またそれを追った研究があるかないかも知らないのだが、例えば「反精神医学」の語が表題に使われる小澤[1974]を読んでみても、そこにほとんど病因論は出てこない。別のことが書かれている。
★09 以上を書いていて念頭にあった動きの一つに日本臨床心理学会、日本社会臨床学会(日本臨床心理学会編[1979][1987]、日本社会臨床学会編[2000]等)の活動がある。ここで言われたこと、なされたことについてよく考えてみる必要があることは立岩[1997:436]でも述べた。
 cf.◇日本社会臨床学会

 
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■第3回・註

★01 「ところが、ストックホルムに帰ってみると、私はひどく落ちこんでしまった。」と続く。もちろん、現実に起こることはなかなかに複雑なのだ。私は以下で、そこからいくつかのことを抜き出し少しふれるだけのことしかできない。
 ホームページが変更になった(www.arsvi.com→「立岩」→「生存の争い」)。そこに以下にとりあげるホームページへのリンクもある。
★02 近刊予定の講座の一つの章として書いた立岩[2002]にだいたいの粗筋を記した。ただ本稿の第2回・第3回の分にあたる部分はそこにはない。他方、医療化自体をどう考えるかについては、その後のことをもっぱら考えている本稿ではふれず、そちらの文章で私が想定するその過程について簡単に記してある。
★03 「社会性」を言えばそれでよいということにはならないことについては立岩[1997](第7章「代わりの道と行き止まり」の第1節「別の因果」)に述べた。それと別に、事実関係、因果を巡る事実問題を留保するという姿勢がある。いずれからも距離をとり、原因について言われてきたことをきちんと記述すること、まずそれは大切だろう。ただその上で、私たちは、日常的な意味でものごとには原因があることを知っており、それを否定することは容易でないいはずだ。もちろん、世の中にはさまざなことがあって、様々に因果連関があり、その中のどれが採り出されるか、争点となるかは、私たちの側の事情によっている。しかし、例えば自閉症の原因がなんであるかという議論が生じるその背景を認めた上で、その原因は何かという議論が成立することは否定されないし、その平面で議論はなされてきた。後に出てくる母性剥奪の議論にしても、それは「実証的」に否定されたのである。とすると、因果論に対する懐疑は何を懐疑しているのか。そこにはいくつもの要素が混在しているように思える。その全体を論ずることはとてもできないのだが、そのことを考えるに際しても、そして社会に起こっている事態をどうやって捉えていったらよいかを見出そうとするに際しても、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」の歴史についての医療人類学者の巨大な著作(Young[1995=2002])はいくつかの示唆を与えてくれるように思う。ここ数十年の歴史を辿ること、と初回に述べたのだが、このような仕事がその意義を明らかにしている。
 cf.◇医療人類学
★04 ボウルビィのいわゆる「母性剥奪(maternal deprivation)」仮説、それがいくらかあるいは極端に誇張された主張、それを巡る議論の歴史等々については、それが女性、フェミニズムに関連する領域であるために比較的に言及は多いが、きちんと調べてまとめたものがあるのか――「家族要因説」について検討した加藤[1997]等もあるにはあるのだが――私は知らない。調べたらよいのにと思う。
 ただ、こうした領域の資料を集めている人はわかると思うのだが、こんな本は買いたくないというだけでなく、見たくないし、知らせたくない、存在を無視したいというようなものがいくらもある。けれど、すでに十分に普及してしまっているものもいくらもあるから――久徳重盛の『母原病』(教育研究社、一九七九年)は「八一刷に達し、その後、新装版になってからも四版を重ねています。教育研究社はその後サンマーク出版と名を改め、一九九〇年にさらに『新・母原病』を出版しています。」(上野[1994])のだそうで、さらにまだまだある――ただ無視してしまえばよいというのでもなさそうだ。
★05 例えば上野千鶴子の講演の記録(上野[1986])における自閉症についての記述に対して抗議がなされた(このことについて灘本[1994]等)。上野の反省文を加えた版(上野[1994])が現在は出ており、その経緯について『河合おんぱろす・増刊号――上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』(河合文化教育研究所、一九九四年)がある。布施[1994][1996]では、上野の(反省文を含む)文章を含む幾人かの著作における自閉症者の扱われ方が取り上げられ批判される。大山[1994]にはベッテルハイム『自閉症 うつろな砦』に対してなされた絶版要求の経緯が記されている。こうした主題について灘本昌久のホーム・ページ(http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/)が参考になる。また、日本自閉症協会愛知県支部の機関誌『SHARE』(http://www.nucl.nagoya-u.ac.jp/~taco/aut-soc/share/)等で自閉症についての正確な理解が繰り返し呼びかけられているのを読むことができる。
