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シンポジウム「(生命倫理について)」

文理シナジー学会 於:東海大学(代々木) 1998/11/14


立岩 真也の発言内容

立岩●今日は、上田さんがお話しになったようなことに則して少しお話してみたいと思います。
 基本的に科学技術というのは、わからないことがわかるようになる。それから、できないことができるようになっていく、ということですね。まず、その時に問題になるのは、わからないことがわかるようになることの社会的効果です。実は僕たちは、未来というものはあまりよくわからないということを前提にしてやってきました。それが、たとえば遺伝情報がわかり、ある程度のことがかなりの精度でわかるようになってきた。それを新たな前提とすると、わからないということをある程度前提として動いていた社会の仕組みみたいなものを、少し手直ししないと、社会というのはうまい具合に動かなくなってしまう可能性も出てきます。つまりひとつは時間的なことで、未来がわからないということが、ある程度わかるようになった時に、わかってよいのかよくないのか、社会の組み換えが必要なのか必要ではないのかということを含めて、きちんと考えなければいけないということがあります。この主題についてはここでは述べません。別に書いたものがあります(「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」、『現代思想』1998年9月号、特集:遺伝子操作)。
さらに、もう一つは空間的なことで、今まで存在しなかったものが存在するようになる。それから今まで移動できなかったものが移動できるようになる。たとえば臓器なら臓器というものが、今までAさんの身体からBさんの身体に動かすなんていうことは誰も思わなかったし、考えなかったし、考えたってできなかった。それがある程度できるようになった。ないものがあるようになってきた。動かないものが動くようになってきた。移動できなかったものが移動できるようになってきた。私達の社会は、あるものを移動したり、生産したりすることについていろんな決まりを持ってやってきた。けれども、たとえば臓器を移動するということに対して決まりがあったかというと、その実現の可能性がなかったのですから、それに対応する決まりというのはなかったわけです。それが技術なら技術、科学なら科学ということによって可能になってきた時に、じゃあその移動に関する、あるいは生産と流通に関する決まりをどうつくっていくのかという問題がでてきます。
 このように、自然科学あるいは技術というものが投げ掛けてくるものに対して、私達や社会、場合によっては社会科学というものが、どう答えるかという課題を解決しなければならないわけです。ここでは先に二つあると述べた、後者の方、ものや情報の利用や譲渡、つまり所有についてどう考えるかについて少しお話をいたします。
 これは池田さんの言ったこととかなり共通するのですけれども、たとえば移植とか、あるいは生体の組織の利用という場合に、ひとつのケースは、ある人が生きられるということと、別のもう一人の生命、あるいは生活とバーターになっているというか、引き替えになってしまうようなケースが実際にはある。これはいわゆる臓器移植と言われている場合ですね。たとえば脳死の人から、臓器が必要な人に渡るという場合、あるいは生体の肝臓移植であるとか肺移植という場合に、生きていけるという人がいる代わりに、肝臓なら肝臓、肺なら肺を提供する人がいる。誰かが生きているということと、誰かが今まで生きてきたということが交換されてしまうというか、少なくとも健康な生活の一部とが引き替えになってしまう可能性のある状況を、移植というものはつくりだしてしまったというふうに考えられるわけです。一人が生きていく代わりに何かが一方で失われてしまったという、そこに先ほど池田さんが言ったような、需要と供給のバランスとか、常に供給よりも需要のほうが多くなるというような、そこに生じる社会的な問題の話がすべて絡むわけです。
 ただ他方に、誰かが生きているということが、誰か別の生命ということと直接関わらない、引き替えにはならないようなケースというものがいくつもあって、そちらの場合のほうをどう考えるのかということは、かなり性格の違う問題だと言えます。それはひとつには、人工臓器が完全に機械的なものとして開発が可能なのかどうかという議論があるわけですが、そういった機械系として開発され作られるようなもの。あるいは生体を使うのだけれども、提供される人に対して直接危害を及ぼすことはない場合です。
 たとえば自分自身が生きるために自分自身の皮膚の一部を使うとか、あるいは他人のものを使う場合でも皮膚の一部を使うということと、自分の肺なら肺の半分を提供するということの性格は、この二つはどこかで連続してはいるのかもしれないけれども、しかし大きく違うことは確かですね。そういったことをまず分けて考えなければいけない。
 そうやって分けた上で、その移動とか譲渡、所有の問題を考えようと思います。そしてここでは、今述べた前者ではない方、生活や生命が引き換えになるのではない方、後者の方についてお話しします。この場合は、完全にそれが人工的なものであれば工業製品というものと同じように扱われるわけです。またその中間くらいというか、たとえば細胞なら細胞、あるいはDNAならDNAというようなレベルのものが、実際の人間の生体から採りだされ使われるということがある。たとえばDNAの情報であったり、あるいは細胞であったりというレベルのものの利用、それから流通といったものをどのように考えるかという問題です。
 これは確かに上田さんがおっしゃったように、考えなければいけないことのわりにはちゃんと考えられてこなかったと思います。去年、ある本(『私的所有論』、1997年、勁草書房)を書いたのですが、私としては、その人が、その人から分離したり、譲渡し得るもの、そしてその人が生きられたり、あるいはそこそこ健康に生きているということには関わらないようなものについては、その人に固有の所有権というものが存在しないんだ、という結論をその本で書いたのです。
