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つよくなくてもやっていける

立岩真也 『朝日新聞』20010111朝刊
http://www.asahi.com/
論壇・正月シリーズ・「21世紀の入り口で」


 *この原稿は『自由の平等』に収録されています。また『人間の条件――そんなものない』にも収録されています。ただ後者は理論社が民事再生中であるため入手しにくくなっています。そのうち別の出版社で販売されることになると思います→現在はイースト・プレスから出されています→そこでも現在は出ておりません。両方の本「電子書籍」で提供中。

自由の平等   立岩真也『人間の条件――そんなものない』表紙
13字×133行

 誰もが「右肩上がり」の時代は終わったと言う。だがそれにしては騒々しくないか。なにかしなくてはならないことになっていて、「革命」とか「自由」とか、もっと別のもののために使われてきた言葉が気ぜわしげに使われる。「危機」や「国家目標」が語られ、それらに「新世紀」といった言葉が冠せられる。 
 十分に多くの人たちは「消費を刺激する」といった言葉の貧困さや「人間の数を増やす」という発想の下品さに気づいている。しかしそうしないと「生き残れない」とか言われて口をつぐんでしまう。政治的な対立と見えるものも「経済」をよくする手段について対立しているだけだ。私たちに課題があるとしたら、それはそんなつまらない状態から抜けることである。  
 第一には、働き作り出すことは人が生存し生活するために必要な手段であり、基本的にはそれ以下でもそれ以上でもないという当たり前のことを確認すること。まったく言うまでもないことなのに、じつにしばしば、浮足だった言葉の中でそれが忘れられる。
 それでも労働力と生産が足りないのだから、がんばらざるをえないと言われる。生産につながらない部分にお金を使うのも節約しないとならない、福祉や医療を「特別扱いできない」という話がある。 だがまず、刺激しないと消費が増えないなら、あるいは刺激しても増えないなら、その部分は足りていると考えたらどうか。またものはあるのに失業があるということは、少ない人数で多くを生産できるということであり、それ自体は大変けっこうなことだと考えてみたらどうか。ものもものを作る人間の数も足りている、工夫すればこれからも足りると私は考える。「国際競争」の圧力はたしかに無視できない。しかしごく原則的に言えば、それは競争に勝つことで対応すべきでなく、競争しなくてすむ方向で解決がはかられるべきなのだ。これをなんとかできるなら、危機は本当に実在しない。
 第二に、一人一人が人並みに生き、暮らせるために、今あるものを分けること、一人一人の自由のために分配することである。たくさん働ける人が多くとれ、少なくしかできない人が少なくしか受け取れないことが正義でないことは論証済みだと私は考える。所得の格差は、格差をつけるとそれにつられてやる気が出るという理由から、必要な範囲でだけ、正当化される。分配の意義はなおまったく失われておらず、それは自由と対立しない。自由の平等のための資源の分配が追求されるべきである。失業が問題なら労働も分割し分配すればよい。
 これは市場だけで実現せず政治が担うべき部分がある。だがそれは「大きい政府」や「強い国家」を意味しない。  信用されていない人たちが例えば正義を語り、押しつけることが、かえって正義の価値を下げ、信用を低くしている。それは失望と冷笑しか生まない。だから国家は、わるいことをせず、一人一人が生きていけることを妨げないためのことをするのに徹し、それ以外の、様々な「振興策」等々を含む「よいこと」は各自にまかせたらよい。
 そうして訪れる世界は退屈な世界だろうか。退屈でかまわないと私は思うが、退屈や停滞という言葉が気にいらないなら、落ち着きのある社会と言い直してもよい。そして退屈になった個々の人たちはすべきことをするだろう。 
 なにも新しいことを言ってはいない。前世紀の後半、環境や資源の危機にも促され、この社会を疑う人たちが現れた。ただその疑いを現実に着地させることが難しかった。 生活欄で「がんばりすぎない」ことが言われ、同じ新聞の政治経済欄に「新世紀を生き抜く戦略」がある。それを矛盾と感じる気力も失せるほど社会を語る言葉は無力だろうか。いま考えるに値することは、単なる人生訓としてでなく、そう無理せずぼちぼちやっていける社会を実現する道筋を考えることだ。足し算でなく引き算、掛け算でなく割り算することである。もちろんそれは、人々が新しいことに挑戦することをまったく否定しない。むしろ、純粋におもしろいものに人々が向かえる条件なのである。
 繰り返すが、この社会は危機ではないし、将来は格別明るくもないが暗くはない。未来・危機・目標を言い立てる人には気をつけた方がよい。



朝日新聞に送った著者略歴

一九六〇年生。社会学を専攻。一九九〇年東京大学大学院博士課程修了。現在信州大学医療技術短期大学部助教授。著書に『私的所有論』(勁草書房)『弱くある自由へ』(青土社)。

『私的所有論』
『弱くある自由へ』

◆01/03/05「自由の平等・1」
 『思想』2001-3
◆01/02/**「停滞する資本主義のために――の準備」
 栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』
 (越境する知・5),東京大学出版会 60枚
◆00/03/05「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」
 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料
◆00/02/05「選好・生産・国境――分配の制約について(上)」
 『思想』908(2000-02):065-088 関連資料



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