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ふつうの道を行ってみる
Going straight to Sociology
立岩真也
(たていわ しんや 信州大学医療技術短期大学部) 2001/05/15(原稿送付:2000/12/31)
『地域社会学年報』13:77-95(地域社会学会),ハーベスト社
*2000/05/14・日本地域社会学会大会(私は非会員)のシンポジウム(於:関東学院大学)に呼ばれて「規範論的接近の射程」なる話をしたのですが、学会誌に原稿を載せなさいと言われ過去に書いたものをてきとうに貼り合わせてお送りしたものです。『地域社会学年報』は市販もされています。どうぞお買い求めください。
■■I 行ってみる
■1 脇道は行き止まりになっている
大会のシンポジウムのために送った文書の題を「規範論的接近の射程」とし、だいたいそのような趣旨で話した。一つは、社会への「接近のあり方」について。と同時に、むしろ時間的にはより長く、そうして接近する「対象・主題」の一つとして、強制と自発性との境界、より具体的には政治が行うことと民間でなされるべきあるいはなされてよいこと、その関係、組み合わせのあり方について。
後者については既にいくつかの文章に書いているから、それをここで繰り返す必要はない。本稿の後半でいくつかの例をあげるにとどめ、まず前者、どのように社会学をしていくかについて、少しのことを補足する。関連した文章に数理社会学会の学会誌に書いた「こうもあれることのりくつをいう」([2000g])があり、以下に引用する「たぶんこれからおもしろくなる」([2000j])がある。ある大学院の集中講義で、講義には結局まにあわなかったのだが、受講者に手渡して話そうと思いながら書いた。
「これからは「天下国家」が、いまとはことなったように、論じられる、そういう時代だ、と言うことにしよう。
…同業の教員たちが、大学生は極私的なことしかテーマにしない、大学院生はいったいどういうつもりで大学院にいるのだろうと言う。ただ学生も自らの前にあるものから学び、それで行き詰まっているのなら、結局、教員などをやっている私たちがなにを示して来れたのかということでもある。
こうして一つに、学問あるいは「知」がここ何十年か置かれてきた状況がどんなものだったかという問いに行く。このことについては少しだけふれたことがある――[1997]第7章、[2000d]。「近代(社会)を問う(問い直す)」という多分に大言壮語的な問いが示されたことはあった。私はそれを馬鹿にしてはならないと思う。いろいろな大切なことが言われた、少なくとも呟かれた。しかしそうであるがゆえに、どこをどう詰めていくか、理論的にも面倒なことになってしまい、それ以上に現実的な展望が見えない。それで先が続かなかった。
そんなぐあいになんだか疲れてしまって、暗くなってしまって、それでどうしたかというと、「別のもの」を探しに行ったのだ。別の時代や別の地域には別のものがあることを発見し、そのことを語ることによって、その間接的な効果として、近代の社会についてなにがしか批判的なスタンスを維持しようとする。こういう時期がだいたい20〜30年続いたように思う。それはそれとして様々な大切なものを与えてくれた。さらに発見されるべきことが尽きたと言うのではないし、さまざまなことを相対化することの意義はなお失われていない。ただ、そういう構えだけでは今あるものに迫り切れるようには思えない。ここでもいささか行き止まった感じがする。
そうした「知」の他方に、「総合雑誌」で語られているような事々がある。それは脂ぎっていて、手がべとべとしそうで、そのわりに硬直している。…
それで「消費」や「私」といった身近な――と思われる――ところを主題に卒論を書こうと思う。ただそれもそう簡単ではない。これらについてそこそこのことは既に言われてしまっていて、それ以外のことを言うのはなかなか大変なのだ。それだけでない。学生は「社会人」になる。その人が自分の身のまわり3メートルくらいの範囲で生きていければ、それはそれでよい。しかし実際にはなかなかそうもいかない。会社に勤め出したり、等々。それで、突然、天下国家について語り出してしまうのだが、その時口をつくのは「少子化」がどうしたとか「国際化」がどうしたとかいった紋切り型の反復でしかない。それは聞いていてもつまらないし、本人もそう納得しているわけではないだろうし、そして私が思うに、そのいくらかはまちがっていて、そして時に危険でもある。」([2000j:1-2])
紙数の制約からここに書かなかったことを別のところに書いた。「現実との接触面でどうもどうにもならないと思い、めんどうになって、降りてしまう。またある人たちは、「空理空論」を放棄し、理屈をこねず、地道な方、「実践」の方、例えば「地域」の方に行く。(ただ、この道を行った一部は、現実との接触と摩擦の持続のために、思考することを止めることができず、「社会理論」に再度接続するのだが…)」([2000d:233])
