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池田清彦+金森修『遺伝子改造社会あなたはどうする』*について

立岩 真也 20010804
国際高等研究所プロジェクト「臨床哲学の可能性」研究会
於:京阪奈・国際高等研究所
http://www.iias.or.jp/home.html

* 20010421 洋泉社,230p.,680円+税
http://www.yosensha.co.jp/



■1 「遺伝子決定論」あるいは「操作」の可能性について

 すこしの温度の差:池田は、決定されていないこと、操作できっこないことを言う。金森は、それを了解しつつ、しかしもしできたら、可能になったら、と問う。
 どちらも正解だと思う★01。ただ私自身は、金森のように考えていこうと思ってきた。というのも、遺伝子決定論に対して、そうではないという批判はずっとあることはあり、そしてその批判はもっともな批判なのだから当然なのだが、しかし、他方に、遺伝子が絡んでいる疾病、障害その他があることもまた事実であり、これからできるようになりそうなこともそれなりにあり、増えていくようではあって、その部分をどう考えるかが大切だと思うからだ。(『私的所有論』第6章・第7章)

 このことと、言説の流布について、ジャーナリズムのことや科学者のことをどう考えるかは、またすこし別の部分がある。
 例えば新聞の記事自体は(最後まで読むと)それなりに穏当なことが書いてあるのだが、見出しはそうでない、とか…。
 本業の科学者はたいていそんなに「決定論」を主張するわけではないが、話はより単純になって流布し、批判はそれに対する批判になってしまうのだが、するとその批判は、その科学者にはこたえないものになってしまう、とか…
 こういう場合に何を言えばよいのだろう。そういう問いもある。
 それらにどう対していくか。これで決まり、という手はないはずで、ある種の対抗的な言説を、やはりていねいに話していく、しつこく、示していくしかない、ということになるのだろう。

 *これと同じ構造のものとして、精神障害と犯罪との関係、等がある。(強い)関係はないということを言い続けなければならないととともに、関係がある場合に、ではどういうことを言えるか、言うべきかという問題がある。

 さて、仮に思考実験であったとして、あるいは既に、またはかなりの可能性がある部分について、遺伝子的要因が効いていて、そしてそれに応じてできることがあるとする。そのときに何を言えるのか。
 筆者たちは、その技術は(歓迎できない部分があるのだけれども)、行くところまで行ってしまうのではないかと言う。
 一つには、それを進める要因があるからだ。もう一つは、それを抑える側。その論理が見出せないことが言われる。後者から。

★01 ただこれは強調点の違いとばかりは言えず、「生物学」をどう評価するかにも関わってくる。例えば竹内久美子的なものに対して、金森は、普通の科学的基準から言ってとんでもない話(ではあるが、それが受容されていることの意味は考えるべき)だと言うが、 「構造主義生物学」の立場に立つ池田は生物学の主流自体がそういう話になってしまっているとも言えるとしている(pp.31-32)。

■2 「押しとどめる論理」について

 「これから遺伝子の機能特定が次々に起きたら、それこそ人間改造をやるだろうと、先日もある場所で池田先生と二人で議論したばかりです。リベラリズムというか、個人の自由を最終的に尊重するという社会理念を貫くのであれば、ほとんどいかなる遺伝子改造も絶対的に押しとどめるだけの論理はなえてか見つからないだろう、という話をしたんです。」(金森 p.114)

 「遺伝子改造を「やる」も「やらない」も自己決定だというのは確かにそのとおりです。僕は、過激なリバタリアンだから、自己決定でやってもいいんだけど…」(池田 p.154)

 行いはその人の自由であるはずであって、そしてなにより、それは(誰から見てもないにこしたことはない)病気をなくすこと軽減することから入っていくだろうから、なお抗いがたいものであり、だから行くところまで(行ってほしくはないが)行くだろうという。
 しかし、「論理」としてはそう考えなくてもよい。幾度か述べていることだが(「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」の7「詐称」〜8「圧迫」→『弱くある自由へ』p.31〜、等)それは、自分のことについての自分の決定=自己決定、ではない、からである。

 「自己決定する優生というものは存在しない。というのも、優生とは遺伝、遺伝子に関わる行いであり、少なくとも現在の技術段階では、それは自分に対して行うことができず、常に他者に対して行うものでしかありえないからである。だからここで「自己決定」という言葉を使うのは、少なくとも正確ではない。あくまで、他者に向かう態度が問題になっている。自己決定という語を使うと、このことが時に曖昧になってしまう。」(『弱くある自由へ』p.33)

