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『べてるの家の「非」援助論』・2

医療と社会ブックガイド・20)

立岩 真也 2002/10/25 『看護教育』43-09(2002-10):782-783
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※全文(にいくらか捕捉を加えたもの)は以下の本に収録されました。
◇立岩 真也 201510 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社 ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 [amazon][kinokuniya] ※ m.


 6月に出た浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論――そのままでいいと思えるための25章』(医学書院、2000円)を紹介している。前回は、自分に閉じないこと、外に広げていくことについて、そして「事業」をやっていくことについて書いた。今回は、語ることとしての閉じないことから始めよう。もう一冊斉藤道雄の『悩む力――べてるの家の人びと』がやはり今年出て、やはりよい本で、写真はその表紙を載せた。
 精神病はなおり切らないことも多く、幻覚や幻聴やなにがしかの不調や不思議な部分を抱えていくことになる。それが脳内の現象だと言われても仕方がない。それがその人の病気を抱えた人の人生ではある。あなたには見えず聞こえないものが私には見えたり聞こえたりする。世間一般には存在しないようであることはわかっていても、しかし圧倒的な存在感でそれはやってくる。薬を使うにしてもいつも効くわけではない。なんとかつきあっていくしかない。
 まず他の人と違うから、へんなことをしてしまうから、自分のことを知らせず隠そうとする。(この様子を描いたのが第15回・4月号に紹介したゴッフマンの『スティグマ』。)一見して明らかな身体の障害に比べたら隠せることもあるが、しかしうまく隠し通すことは難しく、その困難と失敗が状態を悪化させもする。というか、それがこの病に関わるつらさの大きな部分を占めている。
 だから、どういう者だと、どうにもならないんだと言ってわかってもらった方がよい。下野勉が書いた第7章「安心してサボれる会社づくり」の副題には「弱さの情報公開」という言葉がある。まず自分のことを自分たちに語る。すると多様でありながら共通していることがわかる。あるいはわからなくても、自分のことを話してもよいことはわかる。
 そして自分のことを他の人にも、町の人にも話す。問題を起こすかもしれない自分が「御迷惑はかけません」と請け合うのはつらい。昆布販売業に携わりつつ、「偏見・差別大歓迎!」という集会をやってみたりする(第5章)。どこでもうまくいくかどうか、それは請け合えない。過疎の昆布が売れてほしい浦河町という町の「地の利」はあるかもしれない。ただ隠すことはつらく、不可能なことでもあって、語ることはたしかに生きやすさに関わっている。
 かつて「反精神医学」と呼ばれるものがあり(乱暴にもゴッフマンがその中に入れられることもある)、「主流」に批判され尽くされ消えたとされる。それは社会に病の原因を見出し、普通の意味での医療を否定し、社会の変革を主張したとされる。やり玉にあがる人たちの書いたものにそう読める部分もあり、狭い意味での「原因」についてなら脳の中に病気を見る主流派の方が当たっているのかもしれない。しかし、病の人の暮らしは症状を抱えて困ったりすることの全体であり、それを病気と呼ぶかどうかはともかく、その全部を人は生きる。その困難に社会が関わっているのはたしかなことであり、関わり方が変わるときに、現われる症状が変わり、あるいは変わらなくとも楽になることはある。その応じ方を治療と言うかどうか。そこに関わるのは医療者だけではありえないのだし、言えないし、言わない方がよいだろう。ただこのような広い意味では、やはり社会は原因でもあり、対処のあり方も社会にある。だから、この意味では、あるいはこの意味に解すれば、批判派は正しいのかもしれない。とすると今までの批判で何が言われたのか、もう一度振り返ってみたい。そんなことも思ってしまう。(「原因論」については青土社『現代思想』4&6月号「生存の争い――医療の現代史のために」2&3で少し書いたのでよろしかったらどうぞ。)とはいえべてるの当人たちはなにか勉強したわけではない。薬も医者も使うものは適当に使いながら、そんなものでは到底どうにもならないところで生きているのだ。
◇◇◇
 さて、近頃の言葉で言えばカミング・アウト、等々がうまく行けばよい。どんな場もそうなった方がよいのではあるだろう。しかしそれが難しいから困っているのだ。ではそのところがどんな具合になっているか。

 […]

 べてるには重くそして軽やかな魅力がある。とはいえ、引き受ける、とまで言わないとしても、かかづらわるのはたしかに負担でもある。商売という、例えば家族という関係よりは濃くない関係に関係を置く、あるいはそこから関係が始まるのは、より楽だ。前回述べた、「福祉のお世話」になりながらいま自分にある力で商売したり生活するというのも、自分たちが、そしてその周りの人たちが、楽になりながらやっていける方法の一つだ。そして、究極的につらい関係に追い込まれるのでなければ、繰り返しになるが、実は多くの人は、べてるの人たちのような人たちとつきあいたいのである。
◇◇◇
 この本は少しも難しく書かれていない読みやすい本だが、「難解」でもある――『悩む力』の斉藤も『べてるの家の本』という別の本について同様のことを書いている(p.96)。例えば「責任」について。
 第23章「べてるの家の「無責任体制」という章に、向谷地生良は「自己責任体制」のことを書いている。また、山崎薫は「べてるの良いところは、どんな失敗をしてもちゃんと責任をとらせてくれるところです」と言うのだが(p.201)、その2行後には「彼女は幾多の失敗を繰り返した。自暴自棄になり、みずからを責めさいなむときもある。そんなときには「OK! それで順調!」という仲間の声に励まされたり」とある。これもまた「当たり」だと思うのだが、どういうことなのだろう。
 やっかいごとは普通はどこでも起こってしまう。何も起こらないような病院が用意されても、それはそれでつまらない。何かを背負ったり、ときには責めたり責められたりがこの世というものだ。ただ、自己責任がこの社会では普通のことだというだけのことではないようにも思う。
 やむにやまれぬことでも、しかしそれをしたのは私だという感覚があり、それは私にとって大切なものだということだろうか。それは他人が責めたり罰することにすぐつながるわけではないが、私がやったことを私として引き受けねばということがあり、そしてその人にそのような態度を引き受けるように言うこと、そのように人を遇することが人を遇することだということなのだろうか。
 大切なのは、べてるでなされているのが、自由な部分は自由にし締めるところは締める、どこかで線を引くというのでないことだ。あらかじめ、おおむね、信じてしまう。同時に、その一部として、「責任をとってもらう」。こうなっていると思う。
 それにしても、私は「降りる」ことをもっぱら言ってきたが、それと「引き受ける」ことはどう関係しているのだろう。やはりまだ、よくわからない。べてるは、そんなことも、いくつものことを考えさせる。

このHP経由で購入すると寄付されます

■表紙写真を載せた本

◆斉藤 道雄 20020416 『悩む力――べてるの家の人びと』,みすず書房,241p. ISBN:4-622-03971-0 1800 ※ ** [amazon][kinokuniya] ※


◆立岩 真也 2002/08/25 「『べてるの家の「非」援助論』・1」(医療と社会ブックガイド・19)
 『看護教育』2002-08(医学書院)
◆立岩 真也 2002/11/25 「サバイバーの本の続き・1」(医療と社会ブックガイド・21)
 『看護教育』43-10(2002-11):268-277(医学書院)


UP:2002 REV:200502
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