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お題目でも愚痴でもなく自己決定を考えよう

信州大学医療技術短期大学部・立岩 真也(社会学) 1999/05/22
第47回日本医療社会事業全国大会・第19回日本医療社会事業学会


 *抄録集に掲載

  @『私的所有論』,勁草書房(1997)/A「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7:57-75(1998)/B「なにより,でないが,とても,大切なもの――自己決定する自立」,長瀬修・石川准編『障害学への招待』,明石書店(1999)C「パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」,後藤弘子編『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5(近刊)/D「死の決定について」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版(近刊)
  基本的なことは@で述べた。以下は@&主にCから。ホームページhttp://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm*の「50音順索引」→「自己決定」等も参照のこと。お問合せはTAE01303@nifty.ne.jpへ。

 *変更(2002〜)→http://www.arsvi.com

  「良心的であるほど、その人は悩むのだが、しかしそこにしばしば欠けているのは、(少なくとも自分だけが「悩む義務」がないのと同時に)自分には「悩む権利」がないのだという当たり前のことの自覚である。悩む(悩んでしまうほど良心的である)ことと(過剰な)自尊はしばしば相伴って現われ、それが決定を他の人達に渡そうとしないことにもつながってしまう。」(@p.144) 以下はCより
  「パターナリズムとは、その人のために、その人の決定でないことを行うことである。この言葉は自己決定に対置される言葉とされ、そして一般に否定的な意味で使われる。しかし、自己決定とそうでないものと、両者は正反対のものなのだろうか。……決定を尊重するのは、その人を尊重すること、尊重することの一部……だが、……尊重しようとすることの中に、時にその人自身の言うことと反することがある場合がある。 ……自己決定の承認とパターナリズムによる行いは、少なくとも時に、同じところから発している。したがって、同じ人がどちらを採ろうと思って悩んでも、それは不思議なことではないし、その思い自体は矛盾しているのでもない。さてどう考えるか。

6 答1・自己決定について
  ……多くの場合、その人にとってのここちよさ/わるさはその人が知っている……その当然のことがいちいち意識されなくなり、決定するのが面倒になり、時には他人にまかせてしまえる状態になることも……当然のことであるべきなのである。次に、後で確認するように、その人が決定を握らないと、他人によいようにされてしまう。だから、決定権が認められねばならない。
  ……基底的な場面では、勝手にすること、自由にすること自体が重要なのではない。むしろすべてがあなたの自由になったら、その世界はあなたに耐えがたいものであるはずだ……。「決めたようにやってよい」とされること自体が大切なのだ。
  あなたが私に自由を与えること、あなたが私にまかせること、そして私がそのことを受け止めることによって、私は自らを肯定する。私が存在することの偶然はいつまでたってもなくなりはしないのだが、しかしそんな存在である私は、それでもあなたから何かを私に委ねられる。このことは、私が在ることにとって創設的なこと、私が在ることそのものに関わる……

7 答2・教えることと与えることについて
  ……よいものを与えようとすることについて……行なわれるしかない部分がある……。しかし、自己決定は大切であり、パターナリズムは危険であると言いうる。
  理由の一つはごく単純で……「こうした方がよい。」と言う人の都合が入ってくるからである。「お前のためだ。」と言うが、実は自分の都合でしかないことがある。はっきり親の都合だとわかっていれば、それはそれですっきりはするのだが、実は親の都合であるのに、そうでないと言われる。親子喧嘩に限られない。患者の自己決定や障害者の自己決定は、このような状況において、このような状況に抗して主張された。このことの意味はとても大きい。……
  次に……もっと大きな基本的な意味で、パターナリズムは「私たち」の側のものである。こうすればお前のためになる、生きやすいというのは嘘でなく、本心「わが子のため」であったりするのだが、その子の生きやすさとは結局この社会の中での生きやすさのことであり、それはあくまで私たちのものである他ない。そうやって私たちの社会を押し付けている。……それで当然だとも言えなくはない。しかし次のような問いを考えてみる。「教えることも治療することもあなたは認める。ならば人をよくするために遺伝子の組成を変えることも同じくよいことではないか。」……「たしかにそう違わない。しかし少しだけ違う。教える時には、教えられる側に抵抗する可能性が残されている。」と答える。だから第二点は、教えることの成功は予め保障されてはならない……ということだ。
  ……手段を教え与えることはまったく必要なことである。しかし、存在は存在それ自体において肯定されるのだとすれば、生きていることと生きているための手段の獲得とは別のことである。だから、第三に、手段は手段として、手段であることがわかるように教えればよい。……

8 答3・願うことと伝えること
  ……なおその人自身の決心や行ないを、そのまま認められないと感じてしまうことについて。特にその人が自らへの害をなしている、なそうとしていると思える時、そう感じてしまう。ここにパターナリズムが入ってきてしまう大きな理由の一つがある。そして、パターナリズムを導き寄せ同時にそれを警戒させる条件が二つある。
  一つは時間である。未来はわからない。そして選び直せない。だからその人の言うことか本当によいのかどうか、本人にもそして誰にも本当はわからない。……わからなさを通して、パターナリズムは入ってくる。他方、「明日であればあの人は別のことを思うだろう。思うかもしれない。」と思い、その人自身が言うことと違うことをする、してしまうことがあるだろう。
  一つは言葉と存在との関係である。語っていることと例えば表情に現われているものとが明らかに違うことはあり、後者がその人を示していると思えることはある。日常の言葉のやりとりにしても、言われたことだけではなく、言葉の発せられ方からより多くが伝わることがある。……言葉によって存在を代表させることはできない……しかし言葉でないものを解釈するのだと言って、数多くのいいかげんなことがなされ、介入し侵害する行ないが行なわれてもきたのだし、ゆえに、それに対する抵抗が存在したのだし今も存在するのである。……」


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立岩 真也
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