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パターナリズムについて

―覚え書き―

立岩 真也 2002/03/30 『法社会学』56


 この主題については、以下の本で一番長く(ていねいに?)書いています。よろしかったらどうぞ。

◆立岩真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,

良い死

『法社会学』56(日本法社会学会) ISBN10:4641027757 ISBN13:9784641027756 [amazon]

  パターナリズムを是認する余地がある、と言うと間違えて喜んでしまう人がいるから、慎重に言わないとひどいことになるのだが、これは正面から考えないとならない大切な主題だ。法哲学等ではある程度の議論の蓄積があり、私もこれまでいくつかのことを書いたが1)、それで十分なのではなく、もっとよく考える必要がある。しかしここでは、おおむねすでに述べたことをごく短く反復しつつ、少しばかりのことを書き足すだけのことしかできない。その後、調べたらよいと思うことをあげる。

I 同郷であること

  パターナリズムという言葉は、自律・自己決定と対置させられ、通常否定的な言葉であり、それは当然のことである。その人を先取りし、その人を侵害する様々なことが行われてきたからである。そして自分で決めること、自分に決めさせるよう主張することが空疎であるはずがない。不要なおせっかいと有害な干渉があったから、自分で決めること、選ぶことが執拗に言われてきた。
  しかし、人が社会の中に現われてくる時、その人にとってその世界・社会は所与である。このことからけっして逃れることはできない。そのとき前もって世界におり、社会をやっている他方の側は、それを作り、そして変えることができる、その意味で人々は世界を行為として、つまり別様にもなせる行いとして、与えている。その人々は、このもっとも広い意味では与えるしかない。これは社会が既に存在し、そこに現われる存在にとって、それが影響を与える環境であること、これを作り変えることができること、この条件だけで成立する。このことから逃れることはできない。
  次に、その上で、より狭い意味で与えないことはできる。つまり、他人にまったく無関心で、何も与えないこと、何もしないことも可能ではある。しかし、それをしない、するべきでないとしよう。ともかくそういうことになっているから、天に命じられているからというのではないとすると、一つに、生かしておいたら自分たちに役に立つからである。もう一つは、その人が生きていたらその人がよいだろうと思うからだ。これらの理由は排他的でなく、ときに並存していることがあるのだが、その最後の理由、つまりはその人が生きていた方がその人によいから、生きさせようとする、この時、その人のためにその人でない人が決定するという状態はすでに生じている。この水準で決める「しかない」と言うとき、なにも与えないことは可能なのだから、既に存在を認めるという契機は含まれている。その人に何かを行うのは、単にその人自身が決め行うことができず自らはそれを決めることができるという理由だけからではない。
  もちろん、この意味なら与えることは当然のことだとほとんどの人が言うだろう。それはわかる。ただまずこのことを確認し、その意味を考えたらよいということである。このことから、つまり何を与え教えるのかというところから考えていく必要がある。ごく広い意味にとれば、パターナリズムの問題とは何を与え何を教えるべきであるのか、何を与えてならず教えてならないのかという問題である。これについてどれほどのことを考えてきただろうか。
  まずは生存を保障しよう、そのための資源を与えよう、その存在を認めながら、その人にとってよいあり方についてはその人に考えてもらい決めてもらおうと言おうか。ただもちろん何について決めることができるかが問題である。それは自分のことではないかと言うのだが、それ自体が問題になる2)。それが問題にされながらも、決定が与えられる。自分で自分の人生を決めていくようにという人生のやり方もまた教えられ、与えられる。
  その人自身の決定、選択をなぜ認めるのか、優先せざるをえないか。それは、その人の存在を認めるから、その人の決定を認めることがその人を認めることの一部だからと言えるだろう。他者を自分でない存在として扱うべきだという規範に違背するから、その人のことを決めるべきではないのである。自己決定を承認するのは存在を認めることの中にあり、さらにそのことの内部に、そうしてその人本人が決めた方がその人にとってよいだろうという理由がある。まず、その人はその人にとってよいことを知っていることが多い。そして、本人以外の周囲の人たちに決めさせると、その人たちの都合に左右されてしまうことが多い。それから身を守るために自らを主張し、自らで決めることを覚えた方がよい3)。
  ただ、勝手にすること、自由にすること、そしてそうして決める中身そのものは当人にとってもさして重要ではないことがある。むしろすべてが自らの自由になったら、その世界はかえって耐えがたい。また、すべてを自らが決めること、決められることが人の価値であるという価値は、むしろその人を苦しくさせる。そして、自分が自分によいことをよく知っているというのは多くの場合に事実だが、そうと限らないこともあり、これがパターナリズムを許容する理由ともされる。それでも、「私があなたのことを決めるべきではないと決めること、私が好きなようにしてよい存在ではない存在としてあなたを認めること自体に意味がある…。「勝手にすれば」という状態にあなたを置くのと、あなたが決めることを支持することとは異なる。「決めたようにやってよい」とされること自体が大切なのだ。」4)繰り返すと、決定することを認めるとは、基底な場面では、存在を承認することの一部である。
  その人に何を委ねるのか、その問題は残るにしても多くの場合にはその人が決める場面と周囲が決めるしかない場面とは隣り合わせになっていて相互に干渉し合うことはない。本人が不在なら、また本人に意識のないときには、本人に聞きようがない。だから決めるとすれば外側の者が決めるしかない5)。だが、双方の意志が衝突する場面、狭い意味でのパターナリズムが現われる場面がある。

