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「難病患者の自己決定の意味・介護人派遣制度の可能性」(講演)

立岩 真也 1998/05/30 第3回日本ALS協会山梨県支部総会

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 この講演は、立岩真也『良い死』の序章「要約・前置き」の2「急ぐ人のために・2短い版:手助けをえて、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」として収録されました。

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya]

立岩真也『良い死』表紙

 ◇序章「要約・前置き」より

 「短くすればできる話をなぜ長くするのか。そして幾度も長い文章や短い文章を書いている☆01。それでもさらに書くことになった。それにそれなりの事情はある。そこで以下を書くのでもある。ただもう一つ、忙しい人のために、そして/あるいは、まわりくどい話が苦痛な人のために、一九九八年五月の第3回日本ALS協会山梨県支部総会(於:甲府市)での講演を以下に掲載する。この講演は本に再録されていて([2000e])、そこには講演の後の質疑応答なども収録されているのだが、その部分は略す。付記する部分は〔 〕で囲む。
 再録の理由の一つは、それが話したことの記録だからだ。話す時にあまり込み入った話はできない。そこで様々を省くことになるが、それでも、話すべきだと思ったことはいちおう話している。
 一つは、さきの文章の「条件がきちんと整えられてから」という部分にかかわる。以下の講演の前半はこの本の主題と直接には関係がないとも言えるのだが、強くつながってもいる。「まず条件を」などと言うと、「そんなできもしないことを言って、話を引き延ばそうとしているだけだ」などと返される。「自分で世話するわけでもないのに無責任だ」と言われる。後の批判はその通りだと受けよう。しかし、だから何もしない人は何も言えなくなり、何かをしようという人はすべてを引き受けざるを得ないことになって、ますます世話を引き受けたりものを言う人がいなくなって、それはよくないと思うから、無責任でもものを言った方がよいと思うから、ものを言う。ただ、自分だけで引き受けようとは思わないから、「社会」の方になんとかしろと言う。しかし次に、そんなことを言ってもどうにもならない、社会はそう変えられないと言われる。だが、そんなことはないと思う。それでこの本の第3章を書いてもいる。話をしたのは一〇年前で、法律・制度には大きな変化があった([2003b][2004i][2005g])。厳しくなっている部分もある。私の話は制度の紹介としては使えない。ただ、実際、現実を変えようとする様々がなされていること、そしてそれがなにがしかを変えてきたことを知ってもらってよいと思った。」