いくつかの道があり、上に述べたのはその一つ、「別のところ」に行くという方向、そして一つ、「大言壮語」をやめて「現場」に行く――ここでは地域「社会学」でなく「地域」に直接行った人たちのことを念頭に置いている。それに対して私は「本道」をもう一度?行ってみようと言う。
■2 本体の方に行く
「べつように語ること、べつように考えていくことはできないか。いま漠然と、しかしはっきりと感じられていることは、近代社会の構制の本体、内部の方に向かっていくこと、そしてそれをどうしようか、直截に考えていくという、社会科学の本道を行くしかないのではないかということだと思う。」([2000j:2])
数理社会学会の学会誌には次のように書いた。「私自身がやりたいこと、そして社会学にもっとあってよいと思うことは、こんなことをこの雑誌に書いてはならないのではあるが、一つに少し論理を追って考えてみることだ。…次に…「規範的な問題」を考えることである。つまり、社会、社会の様々な事々がどうあったらよいのかについて考えることである。」([2000g:101])
つまり、「本体へ」と述べるとき、それは(1):「論理」によって把握すること、その中に(2):「是非」の問題を含め、それに重要な位置を与えて考えようということであり、シンポジウムでは(2)を主に念頭に置いて話した。ただ私にとって「理詰め」とは、まず、例えば財の総量が一定で二つの集団がある時、一方により多くが渡るともう一方は減ることになるといった、たかだかその程度のことだ。だがそんな水準の当然のことがきちんと確認されることがないまま、様々なことが言われ、その結果、多くの間違ったことが言われていると思う★01。
そうしてなにを考えるのか。私が考えようとしてきたことは2方向に書くことができる。
α:教科書には、社会学は伝統社会から近代社会への転移を一つに属性原理から業績原理への変化として捉えてきたとある。だが意外なほどその「業績原理」「能力主義」そのものについては考えられていない。考えたらよい★02。そしてそうやって考えていくことは、「感情」(cf.[1991][1996c])や「属性」(cf.[2001c])について考えることにもつながっていくだろう。
β:近代の社会は、市場/政治/家族/その他の自発的行為の領域といった具合に分かれている。その各々に即して、そこに配分されている行為や財の配分のあり方について、また各々の領域の間にある境界について、各々の領域の関係について考える。
このように考えていくと、例えば、性別分業と家族・市場について言われていることについて、ごく単純な思い違い、計算間違い等々がある★03。必要なことはそのような確認を一つ一つ積んでいくことだと思う。
■3 現実(の尖り)から考えること
ただ理詰めで考えていくだけがすべきことだと言いたいのではない。社会学をやっていく上で、どういう手法で調べたり考えていくか、それには個々の人の好き嫌いがあるだろうし、適性もあるかもしれない。
私にしても、現実にあったこと、あることから受け取るものがあって考えることができていると思う。上で「思考することを止めることができず」と述べたのは、[1990→1995]等で記述した1970年代以降の障害者運動が行った道だ。「障害(disability)がある」ことは「能力(ability)がない」ことであり、それを考えることは、α:「業績原理」「能力主義」によって、少なくとも一つに、特徴づけられる近代社会の編成を考えることに他ならない。そして自力でできないからその分を他から得ることになる。ではそれは家族か、市場か、あるいは政府か、ボランティア、非営利組織か。という問いは多くの場合に単純すぎ、複数のものの組み合わせについても考える必要がでてくる。これを問うことは直接にβの問いを問うことである。そしてそれは現実をそのまま記述することではなく、あるべきあり方を問うということであり、しかも現実の「解」を提出しなくてはならない。ある種の社会運動のように、理想は理想としてあるが現実は現実で仕方がないとすませることができない。つまり負けることができない。現実の中に住まうしかなく、しかしその現実は生きていくのに厄介だ。基本的なところを、現実から目を離さずに問わなくてはならなくなる。
つまり、自分で考えるのが面倒だったら、他力本願、というか、調べる相手に考えてもらえばよい、考えている相手を調べればよいということだ。例えば医療について。例えば「会話分析」といった手法で、なにか新しいことが見つかるかもしれない。「ただ、私たちが既になんとはなしに知っていることを超えたことを言うには、それなりの技、工夫を必要とするだろう。私は、そういう難しいことをやる前に、そんな高等な技を要する仕事でなくてよいから、してよいことがあるように思う。
それは波風が立った場、摩擦が起こった面、そこに生じた尖りや棘について、その歴史について調べることである。…存在する事態、起こった事件そのものが考えるべき論点を示しているのだから、調べる側は、少なくともまずはただ単になにがあったのかを知るだけでよい。なにもなく思えるところからなにかを引き出してくるより面倒は少ない。」([2001d])
