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存在する対立と困難とを消さないで考える

立岩 真也×堀 成美
『看護学雑誌』65-09(2001-09)(08.15発売)「招待席」


 *関連して下記の文章を読んでいただければと思います。
 立岩 真也 2005/**/** 「学校で話したこと――1995〜2002」,川本隆史編『ケアの社会倫理学』,有斐閣

―――外側から見ておかしいことに、内側の人間は気づかないことがあります。今日は社会学者の立岩さんの視点から見たケアの話をお聴きしたいと思います。

立岩 僕は看護婦養成の学校で教えてはいますが、看護のことを聞かれてもほとんどわかりません。ただ、社会学をやっていますし、また福祉サービスを受ける利用者、消費者から話を聞くということもやってきました。いる場所が違うと見えてくるものが違うことがあり、そういった視点でお話ができるかもしれません。
  たとえば、消費者の中から生まれてきた介護論は、社会福祉学の中の介護論と肌触りが違います。「こういうケアをするのがいいんですよ」というスタイルと、「僕は生きていてそのためには介護がいる、だから僕が思うように介護者が動いてくれればいい」、というスタイルとは、大きく違うのです。
  消費者運動は一つに、被介護者の道具としての介護を求めます。これは介護を職とする人のプライドに障ります。「私は道具なの?」と、やっている側にしてみれば、何かしらの不満を抱きます。でも、消費者主権という考え方を進んでいけばそうなる。
  それに対して、本人の意志が積極的には存在しないことがあるから、代理しなければならないと言う。それはわかります。ただ、それが供給側のアイデンティティになってしまい、そこに専門職の仕事としてのおもしろみを感じてしまうということがある。だから、「自己決定できない人もいるじゃないか」という話も嬉々として語られ、受け取られてしまう。それを察知するから消費者側が消費者主権をあくまで主張せざるをえないということの意味を考えることです。消費者主権を建前として言いつつ、あちらの人とこちらの人の思っていることの違いがはっきりさせられないのはよくないと思います。

両者の言い分の差を受け入れる

  自己決定が理念として語られるようになり、誰もそれは否定できません。僕も否定しません。しかし、患者の言われたとおりに組織が動いているかというと絶対に動いてはいない。ある意味で動くべきではないのかもしれない。ともかく、自己決定の理念と、現場の現実では差があるわけです。その差が何かが、どこまで言語化されていて意識化されているかが問題です。それが明らかでないことがまずいんだと思う。
  僕は看護職がすべて患者の言ったとおりにすることができるとも思っていないし、そうすべきだとも思わない。言葉を代えれば、パターナリズムの存在する余地はあると思っています。ただ、それをただ言うことはこの場ではとても危険なことでもあります。患者のためにという言い方の中で、供給側にとって都合のよいことがさまざまに行われてしまいます。だから実際にどんな力学が作用しているのかを明らかにし、同時にどうしようと考えていくしかないと思います。そのためにも、「患者に言われたとおりにやれないということは何なのか?」「言われたことと別のことをしなくてはいけないと感じる、それはいったい何なのだ」と、考えることがとても大切だと思います。もちろん簡単な答は「患者のため」です。しかし一つに、そんなことを言う中で実際に何が行われているのか、一つに、その「ため」をどういう立場で、どういう根拠で言えるかです。
  現場は現場的に動きます。それは当然のことです。しかし、そこで起こっていること、働いている力学を、一方では、無理やりにでも言語化しなくてはならない。そして、そういう理念と現実の差の中で、その差がなあなあにされていくことによって、曖昧にされたままでいることによって、いちばん被害を被っているのが利用者だと思うのです。

