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近代/脱近代という正しさ/危うさ

Modern / Postmodern : Significant and Risky Scheme

立岩 真也
TATEIWA Shinya 信州大学医療技術短期大学部

1999/05/26 『保健医療社会学論集』10(日本保健医療社会学会



   Modern / Postmodern scheme is significant in making us conscious that
   our age and our society is only one of those which can exist. But at the
same time, this scheme has made us stop thinking further. We should think
what system we choose and why we choose it and how we can make it.

   キーワード:近代 医療社会学 医療者・患者関係 自己決定 医療化

I.近代/脱近代の効用
 「業界学」(〇〇職の〇〇学)には確かに相対化の視点が欠けている、あるいは不足している。「現場」にいるとかえって疑う力が弱くなることがある。自分がどういう場にいてものを考え、しゃべっているのかという自覚の仕方として「近代」という括り方は一つに有効だと思う。つまり、今あるものは他でもありうるものであり、比較されうる対象であり、正負が評価されるべきものであることを認識すること。別のシステムが構想されうると考えること。そして実際、例えば近代(医療…)は批判されてしかるべきものだとも思う。「近代/脱近代」という把握は、ともかくも最初のところから疑問に思う、という志向を持っていたのであり、それは今なお、あるいは今こそ、必要とされている。
 それは社会学をやっている分にはそう実感しないかもしれない。「相対化」は社会学の本業だから。しかしどこでもそうではない。例えば、ある種の学問は「専門性」の確立をその学問の目的に掲げる。福祉学が福祉学の確立を、看護学が看護学の確立を目標にする。しかし専門家・専門化は批判の対象とされたのではなかったか。その批判は重要なものだったと私は考える。専門性が必要でないと言うのではない。こうした問いかけの意味を考えること、なぜ自分達は専門性を主張しているのかを冷静に考えてみることが必要なのだ。だが、なかなかそうならない。そんな意味で、近代の相対化は今なお必要であると考える。

U.次の仕事
 ただ、「近代を問う」という構えの問い方もそれなりの歴史があって、ある年代以降のある者達にとっては、仕事を始める最初にそれはあった。繰り返すと、そういう「大風呂敷」はあってよいものだと、今でも私は考えている。ただ、その上で、大切なことは、雑駁な議論をしないことだ。何を近代とするのか、その何が、なぜいけないのか。そして、そこから私達は脱することができるのか。そうした問いを続けるのでなければ、近代/脱近代という図式(だけで)は大雑把すぎる。「近代」をはじめとする様々な語が、意味のはっきりしないスローガンとして、例えば(かつては)肯定的なもの全般を表わす語としして、(やがては)否定的なものを漠然と指す語として用いられる。それだけで終わっては仕方がない。それは、現実との対応が不明であるために、空中で分解し霧散してしまうか、あるいは、後述するように妙な現実的な効果をもたらしてしまうのである。
 近代には悪いところもあるが良いところもあるといった「中庸」を勧めているわけではない。問いを詰めるのでなければ空疎であって、少しも、何にも、届かないだろうというのである。一つに、近代とは何であるのか、具体的な検証を積み重ねていくしかない。この社会は、具体的な時間と空間をもった存在としてあったのだし、今もある。そしてそれは、そんなに単純な時間・空間ではない。歴史と現実の機制を解析すること(1)。 例えば市野川容孝がそうした仕事を行なっている。
 同時に、もう一つ提起したいのは、論理の道筋をはっきりさせること、そしてこの領域において価値判断が重要な部分となる以上、その価値前提をはっきりさせることである。

V.例えば「自己決定」等
 例えば「自己決定」。仮にそれは近代のものだと――これ自体疑いうるが――言えたとしよう。だがもちろん、それが近代のものだからよいとも、近代のものだからよくないとも、言えない。それはなにゆえにどこまで肯定され、あるいは何ゆえにどこまで限界づけられるのか(2)。 これについて、近代/脱近代を語る言説も、他のものも、満足なことを言ってくれていない。そして語られることは不十分であるだけでない。自己決定を近代的、あるいは欧米的、あるいは米国的なものと捉え、批判し、脱近代的あるいは伝統的、東洋的あるいは日本的なものを対置してそれを賞揚する者達がいる。

