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たぶんこれからおもしろくなる
立岩真也
20001101
『創文』426(2000-11):1-5(創文社)
*この文章は、新たに注を付した上で
『希望について』
に収録されました。買っていただけたらうれしいです。
これからは「天下国家」が、いまとはことなったように、論じられる、そういう時代だ、と言うことにしよう。
私自身は今、論文指導やゼミといった厄介ごとから離れられているのだが、雑談の中で同業の教員たちが、大学生は極私的なことしかテーマにしない、大学院生はいったいどういうつもりで大学院にいるのだろうと言う。ただ学生も自らの前にあるものから学び、それで行き詰まっているのなら、結局、教員などをやっている私たちがなにを示して来れたのかということでもある。
こうして一つに、学問あるいは「知」がここ何十年か置かれてきた状況がどんなものだったかという問いに行く。このことについては少しだけふれたことがある――
『私的所有論』
(勁草書房、一九九七年)第七章、「正しい制度とはどのような制度か」(大澤真幸編
『社会学の知33』
、新書館、二〇〇〇年)。「近代(社会)を問う(問い直す)」という多分に大言壮語的な問いが示されたことはあった。私はそれを馬鹿にしてはならないと思う。いろいろな大切なことが言われた、少なくとも呟かれた。しかしそうであるがゆえに、どこをどう詰めていくか、理論的にも面倒なことになってしまい、それ以上に現実的な展望が見えない。それで先が続かなかった。
そんなぐあいになんだか疲れてしまって、暗くなってしまって、それでどうしたかというと、「別のもの」を探しに行ったのだ。別の時代や別の地域には別のものがあることを発見し、そのことを語ることによって、その間接的な効果として、近代の社会についてなにがしか批判的なスタンスを維持しようとする。こういう時期がだいたい二・三〇年続いたように思う。それはそれとして様々な大切なものを与えてくれた。さらに発見されるべきことが尽きたと言うのではないし、さまざまなことを相対化することの意義はなお失われていない。ただ、そういう構えだけでは今あるものに迫り切れるようには思えない。ここでもいささか行き止まった感じがする。
そうした「知」の他方に、「総合雑誌」で語られているような事々がある。それは脂ぎっていて、手がべとべとしそうで、そのわりに硬直している。それはつまらないと学生は思う。「動機づけ」が希薄であるように外から見える人たちの中には、そこにある硬直性に嫌気がさしている、警戒している、そんなところがあるのかもしれない。だから手をつけない。私はその感覚は健全だと思う。
それで「消費」や「私」といった身近な――と思われる――ところを主題に卒論を書こうと思う。ただそれもそう簡単ではない。これらについてそこそこのことは既に言われてしまっていて、それ以外のことを言うのはなかなか大変なのだ。それだけでない。学生は「社会人」になる。その人が自分の身のまわり三メートルくらいの範囲で生きていければ、それはそれでよい。しかし実際にはなかなかそうもいかない。会社に勤め出したり、等々。それで、突然、天下国家について語り出してしまうのだが、その時口をつくのは「少子化」がどうしたとか「国際化」がどうしたとかいった紋切り型の反復でしかない。それは聞いていてもつまらないし、本人もそう納得しているわけではないだろうし、そして私が思うに、そのいくらかはまちがっていて、そして時に危険でもある。
だから、べつように語ること、べつように考えていくことはできないか。いま漠然と、しかしはっきりと感じられていることは、近代社会の構制の本体、内部の方に向かっていくこと、そしてそれをどうしようか、直截に考えていくという、社会科学の本道を行くしかないのではないかということだと思う。例えば、誰が何をしてよいことになっているのか、何をすべきで何をすべきでないことになっているのか、それはなぜか、別のあり方は可能か、どのような根拠から、どのようにして可能かを考えること。つまり権利や義務について考えること。それは「生命倫理」だとかあるいは「知的所有権」だとか、なにかしら新しい事象への対応について語られることもあり、もちろんそれらはそれらで大切な主題なのではあろうが、しかしもっと普通のことについてそれをやってみること、そしてそれがおもしろいことを示すことだろうと思う。そして、社会が、市場/政治/家族/その他の自発的行為の領域といった具合に分かれているのなら、その各々に即して、そこに配分されている行為や財の配分のあり方について、また各々の領域の間にある境界について、各々の領域の関係について考えることだ。(「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」、『理論と方法』二七号、日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論)。
たとえば市場で起こる事々。一方では「業績原理」「能力主義」と呼ばれるものがあり、そちらの方に経済、社会をもっと進めていくべきことが主張される。他方に、こういう社会では浮かばれないと思う人がいて――つまり「できない」人たちがいて――それを批判し否定する。そう言われてみるとそれももっともだと思う。だが、「とは言っても」、仕方がないようにも思えてしまう。「自由主義」に警戒的な人たちにしてもなにかしらおよび腰ではある。
それでも「平等」を言ってみる。しかしその実現のために国家が登場するなら、それは「介入」ではないか。なにやかややってきてこの社会に残ったものの一つは「自由」であり、「学」が獲得したものの一つが「多様性」だったのかもしれない。多様であることはよいことだという提起は大切だったし、これからも大切だと思う。しかし、そもそもここで自由とは何の自由を指しているのか。それを規定することがそもそも間違っているだろうか。しかし第一にそれは、一人一人は違う、一つ一つは違う、だから例えば価値について、「効用」について、直接に比較しない、できない、だから各自が合意したところだけでよしとしようという話にもつながる。とするとこれは、まったくこの社会の現実でもあり、主流派の経済学の出発点である。そして第二に、自由な市場なるものにしても、所有権の割り当てがあって初めて発動するのであって、この割り当ては自由についての規則の設定でもある。ではその割り当てはなんであり、そこに割り当てられる自由はどんな自由か。
