HOME > Tateiwa >

おくりもの、というもの

―知ってることは力になる・20―

立岩 真也 20011200 『こちら”ちくま”』25:
発行:自立支援センター・ちくま


  またも「使いまわし」で、そしてどうにも「力になる」ことはなさそうな文章ですみません。『読売新聞』12月15日夕刊の文化面「土曜文化」という欄に掲載された原稿です。新聞社の方でつけた題は(新聞ってそういうものなのです)「贈り物の憂鬱」という題で、まあそれもいいかと思って、新聞の方ではそうなりました。
  14字×74行という制約で書いたのでなんとも言葉が足りませんが、なんとなくわかってもらえ、思ってもらえたら、考えてもらえたらと思います。
*      *     *

  なぜか贈り物の季節である。もらえるものならなんでもうれしい。であるのだが、なにか贈り主の思いがこめられ気持ちがこもっていたりすると、まれにだけれども、気が重く、つらいこともないではない。
  そんなことが、やはりこの季節の行事になってしまった募金や寄付、そして恒例行事と別の切実さで求められている国境を越えた援助にもあると思う。
  突然災害に襲われた時、救援物資が届くとそれが心に沁み、人がやって来るとその心意気を感じ、自分も心を強くもつことができることがたしかにある。けれどもそんな場合ばかりではない。人々の善意に頼らないないと日常の生活そのものをやっていけないとなると、心細い。また、もらい物の背後にその人の(善意の)顔がいつも見えてしまうのも、なかなかうっとうしいところがある。
  とはいえ実際に必要なものが足りていないのは事実だ。政府に払うものをけちっているくせに、それは政府のやることだと居直られてばかりではどうにもならない。だから「温かい心」を求めるのも求められるのも当然のことではある。また必要とする側はとにかく必要なのだから、そこは割り切ってもいる。しかしごく基本的には、特別の「思い」がこもっていたりしない方がよいことがあり、そういう気持ちのあるなしと別に満たされないとならない必要というものがあるだろうということである。生きて暮らすこと、そのための例えば介護という必要。
  小学校などで「教育の一環」としてみんなでよいことをしにいくのが流行である。よいことはわるいことでなく、たしかによいことではある。ただそこで「与えること」や「自発性」の危うさにどれだけ注意が向けさせられているのだろう。
  一人よがりの「善意」でなく「共感」ならよいのだろうか。しかし、容易に共感が及ばないところにも必要はあるだろう。あの豊かな国の人たちとの境遇の違いを思えば、そう簡単にあの人たちに共感されたくはないが、しかし必要なものをあの人たちはもっているからそれを求める、求めざるをえない、そういう人たちもまたいる。
  そういう場面でも、その基底ではなんらかの意志や共感が贈与という行動に人を向かわせるのだと言われれば、それを否定はしない。しかし、この季節、もらえるものはもらいながら、しかし本当はこんなはずではないと、かすかに、あるいははっきりと、思っている人がいくらもいるのは確かだ。そしてそうした鬱屈がいま世界大に存在し拡大しているのだと思う。
*    *    *

  以上です。今年私は「自由の平等」1〜4を『思想』(岩波書店)という雑誌に「国家と国境について」1〜3を『環』(藤原書店)という雑誌に、だらだら書いたのですが、そこに書いた中身=理屈はともかく、その意図は、「平等のこととか国家のこととか、もっとみんなまともに考えないとね」、というところにありました。
  ここに再掲した短文は、「肩の凝らない内容」のものという新聞社側のリクエストもあり、見本に送ってもらった他の方が書かれた文章も「娘が猫に好かれた謎」とかそういうものだったので、それふうにしてみたのですが、でも結局は堅かった、でしたでしょうか。まあ仕方がない。たとえば、やさしい心があってなにかをする、のはよいことだとして、そういう心がそう湧いてこないような関係もある。そんなことが日々の小さいな関係の中にもあるし、「国際援助」にもある。そういうときには何もしなくていいだろうか。あるいは、NHKのテレビの県内のボランティア募集のコーナーで、どこそこの社会福祉協議会で割り箸を集めてどうとかという同じ募集が毎週流れていると、「なんか違うんだよなあ」と思ったりする。アフダニスタンだとか、「困っているから助けてあげる」もよいし、「助けてあげなくてはならない」もよい、それはよいのだけれど、しかしそういうときに、自分(たち)の手持ちは手持ちとして持っていることは当たり前だとされていて、その財布からなにがしかを、ということになっている。
  現実がそうであることはその通りなのだけれども、私は、基本的には、その私たちが持っているものが私たちのものだと、考えたいだろうけれど(だってその方が、多く持っている私たちにとっては都合がよいのだから)、考えられない、考えるべきでない、アメリカでも日本でも、その国にあるものはみんなその国のものだと言いたくても実は言えないのだというところから考えていかないとならないのだと思っているのです。そんなことをきちんと言おうとして「論文」を書いたりしているのですが(「自由の平等」は4回書いてまだ終わらない)、基本的にはとても単純なことです。「歳末助け合い」等々に私たちがなんとなく感じる居心地の悪さも――誤解はないと思いますが、私はそういうものに意味がないというようなことを言いたいのでは、まったくないのです――、煎じ詰めていくと、こういう基本的で単純なことが曖昧にされてしまっているという感覚に発している、と私は思います。


UP:2001
贈与/分配  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)