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遺伝子の技術と社会@

―限界が示す問いと可能性が開く問い―

立岩 真也 1999 『科学』1999-03(‘科学’800号記念特集号(いま,科学の何が問われているのか)
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/<


 *この原稿は大幅に加筆・改稿されて、立岩『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録されました。よろしかったらこの本の方をご覧ください。

 わからないこと、変えられないことを前提として動いていた社会で、その前提が変更される。他の人が利用できない物について所有の規則は不要だが、利用可能になる。どうするか考えないとならなくなる。そこでそれを行う。私たちのもっている感覚を再発見し、論理によって言語化する作業が要請される。少なくとも理解すべきは、不安は論理的な必然であり、蒙昧に発するものでないことである。

■開かれる問い
 科学/技術は分かろうとする・変えようとする営みである。この営みを推進し加速しているのも社会だが、同時に、どこまで分かったらよく変えたらよいものかを考え判断しな いとならない★01。ならば、ものごとのよしあしを判断し処置する方法を定めている倫理や規則があるのだから、それを使えばよいではないか。ところがなかなかそう簡単にいかない事情がある。これは科学が今述べた性格をもつことに関わっている。
 社会規範は人が破ることができることについて存在する。例えば太陽の運行に関する規則とか、地球の自転に関する規則はない。考えずにすむこと、考えても仕方がないこと、わからないことについて、社会は考えない。これは、あらゆる可能性を網羅して予め考えておくなどということをする手間を考えたら、当然のことである。
 他方に、わからないから、変えられないからこそ存在する社会のきまり、わからないことを部品として利用している社会のしかけもある。例えば保険というものは、将来がわからないから存在している。また、教育というものが行われるに際して、「やればできる」などという、多分に怪しいがしかし将来のことはわからない以上全面的に否定もできないことが言われ、それでやる気にさせられているといったこともある。あるいは逆に、先々のことなどわからないから、日々をのほほんと暮らしているということもある。
 しかし、科学技術という営みは、わかること、できることを増やし、未知と既知、可能と不可能との境界を更新していく営みであるから、今述べた前提が技術によって変更される可能性がある。この時、規範が覆うことのできない空白の地帯が生じうる。
 それでもまず行うべきは、今まであったきまりに照らし合わせて考えてみることだろう。だがやっかいなのは、第一に、その照合作業が妥当なものかどうかの判断がそんなに易しくないことである。ある事態Aについて考えようとして、それと同様の事例Bとそれへの対応法を引合いに出してみたのだが、しかしそもそもAとBの2者は性格が異なるのではないかと言われたりする場合である。そして第二に、もっとやっかいなのは、その今までのきまりが疑問の余地のないものであるのかどうか、あらかじめ確定しているわけではないということである。こうして私たちは、科学・技術を評価するというにとどまらず、社会の規則・規範そのものについて反省すること、思考することを促されることになる。
 さらに、「遺伝子」が関わる場合、現われる問題はより社会のあり方に強く関わってくるものとなり、またその問題に正面から答えることがどうしても求められてしまう。
 二つの側面がある。α:遺伝子情報が既に一人一人にあってしまっている、書き込まれていることに関わること、他方で、β:情報や物質がさしあたり個別の人に存在しつつ、その個別の存在を越えて利用可能になるという側面。紙数の関係で、以下では問題構制の概略のみ述べる。具体的な事実には一切触れることができない。答とそれに至る論理は別のところに記した(文献は末尾に掲載)★02。