 ◇「急ぐ人のために・2短い版:手助けをえて、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」より

 はじめまして。立岩と申します。今日は呼んでいただいてありがとうございます。松本からやってまいりました(当時、信州大学医療技術短期大学部に勤めていた)。いただいた表題(「難病患者の自己決定の意味・介護人派遣制度の可能性」)の二つの順序を逆にして、話をさせていただこうと思います。
 まだ詳細については情報を得ていないのですが、全身性障害者ホームヘルプサービス事業という名称になるのでしょうか、山梨県で今年度から新しい制度が開始されることになります。この制度の立ち上げのために活発に活動なさってこられた日本ALS協会の山梨県支部の皆さんの御尽力にまず敬意を表したいと思います。そして、おめでとうございます、と申し上げます。いわゆる難病の人たちが中心になってこういった制度を自治体レベルで獲得したことは今までになかったことです。そういった意味でも大きな功績と言ってよいと思います。同時に、その意義を認めて事業を発足させた山梨県の決断もまた意義深いものだったと思います。
 昨年の秋だったと思うのですが、山口さんからEメールで山梨県で介護人派遣制度をやりたいんだけれども何か知りませんかという問い合わせをいただきました。そこで、そのことに関して手元にあった資料を、これもEメールでさしあげ、それから、あとでもふれますが、こういう制度などの立ち上げの支援を組織的に行なっている民間の団体があるので、それを紹介しました。私がしたのはそれだけです。何もしてないようなものです。その後しばらく経過を把握していなかったのですが、その間に山梨県でいよいよ制度が立ち上がりますということになりました。
 さきほど、いわゆる難病の人たちが中心になってというのは数が少ないと申し上げました。生活していく上で身体に障害があるという意味で、難病の人も、普通の障害者というか脳性麻痺や頸椎損傷の人と同じなのですが、難病の人たちとそうでない人たちとで動きとして別にやってきた部分があります。そういう意味でも今回は、今まで全身性障害者の、特に脳性麻痺の人たちが中心となって作ってきた制度を、難病の方が情報を利用して山梨県で作ったことは、かなり画期的ではないかと思います。
 近年の経緯についてはあとでお話をしますが、私は一五年くらい前から障害者の社会運動と関わり始めました。脳性麻痺の人たちが中心の運動です。彼らは生まれてからずっと障害と付き合って生きています。脳性麻痺の場合、障害は重いものから軽いものまであって、重い人では、手足が全然随意に動かない、言葉も人によっては出てこなくて指文字でコミュニケーションしたり足でボードを指さしたり、あるいは頭に付けたヘッドギアに棒を付けてボイスエイド、トーキングエイドでコミュニケーションをとったりします。今回、山梨県にあるかたちで導入されるようになった事業も、こういった人たち自身が一九七〇年代に作るように働きかけ、そして作られ拡大されてきたものなんです。
 その歴史を簡単にお話しします。一九六八年に東京都の府中市に府中療育センターができました。当時はかなり評判で立派なものができたとみんな喜んだんですが、そこで暮らし始めた人たちの中に「どうもここは暮らすにはよくない、いづらい。」ということで出て来てしまった人がいるんですね。今で言う社会福祉施設とはちょっと性格が違って医療のための研究を一つの目的に掲げた施設でした。例えば入所の際に自分が死んだときの解剖の承諾書を提出しなければ入所は認められないということがありました。それだけではなくて生活の場としてはあまりに暮らしにくいことがありまして、一九七〇年代の初頭に、この施設に限らないのですが、施設ではなくて地域で暮らしたいという人たちがぼつぼつと出てきました。また施設でなく在宅で暮らしてきた人たちで、今までは親元で暮らしていたけれども、親に一切合切面倒見てもらって、同時に監視されて生活していくのもなんだなということで、家から独立して地域で生活していこうという人たちも出てきました。こういう人たちの運動が一九七〇年代の初頭に始まります。
 この運動は二〇年かかって徐々に大きな流れ、波になって、現在の全身性障害者の社会運動の、多数派と言えないかもしれないけれども、少なくとも一番活発な活動力を持つ流れを形成してきているのです。そして、そういった人たちが一九七二年、七三年と東京都にかけあってできたのが「脳性麻痺者等全身性障害者介護人派遣事業」だったのです。
 これは都の単独事業として始まりました。それは地域で家族の力に頼らず一人で生きていく人が介護人を使う、するとその人に対して自治体が金を払うという制度でした。当初は月三回、一回半日という、あるかないかわからないような制度だったんですが、それが一九七四年から九八年まで二四年間、毎年毎年、これではやっていけない、私たちは月に三日だけ生きているわけではなくて三一日あれば三一日生きている、また昼も夜も生きていて半日だけ生きているわけじゃないと、ずっと要求の拡大運動をしてきた結果、東京都では一応の水準の生活が、特に家族に重い負担をかけないでやっていけるようになった。そういう経緯があります。