実践の学の難しさ

―――自分の看護が、どこまで患者の言い分とあっているのか。自己点検はなかなか難しいと思います。

立岩 自分がやっていることは嘘かもしれないとか、あの先生が教えていることは嘘かもしれない、とか、病院というシステムはこうして動いているけど少し変かもとか、医師がこういう命令をするけれどもほんとうは従う必要がないかもしれない、と思うことが大切だと思います。
  だから、ポジティブにというよりは、「こうだ」と言われたときに「そうじゃない」と逃げる態度、引くスタンスみたいなものをどこまで保持できるかが大切な気がします。
  ただ、これはおっしゃるとおり簡単なことではありません。看護学は、やっている仕事と研究対象が同じであるという特殊性があります。たとえば、僕は社会学者ですが、社会を職業にはしていません。僕自身は社会を担ってもいないし、社会の代表者でもない。でも、看護学はそうではありません。看護をしている人、看護を代表する人が、看護を学門するのですから、社会学とは違ってくるわけです。
  社会学者というのは最低に無責任な連中です。何を言ってもかまわない。昨日、ある社会学者が言ったことを、次の日には別の社会学者が壊そうとする。どう違うことを言うかということを年中やっています。前に言った人の言葉を壊すことにためらいがない。だから、何も積み上がらず、たんに破壊的だったりする。僕は無責任な相対主義に賛成ではありません。けれども、疑うことの積極性は信じています。
  看護にもいろいろなアプローチがあり、その入れ代わりや対立があるのだと思いますが、しかし看護そのものを否定することはできません。否定したら自分のよって立つ場所がなくなりますからね。自らを正当とすることが前提でもあり、目標である、というところがあるのです。
  そうであらざるをえない事情はわかります。ただ、自己決定とパターナリズムの問題でも、看護者の介入はどこまで許されるかということにしても、ラディカルに考えていけば自らの基盤をゆるがすような話になってしまう可能性がある。自己反省的かつ自己破壊的な問いを続けていると、やばくなってしまうから、普通は手前で引き返すわけです。
  でも、行けるところまで行った方がいい。どんなに自分をほじくったり、反省したり否定したりしても、看護というものがなくなるとはとうてい思えません。やっぱりこの仕事は必要な仕事だし、ちょっとやそっと何か言ったくらいでなくなるはずはないのです。だから、もっとも根本的なところでは信じながら、しかし、疑うことができるはずです。
  それが、子々孫々というか、先祖伝来というか、師匠から弟子に真理が伝えられるような具合になってしまっている。新しく輸入されたものにしても、伝えられ方は同じです。そんな仕組みの中で看護者になっていくことによって、いくらでも日常にあるいろいろな問題に文句を言えない、不平不満を言葉にしない、できない、不満を外側にもっていくことができないことの方がいまの問題だと思います。だから、百家争鳴というか、業界自体が無政府的な状況になって、看護学校の教員も自分の言っていることが信じられない、「ほんとは私がみなさんに教えていることは嘘かもしれない」というくらいの感じで学生に対した方が、教育的にもいいんじゃないかと僕は思っています。そして討論、議論、懐疑の場があること、教員は支配者としてでなくそこにいることです。
  社会学みたいに職域と学が重なっていない場合は、そうした問い直しは容易です。無責任なんだから。でも看護学は違う。だから、真剣に考えるとしんどくなっちゃうのは、必然なんだと思います。より難しい、自覚的な仕事をしなくてはいけないんですから。ただあまりつらくなってしまって、やめてしまうのはつまらない。ときにはそういったプレッシャーのかからない外部の人と仕事をするのもいいかもしれません。

―――「看護学」の難しさの一因がわかる気がします。看護研究の発表をみると、自画自賛か自虐的かどちらかになる傾向があると思うのですが、これもそこに原因がありそうです。

立岩 あれはおもしろいですね。自己肯定と自虐がセットになっている。少しずるいやり方だと思います。完全に自己肯定するとただの自信過剰ですが、逆に、そんなに私はバカじゃないのよと自虐的になってしまうのも、「わかっちゃいるのよね」という自分や仲間に対する言葉にしかなっていないのなら、愚痴や陰口と同じになってしまう。
  もちろん、それなりにわかっている、考えているから、自虐や自己否定が出て来るのだから、悪いことではないと思いますが、それにどうけりをつけるのか、どこに持っていいくのかまでやらないと、「わかっちゃいるけど」っていう単なる言いわけになってしまう。
  たとえば、ぼくが利用者側の主張を福祉関係者、従事者、研究者に話すと、妙にわかってくれるんですね。なんか気持ち悪い。そんなに簡単にうなずいていいのかよ、と。もちろん、最低なのは聞く耳を持たない人たちですから、聞いてくれるだけ芽があるのかもしれません。

ほんとうに「考える」ことを大切にしたい

―――立岩さんも私も教育に携わっています。今日のお話は教育にどうつながるでしょうか。

立岩 かんたんにまとめるな、落ちをつけるなと言いたいと思うんです。小学校でも、遠足に行っては作文を書き、本を読んだら感想を書き、それは何だったのかというまとめ、感想を山ほど書かなくてはいけないみたいな状況がずっとある。
  それはまずいと思うんですよ。まとめられないことが薄々わかりながら、でも仕事だからまとめなくてはいけないから、まとめる。すると、その意義を信じられず、意味を感じなくなってくる。一つは、毎日毎日ただ生きていることについて、いちいちまとめなんてあるわけないですよね。これと同じことでもあるんですがもう一つ、なんだって考えるのには時間がかかるのに、「いつまでに」と言ってしまうのは、「考えなさい」というメッセージが嘘であることを伝えているにすぎないと思います。
  いまや文部科学大臣だって「考える力が大切だ」とか言います。もちろん看護の中でも言われているわけだけれども、それが持つ意味をてきとうにしてほしくないと思います。てきとうにすれば、それはすぐに価値を減じてしまう。「どうせこんなもんだ」と思ってしまう。読書感想文や報告書、レポートなどを書かせることが、考えるパワー、姿勢をスポイルしてしまうことがあると思います。小中学校だけではなく看護教育の中でもそれがあるのかもしれない。そのことは気になっています。

―――たしかに、看護記録や、学生のレポートを見ると、そういうことを感じることがありますね。

立岩 ただ、逆に世の中には、「これは簡単にまとまらない問題だ」とか、「難しい問題だ」とか言って、そこで考えるのをやめちゃうやつがたくさんいるのもたしかです。答えを出さなくてはいけない問題には、どんなに苦労をしても答えを出さなくてはいけない。考えて結論を出すことは大切だと思う。学者について言えば、税金いただいて学問やっている手前もありますし。そして簡単に答えが出るなら、短いレポートでいい。なんでもかんでも難しいから考えるのを放棄しろと言っているわけではないんです。結論が急がれている問題はあるし、出さなくてはいけない結論もあるし、すぐに現場で解答を見つけなくてはいけない問いもある。それと同時に、少なくともショートカットしてはいけない問いをショートカットしてしまうのは、だめだと思うんです。

―――「看護学」の難しさ、考えることのたいせつさを教えていただいた気がします。ありがとうございました。


UP:20030708
立岩 真也
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