 家族要因論は他の障害・病気についても様々に言われ、例えばホームページで以下のような記述を拾うことができる。
 「一般的に喘息と言う病気に対し、母源病といわれた時代、今と昔は治療方法など喘息に関する考え方は大きく変り、是非偏見を無くし正しい知識をもって見守って欲しいと願っています。」(「いつか、きっと!」http://members.tripod.co.jp/ituka685/)。
 「障害にしたがるけど、みんな結局根っこのところでは母子関係でつまづいてるんだよね。基本的信頼感(※乳幼児心理の研究をしていたボウルビィという研究者の生み出した概念)がみんなできてない。ADHDとか言って ...」 (「あるカウンセラー、ADHDを大いに語る」、www2.ocn.ne.jp/~psyche/adhd_th.htm ※は引用文の著者の注、ADHDは「注意欠陥・多動症候群」)
 cf.ADHD→AD/HD
★06 罪の場としての内面が見出されることによって、罪は人のすべてに個別に備わることになり、その赦しに関わる存在はすべての人を個別に捉えることになることについて立岩[1997:249-250]に記した。本文に記したのは、そんなことがたしかにあるとして、ではその次にどう考えたらよいかという問いである。註1に記したこと、あげた文献もこのことに関わる。
 その問いを残しながら、私たちは、不在・過少と過剰という対の中では、過剰であるという把握に与してきた(岡原[1990])。そして私は、過剰と過少とを一つのところから捉えることができるのではないか、そしてそれは密着という心理の出来事であるより、支配・責任・制御という小さいまた大きな政治的次元に、そして他者の生存・存在の位置づけに関わることだと考えている。そしてそのことの問題はいわゆる「病理」との関わりで、またその原因であるのかないのかという次元で言わなくてはならないことでもない。病理を引き起こさなくても十分に困ったことは存在するのだから。
★07 ここに述べることは、広義の自閉症(自閉症スペクトラム)に含まれるとされるアスペルガー症候群の人、注意欠陥障害(ADD)の人たちについての本、とくにずいぶんの時を経たのちにそう診断された人の書いた本(Solden[1995=2000]、Gerland[1997=2000]、Lawson[1998=2001])や、それらを翻訳して紹介してきたニキ・リンコが自身のことを含めて書いた文章(ニキ[2000][2002])の中で、何度も自問され、答えられている。私はその中のいくつかの断片や、もっと以前に類したことが幾度か言われたように思う記憶から、以下を記しているに過ぎず、それから取り出して考えるべきことはもっとたくさんあるはずだ。
★08 わかるにも、ある病気の原因がわかるといった場合と、その人の置かれている状態についてその病名がわかるといった場合と二つある。ひどく苦しい病気であったり、とくに死を招くような病気であったりすれば、とにかくなおりたいと思い、どこに原因があるのかという原因究明が治療法の開発に結びつくなら、それは大きな課題となる。患者や患者の組織も熱心にそれを求める。他方、病気については既に知られ、その上で自分がどんな病気だとわかるとそれに応じた対応策がとられる。そのためにわかることは必要になる。ただこれらでは、つまりはなおればよいのだから、原因究明それ自体が目的であるとは言えない。よくはわからないのだがある策をとったらうまくいくということもある。
 むろん、わかったからよかったとは限らない。よいことがあることを知ればうれしいが、よくないことがわかることもある。とくに死に至るような病であれば、病名がわかり、あるいは原因もわかって、しかし治療法がないことがわかるのはまったく深刻なことである。だからあえて知りたくないということもある。ただ、なおらないならなおらないなりに、どうしてやっていくかを考えたり決めないとならないから、知っておいた方がよいということもある。さらに、自分によいことなら知りたいが、でなければ知りたくないと思うにしても、どちらなのかはあらかじめわからず、それを知ることがここでの知ることなのである。そしてさらに、そういう厄介事にまきこまれるのいやだから、知らないことにするというやり方はあるのだが、しかしそのときにも知ろうと思えば知ることができるということを知っているという状態からは逃れることはできない。そしてわかるときにも、すべてが明白にわかるわけではなく、例えば確率としてわかる。その曖昧さはときに救いではある。しかしそれが決定のための前提として与えられるとき、それをどのように考えたらよいものか、わからず途方に暮れても当然である。こうしたことについては、「情報を得た上での決定」という方法について考えるところで触れることができればと思う。
★09 その人たちの会に「なるこ会」がある。http://www2s.biglobe.ne.jp/~narukohp/index.html。同時に、運転免許の取得をめぐり障害を理由にそれを与えないとする「欠格条項」(→註15)には強く反対している。
 cf.◇「なるこ会」