■α:人とともに既に存在してしまうことを巡る問題
 原因がわかったら原因となっているものをなくすのを正攻法としよう。だがわかったけれどどうにもならないことがずいぶんある。医学・医療の世界に限らず、珍しいことではない。ただ、遺伝子が関わる場合、この問題はより常態化してしまう。すなわち、遺伝子を解析し地図を作っていく技術はほぼ確立され、あとはどれだけ研究を蓄積していくかという段階であるのに対して、既に生まれて育ってしまった人の遺伝子情報をどうかしようというその方法はほとんど思いつくことができない★03。どうかなるのはごくごくわずかであり、それは遺伝子医療と聞いて私たち「素人」が思い浮かべることとはずいぶんと異なったものである。だがそれでお手上げになってしまうかというとそうでない。最新の発見や技術に基づいた、しかし旧来の技術的対応、社会的な対応があり、またそれらがあるからこそ、診断や診断技術の開発が行われる。これをどう考えるのかは、現状では遺伝子治療をどう考えるかという以上に大きな問題である。そして、「治療」と呼ばれるものの大きな部分も、通常のそれとは異なった性格をもつものとなる。二つに分けることができる。
 A:診断によってわかることができ、しかもわかった事態そのものを変えることができないまま診断の対象となる人は社会にいる。この時の社会の対応。
 B:わかる時点で、まだ「人」として、すなわち殺してならぬ存在として存在を始めていないことを前提としてなされる対応。
 ものごとの是非が問題になる場面で言われることの一つに、「本人がそれでよいと言っている。世間の誰にも迷惑はかけていない。ならよいではないか。」というものがある。これはこれで一つの立場である。私もそう反対ではない。しかしA・Bいずれについても言えるのは、「本人の決定」という論法が使いにくいことである。すなわち、Aについては、むしろ相手(社会)の出方の問題であり、Bについても、遺伝子診断そして治療が絡む多くの場合には、そうしてほしいとかほしくないと言う「その人」がいない。

 □A:雇用と保険
 @「雇用」。遺伝子検査をすると、ある人が他の人に比べてある病気を発病する確率が高いことがわかることがある。それで雇う雇わないを決めると、雇う側にとっては都合がよいかもしれない。この情報を得てよいのか、得た情報によって雇用を決めてよいのか、よくないのか。よくないのではないか。しかし、現実に会社は人を採用したりしなかったり、首にしたりしなかったりしている。この範疇の人はほかの人より使える可能性が高いという確率を用いて選抜することもしている。ならば、そうあてにならない学歴などで人をとるよりも遺伝子検査を使う方がまだましではないか。こう言われたらどう答えるか。
 A「保険」。保険は将来何がおこるかわからないことを前提にして成立している。私たちは将来がわからず不安だから保険に加入する。それが、遺伝子検査によってある程度のことがわかることになる。当初、保険会社がこの種の情報を入手し利用して、確率が高いと判断された人の生命保険や医療保険への加入を制限する動きに出る。遺伝子差別であるとしてこれに反対し、保険会社の動きを規制しようとする。さらにそれに保険会社側が反論し、これは正当な業務の範囲だと主張する。こんな対立の構図になっている★04。
 私は例外的な場合を除いて、雇用における遺伝子検査の利用は禁止されうると考えている。また、保険加入についても同様に考える。しかしなぜそう言いうるか。そんなに簡単ではない。というのも、雇用も保険も、私たちの社会では「契約」として行われるものである。契約は二者の意思の合致によって締結される。雇ってほしい、保険にいれてほしいという側の意向があっても、相手側がそれに応じなければ契約は結ばれない。また、雇用主も保険会社も情報の提供を無理強いしているのではない。契約にあたり必要なものとして(「インフォームド・コンセント」のために)、任意での情報提供を求めているだけである。私たちは「契約」をどう捉えるのか、捉え直すのかという問題の前に引き出される。
 さらにここから、社会制度それ自体のあり方について考えることが促される。なぜ私たちは社会をやっているのかという問いへの一つの答は、「一人だと心配だから、保険をかけておこうと思って」という答なのだが、分かる範囲が拡大していった時に、予測と選別がより容易になることがありうる。上の答からは、「この人をメンバーに加えるのは明らかに損だから入れないでおこう」となって不思議でない。それでよいか。どのような原則で社会を運営していくのかが問われる。(以上について、[1997:280-285,363-365]、特に保険との関わりについて[1998])

