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「私の死(資料・1)」

立岩 真也(社会学・信州大学医療技術短期大学部) 19980509
日本学術振興会井口記念人間科学振興基金第29回セミナー
「老いることと死ぬこと」 於:箱根・小涌園


■概要

 小松が(も)述べていること([1996][1998])自体から,その論を否定する。
すなわち,別の場に立つのではなく,同じところから出発して別のところに着こう
とする。
 ↓
 自己決定が肯定される。
 +しかし条件を問題にする。
 (いずれもよく言われることであり,そしてこれはごく単純なことでもある。
「止められはしないけれど,そのわけをよく考えてみてください」,と言うのだ。
だが,十分にその含意が検討されているわけではないから,この当たり前と言えば
言えることを,はっきり――あるいは少しこむずかしく――言ってみようとする。)
 ↓
 安楽死は肯定されない。(が,…)

■I■ 肯定

■紹介

 「たしかに,私が死ぬときあなたが亡くなるわけではない。逆に,あなたが亡く
なるとき,亡くなるのはほかならぬあなたでしかない。死ぬのはどこまでいっても
特定の個人である。この意味で死は特定の個人だけにかかわることのようについ思
われがちである。だが,しかし,ひとつの死亡は死者から溢れ出し,残された私た
ちに滲み入り,喜怒哀楽さまざまな感情を生み出す。ある者の死亡を起点として,
死はさまざまな感慨とともに共鳴的に成立しているのではあるまいか。[…]
 […]死はそもそも人々の関係のもとに成立し,死者にせよ看取った者にせよ特
定の個人に属した所有物のごときものではない。それゆえ,所有権も特定の者に限
定されているわけではない。そうであるなら,単独の個人が死を自由に決定できる
はずがないではないか。
 以上のように,もとより「死の自己決定権」は原理的に成り立ちえないのだ。」
(小松[1998:126-127])

 「それゆえ」までを認めよう。つまり,小松は「共鳴する死」というものがある
(あった)のだと述べるのだが,このことを認めよう。

 「…「共鳴する死」…は,死が時間的な点ではなくて流れであり,その流れは単
なる生理的な過程ではなく人々がひとつの死をともに生きる道行きであり,それゆ
え死が死にゆく者に閉じ込められずに周囲の人々と分かち合われている,そのよう
な死であった。」(小松[1996:209-210])

 第一に,小松が「共鳴する死」と呼ぶものに対応する現実があることについて同
意する。そして第二に,その現実を奪ってはならないという主張も理解できる。
 「共鳴する死」はあった。しかし,(小松によれば,18世紀以降の「早すぎた埋
葬」への恐怖によって)死は生理的な現象と見られるようになり,各自の身体に局
在化したものとして捉えられることになる。「死」と「死亡」とは異なるものなの
だが,それが等値されてしまう。人々は「共鳴する死」という位相を忘却してしま
う。この時,死は「閉塞した死」として現われる。これが「死の自己決定権」に説
得性を与えるという。人は,自分で自分の死を決めてよいのだと(「内属」すると
思うことを介して「所有」されるものだと)思うようになる。

■検討・1

 小松の議論はいくつかの部分を省略していると思う。
 彼の言うように「共鳴する死」というものはあるだろう。また「生理に還元され
た死(死亡)」というものもあるだろう。それを「個人閉塞した死」と呼ぶことも
できるだろう。しかし,「共鳴する死」でもない「死」,「死亡」「閉塞した死」
でもない「死」がある。それは(私ではなく)その人が死ぬという死,「代替不可
能な死」である。
 小松も,先の引用の初めの部分でこのことを認めている。もう一度見てみよう。

 「たしかに,私が死ぬときあなたが亡くなるわけではない。逆に,あなたが亡く
なるとき,亡くなるのはほかならぬあなたでしかない。死ぬのはどこまでいっても
特定の個人である。この意味で死は特定の個人だけにかかわることのようについ思
われがちである。だが,しかし,…」