 「わが国では、これまで患者の側に、「すべて先生におまかせします」という傾向があった。医師の側にも、「患者のことは自分が最もよく知っている。誠意をもって、最善を尽くすのだから、すべて自分にまかせてくれればよい」という考えが、かなり根強く存在していた。このことが、患者の信頼と医師の最善の努力を通して、従来、医療によい効果を与えてきたことも否定できない。…わが国のこれまでの医療の歴史、文化的な背景、国民性、国民感情などを十分に考えながら、わが国に適した「説明と同意」が行われるようにしたいものである。」(日本医師会生命倫理懇談会「『説明と同意』についての報告」『ジュリスト』950(1990-2-15)p.151、森岡13)pp.184-210、土屋14)に引用)
 「患者の人権の擁護、医療における患者の自己決定権、インフォームド・コンセントの尊重という文脈の中で、例外を除けば”親子の情”として行われてきた医療の原則が崩れ、医療は医師と患者との民法上の契約という意味あいが強くなってくる。…しかし、こういった診療形態は確かにわかりやすいが、そこには良き時代の医師と患者の間の暖かい人間関係はまったくみられないし、こうなって良いものなのか、心ある医師は悩む。」(森岡13)pp.53-54、土屋14)に引用)
 「ICもがん告知も、医師と患者の間のゆるぎない信頼関係がなにより大切という医師側の著者の結論は、弱い立場の患者側に身をおく者にとってはやはり心が和む。」(米沢富美子、森岡13)の書評、『朝日新聞』1994-11-27、見出しは「医師と患者を結ぶ信頼関係何より大切」)
 「いわゆる患者の自律性を強調するあまり、医療者と協調するのではなく、両者が敵対関係に立つかのごとき医療過誤をめぐる法廷闘争、パターナリズム批判の台頭が示すような医療者と専門家への不信、マス・メディアの浸透を介して信頼よりも caveat emptor (買主は警戒せよ)の横行など数限りない。医療者への信頼を失って、はたして病気は治癒するのだろうかという疑念を率直に実感せざるをえない。」(矢次15)p.50)
 「大阪医大の矢次氏(哲学)の論文は医師患者関係におけるパターナリズムとオートノミーを論じたものであるが、この関係を自律に重点を置く消費者モデルまたは契約者モデルとする見解に否定的で、医師を病者を癒す愛他的立場にあるとみるペレグリノを支持している。オートノミーの強調される今日においても、医師の行為規範にはこの愛他主義が基本的であり、論者も共感するところが多かった。」(塚本泰司(関東中央病院、医学・医事法学)、矢次15)を収録する本の書評、『日本生命倫理学会ニューズレター』12、p.6、1997年)