II 対立する場について

  例えば「積極的安楽死」の場合には本人の死にたいという意志があるとされる6)。判断・決定の不在の場面の代行に比して、この場面で意志に反することを言うのは難しい。本人がよいと言うのだからそれでよいはずだと言われて、どう答えるか。本人の言うことをそのまま受け入れなくてはならないのか、そうでないとすると、それはどんな場合か、どうしてか。
  これを支持する理由があることを言うことはできる。そしてその理由は、先に見たのと変わらない。なぜこうした行為がなされるのかと言えば、パターナリズムの定義中の言葉をそのまま借りてくれば、「本人のためにもっとよい選択がある」と私(たち)には思われるからである。つまり、ここでもその人の存在の肯定の方を向いてはいる、ことになっている。こうして自己決定を認めることとパターナリズムの行いは、同じところから発していることがある。だから、同じ人がどちらを採ろうと思って悩んでも、それは不思議なことではないし、その思い自体は矛盾しているのでもない7)。
  以上は、自己決定が肯定されるとすれば、パターナリズムの主張も、少なくともその「動機」については肯定されるべきであるということである。というよりむしろ、自己決定を支持しようとすることとそれに口をはさんでしまうこと、両方が同じ存在の尊重という場に根をもっていることがあるということである。本人の決定が不在のときになされる代行という行いが存在の承認のゆえに認められるなら、本人の決定に対立しようとするその行いもその方向は同じであり、その方に向かうこと自体は認められる。
  しかしそれは干渉しようとする側をその動機において肯定したということであり、その人の意志に反してもそれを通すべきであることが正当化されたのではない。両者が具体的に指示し支持することは対立する。ここに困難もある。ともかく本人はそうしようとしている。その人を尊重しようとするから口を出すと言うが、それではその人の意志を尊重したことにはならないのではないか。その人の存在を否定できないと思うから、生死に対する決定をも認める。同じところから相矛盾する二つが出てきている。周りにいてどうしたものかと思う者たちにとって、この問いは完全には解かれず、いずれにも納得しつくすことはないだろう。両者が同じものから発しているからである。ただ、同じ理由で、どこかでは調停可能なのではないかとも思える。どのように考えればよいのか。
  自律という原則を基本的に認めた上で言われることは、決定に際しての条件(の不備)である。それは決定そのものには手をつけずその人のもとに残しておかなくてはならないという要請にも発する。例えばインフォームド・コンセントで問題にされるのは情報である。情報にもとづいて決めるのだから、間違って伝えられたら、あるいは伝えられなかったら、たしかにそれはおかしい。パターナリズムの余地が主張される時にも、一つに無知が、そしてその人の弱さ、平常でない状態があげられる。今日死にたいと思っている人も、明日になり、また気を取り直せば、そう思わないかもしれない。もっと冷静で正常な状態で判断すれば、結局生き残った人だけが発言できるのだから当然と言えば当然だが、生きていたほうがよかったと言うだろう。
  こうして、パターナリズムは、無知であることあるいは弱いことについて肯定される余地があるとされる。それはその人自身にある価値自体を問題にすることはないという点で穏健なものではあり、賢明なことではあるかもしれない。だが、それでよいか、それだけでよいかである。事実に関する間違った情報を得ているのではないこともある。また人は常に平静を失った状態にいるのではない。それ以外の時には介入するべきだと思える場面がまったくないなら、それでよいかもしれない。しかしそうではなく、にもかかわらず介入を認めうる理由がこれだけだとされるなら、介入しようとする時にはその人は今は正常でないのだといつも言わなければならなくなってしまうことにもなる8)。そうではない方向で考えることはできないか。あるいは弱いことをどのような水準でとらえるかである。というのも、安楽死を選ぼうという人はとても立派であったりするからである9)。