 第三文までを小松は,そして私も認める。そして,この第三文までに書かれてい
ることと,死が「特定の個人だけにかかわること」で「ない」ことの二者はは完全
に両立する。つまり,「代替不可能な死」は「共鳴する死」と両立する。両者は矛
盾しない。関係しつつ別のものなのだから。「共鳴する死」を言うことは,死が個
人の死であることと矛盾しない。死んだのは彼であり,そのとりかえはきかない。
「その人の死」であるしかないような「その人の死」がある。それを私達は見守っ
ており,また,悲しんだり,あまり悲しまなかったりする。繰り返すが,その人の
死を見守る者たちにとっての死がある(あるいはその人とその周りの人達との間に
死がある)という事実と,その人(だけ)がそこでは死ぬということの両者は両立
する。
 そしてさらに,「代替不可能な死」は「共鳴する死」をも可能にするのだと考え
ることができる。死は「共鳴」しているとして,しかしそれは均質に鳴り響いてい
るのではなく,そこには中心があるのだ。「代替不可能な死」であることによって
その死は共鳴する。私達の思いを支えているのは,大切なものにしているのは,ど
うしても私達の「その人」に対する思いである。

■検討・2

 次に,ここでの考察にとってはより重要なことだが,小松が「死の自己決定権」
を認めない理由,すなわち死について自分で決めてはならないとする理由はなんだ
ろうか。
 人は自分の死を実際には決定することができる。殺人は,他人による死について
の決定であり,やはり可能ではある。だから,そういう意味では,「権利」でない
にしても,人は人の生死を決定することができ,自らの生死をも決定することがで
きる。問題は,事実可能であることを行なう「権利」があるか,特に自らにあるか
である。小松はそれはないと言う。それはなぜか。
 いったん本人の意志に従うことにして,自由が確保されたとしても,脳死〜臓器
移植を推進しようという力が優勢である限り,そちらの方に流されていってしまう。
これはよくないという論点もある。しかし,彼が述べているのはそれだけのことで
はない。
 まず,小松が言うのは,権利があると言える根拠がないということである。それ
は,死がその人一人に「属しているもの」ではないから。
 しかし第一に,属しているものについてだけ権利を有するわけではない。所持が
所有に先立つわけではなく,所持しそして処分する権利自体が問題にされているの
だから。
 第二に,先に述べたこと。その人が死ぬということと,共鳴する死があることと
は両立するのであり,後者によって,その人の死がその人の死でないと言うことは
できないことを述べた。
 だからむしろ,小松の主張は,後者の契機を積極的に重く見ようというものであ
る。つまり,自己決定権が認められないとされるより積極的な理由は,その周囲の
人にとって,その人とともに死を体験する機会をなくしてはならないからである。
そういう機会が奪われるとは,例えば,脳死の場合に,脳死と判定され,判定され
たその時点で,周囲の者達は納得がいかないままに治療が打ち切られ,臓器が摘出
されてしまうことになる★02。
 それではいけない,共鳴しているその周囲の人を優先すべき,少なくとも同等に
尊重されるべきだと主張しているということである。
 そしてこれを(実際には死ねる)死ぬ側の人から見るなら,自分で決めようと思
えば決めることができるのだが,それでも,周囲の人達の思いを思いやって,自分
で決めることをすべきでないということになる。
 しかしどうだろうか。小松が「共鳴する死」と呼ぶような過程が一般的に言って
尊重された方がよいとは言えるだろうと思う。そして脳死判定,臓器移植のための
脳死判定,移植といった一連の過程がここに介在するならば,周囲の人達にそうし
た経験が困難になるだろうということもまた言えるかもしれない。このことは認め
よう。しかし問題は,当の人の思いと周囲の人達の思いと,どちらを優先するのか
ということである。
 もっと普通の例を考えてもよい。私達の行なうあらゆる行為は他者との関係の中
で生起し,他者に影響を及ぼす。これは小松の述べることであり,またその通り,
確かなことである。だから私達は,他者に及ぼす影響を考量して行動しなくてはな
らない。それを全面的に否定することはできないだろう。★03
 しかし,ここでは,先に述べたことから,つまりは小松も認めるだろうことから,
小松が主張するのと別のことを述べる。
 「共鳴する死」と矛盾しない「その人の死」があると述べた。死んだのは彼であ
り,そのとりかえはきかない。それを私達は見守っており,また,悲しんだり,あ
まり悲しまなかったりする。それを支えているのは,大切なものにしているのは,
どうしても私達の「その人」に対する思いである。
 まずその人の死はその人だけに訪れる。このことが,死が「共鳴する」ことと矛
盾しないことは既に述べた。私達も「共鳴する死」に関わりはする。しかしそれで
も,あくまで「その人が死ぬ」ことに私達が関わるのだ。その人が死ぬのであり,
まわりの人はその人が死ぬこと,死んだことが悲しいのである。どうしてその人が
死ぬことを見守ったり,あるいは悲しんだりするのかと言えば,その人が「かけが
えのない」存在であったりして,その人との(少なくともある種の)関わりがなく
なってしまうということ,もう一緒に遊んだり,話したりすることができないから
である。そして私達がいだく「その人への思い」の中に,「その人の思い」は少な
くとも一つの重要な契機として入っている。
 その人を,その人の決定を尊重することは,このような関わりと矛盾するもので
はない。悲しんだりすることの中にそれは含まれていると考えることができると思
う。私は悲しいのだけれども,その人の決定を最後には認める。なぜ自分の死(に
対する決定権)がその人にあるのか。その人にしかその人の生はないからであり,
死ぬのはその人だからだ。死を迎えることは生のあり方でもあり,その人の生のあ
り方を認めるのであれば,その人の死のあり方もまた認めることになる。他者を尊
重するとは、まず他者の存在を,他者の生を尊重することだろう。だが,他者とは
私が制御してならない存在であるなら、同時に、その人の決定を尊重することもま
た他者を尊重することの一部である。
 「その人の死」「その人の生」があるからこそ,「共鳴する死」もある。このこ
とを先に述べた。その人を尊重することの中に(一部に)その人の決定を尊重する
ことも含まれていると考えるべきだろう。
 とすれば,だから,以上に述べたこと以外の何ものも考慮に入れないのであれば,
その人が死へと赴こうとすることを、「死の自己決定権」を,肯定はしないにせよ,
認めざるをえない。その人が仮にもう死にたいと言った時に,その意向を一般論と
しては拒絶し尽くすことはできないということである。そしてそれは,小松が述べ
たことを認めてもなおそのように言いうるのだと,あるいは,認めるがゆえにそう
言えるのだと考える。