 医療の供給者と利用者との関係を契約関係とすることは徒らに両者を敵対関係に置くものであってよろしくない、信頼関係が大切だと言う。例えば、利用者は非力であり、決定主体であることができず、この時、供給者がその弱さを補うような存在としてあらなくてはならないと言う。しかしこれはとても不思議なことだと言わねばならない。そして、この不思議さがそれとして了解されているかどうかも疑わしく、不思議が不思議として受け取られないこと自体がこの場を編成しているのだと言える。
 第一に、論理的に繋がらない。仮に、A:病者=利用者に十全な決定能力、あるいは決定の意志がないとしよう。この時、では、B:医療の供給者に決定を行う権限があると言えるか。言えない。Aに決定が不在であることは、Bに決定が委ねられることをいささかも意味しないのである。たしかに、その場にAとBしかおらず、Aの決定が不在であり、しかも決定が余儀ないものであり、Bが決定するしかないような、あるいはBが決定について悩んでしまう状況が現実に存在するだろう。しかし、ここで問題とされるべきは、そのような状況が設定されていること自体であり、なされるべきは、Bの決定を前提として議論を進めることではなく、Bに悩んでしまう権限があるのかと考えること、ないはずだというところから考え始めることである。(3)
 第二に、利用者と供給者の間には、対立の可能性が、つねにその対立が現実化されるのではないにしても、現実的な可能性として存在する。このことを閑却して「信頼関係」云々を言うのは、まったく現実的ではない。(4)
 第三に、供給者側の能力の問題である。仮に、医療という技術を提供する存在が、利用者の意向を尊重しつつ、決定のあり様に(も)関与する存在であってもよい場合があるとしよう。しかしその供給者にそれを担えるだけの能力があるか。これは、個々人の資質のあり方というより、職業や職業教育の構造に関わることである。(5)
 つまり、主張されている要素aと要素bが論理的につながるか、aは必然的にbを導くか、また、普通に考えていけばこういう関係であるはずなのに、そのことがふまえられているか、ある主張を認める場合には、当然一定の条件を満たしてないといけないのだが、はたして現実にそうか、これらを検討すべきだということである。これは実証研究のあり方にも関わる。もし〇〇を主張するなら、当然△△は必要条件でとなる、では実際にその条件は存在するのか、調べてみたら、存在しなかった、とすると、〇〇という主張をとりさげるか、△△という条件を満たすようにしなくてはならない、…。
 以上では、これらを吟味すべきだとする側の価値は明示されていないのだが、もし患者=利用者がよりましなサービスを受けようと思うなら、そしてそのことを当然のこととして受け入れるならどうするのがよいかという思考と、以上とは接続するようにはなっている。「自己決定」だけで押していけない部分はある。それを示す多くの事例もある。ただ、このような場合にこそ、分けて、一つ一つ考えていく、その作業を通して全体を見る必要がある。であるのに、そうした作業が十分に行われていない。例えば、自己決定の困難、あるいは自己決定を正当化の根拠とすることへの懐疑が、医療者への「信頼」へと滑っていく。まったくまずは驚愕するほかないこの滑稽で悲惨な状況を、社会学者はもっと正面から批判してよいと思う。こうしたことを検討しつつ、自己決定を限界づけつつ肯定していく、肯定しつつ限界づけていくことが必要であり、また可能であると考える。
 このように、当たり前と言えば当たり前のことを一つ一つ当たり前に考えていくことをいくつもやっていくこと。例えば、「医療化」というお馴染みの用語がある。これは医療社会学では批判的な意味を込めて使われてきた。こういう感覚さえほとんど存在しないという医療現場の状況であるからには、――社会学が得意であるところの――「疑ってみる」「相対化してみる」こと自体、やはり相当の意味があるのだな、とは思う。ただ、その何が変なのか。何がいけないのか。そういうことがあまりはっきりされていないように思う。最初からはっきりはしていない、これは当然だと思う。ただ、いつまでもはっきりしないのは困る。@(近代)医学の語で、概念枠組みの中で記述されることだろうか。Aそれに基づいて、(近代的)医療システムのもとで処置されることだろうか。Bそういう記述−認識・実践が「日常世界」に侵入してくること、「日常世界」を変質させてしまうことだろうか。Bなど「実感」としてはわかる。しかし、もう少し考えを進める必要がある。その上で、ひとまず考えられる以下の選択肢のどれをとるかを考えてみることである。
 1)「否定する」「なくす」。しかし(たいていこの場面で批判者は腰くだけになり)それは無理だということになる。しかしほんとうに無理なのか、なぜ無理なのか考えてみてもよい。2)「よくする」。「医療がよくなる」「医者がよくなる」「患者の日常世界をよく理解した医者になる」等。これしかないとされる。だが、それは可能か。そしてこれだけが選ぶものとしてあるのか。3)代わりに、「局限する」「見限る」という選択肢もあるかもしれない。「医者は医者のする仕事だけしていればよいのだ」、というように。
 2)はどちらかいうと「内属」した視点からなされる。そして自然とそうなってしまう。そういう「力」が働いているからだ。だが、3)もまた、ありうる途としてある。そして実際、こうした途を行こうという現実の動きは起こっている。これは医療というシステム、あるいは具体的に医師なら医師という人達と、他のシステム、人々の生活との間の関係をどうとるかという問題でもある。このことを考えていくと、医療の限界を画するという方向の方がよいのかもしれないのである。
 そして以上から、医療社会学が行ってきたことを検証してもよい。さすがに医療社会学は、3)を見ないほど素朴ではない。ただ、「内属」してしまっていく言説・実践がどのような機制によって成立していると考えるのか。それは、医療という実践が他に比べて固有に特異なものだからだろうか。もしかしてそうではないかもしれない、と考えてみること。医療社会学は多くの事実を明らかにしてきた。ただ、ある前提を立てた時に導かれる帰結は何か、それと現実との偏差は何か、といった問いの立て方が自覚的に採用されることはあまりなく、そしてこのことは、医療という領域を特殊なものとして語る言説空間そして医療実践の空間に、それを解明の対象とする「学」が巻き込まれてしまうことに繋がりはしないか。また代わりに何を構想するかという構想力を欠けさせることにならないか。(6)
 このようなことを気にしながら、例えば「ケア」について、それが位置づく位置について17-21)、あるいは「専門性」について22)、あるいは「QOL」について23)考えてみたらおもしろいと私は思う。もう一度繰り返すと、何かを考えていくためには、その何かがいったん突き放され、問われるべき対象となることが必要であり、(例えば近代/脱近代という)元気な二元論はその端緒を与える一つのものではある。大言壮語を馬鹿にしてはならないということだ。ただ、懐疑するという構え、相対化という視点を与えられた私達は、感謝しつつ、その先へと仕事を進めたらよい。