 □B:中絶と治療
 ある遺伝子や染色体(の異常・欠損)が既にあってしまうことから始めるのでなく、それをなんとかしようとし、そしてそれが生殖細胞に関わるものである時、行われうることは、出生の前に、したがって必然的に本人でない者の決定によって、行われることになる。
 @「中絶」。出生前の胎児あるいは受精卵の段階で、染色体やDNAを検査する。それである種の障害があるかないかがわかる。それが人工妊娠中絶に結びつく。「選択的中絶」と呼ばれる。あるいは受精卵の「廃棄」が行われる。ダウン症等がその標的となる。
 法律(母体保護法)にどう書いてあるかは別として、事実上、理由は問われず中絶は行われている。そしてここでは、事情はもっと「深刻」ではないか。だからよいではないか。しかし考えてみると、これは相当に複雑な問題である。そして、よく言われていることのいくつかは論理的に間違っていることに気づく。([1997:373ff]で考察した。)
 A「治療」。要するに正攻法で解決がつかないのがわるいのだ、みな治せるようになればよいのだと言うかもしれない。これは明らかに楽観的にすぎる。ただ、改変できる部分が拡大することは考えられる。
 様々に考慮すべき点――説明を受けた上での同意、危険性の問題、等々――はあるとしても、治療というものをたいていの場合私たちは受け入れる。とすると遺伝子治療とその他の治療はどのように違うのかという問題をまず考えてもよいと思う。関連して、ADA欠損症などの場合に、認められ行われているのは「体細胞」の遺伝子治療だが、他に「生殖細胞」の遺伝子治療がありうる。これは今のところ認められていない。また、病を除くのでなく、「よくする」ための行為も認められていない。それはなぜか、またそれでよいのかを考えることから始めてもよい。このことについて主題的に論じ公刊された文章が私にはないので(ただしcf.[1997:405,418-422])、この部分だけ長くなってしまうが以前配付した資料に書いたことを記す★05。
 「例えば外科手術はあくまで「事後」的な措置であって限界がありそうだけれども、それゆえの、結局は部品の(不完全な)修理でしかないという安心感のようなものもある。それに比して遺伝子治療についてどこか不安な感じをもつとすれば、遺伝子治療にそうと言いきれない部分があるように思っているからではないか。
 1)「神を演じている」「自然の摂理に反する」という批判がある。しかし、これに対しては(「私は神様を信じません」という揚げ足とりはおくとしても)、治療をする時に私達は既に人為的な手段を講じている、その意味では「自然」に反したことを既にやっているのだという指摘がある。この指摘はとりあえず当たっていると言わざるをえない。「人間改造」という言い方もある。しかしどんな治療にしても何かは変えているのだから、どこまでが(よからぬ)「改造」であって、どこからがそうでないのかという問題はやはり残る。だから以上はそのままでは使えない。あるいはもう少し上手に言わないといけない。
 2)「普通」の状態、「標準」の状態にすること、戻すことはかまわないが、それ以上を狙うのはよくない、「治療」と言えないという主張があるのかしれない。しかしそうすると、例えば生まれてくる子を平均的な身長はある子にすること、肥満とは言えない体重の子にすることには、それを「治療」と呼ぶかどうは別として、問題がないということにならないだろうか。
 3)人間の「本質」的な部分については手をふれてはならないという言い方があるかもしれない。しかし、背の高さは人間の「本質」だろうか。そうではないと考えるとすると、背の高さを変えることには問題がないということにもなるが、それでよいか。
 4)遺伝子は人間を規定する「プログラム」であるという意識があり、それを書き換えてしまうことの恐さのようなものがあるのだろうか。しかしこれにしても十分ではないと思う。遺伝病の原因になるものもまたある種のプログラムであるには違いないからである。これに対して、それは普通の正常なプログラムとは異なると言うことはできるかもしれない。しかし、上記したのと同じ問題が生じるだろう。つまり、どんなプログラムを書き換えてはならないのか、あるいは書き換えてよいのかという問いが残っているのである。
 5)生殖細胞の遺伝子治療の場合に特に言えることして、本人の意向がそこには存在しないということがある。ただ、医療全般においても、本人の意向をうかがえない場合にはまず治療を行う。治療を行わないなら、むしろ義務を怠ったということになるだろう。だから、本人の意志を確認しないで行なわれるのは生殖細胞の遺伝子治療の場合だけではない。
 しかしこれらはみな重要なポイントではあると思う。例えば5)。本人の意志がない場合に行なわれる治療にしても、それは通常、苦痛を取り除くために行なわれている。そして2)を別様に考えてみる。あるべき状態、あるいは標準的な状態を設定しているのは誰かと言えば、それは私達である。5)の条件を介して、そして対症療法ではなくプログラムの書き換えであることに関連して、私達の価値とか都合のよさのようなものがより大きく入ってきやすいし、少なくとも理論上、実現されやすい。1)の指摘もこのことを言っているのかもしれない。
 つまり、特に生殖細胞に関連する遺伝子「治療」について、それが本人がいない間に行われることであり、その上で、私達の「欲求」「都合」「価値」に発して行なわれうること、そしてそれが遺伝子への関与によって実現しうることに私達は危惧をいだいているのではないか。別言すれば、私達は、私達の欲求が「他者」において実現してしまってはならないと、私達の価値が及ばないところに「他者」は現われてくる(べき)ものだと――奇妙に思われるかもしれないが、しかしやはりどこかでは――考えているのではないか。そこで、その本人の身体的な苦痛を除去する以外には技術を使うべきではないと考えているのではないか。(この社会では、例えば「太り過ぎている」こともまた苦痛であるかもしれない。しかしその苦痛を与えているのは私達であるとすれば、それを個人の改造によって実現すべきではない、ということになるかもしれない。)
 とすると、いくつかの病や障害についても、同じように考え直した方がよいかもしれない。例えば(遺伝子治療ではなく、選択的中絶の対象になっているのだが)ダウン症という障害がある。主に「知的障害」として現われる。だが、それは本人にとって苦痛なものなのだろうか。その症状は様々だからいちがいに言えないとしても、私にはそう思えないところがある。とすると私達は選択的中絶を何のために行なっているのか。
 「生殖細胞」の治療は原則禁止という方針がこの先もずっと貫かれるか、私は疑問に思っている。そのためにも、「先走って」ということになるかもしれないが、考えておいた方がよいと思う。本人の身体的な苦痛以外を「治療」の根拠とすべきでない、とひとまず言ってみた。ただこれ自体そう確かな基準と言えるのか、その根拠は明確か、また、では「寿命」や「老化」のことはどう考えたらよいのか、等、たくさんのことが残されている。すぐにここで述べたような「治療」が実現することはない。だからゆっくりと考えることができるだろうと思う。」