  事実についての情報を間違って受け取っているなら、その間違いが正されるべきだろう。では事実についての情報ではなく、どうすべきかという規範的な選択についてはどうか。たんに事実についての誤認でなく、価値において、評価において間違っていると思え、そのことを言う、そんなこともあるのではないか。それはたしかに思想・信条に関わることであるから、あなたの信じるものはまちがっている、だから別様に考えろというのだから、もちろん、まったく危険なことである。これは過度の介入のように思われる。しかしこのように言わないと大切なところを通り過ぎてしまうように思う。
  どんな場合に対立するのか。もちろん、「その人にとってよい」と思うことが本人とその周囲の人と異なることがいくらもあるだろうから、それは多様だ。そしてどちらを選んでよかったのか、結局は一つしか選べないから、わからないところがある。ただそれにしても、その人がよい人生をやっていけるようにというものいいは、しばしば周囲に都合がよいようになされるのだし、そうでなくとも、その人たちの有する価値はその人たちのものであり、そこから評価がなされ、そして生きていく上での有利不利もこの社会におけるそれであり、その周囲の思いは真面目な真摯な思いだったりすることもあるにせよ、やはり結局は同化の勧めとなることが多くはある。ただそれにしても生きやすい道が示されている以上は、それをいちがいに否定できない等々、といった事情が付随し、それらをどう考えるかを考えることになる。ただ、ここで見ておきたいのは、そしてパターナリズムが考えることを避けることのできない主題として現われるのは、周囲にあるものと異なる特異な欲求ゆえにというのでなく、周囲・私たちが用意し教えたことゆえにその人が自ら決めようとする、そういう場面である。
  例えば、お前は何歳になった時には死ななくてはならないと教えてあり、あるいはお前は無価値な人間であるから死ななければならないと教えてあり、それに基づいてその人が決定しようとする時には、それは間違っている、と思い、言うことがあるだろう。もちろんこれに対しては、誰もがそう言われれば仕方がないと思う極端な例を出しているのだと言われよう。だがまず、少なくともそういう場合もあることが理解されればよい。
  自らが作ったもの、与えられたものでないものを自己決定とするという考え方がある。そしてそのものである限りにおいてそれは不可侵のものとされ、それに対する「侵害」が問題にされる。しかし、人はすでに社会の中で生きていて、その中で、まわりの影響を受けて判断し決定している。それを知って認めた上で、それでも決めることを認める。そのようにその人が決めることを認めることとそれがまったく社会の中にあることとは矛盾しない。自己決定は、他からの影響を受けていないことによって定義され、支持されるのではない。社会的な背景をもつ決定であるということ自体はその決定のよしあしとは別のことである。継承され、教えられてきたものを、だから否定しようということはないだろう。「殺すな」という教えもまた、それがどこでどれだけ実現したかは別として、教えられることだが、それを否定しようということにはならない。このことはもちろん受け継がれてきたから、それをすべて肯定しようということではない。与えられ、そしてその人のものとなったその中身が問題である。
  そして以上の確認は、その人が決めることを認めた上で、それと同時に、周囲にいる私たちがその人の決定に関わること、決定を認めつつ関わるべきことの積極的な根拠となるのである。私たちが作ってそして教えたものであるから、それが間違っているなら取り消す義務を私たちが有するということである。問題にされうるのは、その選択に関わって社会の側にある選択肢、選択に影響する社会的諸条件、社会にある価値の内容、中身である。それらは社会が選んだのであり、また選びなおすことのできるものである。それが間違っているなら、間違った側はすくなくともそのことを言い、その人がそう思っていることについてではなく、社会が教えたこと、与えたことについて釈明したり、取り消したりするべきである。
