HOME > Tateiwa >

贈り物の憂鬱

(たていわしんや 社会学者)
『読売新聞』2001-12-15夕刊:17(土曜文化)
http://www.yomiuri.co.jp/


 *この文章は、新たに注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

立岩真也『希望について』表紙

 なぜか贈り物の季節である。もらえるものならなんでもうれしい。であるのだが、なにか贈り主の思いがこめられ気持ちがこもっていたりすると、まれにだけれども、気が重く、つらいこともないではない。
 そんなことが、やはりこの季節の行事になってしまった募金や寄付、そして恒例行事と別の切実さで求められている国境を越えた援助にもあると思う。
 突然災害に襲われた時、救援物資が届くとそれが心に沁み、人がやって来るとその心意気を感じ、自分も心を強くもつことができることがたしかにある。けれどもそんな場合ばかりではない。人々の善意に頼らないないと日常の生活そのものをやっていけないとなると、心細い。また、もらい物の背後にその人の(善意の)顔がいつも見えてしまうのも、なかなかうっとうしいところがある。
 とはいえ実際に必要なものが足りていないのは事実だ。政府に払うものをけちっているくせに、それは政府のやることだと居直られてばかりではどうにもならない。だから「温かい心」を求めるのも求められるのも当然のことではある。また必要とする側はとにかく必要なのだから、そこは割り切ってもいる。しかしごく基本的には、特別の「思い」がこもっていたりしない方がよいことがあり、そういう気持ちのあるなしと別に満たされないとならない必要というものがあるだろうということである。生きて暮らすこと、そのための例えば介護という必要。 小学校などで「教育の一環」としてみんなでよいことをしにいくのが流行である。よいことはわるいことでなく、たしかによいことではある。ただそこで「与えること」や「自発性」の危うさにどれだけ注意が向けさせられているのだろう。
 一人よがりの「善意」でなく「共感」ならよいのだろうか。しかし、容易に共感が及ばないところにも必要はあるだろう。あの豊かな国の人たちとの境遇の違いを思えば、そう簡単にあの人たちに共感されたくはないが、しかし必要なものをあの人たちはもっているからそれを求める、求めざるをえない、そういう人たちもまたいる。
 そういう場面でも、その基底ではなんらかの意志や共感が贈与という行動に人を向かわせるのだと言われれば、それを否定はしない。しかし、この季節、もらえるものはもらいながら、しかし本当はこんなはずではないと、かすかに、あるいははっきりと、思っている人がいくらもいるのは確かだ。そしてそうした鬱屈がいま世界大に存在し拡大しているのだと思う。

解説付?で「こちらちくま」に転載したものがあります。

■入試模試での使用

◆2009 Z会『大学受験コース論文』
「なぜか贈り物の季節である。[…]拡大しているのだと思う。」


UP:2001 REV:20171230
贈与/分配  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)