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自己決定→自己責任、という誤り

――むしろ決定を可能にし、支え、補うこと――

立岩 真也(信州大学医療技術短期大学部助教授) 1998
『福祉展望』23号(東京都社会福祉協議会)



セット販売は正しいか

  このごろ「自由化」と「自己責任」がセットになって語られることが多い。「金融自由化」についてなら、いちおう理解できる。例えば株取引での「損失補填」はその取引の原則自体を否定するから、否定される。しかし他の領域、そして社会サービスの領域において、自由と自己責任とがセットにならなければならない必然性は別にない。少し考えれば当然のことなのだが、この二つの語がセットにされて決まり文句のように語られ、考えもせずにそういうものかと思ってしまうと、話が変になってしまう。順序を踏んで考えていった方がよい。

出すから受けとれる、のではない

  まず、私達は、誰が社会サービス供給の責任主体なのかということと、誰がサービス利用についての決定をするかということとを分けて考えるべきである。
  前者について。誰もが「人並み」に生活が送れることが当然であるとしよう。とすると、そのために必要な社会サービスを受けることは権利として認められる。Aという人に生きていく権利があるということはすなわち、A以外の人達がAが生きていけるようにする義務を負うということである。しかしAに権利が付与されることが即、同じAに何らかの義務を生じさせることにはならない。「権利には義務が伴う」とよく言われるけれど、このことは一般的には言えない。言いうるのは、AとB両方に権利がある時に、AはBに、BはAに対して義務を負うということである。だから、Aも税金を払えるなら払う義務はある。しかしそれだけである。払えないなら払う義務はない。「互助」や「共助」は大切なことではあるだろう。しかし、助けて欲しければ自分もがんばれというのは、助けだけを必要とする、また必要とするものが自分で提供できるものを上回る人を否定し、その人の存在の権利を否定することである。(この点については、末尾に記した拙著第二章・第七章・第八章。)
  この場面で自己責任・自己負担が求められるとすれば、それは、そうすると過剰な支出を避けられる(かもしれない)という事情からだけである。しかし、これは誰もが考えつく単純な方策ではある――みんなそこそこケチなので、自分の懐に響く支出は押さえようとする――が、そう洗練された方法でもなく、最善の方法であるかどうかも疑わしい。これがどれほど有効なのか、他に方法がないのかを考えるべきである。

力をもてるための選択

  次にサービスの利用について。まず、この場面でなぜ「自由化」が必要なのか。大上段に構える必要も実はない。市場における一般の取り引きと異なるのは、右に記したこと、自分で払うのではない(払える人すべてが払う)という点だけである。このことを踏まえれば、これは問う必要のない問いである。つまり、自分のお金で買うサービスについては選択できるが、そうでない(税金等から資金が供給される)ものについては選択できないという理由はどこを探してもない。
  それでもいくつか確認しておく。まず供給者側にとっては営業の自由、職業選択の自由というものがあるだろう。しかるべき能力をもっている人・組織があれば、その参入を拒む理由はない(その能力認定、資格付与のあり方について私はおおいに疑問をいだいているが、ここでそれを述べる紙数はない)。そしてより重要な意義は利用者側にとってある。繰り返すと、供給者を選べることは当然であり、社会サービスに限って例外とすべき理由はない。そしてさらに積極的には、利用者がサービス(供給主体)を選べることが、選べないことに比べてよいから、選択の自由は支持される。消費者の評価にさらされ、それを介した同業者間の競争にさらされることによって、質が維持されうる。医療・福祉・教育という領域においてサービスの質が確保されてこなかった大きな要因は、利用者の決定を介さない一元的な供給がなされてきたことにある。
  ここで私達は、供給者と利用者との関係を、なにか予定調和的な関係であると考えてはならない。利用者の利害と供給者の利害とは対立するものだということを押さえておく必要がある。利用者は安く多く欲しいし、供給者は少なく働き多くの対価が欲しい。これは自然なことである。にもかかわらず、そのことが「業界」においてとかく看過されているとすれば――「聖域」などでないのに、そう思おうとするなら――それは変なことである。両者が対立しうる関係、そして供給者側が優位になりうる関係において、消費者側の立場を確保する「一つ」の――「唯一」のではない――方法が消費者による選択なのである。(自由化が危機感をもって受け止められていることの理由の一つは、冷たく言ってしまえば、それが既得権益を保障するものではないので利益を保護されてきた人達にとって不都合だからである。気持ちはわからないではないが、正当性を得られないことは言うまでもない。)

価格競争の導入と同じではない

  競争原理、市場メカニズムの導入によって「悪貨が良貨を駆逐する」ことにならないだろうか。こうした不安がある。だが、(今まで供給されてきたものがいったい「良貨」であったのか、これはここでは置くとして)、こうした事態がどういう場合に発生するのかを考えてみよう。
  一つに、(価格)競争によって(少なくとも富裕でない層が受け取るサービスについて)質の劣化がもたらされるのではないかという危惧がある。安く供給されるものはそれだけ質においても劣り、しかも安くしか買えない人達がいるなら、その人達は不利益を被ることになる。しかし、ここで検討している社会サービスにおいては、先述したように、資源は公的な財源から支給されるのだから、また価格を一定とするという手段をとることもできるのだから、大きな問題にならないようにすることができる。

