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なにを悩んでいるのか

立岩真也
『看護教育』2001年11月号



■1 はじめに

  もちろん様々な領域があり主題がある。様々に新しいことが起こり気ぜわしい。だがこの文章はごく基本的なことを確認することにあてよう。生命倫理と呼ばれるものは要するになにをしているのか、するべきなのか。そのかなり大きな部分と私が考えるところを説明し、そしてなにを私が書いてきたかというよりどこに書いたかを記す――つまり宣伝になってしまうわけだが、乞御容赦。そして本誌連載の「医療と社会・ブックガイド」の位置にもふれる。クローン、らい予防法、万能細胞、等々、様々なことの概略、歴史、現在についてはある程度の情報をホームページに掲載しているのでそちらをご覧いただきたい(http://www.arsvi.comの「50音順索引」から「自己決定」「生命倫理」「パターナリズム」「患者の権利」「クローニング」等々)。
  どうしたらよいかわからないことがあるから、「倫理学」というものが何を言っているか気になる。医療者であれば、臨床の場面で自らがどのように対したらよいかわからず、そこでその基準になるものがいると思う。だから考えることになる。あるいはなにか考えているらしい人が言っていることを知ろうとする。
  これは大切なことではある。けれどもその手前に一つある。

■2 それはあなた方ではないと言った

  なぜ私がやらなくてはならないのか、あるいは、なぜそんなことに私が悩み考えないとならなのか。「どのように」という問いともに、またこの問いと関連して、「だれが」という問いがある。
  この問いに対して、いやそんなことはあなたが考えることではない、その人が考えることだ、と答えた人たちがいた。というより「だれが」という問い自体がなかったところにこの問いを立てたということ、これがとても大きな意味をもった。連載のブックガイドの第1回(1月号)でも紹介したように、本人でない人が決めることが当然だった状態、人体実験もそのように行われていた状態に対する批判、異議申し立てとして米国のバイオエシックスの運動は始まったところがある――日本の研究者でこのことを強調してきたのが木村利人である。そして自分で決められることを実現していくために様々な活動がなされきたし制度も作られてきた。それに関する本を第2回で少し招待した。
  このように見てくればまずそれは消費者側のものであり、提供者、専門職者への挑戦である部分がある。これは今でも大きな意味がある。「援助職」の人が一人頭を悩ましたり、あるいはその人たちがよってたかって頭を突き合せて相談しているところに割って入って、「これは私のことだ、ほっといてくれ」と言ったのである。だからそれはとくに熱心で献身的な人にとっては不愉快なものである。しかしこの毒の部分を抜かれてしまうと、生命倫理もあまりおもしろくない。それはそう行儀のよいものではなく、どこかで従来の仕事に挑戦し、それをばかにしてかかってくる。冷や水を浴びせること、浴びせられることの積極性がたしかにある。

■3 しかし、本人に聞けないときがある

  ただ、冷や水を浴びせられるとしても無視されるにしても、それですめばとても簡単で、そのとおりにやっていけばよいのだが、やっかいなことにそれで終わらないし、終われない。つまり、本人のことだからと言い、それは間違っていないとしても、それではすまないことがあるということだ。大きく2つ、その間にあるものを入れると3つある。
  第一に、本人に聞けというのだが、それができない場合がある。つまり、まだ存在しないのなら、生まれていなければ、意識がなければ、本人に聞けない。この時にどうするか。出生前診断をするか、してどうするかというのもこの問題に関わるし、遺伝子治療の一部――実際に行われているのは生まれた後の体細胞の遺伝子治療だが、問題は生殖細胞に対するものだろう――も関係する。いったん生まれた後ではいわゆる植物状態や脳死状態のときになにをするか、しないかにも関係してくる。
  本人がいないなら本人に聞けない。これはだれでもわかっていることのはずなのだが、じつは意外にそうでもない。今年出た本に池田清彦+金森修『遺伝子改造社会あなたはどうする』(洋泉社・新書版)という生物学者と科学史家の対談の本があり、とてもおもしろい人たちであるこの2人とそして私も参加している「臨床哲学の可能性」という研究会で書評をした(この時に配布した資料はホームページに掲載)。人間の改造・改良――両人はそれを好まないのだが――に至っても、技術の進展とその利用を止めるものがないというのがこの対談で一つ言われていることである。たしかに人間、やれることはやってしまうというところはあるように思える。ただそのことと、それを止める「論理」がないということは別のことだ。自由主義=リベラリズムの路線では止めるものがないと言われるのだが、しかし、リベラリズムを自律の主張ととるなら、それは自分のことは自分で決めてよいという主張であって、そこから自分ではない他人(子ども)のことを決めてよいことにはならない、むしろ決めてはならないということになるはずだが、このことが看過されているではないか。とすると、この本にはそんなことは書かれていないのだが、親は子のことを決めることができるというのが隠された前提だということになる。
  しかし、親の権利はなぜどこまで認められるかという問いは、それとして考えるべきである。私は、医療者に決める権利はないと考えるが、では親にはあるかというとそれも制約されるはずだと述べた(拙著『私的所有論』,勁草書房,1997,pp.172-144,390-394等)。ここで、「誰が」という問題から最初に戻ってきて、人は、また社会は、他人のことの「なにをどこまで」決めることができるかという問いが再度現われる。出生前診断についてはその『私的所有論』第9章に考えたことを書き、それから考えを進められたわけではないが、齋藤有紀子編『母体保護法とわたしたち』(明石書店,近刊)に「確かに言えること と 確かには言えないこと」を書いた。遺伝子診断・治療については、やはり拙著『弱くある自由へ』(青土社,2000)の第5章でごく概略的なことを述べ、そして第6章で遺伝子検査と保険の関わりについて論じた。

