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Tateiwa
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性の「主体」/性の<主体>
立岩 真也
第35回日本=性研究会議「性の主体性」
1998/10/24(土) 於:東京・品川 コクヨホール
*当日の報告は以下の本に収録されました。お買い求めください。
◆立岩 真也・村上 潔 20111205
『家族性分業論前哨』
生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110
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※ w02,f04
重要な著作をいくつも残して逝ったミシェル・フーコーの最後の著書に『性の歴史』がある(訳書は新潮社)。その第1巻で彼は,性についての知・言説の増大と権力とを結ぶ。これはこの場に集う方々の癇にさわる物言いかもしれない(逆に,現場を知る人こそが「正しい性」等々を語ることの危険性をもっともよく知っておられるとすれば,まったく言わずもがなのことなのかもしれない)。ただやはり,彼は大切なことを考えさせる。性について「主体的」であることの意味,主体的であることによって従属してしまう可能性。…。このことと,どこかで<主体的>であってよい,それを放棄してならないと思うこととの兼ね合い…(これはあの本の第1巻〜第3巻をどう通して読めるかにも関わる)。
α:身体や性に対して<主体>であると,また主体であるべきだとはっきりと言わなくてはならない場合がある。それはまず,侵入・侵害によって苦痛を受けるのはその人であり,また快を感じたりするのもその人であって,そうした苦痛を防ぐため,また妨げられずに快を得られるために,その人に権利を認める等々のことが必要だからである。
しかしこのことと次のことが混同されることがある。β:身体・性・他者…を制御できること,その意味で所有・領有していることに価値が与えられること。そして,それがやはり「主体性」と呼ばれる。同時に,受動的であること,不如意であること,それらが予め負の価値の方に割り当てられる。能動的でないこと,自己統御しないこと自体が問題なのではなく,それに対する価値の割り当てが問題なのだが,それが隠される。この割り当てによって男の女への関係が支配となる。そのことに対し,女がそれへの抵抗として,自らの身体を自ら統制しようとすること,あるいは酷使しようとすること,身体や性を否定すること,等々がある。このような意味で身体に対して主体的であることを強いられてきた。その中に性や身体を巡る苦痛のいくつかはあるのだと思う。
性について語ったりしようとするなら,またなにごとかをなそうとするのであれば,性をしごく単純な快楽(un plasir si simple)にとどめるために(だけ)性について語る,様々の夾雑物を排除するためにだけ,しかもなにか純粋な性があるかのようにも考えずに,性について考えるといった態度が求められているのだと思う。
★ 基本的なことは拙著
『私的所有論』
(勁草書房,1997)に書いたので,読んでいただければさいわいです。また『現代思想』(青土社)の7月号が「自己決定権」,その中に「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」という原稿を書いています。そして<生命・人間・社会>というホームページ(
http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm
)を運営しております。こちらもよろしく。お問い合せ等は
TAE01303@nifty.ne.jp
へ。
cf.
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当日配付資料
UP:1998 REV:2012
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立岩 真也
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