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書評:石井政之『迷いの体――ボディイメージの揺らぎと生きる』(2001年,三輪書店)

立岩真也 2001/04/13 『週刊読書人』2382:6



 中身に圧倒されたとか、つまらないとか、どちらでもないのだが、なにを書いたらよいのかと今も思ってしまう。
 これは一九九九年の『顔面漂流記――アザをもつジャーナリスト』(かもがわ出版)に続く著者の二冊目の単著。レックリングハウゼン病、円形脱毛症、やけど、サリドマイド、低身長の本人たちを取材し、その人と周囲の人たちとのこと、その人とその顔や体とのことを聞き出し、受け取ったことが書かれる。
 取材して結果を記していくとき、著者はそう温和な聞き手、書き手になれない。違和感ときには反感が描かれる。例えば本人は自分の顔が醜いと思っている、がはたから見ると普通という「醜形恐怖」の人たちがでてくる。男性の方が多い。筆者も書きながらとまどっている。私もやはりなんだかわからない。
 別のわからなさがある。サリドマイドで両腕がない女性の増山さんが話した話。「ある女性は、増山さんが「結婚して主婦をしている」と言うと、「世の中には捨てる神あれば、拾う神ありねえ」と涙ぐんでしまったという。「毎日がスリリングですよ。相手が意表を突くことを言うのでおもしろいです。」」
 増山さんもおもしろい人なのだがここでは「ある女性」のこと。こういう人はいるだろう、いや確実にそういう人を知っていると思う。さて、その人になにを言ったらよいだろうと思う。そういう「教養」に欠けたことを言わせなければよいのだろうか。でもどのようにして、か。もう一つ、ただ口に出さなければ態度に出さなければよい、というものではないとも思う。
 だがそれ以前に、他の章でも、サウナの休憩室で水をかけられたりとか、消毒液でさわったところを拭かれたりとか、保育園でたわしで洗われたりとか、店のレジで無視されたりとか、大の大人がどういうつもりなんだみたいなことがたくさん出てくる。だから「本心」がどうだろうと、ひとまず無関心でいてくれ、害さないでくれ、まずそれだという気にもなる。ただ、そんな部分だけうまく立ち回る小利口な人もいるだろうし、私的な、とされる関係の中での好悪はどうなるだろう。
 と、ぐるぐると思っていくと、たしかにいまの状況では生きにくいからなにかが「解決」されるべきだとして、そのための方法、という前に、なにを目指すことができるのか、わからなくなる。もちろんこの本の中にはさまざまに具体的なヒントもある。だがやはり、むしろ問いの方に投げ出される感じだ。
 手が動かなければ他の人の手を使えばよい。だから「できない人」としての障害者の困難の解決は、理屈としては難しくはない。むしろ他の人から借りたり取り替えることができない、少なくともそれが困難な私の体や顔、姿や形をめぐる問題の方が難しい。筆者も、「解決策が提示できない」(二四六頁)と書く。
 こうした主題をどのように描いていったらよいのか、それも実はわからない。それでも、このどうにもならない感じの自覚の持続は、ある時期「異形」が妙にうれしそうに持ち上げられ、そしてただそのままだったのに比べたら、よほどましなことだと思う。
 この本をある種の不全感とともに読む人は、困難の存在と所在を、それを描くことの困難さとともに知るのだし、なにより著者がそれを感じている。確たる方法などないまま、もっと追っていくしかないのだろう。多分、筆者はそれを続けていくだろう。

◆石井 政之 20010215 『迷いの体――ボディイメージの揺らぎと生きる』,三輪書店,253p. ISBN-10: 489590136X ISBN-13: 978-4895901369 [amazon][kinokuniya] ※ b02.

■言及

◆立岩 真也 2015/09/01 「生の現代のために・6――連載 115」『現代思想』43-(2015-9):-


UP:2001 REV:20150813
石井 政之身体  ◇障害学  ◇書評・本の紹介 by 立岩  ◇立岩 真也
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