 「生産者による生産物の所有(=生産物に関わる処分権の獲得)」というのがリバタリアンの基本的な主張だが(これの批判としては『私的所有論』第2章、「自由の平等・1」)、この立場から、子どもは親の生産物だから、親が子(のありよう)に対する権利を有するという主張はありうる。しかしそれを私は否定するし、(リバタリアンを称する人を含めて)多くの人もそうだろう。
 また、普通の意味での「自由」とは、その人のその人のことについての自由であり、他人のことを決めたら、それはむしろ自由の侵害である。だから、自由、リベラリズム、自己決定の立場から、「改造」はむしろ、基本的に、否定されることになる(cf.『私的所有論』第9章6「積極的優生について」等)。

 生まれる前に、あらかじめ病気をなおしておくことなどは(リバタリアンが忌み嫌う)「パターナリズム」の行いである。私は、パターナリズムを全面的に否定する立場に立たないのだが(「遠離・遭遇」→『弱くある自由へ』pp.302-309)、それにしても慎重であるべきだとは考える。
 つまり、考えていく順序が逆に(逆方向からに)なるのだ。
 それを止める原理は(自由の立場からは)見当たらない、それでも食い止めようとすると難しい…、というのではなく
 原則として、よその人を改造してはならない、しかし、これこれの場合には認められるだろうという筋になる。
 その「例外」とは?:治療の多くは、本人の意志が不在の場合でも、なされるだろう。だから、遺伝子治療のすべてを否定することはないだろう。その上で…(cf.「生命の科学・技術と社会:覚え書き」『弱くある自由へ』所収)
 本書でも言及されているように、「成長ホルモン」「背の高さ」あたりが境界的な事例となり、たしかに、「どこまで」という線引きはやっかいである。しかしそのやっかいさは、だから線引きの行いが無意味であることを示すものではない(AとBとの境界が定かでないことは、AとBとを区別することに意味がないことを言うものではない。)

■3 推進するもの・1

 もちろん論理・理屈を言えるからといって、その通りにことが運ぶことにはならない。
(同時に)推進する要因があり、推進の方向に向かう力が働く。それはどういうものか。

 「生物はもちろん、コンサーバティブであると同時に新しいこともやるといった矛盾した存在で、そうじゃないと進化しませんから。新しいことをやりだすとなかなか止められないというのは、理屈の問題じゃないんですよね。おそらくそれは、生物のもっている、何か本質的な欲望の一つだと思います。一つはコンサーバティブ、もう一つは変わりたいという欲望です。」(池田 p.134)

 否定しようと思わない。そうだろうと思う。あるいは、否定も肯定もできない(証明も反証もできない)、あるいはすべてを説明してしまう(この事態はA要因による、あの事態はB要因がA要因にまさることによる、…)。
 わかるのだが、社会学者としては?、「改造」に向かう要因について、もう少し、「社会内的」に考えようとする。そしてそれは、普遍・不変の欲望があることを否定するものではない。だれもが「無病息災」を願うとしよう。しかし、その願いのあり方や強度は様々かもしれない。「見栄え」を気にするのも(どんな容姿が見栄えがするかは一様でない部分があるにしても)どこにでもあることだとしよう。しかし、…。「できること」がよいのも、…。しかし、…。私は、「できる人しか受け取れない社会」、「できることが人の価値を示す社会」であることが、「改造」を強く進めようとする要因の一つだと考えていて、そのことを『私的所有論』で述べた。であるならば、この要因(の強度)が変化することはありえないことではない。
 私は、強固な、抗いがたい現実性(きもちのわるいものはきもちがわるい、とか)の存在を忘れることはしない、できないが、しかしそれと同時に、「誰が考えても…だろう」ということと別のことが、現在起こっているのかもしれず、またこれから起こるのかもしれないこともまた無視するわけにはいかないと思う。

■4 推進するもの・2

 もう一つあげられるのは「資源」(の制約)。

 「池田 …やっぱり、金の問題というのは、あまり人はいわないけど、けっこうでかい問題ですよ。
 金森 そう、その医療経済学的な視点というのは、やはり落とせない論点ですね。」(p.81)

 けっこうでかい問題であること、落とさせない論点であることに同意。ただ、「あまり人はいわない」とは私は思わない。むしろ非常に頻繁に、なにかと言うと持ち出される論点であると思っている。