  とすると、あることが間違っていること、つまりは別のものの方が当たっていることを言わなくてはならないということである。それに対して、なにをよしとするかは人それぞれであり、それこそが自律の主張の中核をなすのだという反論があるだろう。しかし、基本的に、規範の内容について何も語らず指定しないこともまた一つの選択であるしかない。何も言わず放置するとは結局現在のものを選択していることでしかなく、何も言わずそのままにすべきだという主張は現状が常に追認されるべきだという主張をしているということでもある。その立場に立てないし、立つ人に対してはどうしてその立場をとるのかを問いうる。ではどのように言うか。それはつまりは規範のあり方の総体を問うこととそう違わないのだから、もちろん大きすぎる問いではある。ただいくつかのことを言うことはできる。
  存在を認め、認めることの中に決めないことがあるのだと言い、その中にその人の決定の尊重も位置づけたのだった。とするとその人の決定をそのまま受け入れられないとは、その人の決定自体がその生存・存在を認めない場合ということになるだろうか。ではそれはつまりは「生存」を立脚点にし、「生命の尊厳」を主張しているということになるだろうか。近いところもあるが同じではない。
  近いというのは、少なくともいったんは、基本的には、存在することを承認することがあって、その後のことがあるということだろう。これはIに述べた人に対するそのあり方のことである。つまり生きる死ぬはあなたのことだと言うとしても、あなたの生死はどちらでもよい、だからあなたが決めることだと言うのと、あなたが決めるのに委ねるしかないと言うのと、異なる。そのような水準での承認があるだろう。その上で認めるということもあるだろうということだ。
  その上で、例えば生命をもっとも長く持続させることにはならない選択肢をその人が選んだこともその人の存在のありようであり、だからそこではその存在は保持されており、周りの人たちがそれを受け入れることもまた、その人の存在を認めることではある。生存すること自体がつねに最上位に置かれることを意味するのではない。それは死を選ぶことを認めることでもありうる。
  けれどもこのことは、安楽死について何も言うことがないということではない。死を選ぶことを認める、認めざるをえないとした上でも、その思いの方に差し向けているのが私たちの社会の側にあるものであるなら、ただ認めればよいことにならない。そして私は、死を駆動しているものが私たちの社会にあることを言えるはずだと述べた。「対象を制御する身体が、あるいはそれを制御する精神が失われた時、その人は権利を失う、あるいは無価値となる」(立岩 2000b)社会において、死が選ばれる。次に、それが正しくないと言えるはずだ。存在と存在のための手段との関係は、言葉通りに、後者が前者のための手段であるはずなのだが、それが倒置されてしまう。存在のための手段がこの世にはあるのにその人は得られない所有権の付与のあり方と、手段が存在を凌駕してしまう価値の倒錯によって、存在が毀損される。存在のための手段を自らが持たないことによって、そして/あるいは持たないことへの絶望によって、自らの存在を否定してしまう。これらは不当なことである10)。そしてこのことが言えるのは、生死そのものに関わる深刻な場面だけではない。制御し譲渡し難く、ためらわれるものがあるのだが、しかし、それをなさねばならないとされるから、あるいはそうでないと暮らしていけないから、行わねばならないことがある。これらにおいてもやはり同じことが起こっている11)。
  それをもたらしたのはその人でなく私たちであり、次にそれは、自律という価値を支持する根拠でもある存在の尊重という基本的な価値規範に違背するから、要するに、私たちが間違っているから、その間違いの取り消しのために、その人の決定に対して、パターナリズムの行いとたしかに言いうる行いが行われる。

