議論は始まってさえいないのかもしれない
―出生前診断について―
立岩 真也
信州大学医療技術短期大学部助教授
『ばんぶう』1998-10(日本医療企画)
◆この主題を考え,拙著『私的所有論』第九章(勁草書房,一九九七年)に記した。最後まで考えつくせたと思わないが,できるだけやってみた。簡単に結論が出た気がしたら,それは何かを省いてしまったからではないか。そのようには思ってもらえるように書いた。それを要約する紙数はなく,さらに論点を加える余裕はない。見ていただく他ない。
◆さらにホームページ<生命・人間・社会>(http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm,「五〇音順索引」から,あるいは「医療」・「生命倫理」から)に事実の推移を記し,様々な意見を紹介している。年表,様々な文献からの引用,審議会での発言等が掲載されている。以下でも,いちいち記さないがそれらの具体的な発言が念頭に置かれている。随時情報を更新していくので,これもご覧いただきたい。
◆「現実に立ち遅れる」から「新しい「医療倫理」」を,という発想に私はまったく同意しない。「医療倫理」「生命倫理」が何か力のないもののように感じられるとしたら,それは論理を過度に重視しているからでなく,まったく逆であり,中途半端に事実について述べるとその後がなく,十分に論理を尽くして考えることがなされていないから,そして,討論の機会にせよ,活字メディアにせよ,そのような中途半端な場しか与えられていないからだと考える。ここでも◆で区切られる断片をいくつか並べことができるに過ぎない。
◆六月に日本産科婦人科学会は受精卵診断を許容する方針を出した。理由として,障害のある子が生まれるのを恐れて今まで子をもたなかった人,妊娠しても中絶してきた人が,検査の結果(障害がないことがわかったら)子どもをもつこと,「安心して」産めるようになることがあげられる。全部中絶するより少なく中絶する方がよく,そして受精卵の廃棄の方がよい,かもしれない(ただ,ここには体外受精・胚移植による身体への負荷という大きな問題が加わる)。しかし,こう言う時,今普及し拡大しつつある出生前診断,母体血清マーカーテストはどう評価するのか。それを置いて,広範に行われているものよりましな技術として受精卵診断を正当化するという論法は,もちろん,おかしい。(過去に出された羊水検査・絨毛検査についての見解はある。まずそれ自体をどう評価できるか。そして,ひとまずこの見解を前提するとしても,例えば母体血清マーカーテストがこの範囲内に収まるか。)
◆じつは,医療者(の集団)はこうしたことの是非を決める権利をもっていない。これははっきりしている。検査やその後の処置に実際に携わるのはたしかに医療者であり検査会社だが,このこととそのあり方を決める権限をもつこととは別のことだからである。ただ,社会に納得してもらえる規則を内規として自分たちが定め,それをメンバーに守らせ,法的な統制に代えることはあるだろう。そしてそれは,その決定が妥当なものと認められる限りにおいて,その仕事とその仕事をする人たちの信用を維持し,高める。それ以上でも以下でもない。中身,手続きに異論があれば,司法・立法といった別の場で判断,決定がなされることになり,問題があれば,専門職(の団体)としての信用が失墜する。自らでルールを作り,守らせる力がないのなら,最初から自らの外部に決定を委譲する他ない。
◆あるいは,こう言うかもしれない。自分たちがどう考えているというのではない,ただお客さん=患者の要望に応えたいのだ,そうした思いを本人たちが大きな声で主張するのが難しいから,その代理人として主張しているのだと。その通りに思っている医療者もいるだろう。そしてたしかに多くの場合,患者自身が自らのことを決め,決めた通りに医療者は行うという原則が認められるべきだろう。しかし,少なくとも出生前診断・選択的中絶の決定の場合は違う。その人は「自分のこと」を自分で決めている――これを「自己決定」と言う――のではない。だからこの決定は自己決定権という権利として認められる決定ではなく,したがって医療者はその決定に従うべきである(従っていればよい)とはならない。その人に決定権があるかどうか自体が問題なのである。「女性が決めることだ」という人は,結論だけを言っている。その理由が問われている。(その理由とされるものがいくつある。例えば育児の負担を負うのは(母)親だからというもの。しかし,これも含め,十分でないことを前掲書に述べた。では人工妊娠中絶自体はどう考えるのか。これについては前掲書第五章。)
◆新聞などでは,障害者差別に「つながる」ことが「懸念される」とか,差別を「助長する」「おそれがある」ことが指摘されているなどど書かれる。たしかにその通りのことが言われることもある。だが,そういうことだろうか。障害をもった子は生まれてほしくないから産まない。それ以外に選択的中絶をする理由はない。これは,差別に「つながる」のでなくて,差別「そのもの」ではないかと言われた時,それにどう答えるのだろう。この単純な質問に対しても,この技術の容認派・肯定派は答えていない。
◆よしとするにせよそうでないと言うにせよ,苦労してその理由を考えない時に,どこでは認められているとか,WHOではこう言っているとか,「外国」や「国際」がもってこられる。(こうして「グローバル・スタンダード」を言う人が,日本の文化は特殊だから米国流のインフォームド・コンセントをそのまま日本にもってくるのは適当でない,などと言うなら,二枚舌と言われて仕方ないかもしれない。ただ,それ以前のこととして)誤解があるかもしれないから確認しておく。これは世界のどこでも決着済みの問題ではない。誰もが出生前診断を受け入れようとしているのではない。その例はホームページにあげた。
◆こう言われるだろうか。「人文・社会系の人はすぐそう言う。問題は,明日からどうするかだというのに。」自分で考えるつもりもないのに「慎重に検討すべきだ」などと言い,未決の状態が続くのは私もよくないと思う。私自身はいま,理由――が大切なのだ――は略すが,次のように考える。第一に,(少なくともある時期までの)人工妊娠中絶は許容され,それに際して条件は付加されないものとする。第二に,当の人に生後予測される苦痛を考える時には,選択的中絶のすべてを禁じることはできないと考える(しかし現実には,羊水検査,また母体血清マーカーテストの標的の大きな割合を占めるのはダウン症である)。第三に,子がどのような子であるかを知り決定する権利がないという理由によって,検査が制限されてよい多くの場合がある。……。ともかくこの技術の場合,導入しないからといって人が死んだりはしない。時間をかけて考えることはできる。考えよう。
●たていわ・しんや
1960年生。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了,95年より信州大学医療技術短期大学部。主著に『私的所有論』(勁草書房)。最近の論文として「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」『現代思想』(青土社)7月号*,「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」『現代思想』9月号*。
*この2本は『弱くある自由へ』(青土社,2002)に収録されました。