性の「主体」/性の〈主体〉
信州大学医療技術短期大学部助教授
立岩 真也
第35回日本=性研究会議「性の主体性」講演・シンポジウムの記録
第36回の会議資料に再録
この講演は以下の本に再録されました。
◇立岩 真也・村上 潔 2011/12/05 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon]/[kinokuniya] ※ w02, f04
今日は、性の「主体」と、性の<主体>という、その二重性についてお話ししようと思います。基本的には2つの話です。
このお話をいただいたときに思い出した人物が1人います。それは、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーです。彼は最後の著作として『性の歴史』という有名な本を書いています。この本は、多分もっと先があったはずなんですが、第3巻まで書かれたところで彼は亡くなってしまいました。
こんなことを言うことが何らかの意味を持つかどうかわかりませんけれども、彼は同性愛であることを公表しており、そして、HIVに感染し、エイズを発症し、そしてみずから死を選ぶという形で亡くなった。その死の直前まで書いていた本が、未完に終わった『性の歴史』という本です。この本は、私たちが――私は社会学をやっておりますけれども――、社会学、歴史学、総じて社会科学が性というものを扱おうとするときに、非常に大きな意味を持った著作であったのではないかと思います。
そこに書かれている内容を紹介することがここでの目的ではありませんので、詳しくは述べませんけれども、1つに、彼が特にその第1巻で強調したのは、19世紀のヨーロッパ社会――ビクトリア朝時代というふうに言われたりしますが――に対する我々のとらえ方への異議なのです。
我々は、19世紀という時代、社会というものが、基本的に性に対して非常に抑圧的な、抑制的な道徳、規範というものを持っていて、それが20世紀、フロイトなどを経て、次第次第に解放というところに向かっていったと考えていました。つまり、20世紀になって初めて、性の禁圧の時代から解放の時代へ向かうという、そういう歴史があったんだととらえてきたのです。それに対して、フーコーは異議を唱えたのです。
彼は、19世紀に書かれたもの――それは公にされたものも、日記のようなたぐいのものも含めてですけれども――を丹念に調べた結果、この世紀において性というものが非常に頻繁に語られるようになってきた、言説の水準に上ってくるようになってきたということを見いだし、強調しているのです。
例えば日記の中に、“私”という主語において、みずからの性というものが書き込まれてきている、私の性というものが私にとって主題になってきている。そしてまた、医療の言説の中にも性というものが浮かび上がってきている。そのありさまを、彼は提示しているのです。
そして、その中で彼は“主体化”という言葉を使っています。フランス語で“assujettissement”という言葉がありますが、それが“主体化”と訳されたのです。一般には“従属”などと訳される場合が多いはずです。英語で“主体”というのは“subject”であり、フランス語では“sujet”ですが、ご存じのように、“主体”という言葉は形容詞として使われる場合に、“〜に従属する”とか“〜に支配される”といった意味もまた含んでいます。フーコーはそのことを知っていて、そういった二重性というものを込めて“主体性”、“主体化”という言葉を使ったわけです。
すなわち、何かの主体になるということは、何らかのメカニズムのもとでは、何かに従属する、権力に支配される、ということにつながっていく可能性がある。また、性について語るという場面においても、――もちろん語られ方ということがあっての上ですけれども、そこでも我々は、ある種の権力というものに巻き込まれていってしまう。歴史的に見てそういうことがあったのだと、彼は著書で述べているわけです。
今述べたことがどういうメカニズムで言えるのかということは、彼の本を読んでいただくしかありません。ただ、命題として今言ったたことは、我々が汲み取っておくべき、どこか頭の隅に置いておくべきことであると思っています。
・ ・ ・
以上のような前置きをした上で、2つの話をしたいと思います。
すなわち「性の主体」あるいは「性の主体性」と言うとき、少なくとも2つの意味があるだろうということ。そして、この2つは、互いに関係しているのだけれども、どこかで微妙に違っており、その違いをクリアにしながら考えていくということが、性――性だけに限りませんが――を考えていく上で大切なのではないだろうか。そういうことを、許される時間内で申し上げようと思います。
2つのことというのを、仮にここではαとβとします。
α:身体や性に対して「主体」であると、また主体であるべきだと、はっきり言わなくてはならない場合があります。それはまず、侵入・侵害によって苦痛を受けるのはその人であり、また快を感じたりするのもその人であって、そうした苦痛を防ぐため、また妨げられずに快を得られるために、その人に権利を認める等々のことが必要だからです。
β:身体・性・他者…を制御できること、その意味で所有・領有していることに価値が与えられることがあります。そして、それがやはり〈主体性〉と呼ばれます。同時に、受動的であること、不如意であること、それらがあらかじめ負の価値のほうに割り当てられることになります。
[以下、書籍再録により略]
討議
司会 宮原忍
シンポジスト
立岩 真也
高橋 都
斎藤有紀子
平川 和子
宮原 先ほどのお話につい補足することがございましたら、どうぞ。まず立岩先生から。
立岩 少しだけ補足します。きょうは、特に医療に関係する場面のお話が多く、そういう中で、クライアントの権利、自己決定権というものをどういう形で尊重するのかというお話が多かったように思います。それについては、まったく僕も同感で、僕の話もいろんな意味で関係がなくはないように思います。
典型的なところでは、自分がコントロールしたいという対象が他者に及ぶ場合、それが一番極端には身体的な暴力として発現するような場合という、深刻なケースがいくつも出たわけですが、それだけではなくて、自分に向かう――自分の身体に向かう、あるいは自分の性に向かうということも、やはりあるわけです。
