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どうしたら楽でいられるか、考えよう

立岩真也 2001
『子どものしあわせ』2001-6臨時増刊号
べんきょうっておもしろい?!――学力問題を考える,草土文化



 *以下の文章は、加筆されて(1.4倍くらいの分量になりました)
  岩川直樹・汐見稔幸編『「学力」を問う――だれにとってのだれが語る「学力」か』
  草土文化,223p. 1800円 :110-121
  に収録されました。書店から注文できます。よろしかったらどうぞ。

■1 「学力低下」?
  大学には入試があり、講義がある。私がやっている社会学は、中学校や高校の社会科とはじつはあまり関係がないので気楽なものだが、そうではない科目もある。同業の教員たちが学生のいわゆる学力低下を嘆いている。なぜこんな基礎的なところができていないのかとぼやく。一般教育の科目には半年しかないものものあるから、すぐに終わってしまう。すこし高度なことをしようとするとついてこれない。「こんなことも知らないの」、ということになる。入試の問題作成のこともあって高校の教科書をみると、「こんなことも教えなくなったのか」となり、中学校や高校でのその科目の時間数が減らされることを嘆く。話を聞くと、国で指図してくる教育内容の変え方にたしかに腑に落ちないところは多々あり、同情したくもなる。その気持ちはわからなくはない。
  しかし、自分が中学生や高校生だった時のことを思い返してみる。なんでこんなつまらんことを覚えないとならないのだろうと思っていた。なんでこの社会はこういうくだらないことをするのだろうと思っていた。現状を見てもそれはそう変わらない。教員たちは文科系であれ理科系であれ、それぞれの専門家だし、それなりの思い入れがあるから、こんなことも知らないとがっかりしてしまう。けれどもやはりそれは、その立場にいるからだ。その人たちの本性みたいなものとして、多く知っててもらいたいと思ってしまう。そして試験は、知識を問う問題の方が安直にできる。勉強ができる(できた)人たちが、教員をやっていて、教育行政にいて、教育改革を論じている。それではまずいから、やはり一つには、考えていく時、たくさん教える方に傾いてしまう人たちだけで話を進めてもらっては困る。これがまず一つ。

■2 選ぶことの難しさ
  しかしそれにしても、入試なら入試を実際にどこまで変えることができるかとなると、やれることはいろいろありはするのだが、難しいことは難しい。
  今年私が務めている学校のある学科の推薦入試の面接試験で、どんな入試がよいだろうかというテーマで議論してもらった。入試で入試について聞くというのもなんだかいやみなものだが、それでも出してしまった。みなさん意表をつかれて困っていたが、面接試験だから沈黙は禁物、苦しまぎれでもなにか言わなくてはならない。そこで、「人間性」をもっと見てもらいたいというようなことを言う人が多かった。でも、一つ、それがわかれば苦労はしない。みんな同じような服を着て、同じような顔をして、そして同じようなことを言う。いや、まったくわからないではないのだが、わかることは、みんなほどほどによい人だということだ。五人まとめて二五分の面接(それでもまる一日かかる)でなくもっと時間をかけて見てほしいという意見もあった。そうかもしれない。けれど、時間をかけたらやっぱり多くの人は甲乙つけがたくそれぞれよい人だということがますますよくわかっておしまいということになるのではないだろうか。「やる気」というものも同じで、まずどうやったらそれがわかるか。「やる気がありません」なんて入試で言う人はいないのだし、心の底を見透かせるような技をこちらは(少なくとも私は)持ち合せてはいない。いやそれ以前に、少なくとも多くの人たちは、(少なくとも学校に入る前は)ほんとうにやる気はあるのだ。
  もう一つは、そして私はこちらの方が重要だと思うのだが、人間性が大切だとして、そんな大切なものによって、たかが学校に入れる、入れないというようなことを決めてよいのかということだ。患者さんと接していく仕事なのにそれにまったく適していない人はやはり困るといういうように、ある種の職業に直結しているような学校だと、ある程度それへの適性を見ることは必要かもしれない。ただ基本的には、少なくとも大学というような機関は、教育というサービスを提供する場であり、それ以上でもそれ以下でもない。大学でなくても、「素行」を評価するということの危険性には注意深くあるべきだと思う。
  そこで、くじ引きという割り切り方もあるが、そうしないなら、学校に入ってこちらが提供するものにどの程度対応しやすいか、そういうところで選ばざるをえないということになる。これも、希望者の人数の方が多いから選抜しているわけで、たくさん学校ができ、そしていわゆる学齢期の人の数が減っているために、もうかなりの程度選抜しなくてもはよい状況にはなってる(ちなみに、私は少子化というものがわるいものだとまったく思っていないのです)。ただそれでもまだ今のところは、入りたい人の方が入れたい人の数より多いし、入れるものなら入るのがより難しいところにという状況もそうは変わっていない。工夫のしようはあるけれども、入試のやり方を変えるだけではだめなところは残る。問題は社会と学校の関係である。つまり、みんなそう学問が好きだとは思えないのに、その学問をする場所に殺到してしまうという状態がどうしてなのか、である。その理由は誰もが知っている。