趣味の悪い選択を止められるか

  もう一つには、消費者の選択が好ましいと思えない、信用できないという場合である。たしかにくだらないもの、つまらない飾りをつけたものが売れてしまっていると、それは愚かなことだと思わないでもない。しかし、私達が普通に送っている消費生活において、無駄な部分、遊びの部分が許容されているならば、それと同様に社会サービスにおいても、人によっては無駄と思える「おまけ」が付いたサービスであろうと、許容されるほかはない。よい好みの押しつけであっても押しつけは押しつけなのだ。人々の消費行動のあり方が気にいらない人にできることは、別の消費のスタイルを提案することである。(子どもの保育、教育の場合は別である。なぜなら、親は本人ではないのであり、親の好みに迎合したサービス供給が無制限に許容されるわけではないからである。)

直接的な選択である必要がある

  以上述べたことは、言うまでもなく、既に広く行なわれている「民間委託」と同じではない。行政の権限・裁量によって、単一の主体に依託がなされるなら、むしろ、「直営」の場合よりも問題が大きくなることはおおいにありうるし、実際にある。
  まず言われるのは、責任の所在が曖昧になることである――行政が独占することによってどれだけ利用者の権利が守られてきたのかと問いたいが、ここでもこれは置くとしよう。たしかにその可能性はある。しかし、こういう理由で、いくつかの段階に分けたり、多様化すること自体を否定するなら、最初から最後まで一つのところ(というより一人の人)が担当しなければならないということである。そんなことは不可能であり、また弊害の方が大きい。この問題への対処法は、分業、多様性を認めた上で責任の所在、責任の分担をはっきりさせることでしかありえない。商品の製造、卸し、販売…といった過程のどこに問題があった場合に、どこがどのように責任をとるのかをはっきりさせておく必要があるのと同じである。
  むしろより大きな問題は、供給主体の目が直接の利用者の方を向かず、結果として利用者にとってよいサービスが供給されないことである。公開入札方式の導入は、不透明性を除去する点で一定の効果はあるが、それでも価格面しか評価せず単一の業者に全面的に依託するのであれば、費用が安くなるだけの効果しかもたらさない。英国等で採用された民間サービスを行政が買上げるシステムはこうしたものだったから、質の確保という点では、当然、失敗した。
  必要なことは、消費者による直接的な選択を可能にすることである。サービスの購入資金(あるいは使途が限定されたクーポン券のようなもの)を直接に利用者に渡してしまうことが一案である。また、わが国の医療保険のようなシステム(現物給付だが、利用者の選択は可能である)も――現状を不透明性、情報の秘匿を除去することが前提であるが――支持されうる。わが国でも、介助サービスの分野で、利用者が選んだ介助者をヘルパーとして登録するという方法(「自薦登録ヘルパー制度」と呼ばれたりする)が採られ始めており、一定の効果をあげている。
  そして、こうした直接の消費者の選択が困難な場合、あるいは不完全にしかなされない部分について、行政機関による選択、統制のあり方を、情報の公開、利用者の参画等を通じて、改善する必要がある。

選択肢を用意する

  競合する供給者が存在せず、独占あるいはそれに近い場合がある。この場合には競争が実質的に働かないから、そもそも競争による効果を期待することが不可能である。これが真にやむをえない場合には、例えば公共交通におけるのと同様、公的機関による監督、統制が求められることになる。
  ただ実際には、可能であるにもかかわらず複数性〜選択を許容しない場合が多かったのであり、このことの方が問題であり、改革すべきである。選択がまったく不可能であるといった場合は実はほとんどない。介助サービスであれば、最低二人のサービス供給者がいれば、そこに選択は働きうる。問題はその二人のいずれかを選べるシステムになっていなかったということでなのである。

最後まで責任がある

  選択の自由を認めるなら、その選択の結果を選択した人が引き受けなければならなくなるのではないか、そこに問題はないか。この疑問について考える。
  たしかに利用者個々人の選択の結果は、その都度その個々人に影響を与える。その意味でその都度の選択の結果を引き受けるのは、その本人だと言ってもよい。しかし、お仕着せのサービスであっても、それを引き受けなければならないのは結局は本人なのであって、その限りでは、自己選択の場合とお仕着せの場合と違いはない。そして、選択が保障されているシステムにあっては、選択の結果を利用者が評価することが次の選択に影響し、サービスの改善を促すことにつながるのだから――使ってみてひどい目にあったら次にはそれはもう使わない――その分前者の方がよい。
  そして、基本的に確認すべきことは、自由化するからその結果をすべて個々人が負わなくてはならない理由は何もないということである。個々の利用者がよいサービスを受けとることができるということが眼目なのだった。だからこそ選択の自由が主張された。同じ目的のもとで、選択を自由化すると同時に、選択を有効に働かせるための方策、また選択権の付与により現われる問題や選択権の付与だけで解消されない問題を解決する方策をとればよいのである。
  誤解してならないのは、私達は資源の供給だけに責任を持ちさえすればよく、実際のサービス供給がなされなくてもそのことについて責任はないということではけっしてないということである。私達は、そして私達が仕事を託した機関としての行政機関は、利用者がサービスを利用し、生活できるその最後まで責任を負う。直接の供給者が現われない場合には、それを用意しなくてはならない。そしてこのことは、その利用にあたっての利用者の選択を認めるべきだということとまったく矛盾しない。