 死を決定しようとする傲慢さは批判されうるのかもしれない。私の死について私
自身が決めるのは「おこがましい」ことであり,自分一人で決めたらいけないのか
もしれない。確かに命は,授かった命であり,それを自分の勝手にしてよいとはな
らないかもしれない。ただ私は,そうであってほしいとは思うけれども,その人に
その思いを押しつけることはできないと感じる。それは私がその人の存在を乗り越
えることが不可能であるからだ。
 今述べたことは個人主義として批判されるだろうか。たしかにある種の個人主義
の立場であることを否定しない。しかしここで言う個人主義に対置されるものは,
周囲の人達の(少なくとも善意の)思いを常に優先しなくてはならないという意味
での共同体主義であって,もしこれを否定するのであれば,その人は私が述べた立
場に立っているのである。

  揚げ足取りのように思われるかもしれないが,例えば「結婚」もまた「共鳴す
  る結婚」でありうるだろう。周囲に波紋を投げかけうるだろう。とすると,
  (少なくとも「善意」に発するものについては――これが,小松においては,
  「共鳴する死」の暗黙の必要な契機になっている――)その「共鳴」を受けて,
  当の二人は,周囲を慮ってそれをしたりしなかったりするべきである,結婚に
  ついての当事者による決定もまた認められない,ということにならないか。小
  松もまた,自らの論の「多大な危険性」(小松[1996:222])を指摘してはい
  る。しかしそれは少なくとも,彼の言うような「絆の単位」(の大小)の問題
  (だけ)ではない。