■β:その人を離れ利用可能になる時に生ずる問題
 こうして、一方に、ある人に存在してしまう不都合なものについて、誰にどのような権利と義務があるのか、また誰にとってのどんな不都合なのかという問いがある。他方で、遺伝子情報は人々に分けもたれうるものでもあり、また有効で有用なものでもある。
 生体の一部の別の生体での利用、移動の可能性が、臓器移植であれば免疫抑制剤、生殖については体外受精等の技術によって開かれた。(完全に人工的なものでは、多くの場合、少なくとも今のところ、うまくいかない。)もちろん移動や利用の対象になるものは今までも存在していた。だが、それはその場でしか使いようがなく、他に使いようがなかったものだった。例えばその人の心臓はその人によってしか使われようがなかった。それが、技術によって移動可能になり、別の場所でも、別の人によっても使えるようになる。この時、その移動についての規則、その所有(権)に関わる規則が問題になる。
 この問いに対する答は、どんなに体のことを知っても組織を覗いても出てこない。「誰のものか」という問いが、事実あるものがどこに存在しているかという問いなら、それはたしかにそのその人の身体の中にある。けれどここではそのことが問題になっているのではない。ここにあるのは、誰が権利をもつのか、もつべきなのかという問題である。
 移動・提供可能になったものを二種類に分けることができる。一方には、腎臓の一つ、肝臓の一部や肺の一部の提供、代理出産、等。他方に、血液を与えること、(培養のために用いる)皮膚のごく一部を与えること、等。提供される者が受ける便益はいずれも大きく、この点に違いはない。違いは与える側にとってである。前者では、与える側に生存に関わりうる毀損、心理的な喪失がある。([1997:67-100,153-165]で生殖技術に即して検討した。)後者はどうということはない。この単純な違いは大切であり、遺伝子情報は基本的に後者である。★06
 たまたま誰かから新しい遺伝子情報が発見され、それが何かに対して有効であることがありうる。役に立つなら値段もつきうる。遺伝子情報は誰のものかという問いが現われる。現実に米国では裁判の事例がある。一つの考え方は、それが存在していた人に権利があるとする。たまたまある人が特殊なしかし決定的に重要な意味をもつ遺伝子をもっている人が、それを利用して巨利を得るといったことも考えられないではない。もう一つの考えは、発見・発明した人あるいは組織にあるとする。
 保有している者、あるいは作成した者に所有し処分する権利があるというのが、少なくとも近代社会における、一般的な了解である。裁判所もこの二者の間で考えた。しかし、どうしてそうであるのかと問うてみよう。とすると、根拠がないことがわかってしまう([1997:25ff])。いずれの人のものでもないと言える。にもかかわらず、ある程度の権利が付与されてよいとすれば、それは、権利の付与により発明や発見への動機づけを与えることができ、それが有意義だと(少なくとも許容されててよいと)考えられるからである。これ以外の理由はない。開発にかかるコストを回収させ、さらにある程度利益を出させる。そのために例えば特許権を付与する。もちろんそれ以前に、妥当な開発とその速度をどう判断するかという問題がある。また、こうした手段をとらないと技術の進展は望めないかが問われる。逆に進展と利用を阻害する場合も考えられる。今存在し今後拡大するのは、悪い技術の問題であるよりも格差の問題だろう。というのも、人々は、少なくとも長期的には、自らにとって悪いものをなくしていこうとするのに対して、格差については、それを維持し拡大しようとする力がかかるからである。これに知識と技術の独占が関係している。もちろん、自由に委ねれば競争が働き格差が縮小していくだろうというのは幻想である。楽観的すぎる。科学技術とその結果の所有・配分を巡る規則について再考してみる必要がある。(所有に関わる規則について、一般論としてだが[1997:116ff])

