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できない・と・はたらけない

―障害者の労働と雇用の基本問題―

立岩 真也 2001/12/25
『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)
http://www.ipss.go.jp/


 立岩『希望について』*pp.171-191に再録されています。注が付加されています。お買い求めください。

*立岩 真也 2006/07/10『希望について』,青土社,309+23p. ISBN:4791762797 2310 [amazon][kinokuniya]

立岩真也『希望について』表紙

I 問いの場

 本稿でできないのは、一つに現在の状況の分析と具体的な指針についての検討であり★01、一つに、これまで何が問われ何が主張されてきたのかを辿ることである。とくに後者はこれまであまり記述され検討されたことがないが、重要な課題だと思う★02。
 ここでは考えなくてはならないと思う基本的なことのいくつかについて初歩的な確認をするだけのことを行なう。障害があることの意味の少なくとも一つ、大きな一つに、できないということがある★03。そして労働とは何かができてそしてそれをすることである。とすると障害者の労働・雇用とはどういうことなのか。労働の場での障害者の排除、格差の設定は――すべきでないこととしての――差別なのか。たしかに就職に困難があるのだが、それが不当であるかどうか自体が問題になる。
 障害者と雇用という問題を問うことは、労働市場をどう評価するか、その介入はどのような場合になぜ認められるのかを問うことに等しい。このことについて学の側も社会運動の方もはっきり言えていない部分があると思う。それは基本的な問題であるとともに、やっかいな問題ではある。しかしそれを考えないと、議論は建前に終わり、空疎なものになるだろう。だから考えることになる。
 労働の場は働くことが求められ、機能・能力が問題になる場である。そのことと相関的に、労働に関わる場における差別(と言われうるもの)の現われ方を、ひとまず、3つに分けることができる。その場で求められているものに差はない。差はあるかもしれない。差がある。この3つである。ひとまず、と述べたのは何をもって差があるとするか、この境界も含めて問題になる、あるいはその境界こそが問題になるからである。
 (1) 第一に、そこで求められている能力と関わらない差別がある。例えば雇用主が人種差別主義者で、自分の気にいらない人種の人を雇用しない、等。これに対して、競争が働く市場の中でそんな採用の仕方をしていたら、その企業、雇用主はかえって不利になるはずで、市場での競争によって淘汰されていくはずだとも考えられる。属性に関わる差別が近代社会において徐々に減少していくだろうという観測も、一つにはこのような了解から来ている。しかし現実は必ずしも予測通りにはならなかった★4)。この要因が有効に働くのは一定の条件下である。もちろん、機能の関係しない場では依然として排除、差別は行われるのだが、機能・能力が求められそれが差別を抑止する可能性のある場でも、差別することで競争に負け完全に淘汰されてしまうほどこの要因が強く働くことは少ない。まず雇用が行ななわれ人が働く場でも、消費者のことを気にかけたり財の質と価格を気にしたりする必要が少なく、それで事業が成立するような組織では能力以外のものを評価から排除する誘因は小さくなる。総じて、差別することによって得られる快が、差別しないことによってもたらされる利益を上回るなら差別は続くだろう。
 (2) 次に「統計的差別」と呼ばれるものがある。とくに常雇用の場合には、先物を買うという性格が強い。どれだけの価値があるのか確実にはわからない中で判断せざるをえない。完全情報の仮定は多くの場合に仮定にとどまり、むしろ不完全な情報によって選択せざるをえない。その場合に、その人が属する集団についての情報によって判断することがある。女性差別や学歴差別にはこの要素があるだろう。女性は出産・育児を巡る社会的条件・規範に関わり早く退職する可能性が高く、そしてその可能性を雇用時に個別に予測することができないとしよう。すると他の条件が同じなら、まとめて雇用しないあるいは雇用の条件を違えることが生じうる。そしてここには雇用条件の格差〜退職〜格差、という循環が引き起こされることにもなる。また学歴差別では、とくに新規採用の場合に他に仕事ができるかどうかを知る手がかりが少ないことが要因になる。その中である程度の正の相関がある要因なら、それが仕方なく採用されることになる★5)。
 身体障害ならできることできないことがある程度はっきりするがいつもそうではない。例えば精神障害のある部分については、様々な要因が絡み、仕事がうまく続けられる場合もあるが、そうではない可能性、確率が他よりも高いことがある。それを理由として雇用されないことがある。雇用に限られない。ある集団は犯罪を起こす確率が高い、あるいは高くないといった議論やそれに関わる実践にも関わる。それをどう考えるかという議論が十分になされてきたと思われない。
 これは悪意がなくても起こる、ときには偏見がなくても起こる。雇用する側にすれば合理的な行動であり、悪意はない。しかし悪意のあるなしは問題のあるなしに重ならない。確認しておくべきは、ここに生ずることが、本人に非がないにもかかわらず不利に扱われるのだから、やはり否定されるべきものとしての差別だということである。その確認の後に、確率を用いることをどこまで実際に禁じられるかという問題が続く。そして確率を用いずに直接に評価できるようにすればよいというのが一つの解決法である。また、ある集合について認められる差異が社会的に、そして妥当な方法で解消あるいは軽減できるなら、それも――例えば女性が仕事を継続できる条件を整えることも――一つの方法になり、この場合には本稿のVで述べることに連続する。これらの正当性と実現可能性を検討することが課題になる★6)。
 (3) これらと境界を接してその人の能力による選別、格差の設定がある。仕事ができない人は雇われない。少なくしかできない人は少なくしか受け取れない。ここではこのことについて考えるが、例えば(1)の側から考えていっても、その境界の設定自体が核心的な問題である。とくに直接に消費者に対する仕事で、客が太ったスチュワーデスや、年をとった店員を好まず、そんな客が多いと客が減るといった場合があるとしよう。その人は求められている能力を有していないから雇用されなくてよいあるいは馘首されてよいとすべきか。それは「本質的な能力」ではないからそんなところで評価してはならないと主張はできようが、能力とは消費者に求められているものであるとするなら、それこそが求められている能力だと反論されるかもしれない。こんなことも念頭に置きながら考えてみることにする。