例えば1960年代以降、脳性麻痺という障害の様々な「療育」法が流行り、親がそれに連れていくが、結局よいことはなく、次第に下火になっては次のものが現れるという歴史があった。私自身はそれを辿れず、わずかに知っていることから「なおすこと」について少しばかり考えことを記したのだが、この歴史そのものを辿っておく意義があると思う。
関連した文章として[2001e]。例えば反原発運動で「原発事故で障害者が生まれる、だから原発に反対」という主張があり、それに(一部の)障害者が反発した。「障害者はいない方がよいと言っている、私たちの存在を否定している」と言う。これに対して、「今生きているあなた方障害者を否定するつもりはない、あくまで障害が生ずることが問題なのだ」と言ったとして、それで納得させられるだろうか。なにかしら屁理屈のようにも思える。しかし、では「障害を肯定すればよい」かと言うと、そんなことでもないようにも思われる。そうしたことを考えてみること。というか、考えるために言われたことをまずは集めてみることである(http://www.arsvi.comの「50音順索引」の「障害(を肯定する/しない)」に引用集がある)。
少なくともいくつかの領域について、実証研究、たった30年ほどの間のことを追った仕事が少ない。例えば「自己決定」という言葉がどうやって入ってきていつのまにやら定着したのか、誰も知らない。いくつかの大きな事件を別とすれば、科学批判、医療批判というものがなんであったのか、それが記録されていない。いわゆる「オリジナルな業績」となる領域がいくらでもある。なのになぜ主題を探しあぐねているだろう、あるいは既にそこそこの仕事がなされてしまっている領域に行こうとするのだろう。
■4 闘争と遡行
論理の筋を追う、ことの是非を考える、それに関わる現実を見ていく、こんなふうに社会学をしようとする時、一方には、一応基本的な立場ははっきりしており、あとはそれをどうやって実現していくかを考えるという方向がある。もう一方には、その基本的な立場自体がなんであるのかを考える、あるいは前提とされているものを疑っていくという方向がある。両方を考えていこうと思う、と[2000c]で述べた。また、その2つの契機を同時にもつ運動があったこと、あることを[1998b]で述べた。
例えば「自己決定」はそうした主題の一つだ★04。一方で、それを実現するための戦略を考えていく。と同時に、それをどんなものと考えたらよいのかを考える。人によって力点の置き方は異なってよく、一人で両方の仕事をやらなくてはならないというものではないだろう。ただ、私はできる限りは両方をやってみたいと思う。理論的な領域をやっていると言う人が少しも論理的な可能性を尽くした考察をしていないことがある。他方、具体的に詰めていくと原理的な問題にどうしても当たってしまい、それに答を出さなければ方向も見えないことがある。だからいつもでないにしても、両方を考えていくことに意味があると思う。もう一つ、後者の方、技術論・政策論の方が単純だと思われているとしたらそれは違う。例えば介助・介護について、その「社会化」がなされるべきだとして、ならばあとは「予算の問題」であり、基本的には学の主題ではないと考えるなら、それは違う。仕組みのことだけを考えようとしても、そんな単純なことではないことはすぐにわかる(cf.[1995a][2000b])。
以上もまた言うまでもないことだ。ただ、実際なされていることの多くは中途半端だ。例えば「自己決定」が講演の場や教科書で語られながら、「現場」はそんなものでは動かないとつぶやかれ、つぶやかれるだけでなく実際その通りになっている(cf.[1999c])。「たてまえ」と「ほんね」とが異なることがいつも問題なのではない。異なることにもっともな理由もある。しかしそれは、とくにそうして「現場感覚」で扱われる側にとっては、ときにおおいに迷惑なことであり、適当に話を終わらせられてしまったら、それは困ったことになる。
■■II 普通の道の例
■1 分配について
一方で「自発性」が肯定的に評価される。例えばNPOの活動は「自発性」によって規定される。自発的な活動の意味・意義をまったく否定しない。私もまた民間の(非営利の)組織・運動に注目してきた([1995b]他)。他方で「行政責任」を言う。2つを言うことが矛盾しているとはまったく思わない。もちろん2つは両立するし、その分業のあり方についてある程度のことは言われている。しかしもう少し考えておいてよいことがあると思う。ごく粗い粗筋を[1998d]に書き、[2000k]等でもう少し詳しく検討している。そして介助(介護)という主題に即してだが、[1995a][2000b]で述べた。他にとくに[2000b]をご覧いただければと思う。ここではその中からいくつか。
