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規範論的接近の射程

立岩 真也 2000/05/
地域社会学会大会


◆要旨集掲載原稿として送付した文章(20000330)◆

 格差/分配 を巡って 帰属・承認・遇すること を巡って 近いこと・と・遠いこと、について そして 強制・と・自発性、について(これらに何を見込むについて) あるいは 自由主義 liberalism・と・共同体主義 communitarianism という軸に何があるかを考えながら 考えてみることができると思う。
*ホームページhttp://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm→「立岩」→「話したこと/話すこと 1997〜」→「日本地域社会学会報告」に関連情報を掲載します。

 「……贈与における「自発性」「直接性」をどう評価するか。もっとも単純な人たちは、それをただよいもの、うるわしいものとするのだが、そうとは限らないはずだ。
 この問いは何が強制されるべきなのか、義務であるのか、何がそうでないのかという問いであり、国家に何をさせるのか、何をさせないのかという問いと基本的な共通点をもっている。しかもこの問題は、国家か民間かといった単純な二分法でとらえるべきでなく、むしろどのような組み合わせを考えるのかという問題のはずなのである。
 「民間」の活動、「市民」の活動に、あるいは「地域」といった言葉に肯定的である人たちの相当部分は、それらがとりうるあり方の総体というよりは、あらかじめその活動やあり方の内容や姿勢に特定の肯定的なあり方を見込んでいる。しかし、この主題はもう少し広げて考えることができるし、考えた方がよいと思う。」(立岩「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」,『理論と方法』27(日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論、近刊?))

 「それにしても述べたのは、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。その「自由」をどこまでも許容するなら、例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国あるいはより広域の地方自治体に税を払うことを拒むといったことが起こる。現に米国のいくつかの地域では起こっていることである。地域主義者たちは、自分たちが思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いはきっと本当であるに違いない。しかし、人は常によく行動するだろうという楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。」
 「……徴収し分配する単位としては、むしろ大きくとるべきだとする。そしてその範域内で、どのような集まりが形成されていくのか、供給主体として何が適しているのか、それを一人一人の発意と意志にまかせ、それらがさまざまに重なることを認める。行政区域としての地方自治体、例えば都道府県や市町村を供給主体とするのは、それ自体が供給主体を特定し限定することでしかない。小さくとも一つしか選ぶことができず、選ぶためには移らなくてはならないのである。」
 「註17 例えば明らかに財政について構造的な格差がある場合に、財政面での独立も含めた「地方分権」がどのように好ましいのか、私にはわからない。」
 (立岩「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」、『思想』909(2000-03))

 「国家、機械としての国家と特殊で独自な人、人々の集まりの存在とは相容れないのではない。……特殊主義とぶつかるのは、まずは別の特殊主義であり、もし国家が普遍主義、というよりむしろ無関与を志向するのであれば、そのことによってかえって特殊性・個別性は保存されることになるはずだとも言える。」(立岩「分配する最小国家の可能性について」、『社会学評論』49-3(195) 1998年)

 「否定してしまった結果、積極的に言うことが何もなくなってしまった、代わりに何も産み出さなかったという理解もある。私は、むしろ、否定することに成功しなかったのだと思う。つまり冷静でなかった。前代と同様、一つに自らの立場に対して。例えば「正しさ」についての感覚は強くあった。ただそれは何なのか。「強きを挫き弱きを…」はよいとして、それだけですむものでもないだろうに。一つに現実における可能性に関わる吟味について。前代と違うのは、そう自信がないこと、可能性について悲観的であること。知性を懐疑していく時に使えるのもまた知性なのだが、そうした使い方がされない。……
 多くは、現実との接触面でどうもどうにもならないと思い、めんどうになって、降りてしまう。またある人たちは、「空理空論」を放棄し、理屈をこねず、地道な方、「実践」の方、例えば「地域」の方に行く。(ただ、この道を行った一部は、現実との接触と摩擦の持続のために、思考することを止めることができず、「社会理論」に再度接続するのだが、その道筋はここでは辿れない。)(立岩「正しい制度とは,どのような制度か?」,大澤真幸編『社会学の知33』,新書館,2000年 *「その道筋」の一つを共著『生の技法』(藤原書店,初版1990年,増補改訂版1995年)の第7章「はやく・ゆっくり」で追った。)

 「殺す存在でありながら、同時にそれを制約しようとする部分がある。制約されるべき境界はあらかじめ存在しないのだが、もし、私達が、ある人がある存在を他者として受け止めてしまうことを知り、それを尊重しようとするなら、ここで立てることのできる基準は、どのように判断すべきかわからない時、また対立のある時に、まずは、(最も)(利害においても近いのだが、同時に)その存在に近くにあり(そのことのために)その存在を消去させることをためらう人の言うことを聞くというものだ。
 これで全てに境界線を引くことができるわけではないし、また、そこから帰結することに全て同意できるというものでもないだろう。しかし、例えば、ある土地に住んでおり、そのことによってその土地がなくなることに耐えられないと思う人達、しかもより有利な代替地が提示されてもそこに移ろうと思わない人達がいる時に、まずその人の苦痛のことを考えようとするならば、そこには今記した価値があるのではないか。また、鯨をとって生きているけれども……」(立岩『私的所有論』,1997年,勁草書房 第5章2節)
 「例えば、ある者にとって、その者の住まう土地が、あるいはその者の作りあげるものが、単なる生活の糧ではなく、その者があることを構成する不可欠のものとしてあることがあるだろう。生存のための手段である/手段でないという判断を誰がどのようにするのか。個々の人の心的な世界を直接に知ることはできないのだから、全ての具体的な場合についてあれかこれかと判断できるものではない。しかし直接に知ることはできないとしても、試すことはできる。事実、それを自らのもとから切り離すこと、他者に譲渡することができず、それをその者のもとに置こうとする場合にだけ、その者のもとに置かれることを認めることである。」(『私的所有論』 第4章2節)

 

●関連事項


環境[保護・保全・問題]
共同体主義 communitarianism
共有地の悲劇 (tragedy of the commons)
リバータリアンlibertarian/リバタリアニズムlibertarianism
リベラリズム liberalism→自由主義
国家

 *以上は50音順索引の項目の一部です。

 *立岩が郵送できる関連書籍があります。


◆00/02/05「選好・生産・国境――分配の制約について(上)」
 『思想』908(2000-02):065-088
◆00/03/05「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」
 『思想』909(2000-03):122-149
 関連資料
◆00/03/01「遠離・遭遇――介助について・1」
 『現代思想』28-04(2000-03):155-179(特集:介護――福祉国家のゆくえ)
◆00/04/01「遠離・遭遇――介助について・2」
 『現代思想』2000-04
◆00/05/01「遠離・遭遇――介助について・3」
 『現代思想』2000-05
◆00/06/01「遠離・遭遇――介助について・4」(最終回)
 『現代思想』2000-06
  関連資料



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