過剰と空白――世話することを巡る言説について
立岩 真也 2000/05/25
副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』,ミネルヴァ書房,pp.30-62
http://www.minervashobo.co.jp/
※ 本が品切れになっているようですので、この文章のテキストファイルを立岩からお送りします。200円です。
「はじめに」&構成
■ はじめに★01
おびただしい数の概説書、教科書、専門書、論文、テレビ・新聞の報道、講演会、入学式や卒業式や結婚式のスピーチ、等々で、「大変な社会」の到来が語られる。「高齢社会である、少子社会である、大変である、だから…」という話である。未来を憂う偉い人たちに限らない。とくに「団塊の世代」と呼ばれる人たちが、自らの数の多いことを気にしているのか、暗い。そして今どきの学生の期末レポートがその受け売りをする。
「だから」の次は、一つは、高齢者の介助(介護)にせよ、育児にせよ「社会化」して「重い家族の負担」を軽減しなければならないというものだ。(ここではこれらを一括した言葉として――とくにどんな思いも込めず――「世話すること」と呼ぶ★02。)これはずっと家族社会学や社会福祉学や女性学が言ってきたことで、その意味では今は追い風が吹いているとも言える。おおまかに言って、基本的には家族にやらせればよいという現実があり、それを支持する人々がおり、政治勢力があり、先の「学」はそうした現実と言説に対抗するという位置関係になってきた。この「学」の主張に反対しようというのではない。むしろ同じように考えている。しかし、その主張の仕方について、その意義を認めるとともに、問題点を確認し限界をはっきりさせるべきだと考える。
例えば、同じ「大変だ」が、「負担が重くなる、社会的負担には限界がある」、「子を産まなくてはならない」、「成長の維持が必要だ」といった主張につながることもあることをどう考えるのか。もちろん、そういう主張とは違うと言われるだろう。しかしどう違うのか、はっきりさせた方がよいと思う。もっと感覚的には、「大変だ」と言わないといけないとならないのかと思ってしまう。個々の家族には大変なことがあるだろう。しかし「大変な社会」とはいったいなんなのだろか。そして、たしかに事実ではあろう個々の大変さを言わなくてはならないのも、なんだかわびしく悲しい感じがしないか。
■1 言われてしまうこと
□1 「家族の介護力の低下」
□2 「保険に入るのと同じです」
□3 「専門の人にお願いした方が」
■2 義務の宛て先を変える
□1 家族に義務が課せられることの不思議さ
□2 代わりに言うべきは
■3 気持ちよさを巡る誤解
□1 近いから気持ち悪いこともある
□2 行為と負担の混同が無用な問いを生じさせる
■4 負担についてわかって言っているだろうか
□1 無償と有償は同じである
□2 誰が利益を得ているのか
□3 社会化の効率性と少子社会の豊かさ
□4 何が抑制し扇動しているのか
□5 代わりに
■注
■文献