■4 そのまま受け入れられるか

  意識のない場合には本人に聞きようがない。だから決めるとすれば外側の者が決めるしかないのだが、例えば「(積極的)安楽死」の場合には本人の死にたいという意志があることが要件とされる。この場合にはまた考えることが違ってくる。本人の言うことをそのまま受け入れなくてはならないのか、そうでないとすると、それはどんな場合にどうしてかということである。
  本人がいいと言っているんだからいいでしょうと言われて、どう答えるか。これはもちろんパターナリズムをどう考えるのかという主題である。パターナリズムを是認する余地がある、などと言うと妙に喜んでしまう人がいるから、少なくとも言い方を慎重にしないとひどいことになるのだが、しかしこれは正面から考えないとならないことである。
  まず、米国の生命倫理の教科書等では自律/恩恵/公正/平等と訳される4原則があることになっていて、二番目のものがここで出動することにはなる。おおまかにはそういうことだろうと私も思う。だがその内実がなにかが問題だ。死なせるのは、よいこと、beneficence(善行・恩恵・慈善)だというものの言い方もある。とするとなにが「よい」かを考えることになる。これらの場合に、なにをなぜ行うのか、それをどう評価できるのか、私たちは直接に考えることをしなくてはならなくなる。まずは本人、とさきほど述べたことも最初から考え直さざるを得ない。『私的所有論』第3章、そして第4章4・5節がこのことを考えている。また、「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」という長い題の文章(後藤弘子編『少年非行と子どもたち』,明石書店,1999)でパターナリズムについて考えた。介助・介護について考えた「遠離・遭遇」(『弱くある自由へ』第7章)にも関連した記述がある。
  それで安楽死のことも気になってきた。本誌連載の第4回から第7回でも関連書籍を紹介した。また「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」という文章を書き、「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」という題のインタビューがあって、その2つを前掲の『弱くある自由へ』に収録した。また「死の決定について」という文章を大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版,2000)に書いた。小松美彦は、『死は共鳴する』(勁草書房,1996)で死は基本的に自分のものではないという立場をとるのだが、私は、最終的にはその人が決めることだとした上で、しかし安楽死を肯定できないことを言おうとした。