 基本的には、提供サイド、つまり細胞を提供するにしても、DNAを提供するにしても、それについては所有権及び処分権というものは存在しないということになる。そういうふうに僕は思っています。そうかな?と疑われる方はたくさんいらっしゃると思いますけれども。たとえば、たまたまある種の特殊な、しかし非常に重要な遺伝子を持っていて、それが人類の運命に決定的な影響と与えるというような人が世界の中に一人だけいたとして、その人にそれに関する処分権・所有権が存在すると考えると、その人は、それを提供する代わりに世界中の財をとれるということにもなるわけですね。これは変なたとえですし、仮定の話ですけれども、でもまったくそれに対応する事実が存在しないわけじゃない。そんなことを考えた場合に、僕はその人の生体に含まれる情報、あるいは組織が、その人の身体に属するからといって、その人固有に権利が存在するというようには考えない。権利がないことを正当化し得る理由もあるだろうと考えます。
 次に、たとえばそういうものを発見した人、先ほどのお話の中にも出てきましたけれども、非常に特殊な情報を持っていることを発見したり、その発見に基づいて何かを開発したりするサイドには、それに関する特許という権利が存在するのかどうか、そういう問いを解かなければいけません。
 これは、先ほどとほとんど同様の理由で、特権的な権利を認める理由はないんだということになると思います。しかし、じゃあなぜ私達が、特許権というものを認めているのかと考えると、これは単純に言えば、ある種のインセンティヴというものを与えるため、という説明がひとつできます。つまり、研究なら研究、開発なら開発をする人に、何かいいことがあるようなシステムをつくることによって、研究なり開発というものを促進させるということがあるわけです。
 特許に限らず所有権一般にそういう性格があるわけで、たとえば著作権というものにもそういう性格があると考えます。著作権がなくても自分の考えを発表したいという人はいるでしょうけれども、そうではなくて、著作に関する権利を保証するということによって、たとえば自分がものを書いて、それによって収入が得られるという権利が保証されていればものを書く人もいるかもしれない。それと同じで、特許権なら特許権というものが、そういう研究なり開発なりというものに対して、ある種のインセンティヴを与えるという効果がある。その中で競争が起こる。競争によって研究開発が促進されるという効果もあるかもしれませんし、コストが安くなるという効果もあると。
 そのように考えると、私の考えでは、研究開発サイドにある種の権利を認めるということの正当性、あるいは有効性は、今言ったような意味においてのみの有効性であり正当性であるということです。それをまず確認する必要がある。
 そうすると、特許権というものは無制限の権利ではないということです。そして、場合によっては独占的にある種の開発権なり譲渡権を認めるということは、たとえば研究なり開発というものが、またそれを利用することが、望ましいことだとしても、それに対して常に有効に働くということには限らないわけです。
 生体に関係する先端的な技術について、こうしたことが一般的に言えることだと思うんです。技術開発力が特定のところに集中する、ある種の技術に関してこの人だけができるとか、この人だけが発明したということが実際にあるわけです。で、その中で所有権というものを独占的に認めた場合には、一人勝ちという可能性も出てくるわけで、競争が働かなくなるということもある。一人勝ちの状況で自由に値段を付けることができる。
 そうした場合に、その技術によって開発されたものを利用して、医療を受けて暮らしていきたい人にとって、その技術というものが非常に高くつく可能性があるわけですね。そうすると、企業に対してある種のインセンティヴを与えるためにある種の権利を付与するやり方が、場合によっては、独占的に開発され、他に競争相手がいないという状況では、かえってマイナスに働く現実があるわけです。
 そこで、それをどういう形で収めるか、どういう形で権利をつくるか、あるいは権利関係というものをどのように設定するかということが社会運営上の大きな問題になる。何らかの工夫が必要だと思いますけれども、解決できない問題ではないんだろうと思います。
 少し話が長くなってしまいましたけれども、その中に、池田さんが最後におっしゃった国際競争というものが絡んでくるわけですね。つまり、国内の技術は、先ほど言ったように最終的には法律という形で規制をかけたり、調整したり、やろうとすればできることはできます。ところが国際社会では、そういうふうにはいかない。無法地帯なんですね、国と国との関係は。法律なら法律というルールで調整されるような状況にはなっていない。そうすると結局、早い者勝ちであったり、先に力を持った者が勝つ。そこのところをどう調整するのか、これがさらに困難な問題になります。
 最後にまとめますと、細胞なら細胞、DNAならDNAという、たまたま身体の中にあるものに、それに対する処分権とか所有権を独占的に主張できるか? そうは考えられない。また、それを使って研究開発して技術やモノをつくった人に対してその権利を与えることの正当性については、インセンティヴということを絡めてお話ししたわけです。しかしその中でデメリットも明らかにある。そうすると、まんなかのどの辺にルールをつくっていくかという話になる。これはやらなければいけない。しかし、国際社会は、言ってみれば、ルールでは動いていない社会です。そうなるともう一段面倒くさい話が出てきて、国と国との間の協定をどういうレベル・形で設定するかという問題となる。とりあえずこの辺のルールでいきましょうと論理的に出た後でも、さまざまな力関係が働く中で現実的にどんなぐあいにやっていくかという問題がもう一回出てきて、それを解決しなければいけない、そういうことになるんだろうなと思います。[以上については、「遺伝子の技術と社会――限界が示す問いと可能性が開く問い」、『科学』1999年3月号(800号記念特集号:いま,科学の何が問われているのか)でも少し論じました。関連情報は,http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1.htmで御覧ください。つながらない場合等は,TAE01303@nifty.ne.jpへ。]