基礎的な部分は政府、それ以外は民間でという話がある。だが「この区分自体が、(身体的等々の事情が平均的である人にとっては標準的である)平均的あるいは最低限度の必要と、それを超えた追加的な必要という区分を行ない、区別を行なうことにおいて2つが成立しているのであって、福祉サービスだから個別的なのではなくて、個別的な部分として括りだしたものがいわゆる福祉サービスとして存在するのである。…こう考えたとき、基礎的な部分は政府によって供給されるべきだが、それ以外の部分は民間に委ねるのがよいとは言えないはずである。」([2000k:127-128])
ここに一人一人の違いに社会的分配がどう対処するかという厄介な問題が現れる。だがこれは考えるしかない。セン(Amartya Sen)の議論の重要性もこんなところにある。一人一人の差に限らない。地域間格差をどう捉えるかといった問題にもつながる。
私は、財の種類によって政府による供給と民間の供給とを分ける立場をとらない。基本的な論点は権利と義務をどう捉えるかである。
「…強制力を介した徴収と分配によって介助する人の生活を支えることが支持される…。つまり、それぞれの人の生きる権利を認めるとは、すべての人がその人がそれぞれ介助が必要であれば介助を得て生きるためのことをなす義務を負うことだと考えるなら、唯一強制力を有する国家が費用を集め配分する主体としての役割を果たす。すなわち、サービスは基本的に有償とし、税金等の再分配によってその費用がまかなわれる。それが介助を実際に行なう人に支払われる。
しかしこのことは、その資源を使い生活していく過程のすべてについて国家が決定すべきこと、決定してよいことを意味するのではまったくない。当たり前のことだが、その資源を使って暮らす人にとってよい介助がなされた方がよい。それが可能であるような、容易に可能であるような機構が必要となる。それは基本的に直接選択の機構である。本人による決定、選択が支持される。
この主張自体はたいへん簡明なものである。基本的に負担の側面と利用の側面とを分ける。負担のあり方について、「社会」福祉、すなわち社会が責任を負うことを前提とする。その上で、その使い方は利用者・消費者が決めればよいと主張する。資源の供給とサービス(の提供者)についての決定を分離し、前者を政治的再分配によって確保し、後者を当事者=利用者に委ねるのである。」([2000b→2000i:256])
この場面では、NPOは供給主体の一翼を担うことになる。
そして、このように考えた時、徴収と分配の範域が小さいことがよいとは言えない。「…徴収し分配する単位としては、むしろ大きくとるべきだとする。そしてその範域内で、どのような集まりが形成されていくのか、供給主体として何が適しているのか、それを一人一人の発意と意志にまかせ、それらがさまざまに重なることを認める。…述べたのは、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。その「自由」をどこまでも許容するなら、例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国あるいはより広域の地方自治体に税を払うことを拒むといったことが起こる。現に米国のいくつかの地域では起こっていることである。地域主義者たちは、自分たちが思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いはきっと本当であるに違いない。しかし、人は常によく行動するだろうという楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。…例えば明らかに財政について構造的な格差がある場合に、財政面での独立も含めた「地方分権」がどのように好ましいのか、私にはわからない。」([2000a:下133-134,146])
以上は「まったく単純な、どうということのない機構ではある。しかし、かなり根本的な提起がここにはあると思う。つまりこれを進めていった先にあるもっとも極端な像は、政府の全予算を一人一人に割り振ってしまうというものだ。全てが個々人に渡り、それを使ってどこから具体的な財を得るかは一人一人が決めることになる。もちろん、公共財についてはそうは行かないだろうという疑問、必要は一人一人異なるのだから均等配分は望ましくないとすればそれをどうやって算定するのか、等々の問題がすぐに現われるのではある。…だから理論的にも、現実的な対応としても考えるべきことは多い。しかしこれは、少なくともいったん、考えてみるに値することだと思う。この仮想の起点・基点から現実を見て、そこに存在する差異を測り、その差異について考えることができるのである。」([2000b→2000i:261])
