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死の決定について・4
(
医療と社会ブックガイド
・7)
立岩 真也
2001/07/25 『看護教育』42-7(2001-7):548-549
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/
[Korean]
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この回(他)は註を追加したうえで以下の本に収録されました。お求めください。
◆立岩 真也・有馬斉 2012/10/31
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009
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[kinokuniya]
※ et. et-2012.
安楽死のことばかりもう4回です。ごめんなさい。終わらせます。
何冊かの本を挙げ、米国での賛否両論、オランダの状況について、そして日本での動きを検証し批判する清水照美の文章を紹介した。それにしても〇か×かやっかいなこの主題だが、それでも考えるなら、〇と×の両方があって、そこから考えて言った人の言ったことを知るとよい。
その一人が松田道雄である。1908年に生まれ、1998年に89歳でなくなった。知らない人はいないと思う。いわゆる学者ではなかったが、『育児の百科』等多くの本を書いた。ヤフーで探したら、現在購入できる本は10冊。76冊は買えない。ただ図書館などにはかなり入っているはずだ。
彼はかつて日本安楽死協会による安楽死法制化の動きに反対したが、88歳の時に出版された最後の著作、『安楽に死にたい』では安楽死を肯定する。(買えます。この主張につながるそれ以前の著作として岩波ブックレット『安楽死』(1983)があり、『わが生活 わが思想』(岩波書店、1988)に一部が収められているが、いずれも品切。)
ただ彼が単純に「転向」したと考えることはできない。それをどう考えたらよいのかが重要だと思う。とても書き切れるものではないが、少し(ホームページに著作リスト、引用集等掲載しました)。一つは、誰が決めるべきことか。もう一つは、なぜ死のうと思い、決めるのか。この二つの関係をきちんと考えるのは大切でそして難しいことなのだが、まずは二つあるとだけ言っておく。
前者について、彼は患者の権利、消費者主義をはっきりと主張した。1969年の文章には「生き方について、とやかく人から指図してもらいたくない、自分のことは自分できめるというのを、法律のことばで自己決定権というのだそうです」(「基本的人権と医学」『世界』1969年7月号)と、「自己決定権」という言葉がある。かなり早い用例ではないか。彼ははっきりと「自己決定派」だ。生きることも死ぬこともその人自身の決めることだという立場である。とすると原理的には安楽死、自殺幇助は否定されないことになる。
* * *
しかし彼は、太田典礼らが中心となり日本安楽死協会が「安楽死法」の制定を主張した時には反対した。本人が決めるべきだという主張は一貫していて変わらない。それでも反対するのは、どんな理由で、現実にどんな力が働いている中で死ぬことになるかを思うからだ。『安楽に死にたい』では、「私はその会が法律学者や医者が主になっていて、一般市民の立場にたっていないと思って、急に法律をつくることに反対しました。」(pp.29-30)とある――これは回顧した文章だが、1940年代から、そして1970年代の反対運動の中で書いた文章は『生きること・死ぬこと』(松田道雄の本7、筑摩書房、1980)に収められていて重要、しかし絶版。
その専門家優位の状態はそれから20年ほどの間に変わったのかという指摘があるだろう。松田には医療の「延命主義」の方がもっと本人・市民の側に立っていないという判断があったのだろうが、かつては「市民の立場」に立っていないとされた安楽死肯定の立場が変わったと言える現実的な条件が今はあると言えるのか、このことはそう論じられていない。この問いはまだ残る。前月号に紹介した清水昭美の批判も覆されず残る。そのことをまず確認しよう。
もう一つは、その本人にとっての死ぬこと(生きること)の意味。
[…]
そしてそれは、前回も前々回もこの主題を取り上げたテレビ番組のことを書いたのだが、そこで言い切れなかったことと共通するところがある。
* * *
その番組で取り上げられたオランダで死んだ女性は、ガンを患っていて耐えがたい身体の痛みがあった。ただその痛みは薬で緩和することができた。けれども彼女は薬を使わなかった。それは意識の清明さを保とうとしたからだ。それは立派なことかもしれない。けれどもその立派さは死を選ぶほどの立派さだ。
