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闘争と遡行

立岩 真也 1998/10/31
STS Network Japan シンポジウム「医療問題は科学論で語れるか」
於:京都大学
→『STS NETWORK JAPAN Yearbook '99』:43-48


第22回シンポジウム 医療問題は科学論で語れるか(pp.32-61)
佐藤純一/蔵田伸雄/立岩真也 がまず話し
それを受けて 松山圭子/小林傳司 がコメントする
続いて質疑応答という構成 司会は横山輝雄
『STS NETWORK JAPAN Yearbook '99』には質疑応答以外が収録されている。
以下は収録もされている立岩の最初の発言

STS NETWORK JAPANのホームページは
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立岩真也(信州大学)

 はじめまして、立岩です。呼んでいただいてありがとうございます。シンポジウムというのは、今も昔もおそるべきものがいっぱいあって、横に座っている人とはたしてどういう接点があるのか分からないことがある。非常に悲しいというか、虚しい思いをすることがたいへん多いんです。世の中にはなんとお金が余っているところがあって、そのお金を消化するために何だかよく分からない人を何人か集めてきて、喋らせて、シンポジウムが終わってしまう。今日のシンポジウムは、それよりだいぶいいなと僕は思っていまして、なんだか明るい未来が見えてきた気がします。
 さて、持ち時間が20分くらいですから、ごくごくシンプルな話をして、込み入った話はまた後でということにしたいと思います。とりあえず、僕が今やりたいと思っていることを喋ればいいかな、と思っています。レジュメの類はありません。皆さんにお配りした3枚の紙はチラシです。折り込み広告の類ですので、そういうものとして受け取っていただければと思います。
 僕の場合、大きく言って二つやりたいことがある。いずれも、医療に関係する社会学・社会科学、社会科学とは限らないかもしれませんが、そこでやらなきゃいけないんじゃないかと思うことです。使える時間の制約とかあって、一人で二股をかけてよいのか迷うところですが、二股をかけると、片方だけだと見えないことが見えたりすることがあるので、できるだけ二股をかけながらやっていきたいと思っています。
 その一つは、どっちかと言うと社会学っぽいっていうことになりましょうか。もう一つは、倫理というものですかね。そういうところに関係する話になると思うんです。それでタイトルが「闘争と遡行」です。後の方で時間があったら、二つともやっていくっていうことの意味もお話しするかもしれません。
 まず、一つめの話をしたいと思います。さきほど佐藤さんの方から、「イン・メディスン」、「オブ・メディスン」という話が出ました。もちろん、ある業界の中にいて、業界が円滑に運営されるようにするには統計学は必要かもしれないし、社会調査も必要かもしれない。そういう意味で、役に立つ社会学というのもあっていいんでしょう。ただまあ、役に立ち方もいろいろあるわけです。
 業界の方の学も、役に立つことがよい方の役に立つことなら、存在してかまわない。けれども、それとはまた違うところに、医療社会学のおもしろさがあるんだろうと思うんです。今回の講演のお話をいただいた時に、タイトルを「お客さんの医療社会学」というのにしようかと思った。僕自身が今勤めているのは、医療関係の学校です。だからある程度のことを知ることはできつつ、ではあるけれども、その業界の外側にいることができます。社会的な立場として、そういう外側にいられることのしあわせをできる限り満喫して、そこで言えることを言っていく、これはけっこうおもしろいし、おもしろいだけでなく、大切なことだと思うんです。
 たとえば、看護学というのがあります。医学は独立した基盤があるので自らの存在を主張する必要はないのですが、看護学というのはそうじゃありませんから、自分たちを存在させるべく、いろいろとがんばっている。基本的には、看護をやっている人たちの看護学です。そうすると、看護学というのは、看護という自己を弁明し、正当化し、自分たちの社会的地位を高めるために、最終的には存在するわけです。そうじゃなければ、あの人たちは看護学をやらないわけです。それはそれでたいへんよく分かるんです。
