以下の本に再録されました(pp.198-199)
藤原書店編集部 編 20061230 『いのちの叫び』,藤原書店,217p. ISBN-10: 489434551X ISBN-13: 978-4894345515 2100 [amazon] ※
「安楽死」のことが気にかかっている。原語を直訳すれば「よい死」。よいものはよい、とはまずはその通りだろう。しかし「よい死」とか「よい生」とか、きっとまじめな思いから発せられる言葉なのだろうし、今の病院や医療のあり方を思えばもっともな事情もあるのだが、しかしまじめなだけに、つらい言葉のようにも思う。
身体的な苦痛は、適切に対処――これがこの国ではなかなかなされないのだが――がなされればなんとかなる。だから医師による積極的な処置(自殺幇助)の求めはそこから来るのではない。自力で死ねないということは、自分のことができなくなっているということ。いわゆる積極的安楽死の場合、これだけが自殺一般を志す理由に加わる。なにかと自分ができる方がよいだろうとは思うし、それができなくなっていくのはつらいことだ。しかし死にたくないという思いと天秤に載せて、そちらの方が重いというのは、考えてみるとなかなかのことだ。それは、自らを、そして世界を制御することにおいて、人は人であり、人の生は人の生であるという私たちの社会の「人間の価値」「生の価値」のあり方に発する。
つまり弱い人が死ぬのではない。強い人、よい人、強くよい人でありたい人が死のうとする。しかし考えてみると、この価値は、人をたくさん働かせるのには役に立つが、それ以上でもそれ以下でもない。そのことをはっきりさせようと思って、そしてその上でどうやって弱いままでいることができるのかを考えたいと思って、私は『私的所有論』(勁草書房)という本を書いたのだし、その前、共著で『生の技法』(藤原書店)を書いた時もそのことを思っていた。
このことについてもう一つ、「経済」が持ち出される。つまり、人を支える資源には制約があって云々。もちろんそれに対して、いのちはもっと大切なものだと人は言うし、私もそうなのだろうとは思う。けれどもこの種の話を一度は正面から受け止めて考えておいた方がよいと思って『思想』の二月号と三月号掲載の「選好・生産・国境――分配の制約について」で考えてみた。
この死の決定という主題についてもいくつか書いたものを踏まえ、まとめたいと思う。ひとまずホームページ「五〇音順索引」から「安楽死」をご覧ください。
注記:
『機』掲載にあたり、紙数の制約のために、第4段落を一部変更した。
その結果は以下。(20000322)
このことについてもう一つ、「経済」が持ち出される。つまり、人を支える資源には制約があって云々。信じる必要はない。ただこの種の話を一度は正面から受け止めて考えておいた方がよいと思って『思想』の二月号と三月号掲載の「選好・生産・国境――分配の制約について」で考えてみた。