■■II 否定

■初期値を問うということ

 だから,死への自己決定を否定するとするなら,それは別の根拠からのはずだ。
 決定の対象と,決定の前提となる諸条件と,決定の仕方とが決まっている場合に,
決定のあり方が決まることになり,現実に決定が行われる。第一の決定の対象につ
いては,すなわち何について私に決定できるか,この場合には死について誰が決定
できるのかについては,先に,それはその死ぬ人であると述べた。
 けれどさらに後二者を問題にしうる。決定が作動する際の「初期値」を問題にす
るということであり,所有・決定の条件を問題にするということである。死につい
て所有権=決定権は認めたが,その他のものについての所有権の付与のあり方につ
いてはまた別のことである。ここで,私達は,死についてというより,むしろ生に
ついて,この社会における所有のあり方について,考えることになる。
 このような問い方に対して,それ自体が自己決定を堀り崩すようなものだという
指摘があるかもしれない。

 これについて主要な点を一点だけ。

 決定の条件を問題にせず,その時点での決定を自己決定と言い,それを尊重すべ
きだとするならば,それは一切の決定がそのまま認められるべきであるという主張
である。つまり,「常に」所与のものから出発すべきだと考えるのであれば,それ
は現実になされている決定の一切を肯定することにほかならない。もしそうでない
のであれば,その人は私の述べたことを認めているということである。
 論駁は,基本的にはこれで尽きている。

 このように私は,「自殺についてしていけない唯一の問いだというのに,「なぜ」
 という問いを問わずにはいられない」(Foucault,資料・2p.10)者であるのだ
 が…

■条件

 ではどのような条件が安楽死の背後にあるのか
 文章になっているものとしては
 →「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」
 その論理については『私的所有論』



 どんな条件があるか。
 一つに,安楽死は周囲にいる私達にとって好都合である。周囲の人達がみな,そ
の人を生きさせたいと思っているなどと言えない。一人の命,一人の人の死などど
うでもよい。不治の病にかかり,重い障害がある人は、周囲の人たちに負担となる
人である。家族だけがその負担を負っている,負わされているなら家族であり,ま
た社会的に医療や介護の負担をしている場合にはその「社会」にとって負担である。
 死によって負担を免れることのできる人にとってその人の死は都合がよい。自分
で「死にたい」と言ってくれれば都合がよい。そしてこの場合には,決定や決定の
結果はその人が負ってくれるのだから、まわりの者には精神的な負担もない。
 これがこの決定が置かれている条件であり,結局,私たちが,私たちにとって都
合のよいものとして,死の自己決定としての安楽死を支持するのである。
 そして同時に,このことが私達に,安楽死を認めることをためらわせる。確かに
それが痩せ我慢であるとしても,私達の都合があまりに簡単に他者において実現さ
れるべきでないと考える時,認めるべきでないと私達はする。



 次に選好のあり方について。その人はなぜ死のうとするのだろうか。かつては耐
えがたい苦痛からだったかもしれない。しかし,苦痛を抑える技術の向上もあって,
苦痛は適切な処置をとるならかなりの程度回避することができる。とすると苦痛が
少なくとも唯一の要因ではなくなる。その時,人は何のために自ら死を選ぼうとす
るのか。
 その人は病にかかり、何もできず、自ら死を選ぼうとしている。それは自然の,
当然のことだと思うかもしれない。だがそれは,少なくとも少し,違う。

 ある人が事実制御できるその対象について,その人はそれを所有してよい=所有
する権利がある(=制御してよい,処分してよい=制御・処分の権利がある)とい
う。ある人が実際に制御できるものについて,その人に決定権・処分権を付与する。
(『私的所有論』第2章)
 そして制御できる(ことによって制御する権利をもつ)主体であることが,その
人の価値である。「あなたが何かができる、その何かがあなた(の価値)である」
という価値がある。(『私的所有論』第7章2節)

 このような規則があり価値がある。その対象は身体であり,生であり,一切であ
る。(身体の所有は,身体を動かせるものであるとされる精神がその者に存するこ
とによって正当化される。)

