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所有 [英]property、[仏]propriete、[独]Eigentum

立岩 真也 20../15
『政治学事典』:514-515,弘文堂
弘文堂:http://koubundou.co.jp/
『政治学事典』http://www.koubundou.co.jp/subsite/kbn8170/


  *この文章は、新たに注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

  所有は、なにかを現に所持していることとは別の水準にあり、所有と所有権とを切り離すことはできない。なにをだれのものとするかについて規則がなにもなくとも深刻な不満や対立が生じないこともありえなくはないにせよ、多くの場合、法によるあるいは習俗の水準でのなんらかの規則がある。つまり、所有(権)の問題とは、なにについて、誰が、どのような権利を有するのか、そしてそれはどのような根拠によってどのように正当化されるのかまた批判されるのかである。その規則はさまざまでありうるし、実際、地域により時代により多様性をみせる。その中の一つに近代的な所有が位置づく。
  近代的な所有の基本的なあり方は「私的所有」であるとされる。そしてこの語はしばしば共有(共同所有)に対置される。しかしこれは誤解を招きやすい。一人一人の個人に財に対する権利が与えられるとは、世界の財を人間の数で分割するということであり、そのあり方は無限にありうる。この一人一人がある範囲の財について権利をもつというあり方の中の一つとして、近代社会における所有、近代の私的所有がある。その特殊なあり方とは、生産者が生産物に対する所有権を有するものとされることである。これは、生まれながらの属性によって受け取るものが定まっている属性主義、帰属原理の社会から、業績主義(能力主義)、業績原理の社会へという移行に対応するものでもある。
  現代の経済学は、この最初の分割のあり方、所有の初期値のあり方についてほとんど問題にすることなく、もっぱら初期値の決定以後について論を組み立てる。だが、とくに所有形態の変更の時期には、近代的所有権を正当化しようとする論が現われた。それにはいくつか種類があるとされ、それらはその根拠に合意(契約)、先占、労働といった契機を置くと言われる。しかしこれらは生産物の取得権の正当化の要素として並列されるものではない。契約というだけではどのような契約がなされるかは特定されない。先に対象に手をかけた(先占)人にその対象の所有が認められるという論は、対象に対するいくらかの能動性を見込んでいる点で、生産物に対する所有権という主張に近づく。結局、一つの正当化は、生産者がそれを作ったからその生産物に対して労働者・生産者が権利を有するという筋のものであり、合意論では、これがさらに人々の間で合意された(ものとする)という論の運びになる。ロック、カント、ヘーゲルといった政治哲学者たちがこうした議論をし、そしてそれは現代ではリバータリアン(であった時期)のノージックなどにも流れ、そして現代の生命倫理学の発想の中にも受け継がれている。対象に対する制御、制御能が基礎に置かれ、その制御能は人間の価値を表示するものともされるのである。
  もう一つの私的所有の正当化は、機能主義的な正当化である。つまり、生産した者に相応の利益を与えることをしなければ、生産が十分に行なわれないだろうと言う。こうした議論は古くはアリストテレスまで遡ることができ、現在でも頻繁に持ち出される。
  ただもちろん、現実は、生産物がそのまま働く者に属するのでなく、生産財を所有し、労働者を雇用する側に所有される経過を辿った。これを問題にし、これがもたらす結果を批判し、別の所有の形態をもたらそうとする社会主義運動が起こり、その主導権をとったマルクス主義の主張が20世紀の前半以降一部地域で実現をみる。国家がまずは財を所有し、生産と流通を管理し、適切な分配をもたらそうとした。しかし、集権的な決定の失敗によって、そして決定に関わる特権者層の生成、その腐敗によって、それはうまく機能せず、また批判された。さらに、私的所有の正当化の第二の根拠、貢献に応じて所有させることで人はよく働くという人間のあり方がこの体制でなくなったのでもなかった。試みは失敗に終わるか、少なくとも経済については自らが脱しようとしたところに戻ることになった。そして結局、混合経済、福祉国家という路線が現実的なものとして残った。だがその選択も、なにが目指されるべきか、所有、私的所有をどう考えるのか、はっきりさせられた上でのことではなく、またその内部ではなお国家や市場の評価についての大きな対立がある。