 「…「生命倫理」や「医療倫理」等々を論じるやはり真面目な研究会があって、「資源」の問題が語られる。もともと「バイオエシックス」の教科書の類いには、有限の資源の分配についての例題、例えば二人分しかない薬を三人が必要としている時にどうするかといった問題がよく載っているのだが、それはともかくとして、様々なことが論じられるその研究会では、会の後半しばらくすると、やはり「有限の資源」の話題になる。特に「第三世界」のことを含めて考えると、難しい、ように思える。さらに実の社会では、もっとあけっぴろげに、様々なことが費用対効果の文脈で語られ、そのことによってなされることなされないことがある。もちろんそれに対してお金より命が大切だというようなことは常に言われるのであり、それはまずはその通りなのだろう。しかし、そうは言ってもやはり、と思う。」(「選好・生産・国境――分配の制約について(上)」)

 「…「資源」について。私たちの国では議論はたいてい原則論からはなされない。つまり、妙な原則をふりかざすのに比べればわるいことではないのだが、「予算の問題」「資源の枯渇」が持ち出される。何を語るにも、「(超)高齢化」そして「少子化」が枕言葉として置かれる。かつてない、他国に類をみない速度で、少子・高齢化社会が到来する。だから備えなければならない。効率化し、支出を抑えなくてはならない。子どもを産ませなくてはならない。等。毎日、同じことが、まるで同じ言葉で、日本全国の津々裏々で、講演会やら何やらで、語られている。
 なぜそんなことを信じることができるのだろうと思うのだが、大勢としては、どこまで本気で信じているかはともかく、どうもそういうことなのかということになってしまっているようだ。だから、一度は、正面からとりあげ考えて答える必要がある。そこでいくらかのことを考えてみた★09。それはある程度はこみいった話であり、論の道筋は(不必要に、かもしれない)少し複雑だが、基本的な発想はごく単純である。「資源」の枯渇が言われることがあるけれども、それが自然界に備わる資源は有限であるという当然のそして対応すべき問題があること以外のことを言っているのなら、それはまったく信用できない、なにか別の利害、別の事情があっての話であるに違いない、としか思えないということである★10。」(「遠離・遭遇」p.229)

★10に引いたのは以下。

 「…今の状況、そして今後予想される状況は具体的にどのような状況であるのか。「少子化」「高齢化」「医療費の増大」という、事実と言えば事実であることが、具体的であるようで非常に曖昧に、危機として語られ、脅迫として作用することを警戒すべきである。生産しない人を切り捨てなければならないほど物的・人的資源が払底している、しつつあるという証拠はない。」(『私的所有論』p.140)

★09にあげているのは上記した「選好・生産・国境――分配の制約について」。この論文で私として考えたことを述べた。

 「…誰かの生命・生活を支えることによって他の人の生存が不可能になってしまう状況を想定することもできる。そして人々はその人を殺すことによって生き残るかもしれない。これは極限的な状態ではある。それでもこの場合、資源の制約下でどちらの生存を選ぶか、既に選択の要素が入ってきている。資源は、時には非常に厳しい条件であるにしても、制約条件の一つであり、一つでしかない。
 そして原料の枯渇とは、例えば鉄やアルミニウムや石油がなくなるといったことである。何かがないと思うならその具体的な何かがないと語ればよいし、それに対してどうしようか考えればよい。例えば食糧が少ないとか自動車が少ないとか。それに対して私はそうは思わないという人もいるだろう。このようにして議論が成立しうる。それに対して「資源の制約」といった一般的で抽象的な言葉はそれらを曖昧にするだろう。あるいはこの言葉は、ことを曖昧にしてもよいように、あるいは曖昧にするために、存在するのてある。」(「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」)

 もちろん「物」の他に「人的資源」のことがあるわけだが、何を私が書いたかは略。
 さて、別の(遺伝子組換え作物について論じた)部分では池田は次のようにも言っていて、私もほぼ同じように考えている。(ところでそれは、言うまでもなく、今までなされてきた人口抑制政策を肯定することと同じではない。)