 そういうものを作り出していく障害を持っている人たちの力を、僕は側から見ていて、おもしろい、と思います。こんなふうに、まず生きていって、生きていくために必要なものを取ってくる、そういう人たちがいる。またそのためには知恵も働かせる、なかには悪知恵もあったかもしれないけれど、やることは何でもやる。そういうことがおもしろくて十何年か付き合ってきたんだと思うんです。
 やがていろいろな地方の人たちが東京はいいよなと言うようになってきました。東京の人たちもそのことは気にしていました。それで、全国で取れる制度である生活保護、その生活保護を受けている人に支給される他人介護加算の拡大要求と同時に、東京都のような介護人派遣の制度をどういうふうに各地で作っていってもらおうかということで、八〇年代から九〇年代にかけて全国レベルでの民間組織を作っていきました。
 そのなかで彼らは、先進的な地域の情報の蓄積と提供を始めました。あるところにずっと住んでいると、隣の県とか隣の市とかでやっていることでもわからないことがけっこうあります。たとえば、埼玉に住んでいる人は東京のことはわからない。一方で自治体には横並び意識や競争心があって、たとえば、山梨県が今年からこういうことを始めたから長野県でも来年からやろうというようなことはけっこうあるんですね。けれど隣の県でこういうことが始まったということを知らなければ長野県も動かないわけです。わかれば横に並ぼうとする、ならば、先進的なところはここまでこういうことをやれていますよという情報を蓄積し、必要な人に提供すればよい。そういうわけでそんな仕事を始めました。
 それだけではありません。二〇年をかけて蓄積した、自分たちの言っていることの正しさを認めさせて必要なものを引き出してくる技術・ノウハウ、これを伝えることを始めました。厚生省・厚生労働省レベルで話をわかってもらって、県にも話をしてわかってもらって、市町村レベルに話をしていく。各々のレベルでの話を各自治体に住んでいる一人ひとりのサービスの利用者である障害者に同時に知らせて、市役所に何かを言っていく時に全国的な状況はこうなっている、隣の県や市ではこうなっているという知識に基づいて、どう話をしていったら相手は話を聞いてくれるか、そういう段取りや順序を知らせる仕事も行なったのです。
 その結果、運動が始まってから一〇年くらいは本当に細々とした流れだったのですが、一九八〇年代の終わりから九〇年代にかけて、情報を全国的に流通させるネットワークの確立に伴って、運動はしだいに広い範囲で行われ、制度が獲得されるようになっていきます。一九七〇年代前半に始まった当初、サービスを受けたのは、東京都一〇〇〇万人いる中で一〇人に満たなかった。その人たちが東京都の行政に、まったくそれまで何もなかった制度を作らせたのです。細々とした流れであったけれども、その細々としたものがあって初めてできたものです。熱意と適切なやり方があれば、それだけの人数でも場合によったら現実を変えられる、実際に変えてしまった。だから、それを様々な地域で行なおう、行なってもらおうというのです。
 その全国的なレベルの組織は、今は「障害者自立生活・介護制度相談センター」という名称になっており、そこが情報を提供し、月刊の情報誌を出しています。今回皆さんにお配りした資料、最初の三枚が、それをコピーして印刷してきたものですので、ご覧になってください。最初の頁、五頁、六頁、七頁とあります。一九九五年から九八年という四年間の間に、全身性障害者介護人派遣事業と呼ばれている制度が拡大してきたのがわかっていただけると思います。また地域が拡大しただけでなく、月に派遣される時間も徐々にではありますが増えていることがおわかりいただけると思います。(この情報誌『月刊全国障害者介護制度情報』は http://www.arsvi.com でご覧ください。この時に配付したのは一九八八年一月号の一部です。)
 そしてもう一つ見ていただきたいのは、山梨県もその一つですが、必ずしも予算的に潤沢な大都市だけではなくて、人口一〇万〜三〇万人の中堅都市でも、やりようによっては制度を使えるようになってきたこと、このこともおわかりいただけると思います。介護人派遣事業は、市町村が独自の要綱を作って市や都道府県の事業として始めるものです。ただし予算的には、ほとんどが国のホームヘルプ事業の予算を使って、予算的には国が半分、都道府県と市町村が四分の一ずつの負担となっていて一般のヘルパー制度と同じです。ですから、そう財政的な負担になるわけではないのです。
 そして今、多くの自治体で取り組まれ獲得されつつあるのが、「自薦登録ヘルパー制度」と呼ばれたりするものです。つまり自分の介助・介護ができる人を自分が選び、ヘルパーとして実施主体である市あるいは委託先の組織としての社会福祉協議会などに登録し、料金は税金から払われるというシステムです。
 市なら市が、「私どもは難病の患者さん、特に重いと言われている人はやったことがないし、私たちのヘルパーさんではそういった方に対応できないと思います。人がいません。ですから残念ながら派遣はできません。」と言う。この時に、「それなら人は私たちが用意します。その人は私と長年にわたって関わりがあり、私のことをよく知っていて仕事ができます。だったらよいですか。」と持っていくと「はい、よいです。」と言わざるを得ないところがあります。人がいないのが理由だったのですから。
