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紹介:石井政之『迷いの体――ボディイメージの揺らぎと生きる』

立岩 真也 2001
『ターミナルケア』(三輪書店)



  著者(http://homepage2.nifty.com/masaishii/)は一九九九年の『顔面漂流記――アザをもつジャーナリスト』(かもがわ出版)で注目された。その二冊目の単著。レックリングハウゼン病、醜形恐怖、円形脱毛症、やけど、サリドマイド、低身長の、おもに本人たちを中心に取材し、インタビューを行って書かれた。
  まずこんな本はなかった。例えば私は、はたからはそう見えないのだが自分は自分を醜いと思っている「醜形恐怖」の人たちのことを、読むまで知らなかった。やけどを負った人がいることは知っていても、その人やその周囲にどんなことがあるのかはやはり知らない。ここで筆者が取材した人たちにしても、自分や自分と同じような人のことは知っていても、隣の章に書かれている人たちのことはほとんど知らないだろう。この本に出てくる人たちのことをこの本を読む前に知っている人は、一人もいない。読んではじめて知ることのできることがある。
  そして読んで、考えてしまうだろう。よく私たちは、病の大変さ、悲惨さを語るが、その悲惨とはなんだろう。まずそれは身体を襲う苦痛だろうし、あるいは死の可能性であるだろう。ただそれだけでない。容貌が変わったり毛髪が抜けたりすることでもある。それはときには気になること、苦しいことの相当大きな部分をしめるはずだ。またとくに病気や障害とかかわらない場面でも、容姿がよい人はどうもなにかと得をしているようである。つまり外見というものがあり、外見に関わる問題がある。
  だれもがこのことをよく知っているが、それ以上、考えたり論じたりすることはほとんどない。言われるとしても、「外見よりも大切なものがある」とか。それはそうかもしれない。結局そういうことなのかもしれない。ただ、これも言われ方によっては、「心(だけ)は美しい存在」にさせられるみたいなことになって、なんだかちがうようにも思う。そして、当人が気になっているものそのものについてはどうともしてくれないではないか。そうも思える。
  それですこし考えていけば、容貌が異なること自体が悲惨なのではなく、そのようにしか受け取れない人、受け取れない社会が悲惨なのではないか。たしかにそうかもしれない。醜いとか思うのは周囲の者たちだ。書かれているように(一七三頁等)、自分に手がないことを知っていても、それが否定的な意味をもつことは本人に意識されない。指さされ嘲られることによって、そうなのかとその人は知る。本人になにかそのようであることについて責任があるわけではない。だから、これは、本人に責められるべきところがないのに他人が否定的に評価し否定的に関わることなのだから、立派に「差別」だと言える。
  「病」を語るときの語られ方と「障害」を語る時の語られ方とが分かれることがあるように思う。病にしても、病とともに生きるとか語られるのだが、しかしそれでもなおるならそれにこしたことはないことはまずは前提とされる。本人が死んだり本人が苦しんだりするから当然かもしれない。だが障害については、それがない方がよいとされるのは、より社会的な要因、周囲の人たちの都合や好みによるのではないか。著者はときに、容姿・容貌の異なりをいわゆる「身体障害」からは分ける書き方をしているが、身体に関わることで不利益があるならそれは同じに身体障害、障害に関わる不利益として捉えようという考え方もある。そして、実際、機能障害と姿・形の異なりは多く同時に現れてもくる。例えば筆者が冒頭に引用するのは横塚晃一の一九七二年の言葉なのだが、横塚は脳性まひ者の組織「青い芝の会」で活動した人であり、この脳性マヒは、機能障害として現れるとともにに、その姿形の異なりが目立つ障害でもある。
  「障害学」や「社会モデル」はこんなことに関わって現われてきた(石川准・長瀬修編『障害学への招待』〔明石書店、一九九九年〕、『障害者を語る』〔筒井書房、二〇〇〇年〕)。私も気になって(拙著『弱くある自由へ』〔青土社、二〇〇〇年〕所収の「一九七〇年」等)、「できない」ことの方だけに限ってだが考えてきた。だが、姿・形の「ことなり」の方はもっとやっかいだ。機能に関わることのたいていは他の人に代わってもらえる。だが姿・形は代わってもらえない。そして、「べつににあなたに敵意があるわけではないけれど、とにかく私の趣味、感覚として、好きになれないのだと」などと言われるかもしれない。そういう居直りに反論できたとしても、ではどのようにしたらよいのか。そんなことを考えてしまう。今あげた本にしてもそれに答えてはいない。
  そうやって考えていってなにかが出てくるのか。直線的に話を詰めていっても、ただ詰まってしまうだけなのかもしれない。まずすべきこと、できることがあるだろう。この本にもいくつものことが書かれているし、思いつくこともある。就職などでの差別を禁ずる(人を採用しない理由がどこにあるのかつきとめにくいから、これは難しいがそれでも工夫のしようはあるはすだ)とか。子供がはやしたてたら、はりとばす(のはいけないのだろうから、きつくたしなめる)とか。等々。ただ、同時に、すぐに答の出るあてのなさそうな問いを考えていくことがあってよいと思う。この本はルポルタージュだけれど、筆者が一人称で書く文章はときに独り言のようでもある。筆者は人に会って、自分の体験と照らし合わせながら、とまどいや違和感やときにはいらだちを書いていく。彼は考えあぐねながら、だから質問し続ける。だから読む人もまた、この本から考えることを始めてしまうのである。
[追記]こんなことははじめてだが同じ本の紹介を別のところ(『週刊読書人』4月13日号)にも書いた。この稿は、それとの内容の重複を避けようとしてかえってよくなかったかもしれない。ホームページに載せたので(http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htmの「五〇音順索引」→「障害学」等)ご覧いただければさいわいです。

◆石井 政之 20010215 『迷いの体――ボディイメージの揺らぎと生きる』,三輪書店,253p. ISBN-10: 489590136X ISBN-13: 978-4895901369 [amazon][kinokuniya] ※ b02.


UP:2001
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