■3 仕事の適不適は仕事場で見てもらう
  そう勉強がしたいわけではないのだが、学校に行った方が得だと思うから、学校に行く。ほんとうに得かどうかはわからないけれど、確率的にはどうもそのようだと思うから、入れるところには入っておく。つまり、学校が仕事に就くに際しての選抜のための機関になり、選抜の肩代わりをしてしまっているということである。次の問題は、なんでこうなっているかだ。この辺のこと、それからこの後に書くことも含め、「停滞する資本主義のために――の準備」という文章に書いた。栗原彬・佐藤学他編『文化の市場:交通する』(越境する知・5、東京大学出版会)に入っていますので、よろしかったら図書館ででもご覧ください。
  学歴・学力と実力とは関係ないといったことがよく言われる。だが、もしそうだったら雇う側としてはようするに働いてくれればよいのだから、学力だとか学歴だとかを気にする方が変なことではないか。そういう当たり前で不思議なことを考えてみる。その結論だけ言うと、たしかにあまり関係がないのだが、そしてそのことを雇う側もわかっていないわけではないのだが、それ以外に選ぶときに使える材料がないということ。新卒で採用するとなれば、その予定者は採用を決める時には学生で、学生というのはどこそこの学校に行っている(その学校に受かったことがある)という以外に、あまり判断材料をもっていない。そこで仕方なくそんなものでも見るしかないからそれを見る。仕方ないからそれでよいかというと、もちろんよくはない。野球の選手が入団テストで落ちたというならまだ納得もいくし、選手になるためには練習するしかないという意欲もわくが、そもそもあまり関係がないから、どうもやる気が出ない。受験勉強そのものが大変というよりも、どうもあまり納得のいかないことを、それもながながやっていなくてはならないのが、不愉快でむなしい。
  学歴だとか学力だとかを仕方なく選択の基準として使わなくてすむようになれば、状況も変わってくる。これもそう簡単にはいかないのではある。実際に仕事をする前に、仕事ができるかどうかはわからないからだ。ただ一つには、学校を出て就職したその最初の仕事が一生の仕事ということではなくなると少し事情が変わる。そうなると、人を採る側でも、どこの学校に行っていたかというようなあまり当てにならないことではなく、その前にしていた活動、仕事をみて判断することができる。つまりは新卒一括採用、終身雇用という形態が変わっていくこと。もちろんその方がきびしい部分もある。しかるべく学校に入ってしまいさえすればあとはなんとかというのも、(入ってしまった人にとっては、だが)楽な部分はある。しかし私は、どちらか言えば、仕事にまつわる苦労は仕事を始めてからするというふうにした方がよいと思う。そうすると、学歴・学力による選抜は、なくなりはしないとしても、減る。
  すると勉強したり学問する意味も変わってくる。勉強したい気にならなければならないで私はかまわないと思うが、人間、意外に勉強したくなったりすることがある。とくに社会学なんてものの場合は、いわゆる「実社会」に出る前から関心を持てと言っても無理なところがあって、仕事に就いたり、あらたに家族を始めたりしてから、この社会の不思議さが実感されてくる。実際大学でも、社会人を一度やって入ってきた人だとか、仕事しながら通う二部の学生の人たちからの方が勉強しようという意欲が強い。むなしくそして仕方のない勉強を減らせれば、勉強もそう捨てたものではない。ただ、私たちの社会では、そう思う前に勉強するのが苦手になってしまい、つまらなくなってしまうのがつらいところだ。そういう意味でも、入社のための入学、のための入学…という連鎖を、切れるだけ切った方がよいと思う。