■ひとまずのおわりに
 その者が保有するもの、あるいは製造したものについて、その者が権利を、同時に義務を有する。これが私たちの社会のきまりであり、作法であるとしよう。とすると、今まで述べたことはそれと違う。その人の同意があったとしてもその人のもとにあるものを使ってならないことがありうると、他方に、その者のもとにあるものでもその者に独占的な所有権・処分権があるのではないものがあると述べた。奇妙なものいいに聞こえるかもしれないが、その人が自ら容易に処分の対象としようとするものは、その人固有のものではないと言いうるという主張である。
 認められうる前提から何が導かれるのか、それを検討していくととこうなると、私は考え、そのことを本に書いた。ただ、それはまだ未完の一つの試みである。数ある問いに人文・社会科学はよく答えておらず、だからそれは自らを立て直すことを求められている。その仕事をしないことの言い訳に問題の難しさが使われてはならないと思う。しかし、ここにあるのは、原因と結果の関係を(その経路自体は複雑なものであっても)調べて確定いけばよいという単純な問題ではない。そこで今存在するのは「曖昧な」不安なのだが、その漠然としたものがなんであるのかがはっきりとわかり、氷解した時にはじめて、それは杞憂であったとして退けることができる、それまで「漠然とした不安」は大切に持ち続け、それがいったいなんであるのかを考え続ける必要があると思う。「社会」だとか「倫理」だとか言う人たちは問題を妙に面倒にしているのではないかと思う人がいたとしたら、それは違う。まちがいなく、問題自体が面倒なのである。