★10 これはパーソンズが述べた「病人役割」をどう捉えるかということでもある。パーソンズと医療社会学について高城[2002]。
 cf.Parsons
★11 もちろん、いずれか一方だけが作用するというのではない。両方が同時に作用したり、一方がもう一方を強化することがあるというだけでなく、例えば言葉が発せられるのも身体の器官とその動きがあるからであり、記憶が存在するのも脳になにがしかのことが起こっているからではあるだろう。何が両者を分けるのか。ここでは立ち入ることができないが、ひとまず、人の選択可能な行ないとされるものが関わっているか否かであるとしよう。註3にあげた文献はこのことについても考えさせる。
★12 「象徴」としての病の捉えられ方に対する批判としては、ソンタグの論がよく知られている。(Sonntag[1978=1982][1989=1992])。病気についての人間学はときにこういう――例えば人間は「受苦的存在」だと言われたりすると「痛いものはただ痛いのだ、ほっといてくれ」と言いたくもなるといった――感覚について鈍感なことがある。
★13 こうした批判・非難は、とくに「注意欠陥障害(Attention Deficit Disorder=ADD)」についてはいかにもありそうで、実際にある。もちろんこれを障害として受け取る側はこうした非難をすでに十分受けていて、よく知っているから、それに対して何を言うかを考えて言うことになる(Solden[1995=2000]、Weiss[1992=2001])。
 ニキ[2002]には次の部分が引かれている。「ADDのために起こる失敗と、人間なら誰でもやらかす失敗は、どうすれば見分けられるのでしょう?」に対して、「見分けることはできません。…「普通の」人たちも、ADDの人と同じ失敗をします。両者を分けるのは、失敗の質ではなく、頻度なのです。ADDの人の人生では、失敗はしじゅう起こり続け、重篤な問題を引き起こします。ADDでない人の人生では、失敗は頻度もはるかに低く、いら立つというよりは、冗談の種になってくれます。」(Hallowell & Ratey[1994:97])
 このように答える姿勢は、じつはとても賢明だと思う。また次のような言明。
 「「障害者になる」という表現には二通りの意味がある。一つは受傷や発症により何らかのインペアメントを持つようになることであり、もう一つは社会的に「障害者」として認められることである。「なぜ自分から障害者になりたがるのか」という言辞は、この二つをあえて区別せずに用いることで、意味を二重写しにする悪意を含んでいる。つまり、実情の方は、最初からインペアメントを持っていた者が内実に合わせたラベルを得ようとしているのに対し、あたかも自傷か何かによってインペアメント自体を得ようとしているかのような連想が働く表現だといえる。
 また、社会的に「障害者」としての承認を求めることは、決して「障害者」というレッテルに付随する蔑視を求めることでもなければ、肯定することでもない。先の疑問はこの二つをも区別せず、あたかも診断を求める者が自ら蔑視を求めているかのような印象を作り出しており、無意識なら不注意、意図的なら卑怯である。〈事実〉のレベルでは「障害のある人」としての承認を求めつつ、重度障害も含めた「障害」全体に対するスティグマは拒絶するという姿勢もあるはずである。身に合わない「健常者」というレッテルに苦しみ続けるか、差別も〈コミ〉で障害者として認めてもらうかという二者択一に追い込まれる必要はない。」(ニキ[2002])
 cf.ADD→AD/HD
★14 だから、病気であり障害であると自ら言う側に対する反発には、一つに自分に対するこだわりに対するものがあるのだが、もう一つは自分の責任を逃れ楽をしていることに対するものになる。もちろん両者は並存できないわけではない。他人に責任を転嫁しつつ自意識過剰な人間もいそうではあるから。ただ、同じものに対する非難に性格の違う要素があること、そして非難する側も同じようなことを言い返されそうであることはわかっておいた方がよい。自分でできることを自分でしないという非難は、すなわちその人に責任を帰している(自分は逃れている)のだとも言いうるのだし、「こだわり過ぎ」をとやかく言う人が、人が楽になりたいという思いに対してもっと自分から逃げないでがんばれと言っているのでもある。
★15 できる、できないについては その原因に関わるなにかではなく、またそれで括った集合・集団に対してでなく、現在その人がなにができるかできないかに即して判断すればよいという主張をすることができる。註9で少しふれた欠格条項に対する批判派の運動はほぼそういう戦略をとっている。これは、その前にいくつかのことを言い足した上で、正しい戦略だと考える。欠格条項については臼井編[2002]。
 加害については、保安処分、このたび提出された「心神喪失者医療観察法案」――関連文書等をホームページに掲載した――への批判のあり方にも関係し、可能性を論じ、確率を用いることをどう考えるかが一つの論点となる。これまで批判勢力は、精神障害者が犯罪を犯す率が他に比べて高くないことを主張してきた。間違って高いと思われているのが現実であるからにはそのことを言い続ける必要はある。しかし仮にある部分を区切ったときにいくらかでも高いとしたら、どのように言うか。
 cf.精神障害・精神障害者 2002