 こうした規則を与え,価値を与え,それを信じさせる。こうした力が作用する中
で死への決定が行われる。私は,その基準を満たさないから,価値を満たさないか
ら,死を選ぶ。

 自分の身体が自分の思うようになってほしいと思うのは私達の社会の私達に限ら
ないだろう。それはある程度普遍的な感情なのかもしれない。ただし,ただ病気が
恐かったり,障害があると困ったりする(から嫌だ)というのと別の,正義の水準,
価値の水準で,これらが言われる社会とそうでない社会とは異なる。この社会にあ
っては,単にあたまやからだが動かないと不都合で困る,周囲が困るというのでな
く,できることやできないことはそれ以上のこととされるのだし,それを理由に死
を選ぶことには「お墨付き」が与えられるのである。

 生を私のものとしたいことから発する絶望がその人を死に追いやっているのだと
考える。私のことができる,私に関わる決定ができること,それらを価値としてし
まったことが,その人を死に追いやり,その人は死の自己決定を行なおうとする。

 しかし,それらに根拠があるのか。これを『私的所有論』(第2章,第8章)で
考えた。
 考えると,自分のできる範囲で生きてもらうという規則と価値のもとで人々が振
る舞ってくれた方が周囲にいる(この原則と価値のもとで生きていける)私達に迷
惑がかからず、生産の増大につながり、私達にとって都合がよいという以外の理由
は見つからない★ 。 つまり,「都合のよさ」によってしか支持を得られない規
則・価値を,私たちは,正義とし,それ自体価値あるものとしてしまったのである。

■困難であることの所以

 一方で自己決定を認めたのだった。そしてここではそれを認めないとした。では
どちらを優先するのか。同じものが両方を導いている。両方のものが同じところか
ら発している。

 解決は論理的には簡単である。条件を除去した上で,しかもなお死をその人が選
ぶ時,その自己決定を認める。
 …この時に,"Un Plasir si simple"(ごく単純な悦び Foucault→資料・2,
 p.10)として自死はありうる。

 だが現実に条件の除去は困難である=現実を動かし難いとすると,解決は論理的
に困難あるいは不可能である。

 間違いを教えてしまったことによって死ぬことを認めないなら,「安楽死」もま
た認められない。
 (周囲の人達の思惑が影響しないようにさせようという条件の設定も,決定の初
期値に関わる努力の一部ではある。だが,その時の彼の真意を聞くという方法,
「インフォームド・コンセント」に限界があるのは明らかである。その真意そのも
のが間違っていると述べているのだから。「情報を得た上での決定」によってこの
問題が解消されるわけではない。)

 他方,条件を変えることが容易ではない,その間,決定も行なわれようとしてい
る。条件を変えずに決定を禁ずることは,場合によってはより悲惨な状態を招来さ
せうる場合もある。

 だから,「どうするか」という問いは(まだ,あるいは,完全な形ではいつまで
も)解かれない。
 そうであるにせよ,… …

  そうであるにせよ,例えば,加賀乙彦のような(影響力のある,そして「よ
  い」)人が,「素晴らしい死を迎えるために」と題する文章に書くこと(→
  資料・2,p.5)について「それは…」と言うこと。例えば,清水昭美([19
  98]等)がずっと言ってきたことを真面目に聞くこと…。

■文献表

 市野川容孝の論については,機会があれば別途検討する。
 < >内の数字は『私的所有論』で言及されている頁を示す
 「自己決定」については,上掲書第4章3節で述べている。また,この書で述べ
 たことを組合わせるなら,この主題を巡るいくつかの論点について言い得ること
 は言えるようになっている。しかし,(主にそれでは「不親切」であるという理
 由から)いくつかの文章を書き足しているし,これからも書いていく(立岩[19
 98e]等)。それらのいくつかでは,上掲書に盛ることのできなかった具体的な
 事象が扱われるだろう。

