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退屈で冷たい福祉国家について

立岩 真也(信州大学医療技術短期大学部) 1998
関東社会学会大会


  福祉国家は怪物にされたり、瀕死状態にあるとされたりする。対応する現実があることを否定しない。そして怪物が死んでくれるなら、それはけっこうなことでもある。ただ、そうした言説は、内実として何を、何との比較において言っているのか。歴史や現状の分析、類型論、比較分析の意義は言うまでもない。だが、加えて、現実と現実への言及を構成する諸要素を分解し、他の可能性と比較し、論理的な検証作業を加えることを、少なくとも一度は行なってみる必要があると思う。
 例えば介入に対する批判があった。また疎遠であることに対する批判があった。両者は矛盾しない。各々が相応の根拠のある別のことを述べている。しかし福祉国家が他に比して介入的であるとは限らない。また疎遠であることは時に好ましいこともある。これが福祉国家において可能であるのは、それがそれなりに大きな単位であることによってもいる。これらの含意を検討した上で、国家に何をどこまでさせるのか、このことを考えてよい。(拙著『私的所有論』、勁草書房、第8章3節、cf.市野川・立岩「障害者運動から見えてくるもの」、『現代思想』1998年2月号)
  以上に述べたことに関わり、「動機づけ」の衰退という問題は残っている。だが、これを絶対的な停滞という危機と見るべきではない。むしろ、福祉国家という単位が小さすぎるという問題ではないか。福祉「国家」は国境によって区切られ、区切られていながら財と人の流入・流出が(制限されつつ)行なわれている。例えば国境を開きながら分配率を上げるなら人の流入が起こる。このことによる競争力の低下という「脅威」が制約条件として働いている(cf.上掲拙著第8章pp.347-348)。この問題の解決は理論的には簡単だが、もちろん実際には容易でない。さしあたり国家が存在することを前提せざるをえないとすると、どのような方策がありうるのか。これもまた考えるべきこととしてある。


  ……以上……

※ 市野川・立岩「障害者運動から見えてくるもの」は立岩『弱くある自由へ』に収録されました。


国家  ◇立岩 真也
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