 しかし僕はですね、その外側に立ってちょっと考えてみたい。看護学なら看護学、あるいは医学なら医学というものが、けっして主題にしようとしない具体的なテーマというのがあるからです。こういうものは重要であるんだけれども、学会の中にはけっして上がってこないということだったりするんです。そんなことも含めて、やっぱりそういう社会学というのは僕はおもしろいなと思っています。
 たとえば八百屋さんがいますね。八百屋さんは野菜に関するプロフェッショナルですが、八百屋さんの資格はないです。食品衛生に関わる免許はあったりはしますが。これに対して、看護婦さんには制度としての資格がある。医者にも資格がある。たとえば、そういう差がある。専門性なら専門性が、そこで言われるわけです。ところが八百屋さんは、専門家ですけれど、自分で自分が専門家であるということを仰々しく言ったりしない。しかし、ある種の業界では、専門性というものがことさらに問題にされて、それに関する言説が山のように積み上がっている。たとえばそういったことに素朴に疑問を持ってみる、ということですね。(以上について「資格職と専門性」、進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』、世界思想社、1999年)
 お客さんというのには、外野席に座って傍観しているお客さんという意味もありますけれど、もう一つには、普通のお客さんという意味もある。医療というのは、一つのサービス業でもあります。ところが、そのお客さんの学というのはない。供給サイドの学問はある。供給者にとっては自分の商売に関わることですから、ある種の学問を確立したり、確立しようとがんばったりする。ところが、放っておくだけでは、お客さんの学というのは成立しないのです。とすれば、消費者運動の一環みたいにして、お客さんの医療社会学というものをやってみたらおもしろいのではないか。それはどこかで行き詰まったりするのかもしれないんですが、僕としては限界までとりあえずやってみようと思う。つまり、医療をサービス業と捉えると、他のサービス業と比べて、どうもこの業界ではお客さんの位置が異なる。なぜ違うのだろうかということを、基本から考えていくという仕事がけっこうおもしろいなと感じる。非常に当たり前のことなんですが、その当たり前の仕事が、まだまだ十分に行われていないというような感じがするわけです。
 繰り返しになりますが、医療というのはサービス業です。産業かどうかは分かりませんが、とりあえずそれを仕事にする人がいるわけですから、サービス「業」です。財源は公的な財源で賄われていますが、サービス業であることには変わりません。ということで、二段構えになっているわけですね。医療保険で資源が供給されているということと、消費者コントロールの兼ね合いというのも、もちろん考えなくてはならないんです。これはけっこうおもしろいことです。医療の場合は、サービスを行うための資金が社会的に供給されるべきだということを前提とした上で話が成り立っている。普通のマーケットの中で行われているサービス業とは違うということを踏まえた上で、なおかつ普通のサービス業と医療というものの差をとるというような、小学生のように単純なところから考えてもよいと僕は思っています。
 ここは科学論に関係する人の集まりなので、つけ加えてちょっと言いますが、たとえば科学なり科学・技術は、完全にマーケットの世界の中に存在しているのではなくて、好きであろうが嫌いであろうが、我々の税金が使われている。このことをもっと不思議に思ってみてよい。これに関する正当性の議論というのを、すでにやってらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、やってみるとたいへんにおもしろいと思います。
 方法論として、医療というものは不思議であるという感覚を持ち続ける。たぶん不思議だと思うから医療というものを考え始めるのだと思いますけれど、その不思議であるという感覚を持ち続ける一つの方法として、たとえば普通の第三次産業、サービス業と医療の差というのに着目し続ける。その差というものは、どういうかたちで説明できるのかということを考え続け、あるいは調べ続けてみる。そんなことをやってみたらおもしろいんじゃないかなと僕は思って、やっているわけです。いろいろ考えた末に、その差というのはやっぱり必要だ、ということになればそれでいいのかもしれません。少なくとも、この部分の差は要らないんだ、ということになる可能性もある。僕はそういう部分はいっぱいあると思うんです。もしもそういうことが分かったとしたら、じゃあそこのところはどういうかたちで手直しをしていこうかとか、壊してしまおうかとか、そういう話ができるんだろうと思う。