市野川 容孝 1993b 「生−権力論批判――ドイツ医療政策史から」,『現代思想』
          21-12:163-179 <168,255,318-319>
―――――  1994a 「死への自由?――メディカル・リベラリズム批判」,『現
          代思想』22-4:308-329 <168>
―――――  1996e 「ナチズムの安楽死をどう<理解>すべきか――小俣和一郎
          氏への批判的コメント」, 『imago』7-10:145-159 <168>
市野川 容孝・立岩 真也 1998「障害者運動から見えてくるもの」,『現代思想』
          26-2(1998-2):258-285
小松 美彦  1996 『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』,勁草書房,
          296+18p. <212>
―――――  1988 「「死の自己決定権」を考える」,山口編[1998:109-152]
小松 美彦・市野川 容孝 1996 「「死の自己決定権」をめぐって」(対談),
          『週刊読書人』2160(1996-11-15):1-3 <169>
美馬 達哉  1998 「脳死と臓器移植」,佐藤・黒田編[1998:135-157]
佐藤 純一・黒田 浩一郎 編 1998 『医療神話の社会学』,世界思想社,
          247+5p. 2200
清水 昭美  1998 「「安楽死」「尊厳死」に隠されたもの」,山口編[1998:
          79-108]
立岩 真也  1997 『私的所有論』,勁草書房
―――――  1998a 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」,
          『仏教』42
―――――  1998b 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233(特集:
          身体障害者)
―――――  1998c 「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切
          なもの」,石川准・長瀬修編『障害学への招待』,明石書店
―――――  1998d 「自己決定→自己責任,という誤り――むしろ決定を可能に
          し,支え,補うこと」,『福祉展望』23(東京都社会福祉協
          議会)
―――――  1998e 「(未定)」,『現代思想』26-7(1998-7)(特集:自己決定)
―――――  1988f 「私の死」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニ
          シヤ出版
山口 研一郎 編 1988 『操られる生と死――生命の誕生から終焉まで』,小学館



■追記

 立岩[1997]では小松[1996]について,「死」「脳死」にすこし関わる文脈で
ほんの僅か触れたに過ぎない。(p.212,第5章注17――名前の誤記があります。
すみません。)
 ただ,そこ(第5章3節4)に述べたことは,今回の主題と関係はする。
 例えば

 「[…]脳死ということでなく,一切の生物的・生理的な生存が終わった後も,
人はその存在を生きていると思い,破壊しないようにしようと思うことはできる。
生きているように保存し続けることもできるかもしれない。しかし,このような場
でよりはっきりと明らかになるのは,それがそのように(p.194)保存しようとす
る私の思いだけに発していることである。既に生存を止めた存在にとって既に生き
られ受容されるものでなくなっている身体をそのままに保存しようとすることは,
かつてその身体を受容してそれとともにあった存在から離れ,それを私の側に置こ
うとする行いではないか。そのような権利が私にあると言えるだろうか。
 少なくとも,その人が,自らにとって世界の一切が終わった上での生存や生存を
終えた後での保存を放棄しようとするのであれば,私にとっての他者の意味合いで
はなく,他者があることそのものが尊重されなくてはならないという立場からは,
その人の意志に従うべきであることになるだろう。」(立岩[1997:194-195])

 小松(そして森岡正博)の議論の基本的なところに関説しているものとして,美
馬達哉[1998]がある――小松の著書について他にも批判めいたものがあるらしい
けれども,す少なくとも私の聞き知っているものは論ずるに値しないので論じない
――少し勇み足気味ではあるが,例えば以下

「この議論の真の問題点は,……「死は個々の人間の全体性,さらにはその個人を
取り巻く社会性の問題で,脳という臓器の問題ではない」という主張を徹底させよ
うとしないところにある。もし,全体性としての人間という極限まで徹底させて,
脳が臓器のひとつにすぎないのだと考えれば,「脳死」患者に対しても脳の移植と
いう治療法が考えられるからだ。
 誤解のないように確認しておくが,ここでの「脳移植」は,ある患者の脳を救う
ために,その脳を別の身体に移植するという意味ではない。逆に,「脳死」患者は
脳という臓器が傷ついているにすぎない以上,人工臓器その他の方法でその患者の
脳を交換することも「脳死」患者への治療と考えられるのではないか,ということ
だ。「脳死」患者であっても,その人を「かけがえないもの」(森岡正博『脳死の
人』,東京書籍,一九八九年,一八〇頁)として大切にするという視点を徹底化す
れば,ひとつの臓器にすぎない「脳」が交換されたところでその人自身としてのか
けがえなのなさには変わりないことになる。」(美馬[1998:154-155])

