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Tateiwa
高橋さんの死を悼む
立岩 真也 1999/03/19
『CILたちかわ通信』
高橋さんに初めて会ったのは、1986年だっただろうか。そのころ私たちは、「自立生活」のことを調べようということになって、安積遊歩(当時はまだ純子でやっていた)に紹介してもらっていろんな人に会って話を聞いていた。その何番目かに会ったのが高橋さんだった。それ以来何度か。一番会った回数が多かったかもしれない。福島県の療護施設を訪ねた後、宿に泊まって本の内容を討論するという旅にもつきあってもらった。
『生の技法』(藤原書店)という本は1990年にできた。その第6章の扉の写真は、10年ほど前の高橋さんの写真だ。次の年、1991年、自立生活センター・立川が始まった。肉屋さんの裏にある平屋の古い一軒家だった。それからたくさんのことがあった。私も少しだけ立川の活動に関わらせてももらった。会議が終わると駅前の黒潮で酒を飲んだ。もっとたくさん飲めばよかった。学生の調査実習でもお世話になった。実習を終えた学生の誰もが一番覚えている人は高橋さんだった(報告書の一部をホームページ
http://www.arsvi.comの高橋さん追悼の欄に掲載)。1997年には山田昭義さんや中西正司さんたちと、調査旅行で10日ほどロンドンに行った。私と高橋さんは同じ部屋で、ダイアナ妃が死んだとかいうテレビを見たりしたのだ。インド料理屋でカレーを食べて真っ赤になったり、ベトナム料理屋の前で車椅子がこけたり。寝酒はビールだった。(でも仕事はきつかった。&イギリス料理がまずかったから外に食べに行ったのだ。)
高橋さんがやったことは、現実にいきどおって嘆くだけでなく、いきどおりながら、そこで実際に何ができるのかを考えてやったことだ。突撃・団体交渉型の介護制度の要求運動と、それとかなり異質な民間在宅福祉団体的活動を組み合わせ、使い分けていくというやり方は、彼自身がすごく悩んだ上で選んだ方法だった。高橋さんがいたから、とまでは言わない。けれど、1980年代後半から1990年代の障害者運動のもっとも力強い部分が辿った道は、まったく高橋さんが悩みがら通ってきた道なのだった。理想家肌の運動家だけでも、商人的あるいは行政官吏的実務家だけでも通れない道だった。理想を持ち続けながら、同時に「勝つためのいくさ」をするということの厳しさとその魅力を、私たちは彼から、彼がやってきたことから感じた。彼は取るべきものを取るための戦略をもって臨んだ。雨が降ろうが雪が降ろうが、傘をさして、市役所の課長さんがやってくるのを役所の前で待ちかまえるといったこともやった。何もないところから作っていくというその大きな流れを象徴するような人だった。障害者の運動は、これからもっと大きくなるとともに、より難しい舵取りを迫られる部分もでてくるだろう。私は、これから高橋さんは、これまでの10年より、ある面じゃあ――というのは高橋さんの口癖だった――厄介なところに乗り込んでいくのだと思っていた。そう思っていたら亡くなってしまった。
高橋さんは、自身、武闘派と称していたし、役所のブラックリストに載っているのだそうだった。そして何を言ってて何に怒っているのかよくわからない時もあった。でも、優しい人だった。自分でやっていることを過信しない人でもあった。そして自分の弱さを隠さない人だった。繊細であり、繊細である自分を自分で笑ってしまうような繊細な人だった。彼がいなくなって、とても悲しくて寂しい。
*2001年に現代書館から出る本に、立岩が高橋さんのことを書いた文章が載ります。
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『自立生活運動と障害文化』