【注】
(1) その仕事を著書1)で行なった。問いの方向や仕事の方法論に関わる言及は第1章・第7章で多くなされている。なお本稿は、シンポジウムでの報告に際し求められて作成した文章以外の部分は、上記の著書で述べたことの一部、学会報告2)の一部であり、新たに考察して書かれたものではない。また紙数の関係上本稿に記載することのできない関連情報はホームページ(http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm*)に掲載している。
(2) 著書1)(第4章3節等)他3-12)で考察。この主題について別書を用意する。
(3) 「良心的であるほど、その人は悩むのだが、しかしそこにしばしば欠けているのは、(少なくとも自分だけが「悩む義務」がないのと同時に)自分には「悩む権利」がないのだという当たり前のことの自覚である。悩む(悩んでしまうほど良心的である)ことと(過剰な)自尊はしばしば相伴って現われ、それが決定を他の人達に渡そうとしないことにもつながってしまう。」1)p.144、この章の注16および7等も参照のこと)
(4) 「問題を生じさせてしまう関係自体の問題性が消去され、権利を侵害する可能性を有する側の「良心」の問題として語られてしまうことの倒錯、この倒錯を倒錯としない倒錯…。「信頼関係」はきっと大切なものではあるだろう。しかし、良心や心構えでどうこうなるというものではない構造的な要因が絡んでいるからこそ、「患者の自己決定」や「インフォームド・コンセント」が主張されてきたのであり…」(1)pp.142-144)「対立しうる要因」については、別の文章3) でも述べた。さらに注意すべきことは、当事者(=利用者)と直接の供給者の間の関係だけに対立の可能性があるのでないこと、そして、対立(の可能性)だけがあるのではないことである。「自己決定を認めることはひとまず(1)@周囲にとって負担だが、A周囲の利害に添う決定だったら利益になる。(2)@決定を本人に委ねることによって心理的な負荷を免れることがありうるが、Aその本人にかかった負荷が周囲に波及するなら結局周囲にとっても負担になりうる。」(1)p.131)別の文章4)でより詳しく述べた。またこのような視点から「安楽死」について論じた5)。
(5) 末期医療に関し医師が担おうとするが担う準備もなく実際に担っていない役割について佐伯・山崎16)。これは実証研究としての成功例である。cf.本文の次の段落の後半。
(6) 「社会学は医療を特別視しすぎてないか…例えば専門性自体は医療に限られず、「専門家支配」もどこでも生じうる」(1)p.168)

