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大切で危ないQOL

信州大学医療技術短期大学部助教授 立岩 真也
1998/09/27「第3回21世紀医学フォーラム――QOLを考える」(於:京都)で報告
21世紀医学フォーラム編集委員会編 19990531
『21世紀医学フォーラム――QOLを考える』 pp.142-147に収録


 こんにちは、立岩です。
 最初に「幸福―生きる目標とQOL―」というテーマをいただいたとき、これは私ごときがしゃべれる話じゃない、あまり夢のあるような話はできない、人生のなんたるかを言うようなことは私にはできないから、むしろ少しネガティブな話といいますか、「QOLはかなり危ない」、というようなことでも言おうかなと電話で事務局にお話しした記憶があります。それがこのスクリーンに映っている演題ということになっていますが、そういうタイトルのつもりではなかったのです。その後、「大切で危ないQOL」という題を考えてお送りしました。危ない、というか慎重に考えなければいけないという話をしたいと思います。大体二つの話になるかと思います。

 QOLというのは、生活の質、質のよい生活ということになりますが、よい生活はよい生活であって、よいものはよいに決まっている。同語反復といえば同語反復で、これ自体は当然のことです。その当然のことがなぜ今、とりわけ医療や福祉の領域で、言われなければいけないのかということはあるのですが、これは全く否定できない当然のことであるのは確かです。
 そこで、私たちは、よい生活、よいQOLは一体どういうものか考えます。
 最初に、私は「幸福―生きる目標とQOL―」というテーマをいただいたけれども、それは私には語れないと思ったと言いました。一つには、私はたかだか38年ぐらいになります人生を、ごく狭い世界でごく限られた経験をして生きてきただけでありますから、こういうことを説得力を持って語れないと思ったからです。ただ、そのような意味だけではなくて、もう少し別の意味もあると思うのですね。
 というのはこういうことです。私たちは、確かに死ぬまでは生きている。どうやって生きているか。これは人のタイプにもよると思うのですが、どういう人生がよい人生なのかあまり考えずにとりあえず生きているというようにも思うのです。そして、そのこと自体をとやかく言われることはあまりないと思うのです。もちろん、中にはよい生活とは何だろうかというふうに考える人もいる。それもまたもちろんけっこうなことではある。しかし、よい生活というのは何だろうと考えている人にとっても大抵ちゃんとした答えは出ない。そして出ないことについて人から責められたりすることはない。何がよい生活か、ときにそれは議論の種になったりするかもしれませんけれども、そのときにこのことについて2人の見解が分かれたからといって、どちらかが間違っており、どちらかが正しいということにもならない。私たちのよい人生とかよい生活というのは、そういうものであろうということ。これは、ごくごく当然のことなのですね。
 そのごくごく当然のことと、QOLのことを考えなければいけないとか、あるいはQOLを測らなければならないということとの間の距離をどう考えるかということは、実は前提的な話ではあるけれども、意外とどこかで心得ておくべき大切なことのように私は思うわけです。つまり、なぜ今になってそういうことを言わなければいけなくなっているのか。僕は、言わなければいけない、測定し評価しなければいけないと切実に思っている側の人間ですが、それを測定したり評価したりしなければいけないということの持つ意味を考えなければいけない。
 一つに、医療他の社会サービスに今まで目が向けられてこなかったということがあります。医療を受けている人あるいは障害を持って暮らしている人が、暮らしてはいるけれども快適に暮らせているだろうかというようなことに関心が向かなかった。これは当然関心が向けられるべきことですから、今そういうところに関心が向いているわけです。
 しかし、それはそれとして、我々はみずからの価値を常に問われたり、あるいは人と人の間の価値の違いをとやかく言われたりすることもないし、あるいは自身で考えることさえないかもしれないし、それでよしとされているということです。
 例えば医療なら医療の一種のクオリティ、医療が与えた結果としての生活の質を測ることはどういうことなのかを考えてみましょう。医療はサービス産業であるかどうかわかりませんが、少なくともサービス業であることは確かですから、お客様にそのサービスが満足していただけているかどうかということは、本来であれば大切なことですね。そのサービスを提供する側にいる人が、お客様の満足度を知ることによってサービスの向上に役立てていく。それを何らかのかたちで知りたいので、それを測ろうとする。これもまた当然のことであり、それが割合最近になって関心を向けられ、なされることになったこと自体不思議なことであると言わなければいけないわけです。