■引用をいくつか

「…「個々人の死は相互に関係しない」という死の把握…。この把握が死の自己決
定権の対他影響性・拘束性を考慮せぬ現状を許しており,そしてまた,…「死の自
己決定権」の説得性を生み出して入るのではあるまいか。死には対他影響性・拘束
性がないという思いがはっきりと自覚化されぬままに人々の中に棲みついており,
それゆえに自己決定権という論理に反論できないのではないだろう。」(小松[19
96:152])

「ハイデガーにあってまず死亡の代理不可能性が確認される。これ自体は否定しよ
うがない。そこで内属性が言えたとしても,それは死ではなく死亡である。しかし
ながら,そもそも死と死亡との置き換えがなされているため,死亡の代理不可能性
を根拠に,死が個人に内属す(p.168)るものとして捉えられることになる。」(小
松[1996:167-168])

「一体,何故に生命や死は当然のごとく個人の所有対象となりうるのか。それは,
生命や死が個人に内属するものとして捉えられているからであろう。もし仮に,私
の生命や死が私ではない他者に属するものとして,あるいは他者との間にまたがっ
て属するものとして,さらにはまたどこかに属するものとして,あるいは他者との
間にまたがって属するものとして,さらにはまたどこかに属するというのとはまっ
たく別のしかたで把握されているとすれば,そうたやすくは私の所有対象とはなり
えないだろう。」(小松[1996:169])

「死を死亡に還元し,死を個々人に内属するものとするこの基本的了解こそが,
「死の自己決定権」(p.169)を根底から支え,その太刀打ち″不能″の説得力を
生み出しているのではないだろうか。″私の死は私に属する。だから私の所有下に
ある。したがって私が決定すべきであり,他人にとやかく言われる筋合いはない。
一方,他人の死は他人に属し,他人の所有の対象である。それゆえ私が口出しする
ことはできない。″「死の自己決定権」を前にして,こうした論理が自覚の程度の
差はあれ各人に生じ,たとえ「死の自己決定権」に何か釈然としない気持ちをいだ
く場合であっても,そこに沈黙せざるをえないのではないか。」(小松[1996:169
-170])

「……「個人閉塞した死」を″見えざる根拠″として,「死の自己決定権」が乗り
越え″不能″な砦としてわれわれの前に(p.203)いま立ちはだかっているのだ。
だがこの不動のものに思える砦ですら,歴史的に形成されてきた「個人閉塞した死」
たるドクサに支えられているものにすぎなかったのだ。」(小松[1996:203-204])

「われわれは,かけがえのない者の不在のさなかにあって,その者への極限的な近
さとともにとてつもない遠さを瞬時のうちに体験し,その間を揺り揺られるのだ。″
それ″がないことが死なのではなく,絶望的なまでに″それ″でありながら,″そ
れ″はもはやないことが死なのである。そしてまた,この死は一回性の事柄ではな
い。何かの折に間歇的にかけがえのない者が再臨し,彼(女)らは沈黙を何度も破
る。…松浦寿輝氏の言葉を借用し,より的確に規定するなら,それは「密着的不在」
と呼ぶのが相応しいだろう。」(小松[1996:209])

「…死は決して死にゆく者個人だけにかかわる問題ではなく,その者に死は帰属し
ていないのではあるまいか。死ぬのは当該の個人であっても,たとえ周囲の者が死
はその個人だけに訪れると思ったとしても,事態としては死亡は死にゆく者と(p.
218)その場に集う人々との間で分かちあわれ,そこにおいて死は両者の関係のもと
にはじめて成立しているのではないだろうか。」(小松[1996:218-219])



安楽死  ◇小松美彦  ◇立岩 真也
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