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パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども

立岩 真也 1999/08/02 於:札幌市
全日本育成会「本人活動支援者セミナー」,パネル・ディスカッション


 以下資料集のために送付した「原稿」?

           …………

 本文,ちょうど42字×30行です。
 タイトルを,つけるとすれば
 「パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」
 立岩 真也
 (肩書:信州大学医療技術短期大学部助教授(専攻:社会学))

           …………

 すぐにできること、すべきことはたくさんあります。しかしここではあえて理屈を少し…。
 「パターナリズム・自己決定が微妙な問題になるのは、A:その人自らに対する危害(と思えてしまうこと)がその人の自己決定として行われる場面と、B:その人に私たちが「よいもの」を与えようとする場面…。Bはパターナリズムとして…行なわれるしかない部分があることを述べた。しかし、自己決定は大切であり、パターナリズムは危険であると言いうる。
 理由の一つはごく単純…である。「こうした方がよい。」と言う人の都合が入ってくるから…。「お前のためだ。」と言うが、実は自分の都合でしかないことがある。…親子喧嘩に限られない。患者の自己決定や障害者の自己決定は、このような状況において、このような状況に抗して主張された。このことの意味はとても大きい。そして、だまされないように、他人にすきなように扱われないために、もし本人がそれを有効な戦略として使えるなら、自分で自分を主張し決定できるようになることは…教えられた方がよい。
 次に、私たちのその時々の自分勝手というよりもっと大きな基本的な意味で、パターナリズムは「私たち」の側のものである。こうすればお前のためになる、生きやすいというのは嘘でなく、本心「わが子のため」であったりするのだが、その子の生きやすさとは結局この社会の中での生きやすさのことであり、それはあくまで私たちのものである他ない。そうやって私たちの社会を押し付けている。この社会から完全に抜け出すことはできず、また抜け出す必要もないのだから、それで当然だとも言えなくはない。しかし…(略)
 …教えることの中に、生きていくための様々な「手段」を教えることがある。…まったく必要なことである。しかし、存在は存在それ自体において肯定されるのだとすれば、生きていることと生きているための手段の獲得とは別のことである。だから、第三に、手段は手段として、手段であることがわかるように教えればよい。手段である限り、人はそれを自らから切り放し、使ったり使わなかったりすることができるのだから、それは、「与えられる」ものではなくなる。そう考えるなら、与えられなくてはならないものなどそうはない。…生産はないと困る。でも本当はあなたがどうしてもしないとならないのではない。しかしそんなことを言っていると皆がやらないかもしれないからいちおう各自が働くように、自分のことは自分でやれと言う。そうして動いてくれた方が都合がよい。こういう部分を教えることから外すことはできないだろう。しかし、事情をはっきりとさせることはできる。教えるが、教えるわけはこの程度のことでしかないと、手のうちをあかせばよい。」(後藤弘子編『少年非行と子どもたち』(子どもの人権双書5)、明石書店、近刊、の原稿の一部)(ホームページを見ていただければ幸いです。EメイルはTAE01303@nifty.ne.jpへ)

◆後藤 弘子 編 19990831 『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5,264p. ISBN:4-7503-1178-2 1890 [amazon][kinokuniya] ※



立岩 真也
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