例えば「公共事業」がこのままでよいと思っている人は少ない。しかしではどうあるべきなのか。NPOの活動を支持する人は、その活動への「公的資金」の支出を求める。しかしそれは個人への分配よりよいのか。海外への援助は外国の政府に対する援助よりNGOに対する援助の方がよいかもしれないが、それが一人一人に「ばらまく」よりよいとなぜ言えるのか(cf.[1996b])。もちろん「公共財」といった言葉をここにもってくることはできるし、それにはそれなりの意味がある。しかし今度は、その公共財とはなにか、なんであるべきかが問題になる。それは、なにが一人一人において達成されてよい水準なのか、次にそのための手段としてなにがよいのかを考えることである。それは財政学や政治学の問題で社会学の主題ではない、と思わない。なにか新しいことをしようというのではなく基本に戻りましょうというだけだ。しかしそれが大切だと思う。
■2 距離について
徴収・分配の単位として考えるなら小さいことはよいことではないと述べた。別の論点もある。
「…贈与における「自発性」「直接性」をどう評価するか。もっとも単純な人たちは、それをただよいもの、うるわしいものとするのだが、そうとは限らないはずだ。
この問いは何が強制されるべきなのか、義務であるのか、何がそうでないのかという問いであり、国家に何をさせるのか、何をさせないのかという問いと基本的な共通点をもっている。しかもこの問題は、国家か民間かといった単純な二分法でとらえるべきでなく、むしろどのような組み合わせを考えるのかという問題のはずである。
「民間」の活動、「市民」の活動に、あるいは「地域」といった言葉に肯定的である人たちの相当部分は、それらがとりうるあり方の総体というよりは、あらかじめその活動やあり方の内容や姿勢に特定の肯定的なあり方を見込んでいる。しかし、この主題はもう少し広げて考えることができるし、考えた方がよいと思う。」([2000g:110])
権利と義務という論点は先にあげた。関連しつつもう一つ、「近さ」について。「自発性」はよいことであり、「近いこと」はよいことだとされる。否定しようと思わない。けれど慎重に考えるべきだ。
「例えば「冷たいこと」によって福祉国家は批判される。だがそれは、必ず批判されねばならないことだろうか。非人格的な関係のもとで、配分が自動的になされ、いちいち気がねしなくてよいことはよいことではないか。個別の、その時々の善意によってしか発動しない贈与を受けることによって暮らさなければならないこと、その人の善意を発動させ、その人の善意に応答しながら暮らさなければならないことは――与える側、少なくとも受け取る側にいない人たちは時にそのことに気がつかないのだが――愉快なことではない。少なくともこの意味で、広いこと、遠いことがよく、冷たい方がよい。違うだろうか。そして、物質的な苦難が人を何かに出会わせるのだと思う必要はないのだとしたら、むしろ、分配自体は機械として作動する場、環境にこそ、偶然に起こることもあるとは考えられないだろうか。」([2000b→2000i:255-256])
自らの近くに近い人、例えば親が、常にいるのはつらくもあるということ、善意の人が善意の顔を下げてやってくるのも面倒なことがあること、等々、こうしたことさえ時に忘れられる始末であるからには、それを言わないとならない(cf.[1995a][2000f][2000k]等)。
ただ、そのように割り切れる場面だけでもない。「手段でよいものは手段でよいのだと言った。しかしこのことはそれだけがあればよいことを意味しない。求められるものはほかにもあって、しかもそれは受け取ることも与えることもそう簡単でなさそうなのだ。…とくに福祉国家においては、政策の中では、それは困難ではないか。」([2000b→2000i:309-310])
ひとまず次のようには言える。「国家、機械としての国家と特殊で独自な人、人々の集まりの存在とは相容れないのではない。…特殊主義とぶつかるのは、まずは別の特殊主義であり、もし国家が普遍主義、というよりむしろ無関与を志向するのであれば、そのことによってかえって特殊性・個別性は保存されることになるはずだとも言える。」([1998d:81-82])
だとしてもまだ問いはあるだろう。例えば仕事が「専門の人の仕事」になってしまうことで、他の人々がそこから離れてしまう、そこで失われるものがあるのではないか。この問いはあまり直截に問われない。家族の伝統への復帰を主張したりする敵を利するからである。心配はもっともだ。しかしだからといって考えずにおくのも変だ。考えておかないことは逆に、近いこと、小さいことへの無条件の礼賛に道を開いてしまうことにもなる。「例えば国家は「尊厳」をもって人を遇することができるのか、「承認」にどのように関わるのか、関わることができるのかという問いがある。言われてみればそれは難しいかもしれない、と思う。しかしそのように断ずることもまた単純すぎるように私には思われる。」([2000j:5])限られた範囲についてだが[2000b]でいくらかのことを述べた。
■3 危機について
