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近代/脱近代という正しさ/危うさ

立岩 真也 日本保健医療社会学会シンポジウム「医療における近代と脱近代」 1998/05/31 於:東京学芸大学
抄録集原稿


  誰に、何について言うかによって、「近代/脱近代」という図式の位置は違ってくる。
  「業界学」(〇〇職の〇〇学)には確かに相対化の視点が欠けている、あるいは不足している。「現場」にいるとかえって疑う力が弱くなることがある。自分がどういう場にいてものを考え、しゃべっているのかという自覚の仕方として「近代」という括り方は一つに有効だと思う。そして実際、例えば近代(医療…)は批判されてしかるべきものだとも思う。つまり、今あるものは他でもありうるものであり、比較されうる対象であり、正負が評価されるべきものであることを認識すること。別のシステムが構想されうると考えること。「近代/脱近代」という把握は、ともかくも最初のところから疑問に思う、という志向を持っていたのであり、それは今なお(あるいは今こそ)必要とされている。
  ただ、「近代を問う」という構えの問い方もそれなりの歴史があって、ある年代以降のある者達にとっては、仕事を始める最初にそれはあった。繰り返すと、そういう「大風呂敷」はあってよいものだと、今でも私は考えている。ただ、その上で、大切なことは、雑駁な議論をしないことだと思う。何を近代とするのか、その何が、なぜいけないのか。そして、そこから私達は脱することができるのか。そうした問いを続けるのでなければ、近代/脱近代という図式(だけで)は大雑把すぎる。近代には悪いところもあるが良いところもあるといった「中庸」を勧めているわけではない。問いを詰めるのでなければ空疎であって、少しも、何にも、届かないだろうというのである。具体的な検証と思考を積み重ねていくしかない。私としてのその仕事を『私的所有論』で行なってみた。(問いの「方向」や仕事の「方法論」に関わる言及はその第1章・第7章で多くなされている。)
  例えば「自己決定」。仮にそれは近代のものだと――これ自体疑いうるが――言えたとしよう。だがもちろん、それが近代のものだからよいとも、近代のものだからよくないとも、言えない。それはなにゆえにどこまで肯定され、あるいは何ゆえにどこまで限界づけられるのか。これについて、近代/脱近代を語る言説も、他のものも、満足なことを言ってくれていない。だから考える他ない。ただ、そのためには自己決定自体が問いの対象となっていなくてはならず、元気な二元論はその端緒を与える一つのものではあるのだ。
  関連する文章:960308「医療に介入する社会学・序説」『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14)pp.93-108/970905『私的所有論』、勁草書房/971108「彎曲する空間――医療に介入する社会学・序説2」、日本社会学会第70回大会報告/980115「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」、『仏教』42/980201「一九七〇年」、『現代思想』26-2(1998-2):216-233(特集:身体障害者)/980701「(未定)」、『現代思想』26-7(1998-7)(特集:自己決定)/98****「自己決定→自己責任、という誤り――むしろ決定を可能にし、支え、補うこと」、『福祉展望』23(東京都社会福祉協議会)/98****「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」、石川准・長瀬修編『障害学への招待』、明石書店/98****「私の死」、大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』、ナカニシヤ出版 ※他にhttp://www.arsvi.com



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