なにもわかってはいないと自分のことを思う。だから考えてみる。するといくらでも考えることがあってしまう。『私的所有論』という本は、多く「生命倫理」についての本として受け止められ、それはそれで間違いではなく、そしてありがたいのだが、私はそんなことを考えようと思って書いた。もちろん、なにかについて決定権があることと近代的な意味での所有権があることとは重なり、そして決定の権利の一つのありよう、決定についての一つの論理が「自己決定権」という考え方なのだから、さらにその論理は、すこし調べて考えてみれば近代的な意味での「私的所有権」の論理と相同のものなのだから、市場について考えることと生命倫理について考えることとは共通性を持つ。さらに言えば、さきほどの「及び腰」は、単に現実の変更の困難に対する悲観だけに発しているのでなく、どこかで守るべきものとしての「私のもの」「自己決定」があるだろうという思いにも発しているだろう。ならば行わないとならないのは、それを限界付けつつ、別様に肯定することのはずである。
こんなことを考える時、歴史を見ることの意味がもう一度現われてくるように思う。というか、私にとっては、先に述べた大言壮語的でなおかつ「学問」として確立したりはしなかった問いの歴史、「能力」や「自己決定」を巡る逡巡の歴史が考えることを始めさせた。それは単に何ごとかが「社会的」であったり、「歴史的」であったりする「相対的」なものであることを指摘して終わる――それは結局とても単純なところで落ち着いてしまう、あるいは行き止まってしまう――ことができず、どちらをとるか、どのような態度をとるかという、なにかとなにかとの間での逡巡だったのであり、そしてそのような問いが、いまこれから正面に据えられてよいと先ほど述べた問いなのである。そして考え出すと、私たちはたった三〇年前のことを忘れている。少なくとも記録されていない。だから知ること、そしてそれをもう少し冷たく、しかし問いを受け取りながら、考え直してみることだと思う。単著としては二冊目となる論文集として
『弱くある自由へ』
が公刊された(青土社、二〇〇〇年)。そのいくつかの章でこのことを述べ、どのように考えるべきことが現われ、どこまでのことが言われたのかを、少し、追っている。
もちろんもう一つに、そんな素人の場から、様々な学の蓄積を学ぶこと。例えば政治哲学、法哲学。米国という国は、日本のように茫漠とした煮え切らない行く末の定まらない問いに見舞われない代わりに、見舞われなかったために、ある範囲の内側で、かなり詰めた議論が行われた。ロールズがいて(初期の)ノージックがいて、共同体主義とリベラリズムの間の議論、論争があった。そっくりその土俵に乗る必要はないにしても、あそこまで詰められた議論はやはり使える。創文社では法哲学叢書等の中に受け取るべきものが多い。(リバタリアニズムの主張を少し気にし、『私的所有論』に書いたことの一部をもう少し考えて書いた論文は、来年『思想』の所有論の特集に
「自由の平等・1」
として掲載される。)
そうして国家や国境へと考えることを進めること。単純に不思議なことがある。「二一世紀に向けての国家戦略」といったことを始終言う人たちがいる。つまり、国家が経営されるべきものとしてある。しかもそれらの人は自由主義者を名乗ってしまったりするのだ。なぜそうなってしまうのか。また例えば「介護」と呼ばれる行いがあり、制度として公的介護保険が始まったりしている。お金の問題などはいろいろあるだろうが、それ自体はとても単純なことのように見える。しかしそうではないと思う。このことについての考察が先に記した『弱くある自由へ』という本のかなりの部分を占める。
国家がなにをどこまでするべきなのか、あるいはできるのか。例えば国家は「尊厳」をもって人を遇することができるのか、「承認」にどのように関わるのか、関わることができるのかという問いがある。言われてみればそれは難しいかもしれない、と思う。しかしそのように断ずることもまた単純すぎるように私には思われる。
そしてそれと別の場では資源の問題が語られ「経済」が語られる。「少子高齢化」で人手が足りなくなるという。だが足りないとはどういうことなのか。自明のようにも思えるが、わかるようでわからない。かつて人口の量と質に対する危機感が「優生学」を作動させたのだが、この社会を覆っているある種の危機感はそれとどこがどれほど違うのだろう。そうやってがんばらないと日本は「国際競争」の中でやっていけないと言われる。仮にその通りだとして、そこで考えることは終わりになるか。ならないと思う。『思想』二〇〇〇年二月号・三月号に掲載された「選好・生産・国境――分配の制約について」で少し考えてみた。それは先の「自由の平等」といった文章の後につながり、さらにいくらでも考えることがあると思う諸主題についての考察と連接され、やがて社会的分配、福祉国家を巡る少し長い本になるだろう。それは結局、やはり退屈だと言われるだろうか。だが少なくとも私はおもしろいし、おもしろがってもらえる可能性があると思って考えている。(
http://www.arsvi.com
にも情報があります。ご覧ください。)
■言及
◆立岩 真也 2012/**/**
『分かること逃れることなど――身体の現代・1』
(仮題),みすず書房
◆立岩 真也 2018
『不如意の身体――病障害とある社会』
,青土社
UP:2000 REV:20120620, 20180818
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『私的所有論』
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『弱くある自由へ』
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「自由の平等」
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立岩 真也
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