 ただ、もう一つ、私が最初に始めた話と関連づけて言いたいのは、例えばこういうことなのです。私たちが例えばリンゴを食べるとき、リンゴはおいしいかおいしくないかということも生活の質に関係してくるわけですが、どういうリンゴがおいしいかということは簡単に決められます。それは、AというリンゴとBというリンゴが目の前に2つあって、2つ食べてみて、その人にとっておいしいと思った方がおいしいリンゴです。とりあえずそれで済んでいるわけです。
 つまり、何を言いたいかというと、物を購入するあるいはサービスを利用する場合においても、利用者あるいは消費者が、直接的に2つを比べて、一方を除外し一方を選択することが可能であれば、とりたてて周りの人がAというリンゴとBというリンゴのいずれがおいしいかということを決める必要はないということです。
 ということは、もし今あるさまざまなサービスの提供について、直接的な消費者による評価、直接的な消費者による選択が、サービスの提供・利用の現場において、具体的に十全に機能すれば、それはそれで済むかもしれないということです。
 ですから、リンゴのおいしさが深刻に論じられたりされない。まずいと思われるリンゴは次第に淘汰されていくわけですから、それでよいことになっている。果たして今のリンゴはそうやって淘汰されておいしいリンゴになっているかどうか、個人的な好みもありますからそれはさておくとして、そういうことなのです。
 これは経済学でいえば、市場メカニズムなり価格メカニズムがうまくいく前提として、消費者に対する商品についての完全情報がある場合にはそれでうまくいくということの単なる繰り返しとも言えます。しかし、それができるのであれば、それにこしたことはないわけで、そっちの方向を追求していく可能性もどこかで考えておかなければいけない。
 ただ、たしかに医療はそれでは済まないところもあります。例えば薬だったら、比べて飲んでみても、その効果の差がわからないかもしれない。効果は何年もたってからあらわれたりするし、いろいろな要因が絡むわけですから、どの薬が効いたのかわからない。そもそも比べること自体、時間の制約などがあってできないことがある。そんなことが当然あります。
 ということで、医療の中のある種のサービスは、消費者が直接的に質を評価することが困難であることは確かです。それは、時間の問題があるし、生死の問題がある。選んだのはいいけれども、選んだ結果、死んでしまったということになると、これはえらいことになります。そうすると、一種の消費者保護といいますが、消費者の直接的な選択が期待できないというか不可能あるいは困難である場合に、それにかわるものとして何らかの行為の評価をどこかで代行して、その結果を知ってもらって、それを選択に役立ててもらう、そういうことがはじめて必要になってくるということです。
 以上で言ったことはこんなことです。測ること、医療が生活に与える効果を測定する、QOLを測定することはたしかに必要である。そして、そのためにいろいろな変数が働いているわけですから、それをどういうふうに取り出して尺度化するか、数値化するか、その技術を磨いていかなければいけない。それと同時に、直接的な評価、選択ができないあるいは困難な場合に、そういうことが初めて、非常に重要な問題になってくるのだということ、ここのところは押さえておく必要があるということです。一様な評価基準を設定することをしなくてすむならそれにこしたことはない。一様な評価基準、一様なQOLの基準には、生活の一元化の危険性が、常に、もちろんその問題性の度合いはほとんどない場合からかなり大きい場合まで様々ですが、あるからです。このことをわきまえておいた方がよいということです。
 並べたリンゴを評価し選択する理由は一々問われないわけですね。もちろん、売る側としては、何で私のところのリンゴは買ってもらえなかったのだろうということが気になっていろいろ調べたりするかもしれないが、消費者自身がそれを問われることはない。そういったモデルが医療という領域の中でどの程度可能であるのか、可能であるようにする道筋があるのなら、その方向に行けるだけ行ってみる。と同時に、それがどの程度困難であり、どの程度不可能であるのか、それを考える中でQOLを測る、QOLに基づいて評価することを位置づけていく必要があるのではないかということが一つ目のお話です。