  だからなお基本的なところが考えられるべきである。私的所有は決定の分散に等値され、それに国家による所有・財の管理が対置させられ、後者が批判され、その批判はその限りで当たってはいた。しかしそれは近代の私的所有そのものを正当化するのではないし、また私的所有の本質を問題化してもいない。また、マルクス主義の主張にしても、本来の生産者・労働者が生産物を受け取るべきことを主張する限りでは、あるいは、生産が協働としてあるゆえ生産物も共有されるべきだという論拠で共有を主張するのであれば、それ自体は近代の私的所有の主張と同じ土俵に立ち、その原則からの逸脱を告発しているのである。それでよいのかが問われる。先の第一の正当化は、実は正当化されるべき結論をなぞるにすぎない。第二の根拠は、人が自らの利を求める人である限り、たしかに私的所有の有効性を示すが、同時に私的所有の相対化、限定的な使用の可能性も示唆する。所有にまつわる近代の信仰を解体した上で、なにを基礎的な価値とし、どのような所有の機構を構想するか、その試みは終わっていない。
  以上は、所有の対象の全体集合をいったん所与として、それに対して誰が権利を有するのかという問いだった。同時にもう一つ、なにについてのどのような権利かが問題である。もっとも広くとった場合には、誰かがなにかに対して権利を有するその権利を所有権と言うのだから、所有権は権利総体と等しい。ただ多く所有権とは「財」に対する権利だとされる。さらに狭く、所有の対象として通常想定され、例えば日本の民法で規定されるのは有体物である。だがもちろん権利、規則が問われる対象は物体に限らない。現に情報あるいは人間の生体や生命に関わるものについての権利が今日的な問題として取り上げられる。
  近代の所有権は自由な処分権だとされる。入会地など改変や処分はできないが一定の限度内での利用は認められるといった多様な所有のあり方がいったん解体、整理され、排他的・包括的な権利としての所有権となったとされる。しかし、この社会においても、保有されることは認められるが、処分、あるいは処分の請求については制約のあるものがある。例えば生命の維持に関わるような身体の部分、というより生命そのものについては、その人に所有権があるからその人に交換を請求する権利もまたあるとはされていない。「所有」や「財産」と訳される英語やフランス語は「固有のもの」と訳すこともできるのだが、その人に固有なものとは、処分、譲渡の交渉の対象としてならないものだということはないか。固有性と処分可能性という相異なる要素が同じ語のもとに包含されていること自体に近代における所有のあり方の特殊性を見出すこともできる。ある人がこの社会では所有権を有しそして譲渡しようとするものはその人の固有性に関わらないのだから、その所有権は本来は正当化されない、制限されてよいとも考えられるのである。自然に対する権利のありようにも関わり、譲渡、不可侵性、固有性を巡る問題もまた解かれ終わっていない。 なにが一人一人のものとされ、なにが共有のものとされるのがよいのか。そしてさまざまなものについてどこまでのどのような権利を認めるのか。例えば知的所有権を巡る新しい事態が生じたから所有が問われているだけではない。あたりまえにあるもの、世界にあるすべてのものについての所有のあり方が基本的なところから考えられてよいのである。

[文献]
John Locke, Two Treatises of Goverment, 1689(ロック著/鵜飼信成訳『市民政府論』岩波文庫,1968)
Marcel, Gabriel Etre et avoir, Aubier, 1935(マルセル著/山本信訳「存在と所有」,『ヤスパース/マルセル』(世界の名著続13),中央公論社,1976)
C.B.Macpherson, The Political Theory of Possesive Individualism, Oxford Univ. Press., 1962(マクファーソン著/藤野渉・将積茂・瀬沼長一郎訳『所有的個人主義の政治理論』,合同出版,1980)
Alan Ryan Property, Open Univ. Press, 1987(ライアン著/森村進・桜井徹訳『所有』,昭和堂,1993)
立岩真也『私的所有論』勁草書房,1997
森村進『ロック所有論の再生』有斐閣,1997
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