 「じつは、僕は危険じゃないと思うといっても、遺伝子改造のダイズとかを絶対買いません(笑)。どうして買わないかというと…気に食わないから買わないだけなんです。要するに、そういう農業資本が儲かるのが気に食わない。農業は在来でいいわけですよ。環境問題というのは、人口が増えることを前提にしているから問題なのであって、人口を減らすように努力すれば問題はないわけです。「六十億から百億に増えたときに困るでしょう?」っていわれたら、「百億にしなきゃいいでしょ」っていえばいいのです。
 遺伝子改造食物の問題と環境問題は、ものすごく密接に関係しているわけですが、そのときの環境問題というのは、基本的に人口問題なんですよ。環境問題は「人口問題だ」ということは、アメリカの一部の人はいっているけれども、日本ではあまりいわないでしょう? 日本で人口問題というと、人口を増やすことばかり考えてて、人口が減ったら、国民年金を支えるやつがいなくなるなんてくだらないことをいってますけどね(笑)。」(池田 p.200)

■5 諸力の布置

 もちろん実際には、著者たちはよく知っていて考えている人たちであるから、この本には他に様々なことが書かれていておもしろい。その多くに同意する。

 「遺伝子の機能の特定を……とにかく遺伝学者がこれから必死にやるでしょう。それで、今いわれているようなオーダーメイド医療みたいな――ああいうキャッチフレーズをすぐに作っていう人がいるのを、僕は面白いなと思っているんですが――、とにかくいいことをいう。そして、いいことをいっておいて、最後にはちょこっと「遺伝子差別が起こる可能性がある」だとか、「プライバシーの侵害になる可能性があるから気をつけなければならない」と、数行書き加える。あの最後の数行が、なんとも面白い。」(金森 p.110)

 「何かを隠蔽するときには、何かをスケープゴートに仕立て上げて「大変だ、大変だ」って騒げばいいんだ。だから、「クローンはいけない、いけない」といってるのは、何かの陰謀である可能性もあるね(笑)。皆の眼を、もっと大事なことからそらせるためだったりしてね。マスコミは、基本的にそういうことがかなりありますよ。」(池田 p.123)★02 等々。

★02 この部分の後にあげられている「もっと大事なこと」は、「遺伝子差別」のこと。その一部についてだが、拙稿「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」(『弱くある自由へ』所収)がある。

■6 所有

 以上は、進んでいく技術とそれを押しとどめる論理(の不在)という枠組みの話なのだが、他方には、使用・利用することを前提した上で、それをどのようにという問題がある。
 所有についてどう考えるか。これはとても大切な問題だ。

「池田 …国際的な取り決めでDNAの特許をなしにするとか、国際条約でDNAは何年何月何日を限りに特許権は消滅する、みたいなことを決めてくれない限りは無理ですよね。
 金森 合意のうえで特許権を消滅させる、というのが、結局いちばん健全でしょうね。
 池田 そう。いちばん健全な話ですよ。それで合意して、それがグローバルスタンダードになってしまえば、そこからの話ですから。
 … いわゆる開発途上国は、そういうことで特許を取ることはほとんどありえないわけですから、それは南北問題を加速します。」(p.107)

 私も同じ意見。「遺伝子の技術と社会」という文章にもそのことを書いたが、最近のものでは以下。

 「独占、独占による利益は、自然の側にあるものではなくて、まったく制度的なものであることを確認しよう。作った人がとる、発見した人がとる。作った人がとるという規則について、それが正義だという根拠を示すことはできないことを私は述べてきた――『私的所有論』(勁草書房)、「自由の平等(1)」(『思想』、岩波書店、2001年3月号)――のだが、逆に、この規則を本当にまじめに受け取ってもよい。自然を相手にする人ならだれもが、人間が最初から作り出したものなど世界には存在しないことを知っているし、ただDNAの配列を一番乗りで記述できたというだけでそれに関わる利益を独占的に取得できるといった話のおかしさはわかるはずだ。
 そうして考えていくと結局、所有権の付与についてもっともな理由として残るのは、純粋な興味、単なる功名心あるいは責務の意識が十分に存在しないなら、一番先にできた人にほうびをあげるという規則を設定しないと、人間は考えなくなりものを作らなくなるから、その規則を置いておくのだという理由である。またかかる費用のこともある。利益が産み出されなければ資金を開発にかけるのは無駄だということになり、行なわれない。だから技術開発のためには開発者への所有権の付与が有効なことがある。すでにあるものを発見するだけでも、それを見つけるためにはやはり費用がかかり、労力が費やされる、同時にそれは利益を生み出すことがある。だから、発見にも一定の権利を付与することがあってよいということになる。競争により見出され作り出される速度が早められることがあり、より少ない苦労で得られものが得られるようになることがあり、それが望ましいことがたしかにある。だから先頭の人に利益を付与すること、その利益を求めてなされる競争全般を否定する必要はない。
 だが、まず、その一つの結果として生じる独占は、独占した当の主体に利益を集中させることになる。そして独占でなくても不都合なことはある。……」(「所有と流通の様式の変更」)★03