III 困難ではあること

  しかし困難はなくならない。むしろここに生じている12)。
  基本的な困難は、現実の堅固さである。自らが生きていくための手段がないから、譲渡しがたいことを譲渡し、決定しがたいことを決定することになる。だから、一つに、生活に関わる諸条件、まったく物質的な諸条件がなくてはならない。それがあったとき、手段のために存在を譲渡せざるをえないことをせずにすむ。もう一つ、存在とそのために必要なものとの間の関係についての価値である。その転倒がただされなくてはならない。これら二つが前提となる。けれども、存在を否定する力は常に現実にある。負担させないこと、貢献することが要件とされ、また価値をもち、そのことによって貢献できず負担を要することになったその人が自らの存在を否定することがある。このように社会は組まれている。それに対抗するものとして自由や自律が対置されるが、物質的諸条件と価値がこのように配置されている時、それは大きな力を持つことができない。
  もう一つ、社会がそのようである間、時間が経ち、経験がその人に堆積することである。それはその人の一部になっているだろう。そのような中で、もうその人が決めてしまったと言う時に、それに反対するものとして狭義のパターナリズムは生起する。これは決定に対する言説であるのだから、その意味で事後的な介入であるしかない。常に既に遅い。その人が既に過ごしてきた時間があり、その人がそこで受け取ってきたものはその人の一部になっていて、だからあなたに与えたものは私たちのものであるからと言ってその与えたものを否定することは、そうして生きてきた人を否定することになることがある。
  このような困難がある。ただ、少なくともここにあるものに従うことはないと言うことはできる。必要な資源が分配されること、そうして暮らすことが否定されないこと、少なくともその水準で存在の承認が得られていること、そうした状態に変えようとすることはできる。その時、その人を責めているのでなく、その決定を廃そうとしているのではない。だからまずそれは命令の言葉として発することはできない。それが命令としてあらざるをえないのは、結局、こちら側の不手際による。