■5 間にある曖昧なもの

  そしていったん本人に聞ける時、聞けない時と2つに分けたのだが、実際にはその境界自体が大きな問題だ。両者はそう簡単に分けられるものではない。本人がすべて決める場合と、まわりがすべてを代理する場合と、すっきり分かれることの方がむしろ少ない。第三に、あるいは述べてきた問題自体の内部に、こうした問題がある。
  病気の隣?の障害の領域でも、医療の利用者・消費者の運動と同様の主張をする運動がある。「自立生活運動」と言ったりもするこの運動・主張については、『障害学への招待』(明石書店、1999)に載った「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの」や『弱くある自由へ』の第4章「一九七〇年――闘争×遡行の始点」,そして共著の『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店,増補改訂版1995)がある。それは自律・自己決定を掲げ、専門家の生活への介入を拒もうとする。そう言うと必ず、しかしそれは重度の知的障害等のある人にはあてはまらないでしょう、とすぐに言い返される。だがそう簡単に表現や決定の能力がないと言わないでくれ、簡単に代理人が出て来てくれるなというのがそもそもの主張であり、それはまったくまっとうな主張であると言わざるをえない。と同時に、その人たちもなにもかも自分で、とは言っていない。手助けは必要だと言う。ならわかった、ではいたしましょう、で一件落着となるか。だが、決定の援助となれば、単に手足の代わりになる――これだっていくらでも考えないとならないことがあるのだが――というだけでない部分がある。
  それは現場的にはたしかに「匙加減」なのかもしれない。本人の言うことをよく聞きながら、でも押える(抑える)ところは押えて(抑えて)、微妙に臨機応変に、という。とりわけ看護という仕事にはそんな部分が多いかもしれない。しかしそれをいやでも反省しないと、自己決定とかなんとか言っていて、実際には別のことが行われ、そのことに気がついていなかったり、気づいていてなお行われたり、その結果、微妙な匙加減で匙加減される人たちが困ることがあるのだと、『看護学雑誌』9月号のインタビュー(「存在する対立と困難とを消さないで考える」)でも話した。この意味で、生命倫理の問いは、「先端技術」をどう考えるかといった問いに限られるものではまったくなく、とても臨床的な問いなのである。「現場はそんなもんじゃない」という言葉は、もっともでもあるがしかし、誰がどういう場面で言うかによっては、恥ずかしい言葉だ。なんでも法律にして杓子定規に規制すべきだと言いたいのではない。現場はまったくの無原則で動いているのではなく、現場の論理、現場の力学がやはり存在する。それで様々なことが起こって、中にはそのままにしておけないことがある。とすれば、その論理と力学を見定め、それについて考えることはやはり必要なのである。

■6 だから知ること

  これらの問いをどのように解くか。それを上記した文章に記したのでここでは繰り返さない。そしてこれからも考えようと思うが、まだ考えていないことは書けない。ただ一つ、本人が自分の意志を通していこうとするためにも、またそれで足りないところをどうするかを考えていくためにも、どういう社会の中に私たちはいて、それでなにができてなにが困難で、そんな中でどんな価値や欲望をもつことになるのかを知り考えることが必要であることは確認しておこう。
  私たちは、真空の中で白紙の状態で選択するのではない。それは、病院なら病院、家族なら家族という空間の中で、広くは社会という空間の中でなされている。本人も、その中に暮らしてきて、そこで身につけたりつけなかったりするものがある。そしてそれを考えた上で、ではどうするかということになる。だから、生命倫理の問いは、社会の現在そして歴史について考えることとつながる。この社会がどういう社会なのかという問いと、ではどうするのがよいのかという問いは同じ問いではないが、前者は後者を考えようとして問われ、後者は前者を踏まえて考えられる。
  社会がどのように人を扱ってきたのか、病気や障害をどのように見てきたのかということを考えざるをえない。何をしているのか、何をしてきたのかが問題になる。だから歴史を辿ることも必要になってくる。そう昔のことについてでなくてよい。例えば医療やリハビリテーションの世界で「なおらないこと」がどう処理されてきたのか。もちろん誰でもなおらないことがあることを知っている。しかし、ある療法がもてはやされ、しかし効果がなく、いつのまにか廃れ、次のものが現われる、ということがいくらもあった。ある方法が効果があったことは報告され、効果がなかったことも時には測定され発表される。だが、代わりにその人がそこで何を失い、何を支払ったかはその計算に乗ることがない。いつのまにか忘れられていく。そんな中で、なおらず育ってきた人たちが今障害者をやっているのだが、その人たちが医療や専門家に不信をもち、消費者主権を主張してすこしも不思議でない。そんなことについて調べておいたらよいと、「なおすことについて」(野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』、有斐閣、2001)で呼びかけた。
  またたとえば「優生学」のこと。知らない人はまったく知らないし、少し知っている人はなにか昔のおどろおどろしい科学もどきのようなもの、そして野蛮な実践を思う。しかし例えば、いま「少子化対策」と呼ばれるものは、つまりは経済と人口との関わりに問題を捉え、その「危機」に社会的に介入しようと言うのだが、それはどれだけ優生学と離れたものだろうか。もちろん、近いからいけないということにはならない。その前に優生学がいけないのかどうかもよくわかっているわけではないのだ。しかしそんなことを考えるためにも、それがなんだったのか知らないとならない。だから連載でも優生学についての本をとりあげようと思った。その最初の第9回(10月号)では、文句なく野蛮でおどろおどろしい、今の現実とすぐにはつながらないように思われる、ナチス・ドイツ下での安楽死というより虐殺についての本をとりあげた。だが、その本の著者たちは、その所業への医療者たちの加担を問題にし、なおす人であるその人たちとなおらない人たちとの関係を論じてもいる。とするとやはりつながらなくはないかもしれない。