もう一つ別の番組。私は、学校での講義で、カナダの放送局CBCが制作したスー・ロドリゲス裁判を記録した番組のビデオを見てもらう。NHKが1994年9月に海外ドキュメンタリー「人は死を選択できるか」として放映したものである。ALSにかかった女性が医師による自殺幇助の合法化を求めて裁判を起こし、最高裁まで闘い、結局敗訴する(彼女自身は、医師による自殺幇助で死ぬ)。過剰にドラマチックにしたりはせず、抑制のきいた番組だ。しかし、気になることはある。その番組は、抑制をきかせつつこの病気が悲惨であることを伝える。そして彼女は美しくも悲哀に満ち悲壮なのだ。たしかにたいへんな病気である。しかし、もっと症状としては進行しているがもっとふつうな感じの人がいることを別に知っていると、やはりなぜなのだろうと思う。そしてその知っている人は人工呼吸器をつけているのだが、その番組には呼吸器のことは出てこない。彼女はそのことを言わない。選ばなかったのだろうか。彼女は身体が自力で思うようにならないことを屈辱と思う。自らの「尊厳」が侵されていると言う。それは死よりも重いものとされる。身体機能、知的能力の衰退を死より重くみる感覚・価値がある。4月号で紹介したキヴォーキアンの自殺機械を最初に使ったのもアルツハイマーにかかった人だった。
松田は本の最初で「この本でいう安楽死は重い障害のある方の生死とは関係ありません」(p.2)と断わっている。「障害者差別につながる」とか言われないための言い訳でなくてほんとうにそう思ったのだろうと思う。ただ年をとった自分の気持ちとして、生きたい人はもちろん生きてよいが自分は、とただ自分のこととして書いたのだろう。松田道雄はまったく立派な人で、権威主義から遠く離れた人で、人にやさしかった人だが、ただ、自分自身に限れば、自分がただたんに衰弱していくことが、もうそろそろ、と彼自身を思わせる。たしかに年をとってみないとわからないことかもしれない。しかし、こういうごく個人的な倫理、価値とされるものを、はいそうですね、と言って終わらせられないというところから、安楽死に対する疑念は来ているのではないか。自分に対してとことんいいかげんにはなれなかった松田の議論をそのまま肯定しきるか、これがこの主題を考える上で一つ大きなことではないか。「精神的苦痛」という理由がひっかかるのも、障害者の反対運動が気にするのもこのことに関わるのではないか。
ともかく私が必要だと思うのは、松田のような誠実な思想家の足取りを追って考えていくことだ。だが私が知る限り、書いているのは八木晃介と川本隆史だけで、川本のは「老いと死の倫理――ある小児科医の思索を手がかりに」(『現代日本文化論9・倫理と道徳』岩波書店、1997)と、彼が編者の『共に生きる』所収の「講義の七日間――共生ということ」。後者にはごく短い言及しかないのだが、他にも興味深い文章が入っているのでこの本を挙げる。
(関連情報をホームページの
「医療と社会ブックガイド」
、または「人」→「松田道雄」、「50音順索引」→「安楽死」からどうぞ。)
[表紙写真を載せた本]
◆
松田 道雄
1997 『安楽に死にたい』,岩波書店、133p. 1200円
http://www.iwanami.co.jp/
◆
川本 隆史
編 1998 『共に生きる』(岩波新・哲学講義6),岩波書店、243p. 2200円
http://www.iwanami.co.jp/
UP: 2001 REV:20140615, 20151021
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松田 道雄
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ALS=筋萎縮性側索硬化症
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安楽死
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「死の決定について・1」
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「死の決定について・2」
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「死の決定について・3」
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医療と社会ブックガイド
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身体×世界:関連書籍
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書評・本の紹介 by 立岩
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