II できること・と・とれること

 事故で足が動かなくなった会社員のAさんがいる。新規採用の場合でもかまわない。その人は事務の仕事をしていて、またはすることになっていて、車椅子を使えば仕事ができるが、そのための環境がその会社にはなく、それを整えるコストを考えると同じだけ仕事ができる他の人を雇用した方が得なので、その人を雇用・採用しない。これは不当か。他方、Bさんは頭がしかるべく働かない。ある仕事をするには一定の知的能力を必要とする。それでその仕事ができない。それで採用されない。またCさんは、そこで求められている仕事をすることができるが、しかし他の人の倍の時間がかかる。それで雇用されない。
 この3者の扱いについて、人によってはどれにも問題がないと言うかもしれない。人によっては、Bを雇用しないのは仕方がない、Cも遠慮してもらうしかないが、Aを解雇したりするのはよくないと思うかもしれない。とするとどこが違うのか。一つに思うのは、怪我したことについてその人に非はないではないかということである。事故なのに、足が折れただけでその人を解雇するのはひどい。しかしそれはBについても言える。頭がうまく動かなくて仕事ができない。このことについてもその人に非があるわけではない。その限りでは同じである★7)。どのように考えるべきなのだろうか。
 まず、できること、行なうことについて。少なくともその仕事が誰かの利用のためになされるものである限り、使えるものが生産されなくてはならない。使えないものは使おうとしても使えない。むろんそれが使えないと思うのもその人の欲求に相関的ではあるから、絶対的なものではない。また、その相手が望むものを生産できないことについてその人自身が責任を負う必要のないこともある。自らの意のままにならない部分として障害を捉えるなら、少なくともその部分についてはそう言いうる。ただ、以上をふまえた上で、その人ができないことがあり、その人に求められないことがあり、そのこと自体はよいもわるいもなく、ただ認めるしかない部分は残る。そして仕事をしてもらうとき、それが得られることが目的であり、それが是認されるなら、仕事ができる人の方にそれを行なってもらう。ここでBがその仕事につけないことは、その仕事ができないのだから、認められるしかない。
 しかしこのことは、できること・行なうこと・得ることの関係について、仕事ができ、それで仕事をし、そしてそれに応じてその生産物を取得する、あるいはその対価を得るというつながりを当然のこと、正しいこととすることではない。近代社会は業績原理・能力主義を積極的な原理としたのだが、そこにはまず2つの意味があって、その一つは人の配置原理としての業績原理、適材適所の原理とでも呼びうる原理であり、もう一つが取得・所有に関わる原理としての業績原理・能力主義である。この2つは、ときにいっしょにされてしまうのだが、分けて考えなければならない。後者を分けて取り出し、そしてこの部分についてその正当性を吟味することが大切であり、それを考えるか考えないか、どう考えるかによって答はまったく異なってくる。
 このことについて言われてきたことを検討し、考えてみると、自己の生産物の自己による取得の正しさを言うことができないことがわかる〔立岩 1997,pp.25ff.〕。それは権利ではない。もちろんそう考えない人もいるからこれは議論になるが、この結論は動かないと考える★8)。ゆえに、AもBもCも、十分に生活のためのものを受け取れないことを、正当で当然なこととして受け入れなくてはならないことはない。
 その代わりにどうあればよいか。暮らすためには消費することは必要で、そのために生産、生産のための労働は必要である。まったく原則的には、生産と消費とが別の原理でなされればよい。つまり、人は能力に応じて働き、必要に応じてとる。仕事は仕事ができる人がする。生活は生活したい人が生活する。一番基本的にはそれでよい。
 ただ実際にそれがどこまで可能かという問題がある。益がなければ働かない、労少なくして多く得られればそれがよいという心性、行動を前提するなら、人の労働を引き出す手段として、多く生産した人が多くとれるという機構が有効であり、それをどれほどかは採用せざるをえない、格差をつけることを仕方のないこととして認めるしかないという立場をとらざるをえないことがある〔立岩 1997,pp.41-50,335ff.〕。そして、人が今述べたように行動するなら、市場は自生的にそのような格差を生み出す。そこで、それに介入しつつ、そのいくらかを認める。一つに、市場を認めながら、そこから徴収しそれを再分配するという方法をとることになる★9)。これは所得保障、公的扶助がなされることを前提とした上で、それを条件に、ある程度の差別を、それが正しいからという理由によってではなく、生産と消費のための手段として認めることである。市場は市場としてそっくり残し、あとは政治的再分配で対応するというこの方法は、なかなかすっきりとはしている。だが、それが唯一の形態ではなく、一番よい方法だと決まったわけでもない。