■注
★01 科学/技術は人が生きていくありように関わる。それをどう使うかどうかを決めるのは、その利用者、消費者である。そして、科学研究・技術開発の相当部分が社会的に決定され税金を使って行われている(私たちはこのことをもっと不思議に思ってよい)。研究者は、まったく当然のことであるが、技術の開発・応用を推進しようと考えている。だから、その人たちだけに決定をまかせることはできない。この点に関わり、科学/技術業界の側には自らを過大に宣伝しようとする傾向がある。ものごとを大きめに言った方が客が引けて好都合なメディアもある。だから、どの程度のものであるのかを冷静に正確に評価し報道することが重要になる。それが科学技術についての社会科学の重要な仕事の一つになる。
★02 考察としては[1997][1998]。ホームページ「生命・人間・社会」(http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm*)→「50音順索引」→「遺伝子診断」等に情報を掲載。問合せ等はTAE01303@nifty.ne.jpへ。
 *http://www.arsvi.comに変更になりました(200204)。
★03 まず自らが知ってしまうこと、例えば将来ハンチントン舞踏病を発症することを知ってしまうことを巡る問題がある。これについての検討は別に行う。
★04 こうした争いになる理由はもちろんある。しかし、後述することとも関わるのだが、一歩引いてみると、そもそも保険というものが将来が「わからない」ことを前提にして成り立っている以上、わかっていくことは保険にとっても基本的には脅威ではないかとも考えられる。cf.[1998]
★05 「テクノロジーアセスメントの「一つの」方式」(若松征男)としての市民による「コンセンサス会議」の日本での初めての試みとして行われた「遺伝子治療を考える市民の会議」における情報提供の一部として配付した資料(1998年2月21日)より。この会議の報告書についての問合せはwakamats@i.dendai.ac.jpへ。
★06 前者について。強制されてはならないとはとりあえず言えるだろう。しかし同意しているならかまわないと言えるか。これは、自らが犠牲になる、「身を切る」行いである。自己犠牲は賞賛される行いだが、犠牲になることを認め推奨することができるか。犠牲について、これまで私たちはたいしたことを考えず、決めてこなかった。そうしたことが行われたり行われなかったりするのは、閉ざされた極限状況であり、その時どうするかはその場で考えるしかなかったからである。しかし移植は日常的な可能性をもつことととして現われてくる。この時、「犠牲」をどう扱うかという難題を社会は抱えることになる。
 私自身は脳死をどう考えたらよいか定見を得ていない。だが、基本の問題が「脳死は死か」ではなく「何が死であるか」であることはわかる。「何が死か」という問いに答えることができ、次に脳死状態がどんな状態かを記述できるなら、「脳死を死としてよいか」という問いに答えられる。次に、「死」とはA:状態を示すとともに、B:どのように存在を遇するのかを示すものであることを確認すること。A:「この世にいない」、つまり少なくとも普通の仕方では、その人と(その人のその人自身との関わりをも含めた、この)世界とのつながりがなくなることを死とすることがある。そしてこの時、B:焼いたり埋めたり、葬いの過程に入ってよいとされる。私自身は、言われていることが信ずるに足るなら、「ある種の」脳死状態は、私たちが死と思い死としてきた状態に重なると考える。次に、死の捉え方が人によって異なる時にどう考えるべきかという問題がある(cf.[1997:191-195][2000])。これらを考えた上で、さらに移植について、一人の人の生命・生活と一人の人の死とが引き換えになることを巡る危うさを考えることになる。


■文献(いずれも筆者によるもの)
1997 『私的所有論』、勁草書房
1998 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」、『現代思想』26-9:184-197
   →立岩『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録
2000 「死の決定について」、大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』、ナカニシヤ出版

■言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版



立岩 真也  ◇『弱くある自由へ』  ◇遺伝(学)…
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