こうして一方で「人間学」が語られるのだが、他方ではそれとなんの関係もなく、「資源の問題が語られ「経済」が語られる。「少子高齢化」で人手が足りなくなるという。だが足りないとはどのようなことなのか。自明のようにも思えるが、わかるようでわからない。かつて人口の量と質に対する危機感が「優生学」を作動させたのだが、この社会を覆っているある種の危機感はそれとどこがどれほど違うのだろう。そうやってがんばらないと日本は「国際競争」の中でやっていけないと言われる。仮にその通りだとして、そこで考えることは終わりになるか。ならないと思う。」([2000j:5])
この時代は後に、異様に頻繁に一様に危機が語られた時代として記憶されるだろう。ただそのためにも記録されなくてはならない。例えば「少子化」や「高齢化」がいつ頃からどのように語られ出したのか、危機を語る論理がどのように現れ、議論が戦わされたのか。思い出してみると意外と記憶が曖昧だったり、辿れない部分があることに多くの人は思い当たるはずだ。記録や分析がなにもないのではないが、とても不足していると思う。それをきちんと追うのは十分に意義深い仕事だと思うし、そんな仕事をしていくと、それをどう考えるたらよいのかが出てくるかもしれない。
例えば無償の行為だったことを有償の仕事とする。これは「経済」的にどんな意味をもつか。これはそう難しい問いではないはずだ。ところが、有償化し「社会化」することを主張する側にしても、無償のままで「安上がり」にすまそうとしていると体制側を批判する。つまり無償の方が「安い」ことを認めているのだ。それでよいか。こんな問い一つをとってみても、まず事実についての記述がなく、そして論理がない。経済学も政治学もあまり言ってくれない。そんなことをずっと思っていてそれで[2000a]を書いた。そんなことを考えながら、この社会がどのようにあることができるか、「停滞する資本主義のために」と[2001a]で、また「分配する最小国家の可能性について」考えてみようと[1998d]で言った。
■4 「社会」へ
述べたのは、ある程度の複雑さには付き合わないとならないということでもある。ここで単純にすぎるとは、例えば、みんなが意見を持ち、いろいろ対立はありつつみんながみんなのことをわかっていて、そしてみんなで決める、学級会のような社会を、「アソシエーション」的な社会であるか「共同体」的な社会であるか、様々ではあるのだが、想定してしまうこと、とくに自覚的にでなく想定してしまうことだ。
例えば「公共性」を言うとき、その背後には「公共性」が存在しないこと、「市民」と呼べる存在がいないことが嘆かわしく、あるいはどこかにその「萠芽」でも見たいという思いがある。他方、その「西欧(市民社会)志向」を自覚、反省したりして、より現実の地域に根ざしたものを見出したり評価しようという志向がある。このような筋の議論、というかそこにある悩みはわかる。単に調査をしまとめることを繰り返せる人の心情より理解できる。しかし私は、あえてよくわからないと言いたいように思う。
現実の大勢として存在するものがその人が支持したいものではない。そう具体的でないにしても、やはりなにかが自らの側にある。まず、自分の側にあるものがありながら、それを相手(研究対象の人たち)に仮託するという構造自体が、時に問題や主題の所在自体を曖昧にすると思う。そしてその「あるもの」自体が曖昧になる。とすれば、まず、どんな状態が望ましい状態なのかを、誰かに語らせるのではなく、もっと直接に語ってもよいのではないか(もちろんそれは、述べたように、現実から立場を導き出すことを否定することではない)。そしてそれを語ろうとすると、きっとなんだかよくわからなくなると思う。例えば「公共事業」や「地域間格差」をどう考えるか、少なくとも私にはわからない。だから考えてみたいと思う。そうして考えていけばよいのではないだろうか。
またある種の「心理主義」がないだろうか。この言葉は適切でないかもしれない。(多くあまり単純なものではなく相当屈折した)「啓蒙主義」とも言える。問題解決の鍵はみんながその問題を解決しないといけないと思うようになることだ、といった論のかまえのことである。これも間違いではないと思う。そして、ヨーロッパの人と日本の人はもちろん違うだろうし、都会の人と田舎の人とは違うだろう。その違いが大切でないとは言わない。そして、なにか大切なものをみながわかり、共有するようになるのもわるくはないだろう。しかし、それだけがあるのかと考えることもあってよい。なにかに反対するにしても、その中身に反対するという方向とともに、それが置かれている場所を問題にするという方法もある。例えばそれはわるいことではないとしても、税金を使う正当性は得られない、とか。ある状態を実現したいとして、そのための条件、手段、戦略は様々ありうる。説得の道具を提供したり、説得とはまた別の方法を考えたりする仕事もあるだろう。少数派が多数派とともに棲息する方法にしてもいくつかあるはずだ。どういう方法があるか、そしてどういう方法がよいか。