 そういうことを僕は、やってきたといえばやってきたんです。医療についても、特に「オブ・メディスン」という方向の医療社会学にはそういう部分がある。ただ、もっとやってもいい。もっと素朴に、もっと単純な疑問から出発してもよい。やってみたけれど、そんなにたいした結果が出なかった、という可能性もなくはない。でもとりあえずそういうことを僕はやってみたいなと思って、ここしばらくそういう関係の仕事をやっています。タネを明かせば、もともと僕は医療社会学をやっているわけじゃなくて、隣接領域ではありますけれど、いわゆる福祉サービスに関する既存のシステムのありかたに抵抗する、それを批判する、そして別の供給システムというものを提示しようとしてきた、そういうタイプの消費者運動、社会運動ですね、そういったものとのつきあいが十数年あります。そういったところを経た上で、たとえば医療ないし医療周辺の業界というものを見渡してみると、その不思議さが増すというか、おもしろさが増すというか、気持ち悪さも増すんです。そういったこともいっさい含めて、そういった視点での医療社会学というものが、きわめて単純なものではあるけれども、もっともっとやられてよい。これからやることが多くて、僕は楽しいなと思っています。
 患者の権利なら患者の権利、あるいは自己決定権については、蔵田さんが最後に言われたことと、だいたい同意見なんです。そういうものを前提した上で、それがどういうかたちで実現できるか、あるいはどういうメカニズムゆえに実現できていないのか、ということを調べる。これがここまでのお話でした。それはそれでやればいいんだけれども、これとは別に、もう一つ、白黒自体がはっきりしていないという領域があるんですね。
 僕の前半の話というのは、基本的に少なくとも僕の中では白黒ははっきりしている。お客さんの立場、お客さんサイドにいる。少なくとも、普通のサービス産業と同じくらいには、消費者主権なら消費者主権というものが貫かれてよい。それを阻害するメカニズムが何か、それを除去していく装置は何か、そういうことを考えていくということでした。ただ、白黒はっきりしていない領域というのも、やっぱり残される。それが、科学論というものと関係するかしないか、僕は知りませんけれども、そういったものがある。そういったものも、どこかで僕らは気になってしまうわけですし、考えてしまうわけですし、考えちゃいるんだけど考えがまだ足りなくて、まだ何だかよく分からない、そういうことがある。
 科学・技術というのは何かといえば、科学というのは、基本的には分かるということ、知ることだということになっていますね。技術というのは、何かを作ることであり、何かを変えることであるわけです。それが社会で私たちが生きていることにどういう意味合いを持つんだろうか、それについて私たちはどう判断したらよいのかということを考えていく、というのもおもしろいぞと思っているんです。分からないこと、白黒がはっきりしないことがいっぱいあって、去年、出版させていただいた『私的所有論』(勁草書房)という本は、こちらの話にウエイトを置いています。
 私たちの社会というのは、ある程度分からないことがある、ということをどこかで前提として含み込んだ上で成立している。あるいは、変えられないということを含み込んだ上で成立している部分がある。あるいは、変わるか変わらないか分からない、というところを前提とした上で、いろいろなものが成り立っているというところがあるわけですね。これは考えてみれば誰でも知っていることです。
 たとえば、教育というものは、「俺はどうせここまでさ」って言うのに対して、先生が「いや、君はがんばれればできるかもしれない」って言うことにおいて成立している部分があったりする。やってみたらやっぱり駄目なんだけれども、その時はもう時間が経っていてしまっていて、過去の責任は問われない。そういうことで、教育というものがある程度成り立っているのかもしれません。この間ひとつ文章を書いたのですが(「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」、『現代思想』1998年9月号、特集:遺伝子操作)、もっと素朴なところで言えば、たとえば保険というのはそういうものですね。将来、事故に遭うかどうか分からない、病気になるかどうか分からない、ということがあるから、心配だから、保険というものをかける。そうして我々は私的な保険会社に加入し、保険会社が成立する。