 
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●関連資料

 ◆科学技術・国際競争・国家戦略・…
 ◆医療過誤、医療事故、犯罪…
 ◆医療社会学
 ◆患者の権利
 ◆クローン
 ◆生命倫理[学] (bioethics)

 ◆生命倫理/医療と社会・関連書籍

●現代史のためのファイルのいくつかのうちのいくつか(2001年分)

 ◆ヒト細胞・組織/ES細胞/クローン… 2001
  http://www.arsvi.com/0g/c2001.htm
 ◆代理母/代理母出産/代理出産 2001
  http://www.arsvi.com/0g/sm2000.htm
 ◆精神障害/精神障害者/精神障害者の権利 2001
  http://www.arsvi.com/0ds/m2001.htm
 ◆障害学 2001
  http://ehrli ch.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/ds/ds2001.htm
 ◆ハンセン病・2001(国家賠償訴訟勝訴・確定,他)
  http://www.arsvi.com/d/lep2001.htm
 ◆HIV/AIDS 2001
  http://www.arsvi.com/d/hiv2001.htm
 ◆科学技術/所有・国際競争・国家戦略・…2001
  http://www.arsvi.com/0e/ps01.htm
 ◆できごと 2001
  http://www.arsvi.com/1sb2001.htm


UP:2002 REV:......20030213,0414, 20090204
立岩真也:青土社との仕事  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也
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