こんなことを考えていくと、どちらも日本語にすると変だが、「自由主義(liberalism)」と「共同体主義(communitarianism)」という対も気になってくるはずだ。それは現実的な争いのもとにある。例えば「共同体主義」に分類されるチャールズ・テイラー(Charles Taylor)の主張も、カナダ・ケベック州でフランス語とフランス語でない言語を使う、教えることをどう考えるかという具体的な主題から離れてはいない。「理論」をもってきて「箔をつける」ことはこれまでもあったことだが、たんに紹介されたり、なにかを形容するのに都合のよいものとして使われるだけなら、結局はたいしたことにならない。また、その議論は、そのままもってくればそのまま使えるというような完成された疑問の余地のない議論ではない。むしろ疑える部分を根本からは疑っていないから議論がまとまりをもっている、「生命倫理」にしても「政治哲学」にしても、「米国という国は、日本のように茫漠とした煮え切らない行く末の定まらない問いに見舞われない代わりに、見舞われなかったために、ある範囲の内側で、かなり詰めた議論が行われた」([2000j:4])とも言える。だから生真面目にそのまま受け取ることもない。しかし使える部分はある。
もちろん現実は現実的に決まっているのだし、決まるしかない。なにか考えついて言ったからどうなるというものではない。しかしそれでも、調べたり考えたりすることに決めたなら、最初のところから考えて、好き嫌いの基準をはっきりさせること、現実にすぐに可能かどうかは別として現実をもっていく方向を定めること、そうした仕事がある。「ずぶずぶ」の現実からいったん離れて線を引いてみることもできるし、ずぶずぶにはずぶずぶであるわけがあるはずだから、一番ぐちゃぐちゃになっているところを考えていくとわかることもあるはずだ。そういうことを、学問、社会学はできる。というか、学問ができるのはそんなことぐらいなのだ。
■注
★01 では「理論系」の社会学はどういうことをやってきたのか。きちんと考えたことがない。ただ例えば「秩序問題」という問題の立て方の中に、事実(の成立条件)についての問いと規範的な問いとが妙な具合に混淆されてきたのではないか。[2001b]に少し関連したことを述べた。
★02 これが[1997]の主題だった。その後のごく短い文章として[2000e]。リバタリアニズム(libertarianism)の主張を受け、それを批判した論文として[2001b]。
★03 家事労働が「不払い労働」であることをもって家事労働を女性が担っていることの不当性を言おうとする主張の吟味・批判として[1994a]、雇用する側にとって性別分業が有益と言えないことを述べた論文として[1994b]。単純に考えていくと家族というものが不思議なものであることについて[1991][1992]。他に述べたことを合せて家族と介助・介護についてまとめたものとして[2000f]。
★04 自己決定については[1997]の第4章3節で基本的なことを述べたが、その後に述べたことはまだ一つにまとめていない。基本的な位置については[1999a]。[2000m]ではもっと簡明に述べている。自己決定とパターナリズムの「同郷性」について[1999b]、自己決定を教えるというパターナリズムについては[1999a]。死の決定について[1998a][2000h]。私はパターナリズムを否定しきれるとは考えない。しかしだからこそやっかいなものであり、批判されるべきものであり、慎重にとり扱われるべきものだと考える。
■文献
以下著者の文章だけ。*のあるものはホームページhttp://www.arsvi.comで読むことができます。ホームページから注文できる本などもあります。ご覧ください。
1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積純子他『生の技法』→1995 『生の技法 増補改訂版』,藤原書店 :267-321
1991 「愛について――近代家族論・1」,『ソシオロゴス』15:35-52*
1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44*
1994a 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」,『千葉大学文学部人文研究』23:63-121*
1994b 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」,『Sociology Today』5:46-56*
1995a 「私が決め,社会が支える,のを当事者が支える――介助システム論」,安積純子他『生の技法 増補改訂版』,藤原書店 :227-265
1995b 「自立生活センターの挑戦」,安積純子他『生の技法 増補改訂版』,藤原書店 :267-321
1996a 「(非政府+非営利)組織=NPO,は何をするか」,千葉大学文学部社会学研究室,『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』 :48-60(成井正之と共著)*
1996b 「組織にお金を出す前に個人に出すという選択肢がある」,千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?』 :89-90