……

立岩●ひとつは、上田さんがおっしゃったアメリカですよね。たとえば移植という先端技術が倫理的に問題になっていることに関して、ちゃんと研究者が組織されて、政府にも委員会ができて、こんな分厚いレポートができて、それで医学界の内部だけでなく、むしろ法律なんかの世界で、かなり緻密な議論がなされている。それは事実です。そして、先生が今、日本全体としても急がなければならないと言われたこともわかります。
 だけども基本的にもう答えは出ていて、あとはそれの日本特殊バージョンをつくっていけばいいのかというと、僕はちょっと考えが違います。テーマによりますけれども、原則的な部分で、疑問の残るような議論が、アメリカの中でなされていると思うのです。だから、僕は原則的に議論が終わったとは思っていないし、それを日本流に変えればいいものができるとは思っていないわけです。もう少し、正面から考えなければならない問題は残っているとは思います。
ただ、それでも、問題が大きい分野と、それほどでない分野があるわけで、場合によって、だいたいこんな具合になるだろうから、見切り発車したほうがメリットが大きい分野も確かにあると思います。たとえば先生がなさっているようなことは、一番ベイシックなところは解決ずみで、その後の現実的な対応を考えればよい。ただそれでも、それはそれでそこそこの問題ではあります。そして、実はそれについても、例えば遺伝子情報の利用に関わる議論については、私自身は先に申し上げたように考えるわけで、アメリカでの議論や裁判の判例には納得していないのです。
 繰り返しになりますけれども、生命倫理に関係して様々な問題があります。斉藤さんがおっしゃった遺伝子情報をどう扱うかなどについて、たしかに欧米、とくにアメリカで議論は進んでいる。遺伝子情報は何に関係するかというと、先ほど述べたように、時間に関係するんですね。わからないものがわかってしまう。今までは病気になるかならないかがわからなかったのに、自分の親の遺伝子がわかってしまった結果、自分が将来70%の可能性でガンになりそうだということがわかってしまう。そういう問題に対して、米国ではかなりいろんなことが考えられていて、レポートも出されている。けれども、それで議論が全部終わったかというと、どうもそういう感じはしないんです。
 それでも、ちゃんと議論の蓄積がある。それに比べると、今の日本には、そういうことを考える人が少なくて、作業を怠ってきたということは事実です。急がなければならないという事情はわかります。ところが今、日本の中でそういうことを考えている人達、考えているというか審議会なんかで発言する立場にいる人達は、そういうことのプロというか、長いことよく考えてきた人達ではなくて、ちょっとそういうことに関係しなくもないことについて小説を書いた人とか、法学か何かでずっとなにかと政府の審議会に顔を出してきたその業界の代表みたいな人達が、倫理的な問題を審議・議論しているわけです。それではやはりパワー不足なんですね。
もっと年齢的に若くて、欧米の議論もちゃんと知っている人達が一枚噛んでやるということも必要だろうと思います。