★03 そしてこれと国家との関係を考えることが大切。「選好・生産・国境(下)」(具体例として、注でアフリカにおけるエイズ、その治療薬と製薬企業のことに触れている)、「国家と国境について」。なぜ生産や資源(→4 推進するもの・2)のことを気にしてしまうかを考えていくと、一つには国境の存在があることを述べた。

■7 ついでに

 いくつか「不適切」な具体例、話の運びがあるように思った、と書き始めたら、本題にも関係するようにも思う。だが、ひとまず
 科学史の学会である研究者が「白痴」という言葉を使ったら、「ある有名な先生」が使わない方がよいと言ったという話が紹介され次のように続く

 「学会の場、それも科学史の学会に参加している先生が、そんなことをいいだすこと自体、かえって差別を公の水準で見えなくしてしまうことにつながりはしないか。僕は、そう思います。
 公ではむしろ恐怖と恭順が支配し、私的空間では相も変わらぬ差別心が作動しつづける。それは、やはり健全な姿とはいえない。差別撤廃に邁進する社会運動家なら、この程度のことにはとっくの昔に気づいているはずです。」(金森 p.38)

 学会発表の中で、研究対象・資料の中に「白痴」という言葉があって、それを使うことがおかしいというのはおかしい。そんなことを言っていたら「歴史研究などできるわけがない」(金森 p.38)しかし、そのことと差別語の問題はいったん分けて考えるべきだ。
 そしてこの例の前には「例の「差別語狩り」」(p.37)の例が出されるのだが、誰がその「差別語狩り」をしたのか?という問題もあり、そのまま受け入れかねる。
 この後の発言も論旨も一部よくわからないところがある。

 「あまりに何度も「障害者も普通の人間と同じだ」というようなことを言い過ぎると、階段を昇るのに苦労している人と、すたすた昇る人は同じだということになってしまうかもしれない。障害者自身が、「差別するな」ということを、「区別するな」と踏み込んでいってしまうと、重い荷物をもって少し苦しみながら階段を登っている障害者を見かけても、「手伝いましょうか」と声をかけることさえ、いけないというようなことにもなりかねない。やはり、そこには議論の微妙な行き過ぎとでもいようなものがある。」(金森 p.40)

 私はそのようなことを「言い過ぎた」人も、言った人も知らない。

 さきに書いたことにも関係することなのだが、「うつくしすぎる話」に、より「実感に基づいた話」を対置するという(洋泉社の本、他にはこのパターンが多いような気がする)その構図がどこまで有効なのだろうか?
 このような構図というのは(今まで正面切って言われることがなかった、と必ず前書きされるわりに、みんな言っているのだが)とりあえず、なにかしら訴えるものがあるのであろうから、なにかしらの需要というものもあるのだろう。ただ、私は、この構図、図式、物語について考えるということが考えるということなのだと思う。★04


★04 スペースが余ったので、以下引用。
 「この主題を巡る議論は何層にもなっていて、そして捩れている。
 A:まず、障害者でありたくない、障害者になりたくない。なおるならなおった方がよいと思う。まずはそれだけという人にとっては、障害を肯定するっていったいなんの話をしてるの、ということになる。
 B:第二に、そんなことはないと言いたい気持ちの人がいる。そしてこのことの言い方もさまざまだ。そして「世間の人」もまた、実はなにかしら障害を積極的に捉えるといった主張に同調したい部分はある。もっとも双方で思っていることはかなりずれていたりもするのだが、とにかく、意外に受け入れられる部分もある。
 C:すると第三に、そんな調子のいいことを言って、と、それに対してさらになにか言いたい人がでてくる。
 ダウン症の娘さんがいる最首悟の本にこんな一節がある。(1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(最首[1998:369-370])
 ここで怒っている最首は批判Cに対してさらに怒っている。私は呉智英の当該の文章を読んでいないが、この世代の人たちは――「戦後民主主義」が怪しげに入ってきたことに対する、そして「良心的知識人」に対する敵意があることに関係するのかしないのか――「良識派」あるいは「進歩派」の「欺瞞」「偽善」を指摘してまわるという文章をよく書く。最近のものでは、安積他のBの主張に対するC小浜の批判?がある(小浜[1999])。Cの人たちは、Bの見方が偽善的であるとか脳天気であるとか、そんなふうに思って批判するのだが、実はそのBの人たちも、あるいはその人たちの方が、そのあたりはかなり自覚的に書いていたりもする。
 この文章は、まずはとても優柔不断でありながら、こうした状況にさらにわりこもうとする。…」(「ないにこしたことはない、か・1」草稿・注6、文献は、小浜逸郎 1999 『「弱者」とはだれか』,PHP新書・最首悟 1998 『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害の娘との二〇年』,世織書房)