IV 現在を知ること

  パターナリズムは存在し、存続している。それはそれなりの背景があってなされている。そこに肯首せざるをえない部分もあるとした。しかし、公表されるものと実際にあるものとは異なる。それをどう評定するかを考えるためにも、論理として捉えようとすることと同時に、そこに実際に何が働いているのかを知る必要がある。決定の代行、パターナリズムと呼ばれる行いが実際どのようなところから発し、どのような力が働いているのか、どのように行われているか、そこに何が起こっているのか、これを調べることである。
  一つは「理論」についての検討である。例えば社会福祉と呼ばれる領域で厄介なのは、そして興味深いのは、自己決定・自律がソーシャルワークの基本的な方針として語られるといったことである。しかし明らかにそれだけでその世界は動いているのではない。ここには矛盾があるように思える。この矛盾がどのように語られ、あるいは隠されてきたのかを知り、考えることが重要である。例えば「主訴」と「ニーズ」とは異なると言う。言いたいことはわからないではない。本人が言ったことを常にそのまま受け取るべきだと常に言うべきだと私も考えない。だが少なくとも矛盾の可能性には気がついていた方がよいし、一度それが冷静に分析されたらよい13)。
  そして問題は単に理論、言説の水準にだけあるのではない。言説の分析は必要だが、同時にそれより広い範囲を見ること、あるいは表向き語られることと実際に行われていることとの間の距離を測り、考えることである。自律・自己決定が教科書には書かれ、抽象的に利用者主権が肯定されるのだが、あとは「現場」にまかされ、その「匙加減」に委ねられている。押えたり、抑えたりして、微妙に臨機応変に、加減される。建前と本音が異なること自体が問題なのではない。その異なりの間で、片方に都合のよいことが行われ、もう片方が被害を被っていることが問題である。それをいやでも反省しないと、自己決定を言いつつ、実際には別のことが行われ、そのことに気がついていなかったり、気づいていてなお行われたり、その結果、匙加減される人たちが困ることがあるのだ。そこで起こっていることをまずは分析することである。これは先に述べた基本的な立場とも関係する。つまり、無反省なパターナリズムからも、ただの自己決定主義からもこのような営みの必要性は出てこない。パターナリズムはどこかでは呼び出されてしまうものなのだが、しかしそれは十分に危険なものであるという理解から現われる。
  そしてそこに本人はどのようにいるのか。本人に聞けない時には代理するしかないとひとまず言うことはできる。代理決定がなされるのは決定能力が欠けているからだとされる。しかし、本人がすべて決める場合と、まわりがすべてを代理する場合と、すっきり分かれることの方がむしろ少ない。その境界自体が大きな問題であり、争点である。自律・自己決定を掲げ、専門家の生活への介入を拒もうとする主張があると、すかさず、必ず、しかしそれは重度の知的障害等のある人にはあてはまらないだろう、と言い返される。だがそう簡単に表現や決定の能力がないと言うな、簡単に代理人が出て来てくれるなというのがそもそもの主張であり、それはまったくまっとうな主張である14)。と同時に、その人たちもなにもかも自分で、とは言っていない。手助けは必要だと言う。ならば手助けをします、で一件落着、とはならない。
  その人の何を受け取るか。人が言葉を使うなら、まずはそれを受け止めるだろう。だがその言葉は、それを文字にした限りのものとしてだけ受け取られることは多くないし、またそうすべきでないかもしれない。また言葉以外のもの、身振りなど身体に現われるものから受け取ることもある。これらがどのように受け取られているのかを知り、どのように受け取るべきを考える必要がある。明らかにそれは何かを表していてそれは大切なものだである。とともに、そういう部分については人により受け取り方が異なる部分はあり、それをどこまで大きく見てよいのか。次に、援助するということ。決定の援助となれば、単に手足の代わりをする――これにしてもいくらでも考えないとならないことがあるのだが――というだけでない部分がある。それがどのようになされているのかを調べ考えるという主題がある15)。
  法、法学、法理論についてもこれらのすべてが問われる。まず、どれほどが理論の中で問われているか。もちろん、「最善の利益」や「公共の福祉」といった言葉は、終着にある言葉ではなく、それ自体が吟味されるべき対象である。次にそうした標語を使って公称されることと、行われていることとの関係である。そして何が聞かれ、何が無視されるかであり、何が「援助」として行われるかである16)。
  そして、パターナリズムの行いとしてなすことのできるその中心的な部分は禁止の命令ではないこと、同時に、その逆の放擲としての許容でないことを述べた。ところで法はまずは無骨なものであり、命令あるいは許容を規定するだけのことしかしない部分がある。それは多くの場合すこしもわるいことではないのだが、ここではそれと異なるもの、伝えることや願うことが求められる(立岩 1999b)として、そのとき法は無力だろうか。そんなことはない。願うことが可能であるための条件を設定することや社会の態度を表明すること、悠長なことを言っていられない時の介入、強制力の行使、等。ただ、その位置、そのあり方を考える作業は少し複雑なものにならざるをえず、その作業を行わないなら、法は無効であるか、そして/あるいは、危険なものとなってしまうだろう。