 これはコロンブスの卵的な使い方で、どこも悪くない。今までは、たしかに市なら市、社会福祉協議会なら社会福祉協議会が人を派遣していた。しかしその人がちゃんとした仕事ができない時に、もちろんちゃんとした仕事ができるようになってもらうというのも一案ですが、そんなに待ってもいられない。自分の身近にはそういう人がいるけれど、なぜかヘルパーだったらお金が払われるのにボランティアというかたちだと払われない。だけど市から派遣されてくるヘルパーと同じだけ、あるいは、ずっとよく仕事はできる。だったらその人をヘルパーに登録しちゃえばよいと考えたわけです。細かいことを言えばヘルパーの研修を受けてもらわないと、とかいろいろあるのですが、大枠として誰も文句の言えないことなのです。こういうことを考えついて、ホームヘルプサービスの制度を拡大してきました。つまり「九時から五時までしか働ける人しか当方にはおりません。土曜日曜は休みをあげなければなりません。」と言われた時に「私の近くには土曜休日でも、夜でも来てくれるという人がいます。」と言って、その人にしてもらう。そういう人たちを個人で見つけるのは難しいかもしれませんけれども、例えばこういった団体、障害者の当事者の団体がそういった人たちを探してくるという方法もあります。そうして、介助の質、介護サービスの質を上げながら、時間帯、そして介護の時間数そのものを拡大してきたという歴史があります。各地の「介護人派遣事業」も現在はそのほとんどがホームヘルプ事業の予算を使った事業ですから、自薦登録ヘルパー制度と介護人派遣事業は将来ほとんど区別のないものになっていくかもしれません。
 こうして、要綱上は独立の派遣事業、そしてホームヘルプサービス、そして生活保護がとれる人の場合は介護加算、この三つを組み合わせて使いながら生きていくのですが、これらのすべてを足し合わせた場合、東京のいくつかの地域では最大限で二四時間、介護サービスを受けて生きていけるという状況ができてきました。実は一九七三年に東京都で、たった二人が新しい制度を作ってくれと東京都や厚生省に言った時に要求したのは一日二四時間だったのです。けれどその時には誰もそれをまじめには受け取らなかったのです。ひょっとすると本人でさえ言ってみるだけ言ってみるかという程度のものだったかもしれません。しかし、それが二四年経って、いくつかの自治体では、いろいろな制度を継ぎはぎしながらも、介護者にお金を払って入ってもらって、最大限二四時間の介護を必要とする人が生きていけるようになったのです。というのがここ何年かの流れ、あるいは、二十何年過ぎた現時点のものです(以上についてより詳しくは[1990][1995a][1995b])。
 既に何回も申し上げてきましたが、なぜそういうことが可能であったかと言えば、結局は、これが必要だと言い続けてきた人々が、数としては多くないけれど、とにかく存在したということ、それに加えて、各地での活動を媒介しネットワークする働きを担った民間の非営利団体の活動があったからです。そうした活動によってようやく獲得されてきた、このことを申し上げたいのです。必要だと思った人たちが事態を動かしてきた。規模は大きくない、しかし思いは深い人たちが獲得してきた。それらを今まで主に担ってきたのは脳性麻痺の人たちが中心でした。生まれながらに障害をもった人は障害者である自分しか知らないのですから、障害者である上でどう生きていくかということからしか問題が立ちませんから、割り切りがよく、根性が据わっていて、それだけ力強い運動を築いてきたのです。それが、こんどはいわゆる難病と言われる方たちが中心となり、その意味で全国でかなり先駆的なかたちで、制度の新設が実現された。このことの意義は大変大きいと思います。そして、たとえば僕は松本市に住んでいますが、今までは太平洋ベルト地帯の方が進んでいて山の奥の方へ行くほどしょぼしょぼという感じがありました。ですが、山梨ができちゃったわけですから長野だってがんばろう、それが裏日本にもアルプスを越えて伝播していく、今回の成功はそういう希望を私たちに抱かせるものです。

 さて、これから後半の話になります。これまでお話ししてきたのも、自分たちがどう生きたいのかを考えて、自分たちが生きたいように生きるために何が必要なのかを考えて、そして必要なものをどうにかして手に入れようとしてきた、その流れ、経緯でした。そういうことを昨今では障害者の自己決定と言ってみたり患者の自己決定と言ってみたり、ということで自己決定という言葉がいろいろなところに登場しています。ただ、あえて言うなら、自己決定は全てではない。しかし同時にとても大切なものである。こんなことを少し言ってみようと思います。順序立てて論じようとすると少しややこしい話なのですが、後で少しふれる山口さんとのやりとりの中で、やはりとりあげてもらいたいと言われ、触れることにしました。
 […]」


UP:201712 REV:
声と姿の記録  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇立岩 真也 
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