■ 以上であげた&以上に関係する立岩の書きもの

 おことわり:以上では私の書きものからの引用が多用されましたが、それは、この本で論点とされている様々なことがそのまま私にとっての問題でもあり、それを私は考えてきたのであり、だから、この本についてのコメントは、私が私の書きものに書いてきたことそのものであるからです。

1997 『私的所有論』,勁草書房
1998 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定権)→『弱くある自由へ』第1章
1998 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」,『現代思想』26-9(1998-9):184-197(特集:遺伝子操作)→『弱くある自由へ』第6章
1999 「遺伝子の技術と社会――限界が示す問いと可能性が開く問い」,『科学』1999-3:235-241(800号記念特集号・いま,科学の何が問われているのか)→改稿して『弱くある自由へ』第5章
2000 「選好・生産・国境――分配の制約について」,『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149
2000 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→『弱くある自由へ』第7章
2000 『弱くある自由へ』,青土社
2001 「自由の平等」,(1)『思想』922(2001-3):54-82,2001-3, (2)924(2001-5):108-13,4,(3)927(2001-8):98-125, (4)…
2001 「国家と国境について」,(1)『環』5:153-164, (2)6:283-291, (3)7(近刊)
2001 「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知・5),東京大学出版会 :
2001  「なおすことについて」,野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 :171-196
2001 「所有と流通の様式の変更」,『科学』2001-8?(創刊70周年記念連続特集:あなたが考える科学とは)
2001?「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明・長瀬修編『障害学の主張』,明石書店(近刊?)


  *以上は配布資料です。当日の応答について、時間があったら掲載したいと思います。
 

〇当日の議論について(の一部)
 *立岩(の視点)による記述ですので、その点、御承知おきください。
・もう一人のコメンテイターは霜田求氏
・私のコメントに関わる議論はおもに上記の□2についてなされた。金森氏から「説得力がない」という反論があったが、私は、池田・金森の前提としての「自由」に乗った上で言えることを述べたのであって、それがどれだけの数の人に受けいれられるかは別だとした。
 少なくとも、ここで言われる「自由」が、自分のことについての自分でないことは確認すべきである(誰が何をしてもよいという意味での「自由」と、リベラリズムなりリバタリアニズムにおける「自由」とは異なる。)
 その上で、このような議論・確認から、池田・金森両人の主張が、実は「親は子どものことを(なんでも)決めてよいのだ」という主張であることが、この本を読む人はそのようには受け止めないだろうが、はっきりしたとした。
 その上で、なぜ親は子のことを決めてよいのか、私は「決めてよくない」と考える。むしろ「決めてよい」と主張する人がその根拠を示すべきであるとした。
 そしてこの時、個人個人(一人一人の親)が決定した方が、決定が「多様」であるがゆえによいという主張(池田の議論にそういう部分がある)については、第一に事実そのような結果がもたらされるかどうか、第二、こちらの方が大切だが、まず結果としてもたらされる(かもしれない)多様性を根拠にすべきかどうか(私は根拠にすべきでないと考えるcf.『私的所有論』の最後の注)が問題になるとした。
 また親が負担するから子のことを決めるしかないという立場もとるべきではないとした(この点についても『私的所有論』第9章)

 他に清水哲郎氏から、本人がそもそもいない場面に、本人による決定という原則をもってきて、他人は決める権利がないという論にはやはり無理があるという指摘があった。
 私はそれに対して、上記の議論は、まず相手と同じ土俵に乗って言えることを述べたのであって、私は、他者のことを決めざるをえない場面があることを認め、その上でなお、どこまでを決めることできるか(決めるべきではないか)を考えるべきだと考えているのだと答えた。

 * 私はこうしたことを考えてきたし、だからものを書いています。私の論の詳細については、書いたものを読んでいただければおわかりいただけるかと思います。



池田清彦  ◇金森修  ◇立岩 真也
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