それは、ある意味で何かを対象としている自分は主体であるという意味では主体性と言えるのだけれども、実は、身体に対する、あるいは性に対するそういう対し方こそが、さまざまな苦しさ、厳しさを生じさせているのではないか。とすれば、そこにも目を向けなければいけないんじゃないかということです。それは、例えば性的な障害をもっていた場合に、そのことに対して自分がどう感じるかといったことにも関係すると思います。その辺で、みなさんのお話と僕の話とつながりがあるのではないかと思いました。
宮原 立岩先生には主体性の侵害、もっといいますと、性についてウエルビーイングといいますか、あるべき状態というものが欠如しているというお話をいただいたと、理解しております。
高橋先生には、病気と性についての関わりをお話しいただきました。……
(略)
立岩 質問というか、日ごろ考えていることを少し話します。
僕は、フィールドとして、身体に障害のある人たちの暮らしを追っているんですが、近年になって、身体に障害のある人、それから知的な障害のある人たちが、自分たちの性についてどういうふうに思ってきて、どういうふうにしたいのか、そういうことを言うようになってきました。
もちろん、ご存じの方はたくさんいらっしゃると思いますが、身体に障害がある人たちがそういうことをしゃべり出したのは、日本だと80年代の初めぐらいからだと思います。何冊か、本当にいい本が出てます。
それから、95〜96年にかけて、今度は特に知的な障害がある人たちのサイドで、やはり性についての発言が出てきています。もちろん身体に障害がある人の場合にも、頸椎損傷の男性の場合どうかとか、ケースによって問題が微妙に異なり、簡単に整理はできませんが、自分の思いを主張する人が出てくる。並行して、そういうことに関係する海外の動きなども入ってくるということが、ここ10年、20年の間にあったと思うんですね。
まず、そういう人たちが何を言っているのかということを聞く。別に、全部受け入れる必要はないと思いますが、わからないわけですから、わからないことには耳を傾けたほうがいい。そういう人たちが主張していることというのは一体何なんだろうかということを、正確に知ってるのかというと、まだそうじゃないと思うんです。
病気の場合、なったばっかりだと、「どう思ってるの?」と言われても、ちょっと答えづらいところがあるかもしれないけれど、障害者の場合、多くはずっと障害を抱えてきていますから、性についてどう考えるかということも割と長い間考えてきたということがある。それで、こうしてほしい、ああしてほしいということが出てくる。こうしてほしいんだ、ああしてほしいんだということが出てきたときに、それを 100%受け入れるということには、必ずしもならないと思うんです。「でも、そんなことはできないわ」っていうことになるかもしれない。そのときに、それは社会的に保障できるのかできないのかを考える。
彼らの主張を、考えるべきテーマとして、私たちが今までどれだけ取り上げてこれたのかというと、僕はちょっと疑問なんです。そういうことから、まずやるべきだというふうに思います。
そういう意味では、まず当事者たちの声を、大きい声だったらそれをそのまま聞く。つぶやきだったら、どうやってそれを大きな声にしていくのかということを考える。それを聞いた上で、何か教育のプログラムをつくっていくというふうになるのが順序ではないかと、私などは思います。
というのは、性に対して今まで言われてこなかったわけじゃなくて、いろんな形で言われてはきた。例えばマスタベーションについて言われてきた歴史は百年以上あるわけです。だから、それは言説が空白だったわけではなくて、むしろある種の言説というものが、例えばある種の障害をもつ人たちの性を抑圧してきたというのがあるわけですね。だから、そういうことも含めて、じゃあ、本人たちは少なくともどういう希望を持っているのかということを知るということが、まず必要ではないか。
僕は性的な被害においても、それから、かなり性格の違うことですけれども、病気あるいは障害のある人たちの性ということに関しても、それに対する専門家というのが、何か力をつけてきて、こうなんだとプログラムを提示する前に、時間をとって、待って、言われたことを聞いた上で、疑問を感じて、その疑問について考えるというプロセスを、歯がゆくても経る必要があるんじゃないか、そうじゃないと、そんなによくならないじゃないかという感じがしてます。
もう一つ、僕は医療サイドにそういうことをやってもらうということに対してはわりと批判的です。たしかに今よりはよくなると思います。よくなるとは思いますが、しょせん、医師というのは技術者ですから、わからない部分がやっぱりある。そういう人たちに、もう少しわかるようにしようという教育も大切ですが、そちらにあまり過大な期待をかけるということは、僕は非現実的だと考えます。
となると、別のサイドの人たちがどういう形でそういう場にかかわってこれるのかを、現実的に考えなくてはいけない。そういう人たちと医師が協力していくシステムというのを病院内に、そして病院外につくっていくということ。それが有効な方法なんじゃないでしょうか。
例えば話を聞く人というのは、はたして医療サイドの専門家だけなのか。僕はそうじゃないと思う。例えば障害者の性に関して一番アドバイスできるのは、同じ障害を持つ人たちでした。ということを考えると、そういう仕事を専門職が独占するというやり方も拙速であるかもしれず、むしろみずからの経験も踏まえて話を聞き、相談にしても、もっと当事者が参画できる余地を広げていくことが必要なんじゃないかと思う。
重ねていいますが、医療サイドの人に私はこういう仕事を任せたくないのです。簡単にいうと、適していないと思いますので、別の人たちがやらなければいけない。別の人たちがやった上で、医療サイドはそれと連携しなければいけないというふうに思います。
そして、別の人の中には、当事者が一定以上含まれていなければならない。あるいはそういう人たちに対して従来の専門家が協力していく形がいい。ある種のカウンセリングのテクニックを伝授するとか、ある種の知識を教えるとか、そういった方向に物事が進んでいくといいのではないかと、私は考えます。
(以下略)
……以上……