1) パターナリズムの法理論への含意を検討した論文として(瀬戸山 1997)。私は(立岩 1997:97頁)にいくつかの文献をあげて論点を示した。(立岩 1998b)でいくらかを考え(→注7)、(立岩 2000b)で安楽死に即して考えた(→注6)。これらが本稿全体の論旨に近いことをもう少し詳しく述べている。他に(立岩 2000a→2000c:302-309頁)等でも言及、ホームページ「生命・人間・社会」http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htmの「50音順索引」から「パターナリズム」と辿ると、約50点の文献リスト他がある。
2) このことについては(立岩 1997:116頁以下)で考えた。
3) 自己決定(を教えること)の有効性(とその位置)について(立岩 1999a)等で述べた。
4) (立岩 1999b:34頁)。続きは以下。「あなたが私に自由を与えること、あなたが私にまかせること、そして私がそのことを受け止めることによって、私は自らを肯定する。私が存在することの偶然はいつまでたってもなくなりはしないのだが、しかしそんな存在である私は、それでもあなたから何かを私に委ねられる。このことは、私が在ることにとって創設的なこと、私が在ることそのものに関わることである。その人の決定が剥奪されるとは、その人がその周りの人にとっての他者であることが認められていないということである。だから剥奪されてはならない。」(立岩 1999b:34頁)決定すること、決定できることが大切ではあるが至上のことではないこと、至上のことではないが大切なことではあることについては、他に(立岩 1999a)(立岩 2000d)等。
5) 本稿では代理決定の問題に立ち入れないが、議論は尽くされていない。むしろ、例えば「出生前診断」についての議論の多くには初歩的な誤りが見出される(立岩 1997:390-397頁)(立岩 1998c→2000c:31-33頁)。本人でない人の決定について、その時に持ち出される「最善の利益」についての検証・考察として(千葉 2000)(千葉 2001)。
6) 安楽死について(立岩 1998a)(立岩 1998d)(立岩 2000b)。(小松 1996)は死は基本的に自分のものではないという立場をとるのだが、私は、最終的にはその人が決めることだとした上で、しかし安楽死を肯定できないとする立場の可能性を述べた(立岩 2000b)。また(立岩 2001b)で関連書籍を紹介。
7) (立岩 1999b)で、自己決定を認めることと、パターナリズムを主張することがときに根を同じくすること、故郷を同じくすることがあることを述べた。
8) (ヘンディン 2000)を紹介した文章で「自殺を企図し、自殺幇助を求める状態は精神的な「抑うつ」の状態にあるという診断になる。そう簡単でもないだろうと私は思う。死を望む状態を必ずしも病理的な状態であると考えずになお何を言いうるか」(立岩 2001b(1):303頁)と記した。
9) 私はむしろ強くあることによって死へと向かうのだと述べた(立岩 1998a)。(奥田 1996)(奥田 2000)は「強い個人」と「弱い個人」を対比させつつ死における自己決定について考察する。ただ、奥田にしても、心神の耗弱といった場合よりも深く事態を捉えているのだから、違いの過半は言葉の使い方の違いである。
10) しかし不当でないとする人たちがいるから反論しなくてはならない。(立岩 1997)での考察の後、(立岩 2001a)で主張を補強した。なお、これよりやっかいかもしれないのは、その人の存在よりも大切なものが非手段的な水準にあるという教説をどう考えるかである。これは「犠牲」についてどのように教えるかという問題でもあり、価値のある死(を志向すること)を教えることをどう考えるかという問題である。
11) (立岩 1995)で売買春について、(立岩 1997:153-165頁)で生殖技術の利用について検討した。
12) 以下は(立岩 1998c→2000c:41-43頁)(立岩 1999b:38-40頁)で述べたことでもある。
13) (三島 1999)が、社会福祉(学)が自らに破壊的な契機――反専門職主義、フーコー(的なもの)、等――を否定できないとき、その内部に生じた複雑な運動を辿っている。
14) このことをめぐる運動内部の議論については(立岩 1998b)に記した。
15) 知的障害者の自己決定を支援しようとするときに生ずる事々について(寺本 2000)。
16) 注1に記した瀬戸山の、注5に記した千葉の、注9に記した奥田の論文、そして告知の義務についての(小西2000-2002)等、重要な試みが既に始まっている。

文献(*は注1に記したホームページから全文を読める)