……

立岩●たとえば皮膚移植に限っていえば、そういう問題は何もないと思うんですね。他の人体の絡む場合と比べてどう違うのかということ、そこをはっきりさえしておけば、わりと簡単に解決できると思います。皮膚移植ならその移植自体に問題があるとは思わないわけで、だから、先ほどから二つの議論を分けようと言っているのです。
 その上で、その方法によっては、今ちょうど斉藤さんが言ったように、そこから利益が生まれる場合と不利益が生まれる場合があるわけです。技術の進展なり普及の在り方として、アメリカの中で存在するベンチャービジネスが特許をとって、場合によっては莫大な利益を得つつ技術を推進していくやり方が最善なのかと考えると、そうでないように思うんです。
 もちろん利益を得ること自体は別に悪いことではありません。誰かが利益を得ながら技術が発展していく、その在り方を何らかの形で法律化していくやり方もひとつはあります。けれども、それで済まないのだとしたら、どこまでどのように関与するのかということは、皮膚移植というものを認める場合にどうかというレベルの話とは別に立つわけです。
なおかつ、先ほど私が申し上げたのは、それに関するルールというか、それに関する考え方として、たとえばアメリカで議論され、そして出た結論というものが完全であったのかというと、どうもそうとは思えない。ここのところはもう少し考えてもいいのではないかと思います。
ただし、そのことと、必要な部分を進めていくということは、矛盾しないわけですね。そこで、個々の問題はそちらでやって、多少後追い的になるかもしれませんが、そこのところのやり方というものをだんだんと考えていくという順番でできるとは思ってます。

……

立岩●一つは繰り返しです。遺伝子情報なんかについては、そもそもこれを使っていいか、どう使っていいかという問題と、その利用や使用や技術開発の所有と譲渡のシステムの問題と、二つがあります。今日はいろんな話をはしょって、少なくとも例えば皮膚移植については、前者の問題はない、そこでやることはやるとして、それをどういうシステムに乗せていくかという話をしました。その時に、同じ技術を利用するにしても、おカネを払う(需要)サイドと、おカネを得る(供給)サイドの話をとりあえず分けて、その上でいろいろと考えていく必要があると言いました。もちろん皮膚の研究開発には費用がかかり、その費用を調達する必要はあります。それをどういう方法で行なうかです。皮膚というものはそこら辺にいっぱいあるわけで、そういう意味で一般的な財であると同時に、ある種の特殊な技能とか知識というものが局所にしか存在しないために、独占される可能性があります。その場合の価格メカニズムを考えますと、競争が起こる場合には価格は下がっていくわけですが、独占状態になった場合に価格メカニズムは働かないわけですね。例えばそういう場合にどのように考えたらいいのかという問題があることを言いました。
 もう一つ。ここは文理シナジー学会というところですが、しかし、簡単に文理の融合と言えないところがあると思うのです。もちろん一つの目標が設定され、そのために協力してやっていくという場面も多々あるでしょう。しかし一方には、科学技術がその固有の力学で、また様々な背景のもとで進行していき、その時、それをどのような、どの程度のものとして社会に位置づかせるかを考えるという仕事はまた別にある。その考える中にも、社会運営上のテクニカルな問題から、遺伝子情報が得られるということ自体をどう考えるかといった問題までいろいろあって、それをみんな考えていかないとならない。しかも、場合によってはそう悠長にやっていらない場合もあり、解決できて問題のないところからやっていかないとならない。であるのに、人手不足なのですが、だったら人手不足でなくするしかないのであって、こういう機能を果たす部分が必要であることは動かないのです。ですから、両者には、ひとまず文・理の両者と言っておきますが、両者には、どこかで緊張関係みたいなものが存在しなければいけない。一種の緊張関係の中で考えなければならないと思います。



生命倫理学  ◇立岩 真也
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