 もう一つの話に移らせていただきます。これは今の話と関係はありますけれども、少し独立した問題です。QOLは、問題含みのものであったし、今でも問題があるという意味をどう考えていくのかということが依然としてあるということです。
 QOLという言葉を、生活の質とか生活しやすさというふうに僕らはたいてい受け取っているわけだし、もちろんそれで問題ない。その限りにおいては、何もその危険性は感じられない。しかし、例えばQOLという言葉を「生命の質」と訳してもよいわけで、実際にそのように訳してよい場面があり、そして、QOLを生命の質と訳してみると、私がこれから言いたいことが何となく感じられるかもしれません。
 そして、それは「生活の質」という一見なんらの問題のない言葉にも実は関わる。価値のある生活という言葉の裏にあるものは何だろうと考えると、無価値な生活とか無価値な生命というものとどこかで結び合うところがあります。生命の質と言われるQOLと、我々がこれから大切にしていかなければいけない価値のある生活と思っているQOLとどういう違いがあるのか、あるいはどういう関係があるのか、そういったことを私たちはこれからもずっと気にしていかなければいけないのではないかということです。
 例えば、昨年、私は『私的所有論』(勁草書房)という本を書いたのですが、その注の中でアメリカでのある事例を挙げている(pp.207-208・第5章注6)。それは、その国ではわりあい権威のあるお医者さんというか学者が、QOLの基準を設定し、実際に適用した話です。
 それは、QOLを1つの掛け算によってあらわします。その掛け算の最初にあるのは、NE、子どもの身体的な天賦の資質、体がどれだけ動かせるかとか、知能がどれだけあるかとか、そういったものです。それに次の2つを足したものを掛けるわけです。
 1つは、H、ホームに関わる。両親の結婚の情緒的安定度、両親の教育レベル、両親の財産に基づいて子どもが家族から得られるだろう支援、以上子どもが今後家族から受けられるだろう家族による支援の度合い、それを何らかの形で数値化する。もう1つは、S、ソサエティーとかソーシャルなもの。子どもが地域社会から得られる社会サービスの質です。つまり、天賦の、もともと持っている身体的、知的な能力、性質もクオリティーと言うことができるかもしれない。それに、家庭から得られる支援プラス地域社会から得られる支援を掛けたものがQL、QOLだとしたわけです。

  (天賦の資質)×〔(家庭から得られる支援)+(地域社会から得られる支援)〕
  =QOL

 そのことによって何をしたかというと、二分脊椎で生まれてくる赤ちゃんをその尺度ではかると順番がつくわけですが、その順番を適当なところで切って、ある一定の数値を超えた者に対しては治療を続行し、それ以下については積極的な治療を行わなかった。その結果、二分脊椎自体は致死的な病気ではないけれども、治療というかケアを行わなければ亡くなる場合があるということで、結局そうやって選択された一方のグループは生き残り、一方は死んでしまいました。そういう論文があり、それがある本――ナチス・ドイツの障害者「安楽死」計画について書かれた本です――の中で批判的に言及されていることを、生命を巡る「線引き」の問題を論じた章の中で紹介したのです。
 これは、そんなに昔のことではない、実際にあったことです。私は、治療停止という行い自体を100%頭から否定できるかどうかということは今申し上げられないと思います。しかし、少なくとも、こういう文脈の中でQOLという言葉が使われているということ、そしてこういうことをどう考えなければいけないのかというテーマは、重いテーマとしてあると思うのです。
 我々はどちらかというと、大切な、無害なQOLという部分に目を向け、用いてきた。しかし、両者のQOLが違うのだろうかという問いもあります。違うとしてどう違うのか。我々はそのQOLをどういう場合に使ってよくて、どういう場合に使ってはいけないのかということを、やはり考えていかざるをえない。
 今のアメリカの事例は例外的なことではありません。私は、今年の6月に日本小児神経学会でお話をさせていただき、その後の食事のときにお医者さんとお話をした。そのお医者さんは、遷延性植物状態とそれに近いかなり重い知的な障害があるお子さんにかかわっている小児科のお医者さんです。その病院では割合そういうケアは丁寧にやられていて、その技術、やり方、そういう意味でのQOLを高めるための処置を日々いろいろ工夫なさって、それを国際的な医学界の学会誌に投稿する。ところが、向こうから返ってくる返事は、研究の手法の問題であるとか科学的な問題についてのコメントではなくて、それ以前の問題がある、倫理的に不適切(ethically inadequate)な論文であると言われ、突き返されてしまう。
 つまり、QOLの尺度から言ってその人に対するケアをしても意味がないし、むしろそれは、「倫理的」に、すべきではないのに、それを行い、論文を書いたのはどういうことなのかと言われる。そういう国際的な医学界のレベルでは自分たちがやっていることは全く評価されない、あるいは逆にマイナスに評価されてしまうということを彼は嘆かれていた。そのことを私は思い出したわけです。
 これは世の東西の差だと簡単にわりきれることではありません。実際、先の二分脊椎の子どもに関する論文を批判をしたのはアメリカの人です。医療者でなく、自ら身体に障害をもつ著述家ですけれども。ただともかく、一方の流れとして、先ほど紹介したような事例がどちらかというとスタンダードといいますか、そんなに違和感なく受け入れられている世界、土壌がある。QOLが生命の存続に関わる選別のために用いられる、その人の状態を、というよりその人を評価し価値づける基準となる。そしてそれは、時には、医師による自殺幇助、「積極的安楽死」を望む人自身においても存在している。QOLの低下した状態が自らに訪れることの屈辱に耐えられないから、死を選ぶ、というようにです。そのことを一体どう考えてよいのか。