■4 がんばらないとやっていけない、ことはない
  学校というものを使った選抜を、使わなくてすむ部分は使わないようになるとよいと述べた。ただいわゆる「実社会」そのものが競争社会だということになっており、もちろん、根本的な問題はこちらの方にある。むしろ、これからはもっと競争原理、実力主義の社会になる、そうしないとならないと言う人たちがいる。そこのところはどう考えるか。
  「能力主義」そのものをどのように捉えるか。それが私がずっと気になり考えてきたことで、これは長い話になる。一九九七年に出版された『私的所有論』(勁草書房)という本に考えてきたことを書いた。その後、昨年出された『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社)にも関連した文章が収められている。やはり図書館ででもご覧いただければと思います、よろしく。ですませるわけにはいかないのだが、もう紙数がそうない。少しだけ。
  競争がまるきりない方がよいとは言えず、必要な部分はあると私は思う。少なくとも私はなまけ者なので、よい仕事をしないとお客さんが来てくれないからがんばるという部分があることは否定できない。お客さんの方を向いて仕事をしない業界がいくつかあることはたしかで、反対する人もいると思うが、私は供給主体がたくさんあって、互いに競争することは一つの手段としては有効なことがあると思う。ただその競争、実力主義、能力主義が、なんのために必要かというと、いま言った通りで、つまり、仕事の量・質を向上させるため、それだけのために必要なのであり、それ以外の理由はない。競争、実力主義、能力主義を「正義」として主張する人がいたら、その人は間違っている。むしろ必要に応じた分配を基本的な原理とし、それでは(私のようなけちで欲張りな人間のいる)社会をやっていけないから、仕方なく競争を採用するしかないこともある、とまず考えること。
  次に、もっと競争させないとやっていけないという話があるが、これも変だ。(ここからの話はまだ本にはなってなくて、『思想』(岩波書店)と『環』(藤原書店)という雑誌にそれぞれ何号かに分けて今書いているところ。)技術も進歩し、生産性が向上してきた。もちろんその高度な技術を使うための知識が必要ということはあるが、それでも全体としては同じだけを生産し消費するために、以前ほどがんばる必要はなくなっているはずだ。にもかかわらず、もっとがんばらなくてはならないというのはおかしい。
  少子化で大変だとか、高齢化社会だから大変だとか言う人もいる。しかし、その大変とはまずは人手不足のことのはずだが、しかし失業している人がいて、しかも社会全体として生産が滞っていないとすれば、人手は、少なくとも今は足りているということであり、将来もそう大変なことにはならないと考える。人手が余っているなら、一人分の仕事量を減らして(その分給料も減るが)多くの人に仕事を分けるという手もある。
  なのにそれでも競争競争と騒がしい人がいるのはなぜか。一つに「国際競争」で負けられないという理由があげられる。これは大嘘というわけではない。しかしそれは人々を圧迫する。そしていわゆる途上国の人たちははさらに無理しないとならないことになる。基本的にその競争に乗るのか、それともそれを減らす方向で考えるのかである。ひどく大きな話だが、しかし、どちらの道を行くかを確認しておく必要はある。
  なかなか望ましいようにはならないかもしれないけれど、しかし基本的にはだいじょうぶ、無理しないでやっていけると確かに言えるはずだ。一人ひとりとしても、この社会が、本来は余裕のある社会であることをまず確認しよう。もちろん困ったことはいくらもあり、そういう部分については肩身の狭い思いなどするのをやめて文句を言いつつ、同時に、この社会で有利だとされる路線を外れてもそう困ることにはじつはならない、もっと困らないようになればなおよいと思ってやっていったらよいのではないかと、その方が楽ではないかと、私は思う。
  *ホームページhttp://www.arsvi.comをご覧いただければさいわいです。「立岩真也」で検索しても出てくると思います。


UP:2001
学歴主義/学力/…  ◇立岩 真也
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