【文献】(*印のあるものは注1に記したホームページに全文を掲載)
1) 立岩真也:私的所有論,勁草書房,東京,1997.
2) 立岩真也:彎曲する空間――医療に介入する社会学・序説2,日本社会学会第70回大会報告,1997*
3) 立岩真也:医療に介入する社会学・序説,病と医療の社会学(岩波講座現代社会学14),93-108,岩波書店,東京,1996
4) 立岩真也:私が決めることの難しさ――空疎でない自己決定論のために,太田省一編,分析・現代社会――制度/身体/物語,154-184,八千代出版,東京,1997
5) 立岩真也:彎曲する空間――医療に介入する社会学・序説2,日本社会学会第70回大会報告,1997.*
6) 立岩真也:都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について,仏教,42,85-93,法藏舘,京都,1998
7) 立岩真也:一九七〇年,現代思想,26-2,216-233,青土社,東京,1998.
8) 立岩真也:空虚な〜堅い〜緩い・自己決定,現代思想,26-7,57-75,青土社,東京,1998
9) 立岩真也:自己決定→自己責任,という誤り――むしろ決定を可能にし,支え,補うこと,福祉展望,23,18-25,東京都社会福祉協議会,東京,1998*
10) 立岩真也:自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの,石川准・長瀬修編,障害学への招待,明石書店,東京,1999
11) 立岩真也:死の決定について,大庭健・鷲田清一編,所有のエチカ,ナカニシヤ出版,京都,1999(近刊)
12) 立岩真也:パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども,後藤弘子編,少年非行と子どもたち,明石書店,東京,1999(近刊)
13) 森岡恭彦:インフォームド・コンセント,日本放送出版協会,東京,1994
14) 土屋 貴志:インフォームド・コンセント,佐藤純一・黒田浩一郎編,医療神話の社会学,217-241,世界思想社,京都,1998
15) 矢次正利:医療と人間の疎外,太田富雄編,現代医療の光と影,40-63,晃洋書房,京都,1996
16) 佐伯みか・山崎喜比古:末期患者の意向尊重をめぐる医師の役割認知に関する研究,保健医療社会学論集,7,26-36,日本保健医療社会学会,東京,1996
17) 立岩真也:私が決め,社会が支える,のを当事者が支える,安積純子他,生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学・増補改訂版,227-265,藤原書店,東京,1995
18) 立岩真也:だれが「ケア」を語っているのか,RSW研究会研究会誌,19,3-27,RSW研究会,東京,1996*
19) 立岩真也:「ケア」をどこに位置させるか,家族問題研究,22,2-14,家族問題研究会,東京,1997*
20) 立岩真也:分配する最小国家の可能性について,社会学評論,49-3,426-445,日本社会学会,東京,1998*
21) 立岩真也:過剰と空白――世話することを巡る言説について,副田義也・樽川典子編,現代社会と家族政策,ミネルヴァ書房,京都,1999(近刊)
22) 立岩真也:資格職・専門性,進藤雄三・黒田浩一郎編,医療社会学を学ぶ人のために,世界思想社,京都,1999(近刊)
23) 立岩真也:大切で危険なQOL,21世紀医学フォーラム編集委員会編,21世紀医学フォーラム・京都――QOLを考える,京都,1999(近刊)*

 *http://www.arsvi.comに変更


UP:1999
日本保健医療社会学会  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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