 となりますと、きょう、私は矛盾してしまうかのようなことを言ってしまったかもしれません。つまり、一方ではQOLは大切だと言い、一方では、QOLを医療の基準に使ってよいのだろうかという疑問を述べました。また一方で、何がよい生活かということを開いておく、オープンにしておく必要があると述べ、一方で、私たちのもつQOL観が問われなければならないと述べました。
 しかし、次のように考えれば、言ったことは矛盾していないのだと思います。
 生きていくで、その生活がよい生活、生活の質(QOL)が高い生活であることはよいことです。これはほとんど同語反復的にその通りです。しかし、よい生活がよいということと、そのよい生活とはどういう生活であるのかを決めるということは、また別のことです。どうやって生きていくのかということを問わなくてすむような状態がむしろ当然のことであり、それをことさらに問わねばならないということ自体を、どこかでそれでよいのかと思ってみる必要がありはしないか。そして、その人がこういう生活がよい、こういう生活でよいということがそのまま通るのであれば――ここにも常にそれでよいのか、パターナリズムをどこまで否定できるかという問題はありますけれど、しかし――それを受け止め、それがダイレクトに医療に反映されるようなメカニズムを作る必要があるだろう。
 他方で、特に医療を受ける人の直接的な意志が不在である場合、当人以外がなんらかの決定をすることを余儀なくされることがあります。また直接的な選択に頼るだけでは医療の質を保つことが困難である場合、医療の質の統制、向上という観点から、何が望ましいかを評価する必要のある場合があります。この時には、特にそれが生命の維持・存続それ自体に関わる時には、その決定の基準、評価の基準が何であるのかを厳しく問わなくてはならない。今我々が現に持ってしまっている価値、社会の中にあってしまっている価値は医療の中にも当然入ってくる。また時には、例えば「安楽死」を望む人自身の中にも入ってきている。つまり、何を価値のある命とし、何を価値のない命としているのかという、我々が今持っている価値については、不断にそれでよいのだろうかということを問い直していく必要があるのではないか。今日はこれ以上述べませんけれど、特に医療そして生命の継続や終了に関わる場面で用いられる、生命の質という意味でのQOLの使われ方には非常に危ういところがあると私は思っています。

 もちろん、以上述べたことの続きを考えることが、考えるべきことなのではあります。しかしそのことをどう私が考えるのか、それは少々、少々ですがこみいった話でもありますし、それをお話しする時間的な余裕がありません。先ほどあげた私の著書の中である程度のことを述べ、その後書いたものの中で考え、また今後書くものの中でさらに考えを進めていきたいと思っております。
 以上で私の話を終わらせていただきます。(拍手)

 問 最初のところで、QOLを測らなくてもいい状況であれば、それはそれにこしたことはないということでしょうか。それとも、測定し評価しなくてはならないし、その背景を常に忘れないでいるべきだということでしょうか。
 立岩 両方のことを申し上げたと思います。測らなくてもいいのだったら測らない方がいいかもしれない、しかし、測らなければならなければいけないときもある。その区分けをどうやっていくか。それは、現在のシステムの中で、利用者が直接的に選択するメカニズムがない状況のもとでやらなければいけないということと、しかし、そのメカニズム自体を変えられるかもしれないという可能性と、その両方が考えられるということだったと思います。


UP:1999 REV:
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