1996c 「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」,『信州大学医療技術短期大学部紀要』21:115-126*
1997
『私的所有論』
,勁草書房
1998a 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」,『仏教』42:85-93(特集:生老病死の哲学)→[2000i:51-63]
1998b 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233(特集:身体障害者)→[2000i:87-118]
1998c 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定権)→[2000i:13-49]
1998d 「分配する最小国家の可能性について」,『社会学評論』49-3(195):426-445(特集:福祉国家と福祉社会)
1999a 「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」,石川准・長瀬修編『障害学への招待』,明石書店 :79-107
1999b 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」後藤弘子編『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5 :21-44
1999c 「愚痴でもなく、お題目でもなく」,『医療と福祉』(日本医療社会事業協会)33-1(68):3-7(シンポジウム「自己決定を考える」講演要旨)*
2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について 上・下」,『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149
2000b 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→[2000i:221-354]
2000c 「闘争と遡行」『STS NETWORK JAPAN Yearbook '99』:43-48(1998/10/31 STS Network Japanシンポジウム「医療問題は科学論で語れるか」の記録)*
2000d 「正しい制度とは、どのような制度か?」,大澤真幸編『社会学の知33』,新書館 :232-237
2000e 「「能力主義」という差別」,『仏教』50:55-61(特集:差別の構造),法藏舘
2000f 「過剰と空白――世話することを巡る言説について」,副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』,ミネルヴァ書房 :67-86
2000g 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」,『理論と方法』27:101-116(日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論)
2000h 「死の決定について」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版 :149-171
2000i
『弱くある自由へ』
,青土社
2000j 「たぶんこれからおもしろくなる」,『創文』426(2000-11):1-5*
2000k 「多元性という曖昧なもの」,『社会政策研究』1:118-139(『社会政策研究』編集委員会,発売:東信堂)
2000m 「手助けをえて、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」,長瀬修・倉本智明編『障害学を語る』,スペース96 :153-182
2001a 「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知・5),東京大学出版会
2001b 「自由の平等・1」,『思想』922(2001-3):54-82
2001c 「常識と脱・非常識の社会学」,『社会学』(社会福祉士養成講座),ミネルヴァ書房
2001d 「なおすことについて」,野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣
2001e 「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明・長瀬修編『障害学の主張』(仮題),明石書店
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立岩 真也
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