III 分配ではたりない

 ここで問われていることは、一つには、市場は市場として置いた上で他の場で対処するという方法と、市場内部に介入すること、このいずれがどのような場合にどの程度、望ましいのかである。そしてこの問題は、生産から消費という過程のどこに介入するかという問題の一部でもある。そこでは機会の平等と結果の平等といったわかるようでわからない言葉をどう捉えるべきかも考えるべきことになる★10)。
 いったん述べた方法ではすまない、すませるべきではない理由、そして別のあり方が可能になる条件がある。
 […]

IV 半分できる人のこと

 […]

V 周辺を補うこと

 […]

VII 禁止と割当て

 […]
 以上、ごく基本的な、むしろ初歩的な事々を略述した。考えるべきことはまだいくらもある。



1) 様々に派生するこの主題の全容を、その具体的な部分を落とした上で、先行業績への言及を一切省略させていただいた上でなお、論じることができない。その代わりにはならないが、私がこれまでに書いた関連する文章を注で示す。他に、関連する情報をホームページhttp://www.arsvi.comに掲載している。「50音順索引」の「障害者と労働」、他に「欠格条項」「能力主義」「ADA」等。関連文献もそこに掲載する。
2) 障害者福祉政策はまず、「職業的更生」を目指す、働けるようになるための施策だった。そしてもちろん当人たちも職業的自立を求め、そのための施策を要求してきた。とともに、そのようでしかなかったことに対する反発として運動の展開もまたある。完全になおってしまうのでなければ(それは障害者でなくなるということである)がんばっても結局一人前にはならない。そして働けるようになる見込みのない人は取り残される。口と手が動くなら他の人とそう変わらずに働くことができる。だが例えば手が使えず言語障害がきつい脳性まひの場合にはそう簡単ではない。そしてそこでは、できるようになるために人より多く支払わねばならない労苦は当然のこととされ、それが成果をあげなかった時にはそのままに置かれる〔立岩 2001c〕。だから労働の場からの撤退という路線があった。働けなくてかまわない、「ただ飯食い」を肯定しようというのである〔安積 1990,pp.28-29〕。と同時に、障害者にしつらえられた場を否定し「一般就労」を主張する運動があり、さらに「協働」を掲げ自らが働く場を作ろうとする運動があった。問題の複雑さを示すこうした多面性を記述しつつ――私自身は〔立岩 1990〕〔立岩 1998〕にわずかのことを記したことがあるだけだ――その上で考えていく必要がある。
3) 一般に障害と呼ばれるものに関わってだけでなく、人にできる/できないの差はあり、それには解消されない部分があることを、たんにそのように言うことの危険性を承知した上で、つまり能力の有無・差異が人に求められることにおいて顕在化するものであることを承知した上で、また以下に記すようにその意味が社会の中での労働と所有の関係や働くための条件によって変わってくることを踏まえた上で、認めながら考えていこうというのが私の立場である。障害があることが「ないにこしたことはない、か」について〔立岩 2002〕。
4) 「差別の経済学」と呼ばれるものがこの認識から現われてくる。経済学の前提からは市場にあるはずがないものがなぜあるのか。それをさらに経済学的に考えようとするのであり、その答の一つが次に述べる「統計的差別」ということになる。〔立岩 1997,pp.367-369〕でいくつかの文献をあげて簡単に紹介した。帰属・属性について、これらに関わる排除・差別について、それと近代社会との関係について考えるべきことがいくつもあることについて〔立岩 2001b(3)〕〔立岩 2001d〕。
5) 〔立岩 1997,pp.367-369〕で学歴・性別に関わる差別に簡単にふれ、〔立岩 2001a〕で前者についてもう少し詳しく説明した。労働の場における性差別について言われていることを基本的なところから吟味する必要があることを〔立岩 1994〕で述べた。また「統計的差別」もまた否定されるべきものとしての差別であることは〔立岩 2001b(3)〕でも述べた。
6) 欠格条項をどう考えるかという問題はこういう問題でもある。欠格条項の撤廃を求める運動は、運転のできない人が運転免許をとれるようにという主張をしているわけではない。なぜ制限されているかその理由が見出せないものもある。また障害があるからといって、一律にあらかじめできないと決めつけることはできないのにそのように規定されているから、その撤廃を求めている。すぐになくすべき規定がいくらもあり、そのための活動の意義がある。だがやっかいな問題もその彼方にある。むしろ既に内在している。それを知りつつ、しかし今なすべきことがあって、その活動は行なわれている。上記したホームページに若干の情報があり、活発で重要な活動を行なっている「欠格条項をなくす会」のページにもリンクされている。なお本稿での作業は、こうした権利のための/権利についての活動を研究する科学研究費・基盤研究(C)12610172の一部でもある。