■7 この国のことを知ること

  こうして調べていくと、いや調べなくても、実は日本でも様々に重要な医療に対する批判や病や障害についての考察があった。ただ、どこにでもあったとしても、その中身がどこでも同じものだったら、その日本版をわざわざ確かめる必要は少ない。ところが同じではない。米国流のバイオエシックスがわりあい単純な発想で言われるのに対して、はやくから、いまごく簡単に列挙してきたやっかいな部分が意識されてきたように思う。
  とにかく前に前に技術を進めたい人たちがいるのだが、本人がよいと言えばよいという論理だけだと、それを受け入れる人がいればよいということになる。「代理母」による出産にしても、肯定されるのはこういう理屈によってである。この場合にそれは(歯止めをかけるべきだとして)歯止めをかけるものにはならず、むしろお墨付きを与えるものとして機能する。ずいぶん過激で危険なものとして受け取られたバイオエシックスが、「学問」として「確立」し、結局は医療・研究体制の中にうまく収まっているように見えるのもそういう事情もあってのことかもしれない。
  そこのところが日本の場合にはそうすっきりしなかった。単純に捉え切れないところを考えようとした。これは、この国で、生命倫理が体系化されたり、きちんとした位置を与えられなかった一つの要因でもあるだろう。(あくまで一つの、である。端的に、医学・医療界が聞く耳をもたなかった、もたずにすんだということもある。)米国のように、分厚い本、教科書が出されることは――医事法学の先駆者、唄孝一の著作のような例外もあるけれども――少なかった。また、さきに挙げた「自己決定する自立」でも障害者福祉の分野で同様のことがあったことを書いたのだが、自分のところで起こっていることは生々しくせっぱつまったことで、重たくてさわりたくない。自分たちが批判の矢表に立たされたり、自分の病院や学校の人、あるいは同業者団体が批判されるのだから、気が重い。それに比べると輸入は気楽なものだから輸入品を使うことにしたという事情もある。自分が言っても聞いてくれないからよその「権威」を使うことは必ずしも否定すべきことではない。ただ、大切なことが落とされたら困る。学問的な体裁をとらなかったというのは、たいしたことがなかったということではない。むしろ多く「一般市民」向けに書かれた著作――しかしそれは生命倫理の本義にはかなっているではないか――から受け取るべきものは多い。米国については生命倫理の歴史の本や翻訳書が出て、それ自体はよいことだが、この国については歴史を追ったものが少ないのはあまりよくないと思う。その代わりにはならないけれど、連載では第6回で清水昭美を、第7回で松田道雄をとりあげ、第8回では助産の歴史を追った大林道子の著書を紹介した。どなたかきちんと調べて考えてくれる人がいないか、それでさきにあげた「なおすことについて」という広告の文章も書いたのだ。

■8 気が軽くなることもある

  論理を詰めていくにせよ、歴史を辿るにせよ、たしかに生命倫理の問いは気の重いことが多い。ただ、そんなことばかりでもない。その主張はまず、医療を受ける側にとってみれば、医者の言うとおりにしなくてよいという主張だった。これは一つの解放である。これは同時に、逆の側で問題を自分に詰め込んできた医療者に対しては、そんなに抱え込まなくてもよいというメッセージでもある。
  そして私は、まだその先に問いがあることを述べてきたのだが、それもまた、ことを面倒にするだけでなく、荷を軽くする契機はあると思う。本人の決定だけですまないと述べたことにしても、当人にとっては、なんでも自分が決めなくてはならないのではないということでもある。また周囲にとっては、その人を突き放せない、突き放すべきではないという感覚にももっとな部分があるということでもある。
  そんなわけでこの文章の標題はいくつかの意味を含んでいる。「なにを悩んでいるのか」とはまず突き放すことであり、そこに突き放し、突き放される快がある。とともに、なぜ悩んでしまうのか、悩むことの必然性のようなものがわかるとき、すぐに使える答はでないとしても、少なくともすこし、悩むことが虚しく思われる悩みは少なくなる。現実感覚を麻痺させて楽になるという方法もあるし、あってよいのかもしれない。ただ、覚醒状態が獲得する楽さ、強さというものもたしかにある。だから、倫理について考えることはときに治療的でもあるのだ。


UP:20030708
立岩 真也
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