千葉 華月(2000)「「最善の利益」基準を考える――イギリスにおける成年の精神無能力者に対する医療上の処置と同意」生命倫理10号167-175頁
―――――(2001)「意思決定能力がない患者の輸血拒否と最善の利益――イギリスの判例の検討」横浜国際社会科学研究7巻
ヘンディン,ハーバート(2000)『操られる死――<安楽死>がもたらすもの』(大沼安史・小笠原信之訳)時事通信社
小松 美彦(1996)『死は共鳴する』勁草書房
小西 知世(2000-2002)「癌患者本人への医師の病名告知義務・1〜4」明治大学大学院法学研究論集13号69-86頁,14号111-126頁,15号,16号
三島 亜紀子(1999)「社会福祉の学問と専門職」大阪市立大学大学院修士論文*
奥田 純一郎(1996)「死における自己決定――自由論の再検討のために」本郷法政紀要5号109-143頁
―――――(2000)「死における自己決定――自由論の再検討のために」国家学会雑誌113巻9・10号
瀬戸山 晃一(1997)「現代法におけるパターナリズムの概念――その現代的変遷と法理論的含意」阪大法学47巻2号233-261頁
立岩 真也(1995)「何が性の商品化に抵抗するのか」江原由美子編『性の商品化』勁草書房:203-231頁
―――――(1997)『私的所有論』勁草書房
―――――(1998a)「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」仏教42号85-93頁→(立岩 2000c:51-63頁)
―――――(1998b)「一九七〇年」現代思想26巻2号216-233頁→(立岩 2000c:87-118頁)
―――――(1998c)「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」現代思想26巻7号57-75頁→(立岩 2000c:13-49頁)
―――――(1998d)「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」ヒポクラテス2巻5号26-31頁→(立岩 2000c:65-86)
―――――(1999a)「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの」石川准・長瀬修編『障害学への招待――社会、文化、ディスアビリティ』明石書店:21-44頁
―――――(1999b)「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」後藤弘子編『少年非行と子どもたち』明石書店:21-44頁
―――――(2000a)「遠離・遭遇――介助について・1〜4」現代思想28巻4号155-179頁,28巻5号28-38頁,28巻6号231-243頁,28巻7号252-277頁→(立岩 2000c:219-353頁)
―――――(2000b)「死の決定について」大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』ナカニシヤ出版:149-171頁
―――――(2000c)『弱くある自由へ』青土社
―――――(2000d)「手助けを得て、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』エンパワメント研究所(発売:筒井書房):153-182頁
―――――(2001a)「自由の平等・1〜4」思想922号54-82頁,924号:108-134頁,927号98-125頁,930号
―――――(2001b)「死の決定について・1〜4――医療と社会ブックガイド・4〜7」看護教育42巻4号302-303頁,42巻5号378-379頁,42巻6号454-455頁,42巻7号548-549頁*
寺本 晃久(2000)「自己決定と支援の境界」Sociology Today10号28-41頁*

パターナリズム、自己決定、自立、代理決定、安楽死

Some Notes on Paternalism

Principle of autonomy and paternalism have common roots. After this confirmation, we examine when we should intervene in intention of the person him/herself.

■言及

◆2014/11/20 https://twitter.com/hijijikiki/status/535639351770636289
 「ひじじきき ?@hijijikiki その人自身の決定、選択をなぜ認めるのか、優先せざるをえないか。それは、その人の存在を認めるから、その人の決定を認めることがその人を認めることの一部だからと言えるだろう』 立岩真也「パターナリズムについて ―覚え書き―」 http://www.arsvi.com/ts/2001050.htm 」

◆2014/11/20 https://twitter.com/hijijikiki/status/535644601097277442
 「ひじじきき ?@hijijikiki 『建前と本音が異なること自体が問題なのではない。その異なりの間で、片方に都合のよいことが行われ、もう片方が被害を被っていることが問題である』(続く) 立岩真也「パターナリズムについて ―覚え書き―」 http://www.arsvi.com/ts/2001050.htm 」

◆2014/11/20 https://twitter.com/hijijikiki/status/535644601097277442
 「ひじじきき ?@hijijikiki 『建前と本音が異なること自体が問題なのではない。その異なりの間で、片方に都合のよいことが行われ、もう片方が被害を被っていることが問題である』(続く) 立岩真也「パターナリズムについて ―覚え書き―」 http://www.arsvi.com/ts/2001050.htm 」

◆2014/11/19 https://twitter.com/shiinama/status/535065809949704192

 「しーなま?@shiinama 立岩真也「パターナリズムについて ―覚え書き―」 http://www.arsvi.com/ts/2001050.htm」

◆2013/11/16 https://twitter.com/MymKeiko/status/401511183934451714

 「みや@人生は阿弥陀籤?@MymKeiko 『パターナリズムについて―覚え書き―』立岩 真也http://www.arsvi.com/ts/2001050.htm  ”存在を認め、認めることの中に決めないことがあるのだ…とするとその人の決定をそのまま受け入れられないとは、その人の決定自体がその生存・存在を認めない場合ということになるだろうか“」


UP:2002 REV:20131116, 20141120, 1211
パターナリズム (paternalism)  ◇自己決定  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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