 政治哲学とかそういう分野に話がいけば時間がなくなりますが、社会契約論と言われているもののある種のタイプというのは、将来、何かまずいことがあるかもしれないからみんな仲良くしましょうよ、みたいなところで社会制度の正当性を論じたり、社会秩序の必要性を論じたりしているわけです。そういう意味では、知らないことと変わらないことというのが、ある種の社会の組み立て方の前提になっている。ところが、分からないはずのある部分が分かるようになってしまったり、変えられないと思っていた部分が変えられるようになってしまったということがあったとしましょう。あるいは、少なくとも論理的には考えられるとしましょう。そうしたら、その時に私たちは、それをどう考えるか。モデルとして考えてみて、そういうことが起こったとき、今までそれを前提として組み立てられていた社会ないしは社会の部品の部分、それがどのように変容していくのか。そういった分析を踏まえた上で、私たちはそういったものを、どういうふに受け入れるのか、受け入れないのか、あるいは、全面的に受け入れるということができないのであれば、どこまで受け入れるのか、受け入れないのか。その根拠は何なのか。そういうことを考えてみるということが、僕のもう一方の仕事としてあります。
 時間がありませんから、あと2分でやめますけれども、僕がいま申し上げた二つの話が相互に関係していると思うんです。学問ですから、分業して仲良く分け合ってやっていけばいいとも思うんですが、時間が足りなかったり、仕事がやりきれなかったりということもあるんだけれども、僕としてはどっちかというと両方を考えていきたい。
 どういう例を出したらよいのか、たとえば、僕は自己決定ということを一方で強固に主張したいし、それを擁護するためのシステムというものを何らかのかたちで作っていかなくちゃならない、今あるものを変えていかなくちゃならない、と確信しています。そのための仕事をしていきたいと思う。ただ一方で、自己決定なら自己決定という言い方で済まない部分もあるということも感じる。そういう話を本に書いたわけだけれど。そして、両方の思いはどこかで両立しているはずです。これは臆断というか、ただそうだろうという程度の話でしかないんですが、そういうものを両方やる。そういうことによって、たとえば自己決定なら自己決定というものの位置がですね、これがある程度はっきりする。じゃあどういうかたちで組んでいくのかというという話が、より明確にできるだろうというふうに僕は思っています。
 またクオリティ・オブ・ライフ(QOL)という言葉にしてもですね、医療政策をやっている人たちは、どこかでとてもオプティミスティックです。QOLを高めるために何だかんだしなきゃいけないっていうふうに言うわけです。でも、それ以外のことを考え、QOLならQOLというものが、歴史的に、あるいは現在の文脈において、どういうふうに使用されたのかに思いを馳せたらどうでしょう。QOLというものをポジティブに規定する、あるいはQOLというものを測定する、つまりそれに基づいて何かを行うことの危険性と言いますか、危うさという部分に気づかざるをえない。しかし他方で、どこかで私たちは、生活の質をある意味で至極当然のものとして考えている。気持ち悪く生きているよりは、気持ちよく生きていたいよな、ということなんです。こういうあたりのことを否定するのではないし、誰だって気持ちよく生きていたい、という意味でのQOLというものが維持されるべきことを当然としつつ、ただ、ある文脈でそういうものが用いられる時には、消費者による直接選択の不可能性みたいなことが生じており、医療サイドによるQOLの測定とか、それに基づく評価というのは、これにかなり関係している。そういうことをどういうふうに位置づけ、あるいはどういうふうにQOLについて「語らない」か、ということを考えることができる、と僕は思っています。
 とりあえず方向性の違う話を二つしましたが、僕は時間がある限り、二つの仕事を同時にやっていきたいと思っています。皆さんのお考えになっていること、あるいは科学論というものと、それがどういうふうに関係があるのか、あるいはないのか、議論の中で深めていければと思います。どうもありがとうございました。



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