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だれにとってのなんのための、資格?

立岩 真也 200206
『ばんぶう』2002-06(日本医療企画) http://www.jmp.co.jp


 *実際に雑誌に掲載された文章は、見出し等、私が送った原稿と異なったところがあります。以下が私が送った原稿です。

■1 資格には二面がある

 はじめから専門性はよいものだとされているのだが、それはどんな意味でどれほど大切なものなのか。第一に、専門分化という意味での専門家・スペシャリストという意味なら、いまむしろ必要なのはジェネラリストなのかもしれない。第二に、特殊・一般という対比でなく高度な技術を要するという意味なのだろうか。しかし、そういう仕事でも、資格もなにもない仕事はたくさんある。他方、誰でもできてよい仕事であったら、きちんとした給料のもらえる仕事にはならないのだろうか。ほんとうはそんなことから考えないとならないのだと私は思う*。ただ、ここでは資格のことについてだけ、手短にいくつか。
 * 進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』(世界思想社、一九九九年)に「資格職と専門性」という文章を書きました(これも短いですが)。またいくつかの具体的な主題についてはホームページに関連した文章や情報を掲載してあります(著者の名前で検索、あるいはhttp://www.arsvi.com/と入力→「50音順索引」→「資格」「専門性」)。
 第一に、資格は供給されるサービスの品質管理のために必要なだけである。消費者が自分自身でその質を確かめ選ぶことができるのであれば、わざわざ他の人が資格を作ったりする必要もない。人々が不要なもの有害なものを選ばないなら、その結果それらは消え去っていくだろう。しかし、それがうまくいく場合だけではない。例えばその薬を使ってからその害がわかったのだが、そのときにはもう遅く、死んでしまったということがある。こうした可能性があるときには事前に質を確保しておく必要がある。サービスを提供する人についてその一つの方法としてあるのが、この人に仕事をさせても大丈夫かどうか試し、大丈夫な人だけに仕事をさせるというやり方である。
 第二に、しかし資格は別の利害のもとで用いられうるし、実際に使われてきた。それは、自分たちの権益を保持し、拡大するのに役に立つ。新規参入者を制限することができれば、仕事が確保でき、その価格、収入を維持することまた高めることができる。また、別の流派・流儀の人々を仕事から排除することもできる。
 まず資格にはこの二面がある。資格化することが専門性を証明したり高めたりすることに自動的につながり、自明によいことのように思う人たちが少なからずいるのだが、そんなことはない。

■2 普通の仕事にした方がよい

 さて、この大きく二つのうち、どちらがどの程度現実を規定しているかについては人によって見方が異なりうる。ある人たちを仕事から除外することを、主流派の意に染まない部分の排除ととるか、それとも消費者保護のため必要なこととみるか、判断はときに微妙になる。だがこの国の現状をどう評価するかははっきりしていると考える。
 すなわち、利用者にとってプラスの機能を果たしていない。ほんの入口のところで一度だけその後ずっと使える資格を与えている。さらにその実質は、資格試験以前の、大学に入る時点での、いわゆる学力あるいは(親の)資力・経済力による選抜である。こうした部分が変わらないことには、この国の医療の基本的なところは変わらないだろう。私は医療者、とくに医師の仕事がもっと普通の仕事、普通の人がする仕事になった方がよいと思う。そのためには供給は多くてよい。
 もっときちんと仕事をしてほしい、ていねいにお客に接してほしいと言うと、医療者たちはそれはわかるが忙しくてそこまではできないとよく言う。その通りかもしれない。ならばその仕事をする人を増やせばよい。(同時に、詳しく説明することはしないが、減った労働時間の分、収入の絶対額は少なくなる人もいる――ワーク・シェアリングとはそういうものである。)きっと異論のあることだろうが、私は、特に医師については、資格をもっと楽にして供給者を増やし、一人分の仕事を減らし、同時に利用者による選択の余地を大きくした方がよいと考える。それが質を落とすとは思わない、むしろ逆に、プラスに作用すると思う。
 これは単純な案であり、それ自体はすこしもやっかいなことではない。ただ全体に関わることではある。それと別に、いますぐ可能だし求められている具体的なこともある。

■3 多くの人が行なえるようにする

 例えば救急救命の現場で誰が何をしてよいかという問題がある。その場にその人しかいないのに、その場で必要な行為をその人ができない。またさらに私は大きな問題だと思うのだが、介護の場面である。吸引といった行為について、ホームヘルパーにはできない仕事だとしてなされないことが、それを必要とする人が在宅で暮らそうとする時の大きな制約、生活していく上での大きな困難になっている。そしてずっと続いてきた看護や助産を行なう人たちの仕事の上の制約がある。それに対して、これは医療行為であるから医療者(の一部)だけのものである、その指示のもとでしか行なってならないという答は、医療者しかしない仕事だから医療者しかしないと繰り返しているだけであり、説明にも正当化にもなっていない。
 もちろん自由化によって質が低下する可能性はある。質の低いものも認められ、それを(例えば競争がうまく働く場合には排除されるのだが、それがうまく働かない場合には)排除する力が働かない場合、あるいはその力が弱い場合には、それを利用せざるをえず、とくに価格も自由になった場合に安い価格で購入せざるをえない人が、質のわるいものをつかまされることになる。問題の一部は経済学で市場の失敗と呼ばれるものであり、また一部は市場にもっと本質的な問題に由来する。
 しかし不足は現実に生じているのだし、今の職務の割り振りでよい理由はないのだから、質の確保をはかりながら、仕事を行なえる人の範囲を拡大することである。そしてそれは少しばかりの工夫をすれば十分に可能なことである。

■4 当たり前の方向に考えること

 合理的でない制限は「欠格条項」に対する対応にも見られる。それはご存知のように、おびただしい数の法律が障害のある人を一律に資格から排除することによって仕事をする機会等を奪ってきたという問題であり、ようやく撤廃の方に進んでいるのだが、医療界の対応は積極的ではなかった。障害者は仕事の対象ではあれ、いっしょに仕事をする人とは見てこなかったということだろうか。
 他方では助産の仕事への男性の参入にはあっさりと賛成し、積極的だったりする。しかし、その動きは利用者の側の必要から出てきたのでなく、業界の再編をにらんでのことだと考えざるをえない。もちろん賛成派は、利用者が助産のとき手伝ってくれる人(の性別)を選択すればよいではないかというのだが、いまの状況でそれが保証されるとは思えない。とすると、ここでは消費者保護策としての資格の限定を継続せざるをえないことになるはずだ。
 私は、資格の付与を含む消費者保護策を必要な場面で採用することを支持しつつ、業務の独占や制限に正当性が得られない部分についてはそれを緩和すべきだと述べた。まったく穏当で常識的な意見だと思う。ところが一つ一つについてこういう当たり前なことを考えて、現実を常識的なところに近づけていく、そういう感覚が欠けてはいないか。それは医師たちだけに限らない。自分たちの利害を守ろうとするのは自然な傾向ではある。ただ、だからこそ同業者の団体は自らに厳しく対することが必要になる。でないとその行ないはますます信用されなくなるだろう。


UP:2002 
専門性/資格  ◇「医療的ケア」  ◇欠格条項  ◇助産婦/男性助産婦?  ◇立岩 真也
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