7) 選択できること/できないこと、本人の責任であること/ないこと、社会的分配の対象になること/ならないこと、これらの区別がときに誤ってなされ、誤って関連づけられていることについて〔立岩 2001-2002(4)〕で述べた。
8) リバタリアンの所論を検討しつつ〔立岩 2001-2002(1)〕でもう少し詳しく論じた。
9) もちろんそれを見越した上での反作用も生ずる。つまり、再分配によって調整された結果が実際の個人の持ち分で、それが個々人が働く誘因となるから、分配後の取り分を見越した形で市場ではより大きな格差が設定されることになるだろうというのである。この少なくともいくらかはもっともに思えるこの指摘については、ここで定見を示すことができない。
10) この主題について、本稿にあげた論点を含め、〔立岩 2001-2002(5)〕で検討している。
11) 労苦に応じて、また例えば労働時間に応じて分配するという方法もありうる。〔立岩 2001-2002(1),p69〕とその注で少しふれたが、その意義と困難について言うべきことはいくらも残っている。
12) 〔立岩 1997,chap.7〕に示した能力主義I・II・IIIは、これまであげた人の価値の表示・財の所有の原理・人の配置の原理としての能力主義・業績原理の3つにほぼ対応する。
13) 「能力以外を評価しない」理由について述べた〔立岩 1997,pp.348-351〕でこのことをもう少し詳しく述べている。
14) これはそれをどこで渡すのがよいかという問いに直接に答えるものではない。社会的分配の部分も雇用主を介し給料に含めて渡すのがよいという主張もある。
15) だから最低賃金を法で定めるのは間違っているという主張があるが、たんにそのことを主張するのとここで述べた立場とは異なる。
16) 設定される条件によっては、労働者の排除が労働者によって支持されることがあることを無視すべきでない。労働の場における女性差別に関してこのことを〔立岩 1994〕で述べた。分配が前提となった場合に事情が変わることについては〔立岩 2000a(下),pp.127-128〕。
17) これは労働の分割についての基本的な立場でもある。労働力は不足しているのか過剰なのか、こんなことについてさえ矛盾したことが平気で言われているのだが、私は後者であると考え、それに生産・消費の増大によって対応すべきでなく、労働の分割によるべきであることを〔立岩 2000a〕〔立岩 2001a〕で述べた。
18) これは市場経済が採用されているからではない。その人の仕事の能率が低いためにあるいはその人が働くための条件のためにその生産物がより高くついても、消費者がそうした事情を汲んで、より高く購入するなら、それで解決する。しかしそれがどこまで可能か。それにはまず、消費者の側がその事情を知っている必要があり、また高くても買おうとする動機が存在しなくてはならない。贈与・分配に応ずる動機・自発性と政治権力を介する強制との関係については〔立岩 2000b,chap.7〕〔立岩 2001-2002(3)〕で考えた。
19) このことについて〔立岩 2000a〕で検討した。
20) ユニヴァーサル・デザインといった標語のもとに環境の整備を主張する側は、その方が社会にとっても、また企業にとっても、長期的には、益になることを主張してきた。ここに述べたことはそれを否定するものではなく、その主張と矛盾するわけではない。ただ「福祉の経済効果」をもっぱら主張することの限界もやはり見ておかなくてはならない。このような思いから〔立岩 2000a〕は書かれている。
21) こう述べることは、能力原理を採用せず就労の困難な人を積極的に雇用しようとすることを否定するものではない。そうした組織を設立し運営しようとする活動が続けられてきた。それが可能になる条件、困難にする条件がいくつかある。能力原理に基づかない組織がうまくいかない理由としてよく労働意欲の低下が挙げられるが、意欲があればうまくいくわけではない。その条件の一つを注18に述べた。また、他から排除される人たちがそこに集中してしまうことがその経営を難しくする。民間の活動の積極性を認めつつ、しかしそこに生じてしまう困難を無視すべきではない。
22) ADA(障害のあるアメリカ人法)には「資格のあるqualified障害者を障害ゆえに差別してはならない」とあり、「資格のある障害者」とは、「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者を意味する」とある(第一章・第一〇一項・八)。〔立岩 1997p.325 etc.〕〔立岩 1998〕で少し触れたが、この法律の実効性を巡る議論の検討等はまた別の機会に譲らなくてはならない。

文献

安積 純子(遊歩) 1990 「<私へ>――三〇年について」安積他『生の技法』藤原書店(増補改訂版1995年)
立岩 真也  1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」安積他『生の技法』藤原書店(増補改訂版1995年)
―――――  1994 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」『Sociology Today』No.5
―――――  1997 『私的所有論』勁草書房
―――――  1998 「一九七〇年」『現代思想』(立岩〔2000b〕に再録)
―――――  2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下)『思想』No.908,No.909
―――――  2000b 『弱くある自由へ』青土社
―――――  2001a 「停滞する資本主義のために――の準備」栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知・5)東京大学出版会
―――――  2001b 「国家と国境について」(1〜3)『環』No.5,No.6,No.7
―――――  2001c 「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』有斐閣
―――――  2001d 「常識と脱・非常識の社会学」安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座)ミネルヴァ書房
目次等
―――――  2001-2002 「自由の平等」(1〜5)『思想』No.922,No.924,No.927,No.930,No.933[→『自由の平等』 2004補記]
―――――  2002 「ないにこしたことはない、か・1」石川准・倉本智明・長瀬修編『障害学の主張』(近刊)明石書店

Foundamental Problems of Labour and Emplyment of People with Disabilities


UP:2001
障害者と労働  ◇労働  ◇差別  ◇能力主義  ◇立岩 真也
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