自己決定を支える、補う

  繰り返すが、利用者への形式的な選択権の付与がそのまま対等な関係をもたらすわけではない。その一つの要因が、情報の不在あるいは不足である。また情報そのものはあっても、その受け手側に十分な理解力、選択力を見込めない場合がある。
  後者から。利用者・消費者側で情報を入手し整理し選択する能力が十分でない場合がある。この場合には、社会サービスに関する情報の処理能力だけでなく、どんな物やサービスの購入についても、困難があるということである。もちろん、これを補うこと自体が社会サービスとしてなされるべきである。そしてこのことは、次に述べることと連続する。利用者が使えない情報があることは、その人にとっては情報がないことと同じである。どのように情報を提供するかである。
  普通、どんな業界でも宣伝というものをする。知りたくもないものまでも知らされてしまう。また私達はたいていの場合、あらかじめ自ら当該の商品についての完全な情報をもってはいないが、それでそのまま放置されているわけではなく、それを補うような活動が様々になされる。例えは車やパソコンを選ぶための雑誌がある。そうしたものの助けを借りて、私達は選択を行なっている。
  なぜこの業界では、そういう具合になっていないのか、選択のための情報が十分でないのか。ここで私達は医療や福祉に関わる情報は特殊で専門的なものだから、利用者に伝えることがそもそも困難なのだと考える必要はない。私は電子レンジの原理を何も知らないが、電子レンジを使うことはできる。だからサービスそのものの内容の問題ではない。
  考えられる一つは、これはどの業界にも言えることだが、消費者が情報を得られないことから供給サイドが利益を得る場合があることである。質の悪いものは長期的には淘汰されるだろうから、供給サイドにも利益をもたらさない。しかし売り逃げられる場合には別である。たとえば有料老人ホームのように、契約の後にサービスがやってくる場合には、金だけとって逃げられるなら利益を得ることができる。また、薬害エイズの場合のように、気付いてからでは遅いこともある。だからそう呑気にかまえてはいられない場合がある。
  第二に、これはこの業界に特有なことだが、実はそんなに供給を増やしたくないと思っている、少なくとも供給量の増加と自らの利害とが関係がない場合があることである。こうした場合には宣伝しないし、丁寧に説明することもしない。これは供給と供給のための資源配分を同じ機関が担当している場合にありうる。例えば市役所にとって財政支出を押さえることが課題なら、サービス拡大にそう熱心にならない。むしろ抑制しようとする。
  だから情報の問題は、問題の全体の一部である。情報の提供、情報処理・決定の支援、場合によっては代行、総じて権利の擁護が当然供給されるべき社会サービスとなる。(措置・対・契約という図式で、措置制度において公的責任が存在し、後者についてはそうでないといった捉え方があるが、これは間違っている。措置体系下でも、希望者が申請しないとサービスを受けることはできなかったのであり、措置から選択へという移行においてこの点が変わるわけではない。むしろ、私達はその先へと、すなわち選択を認めつつ、申請と措置のプロセスの中で落ちこぼされてきた人達の支援へと進むべきなのである。)
  供給サイドに情報を開示しないことで得られる有利さがある以上は、自発的な情報開示を期待するだけでは不十分であり、強制力を背景にした情報の開示が必要となる。ゆえに、法による強制が求められる。同時に、権利擁護の仕事の大きな部分を担うのは行政機関から独立した機関の方がよいだろう。財政支出抑制を気にしてしまう行政と利用者との利害は異なり、ここで必要なのは利用者を支援することであるからである。ヒューマンケア協会ケアマネジメント検討委員会『障害当事者が提案する地域ケアシステム』(一九九八年、ヒューマンケア協会・日本財団、連絡先〇四二六−四六−四八七七)では、「ケア・マネージャー」というどちらの側につくのか曖昧な存在よりも、利用者側に立って支援する「ケア・コンサルタント」を置くことが提案されている。そしてその活動は税金によって賄われるべきである。何度でも繰り返すが、利用できるサービスを利用できるところまで、一人一人が暮らしていけるところまで、私達は義務を負うのだから。
  以上述べてきたシステムは、今までのものよりは複雑なものであるかもしれない。しかし、これは仕方のないことだ。本来複雑なものを単一の主体が担ってきたことによる害が大きかったのだから、システム自体を改革していくしかないのである。

※ 以上簡略に述べたことに関する基本的な考察は拙著『私的所有論』(勁草書房、一九九七年)で、より具体的な検討は拙稿「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(安積純子他『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』、藤原書店、一九九五年、第八章)等でなされています。最後に記した点については、右記した報告書の他、拙稿「ケア・マネジメントはイギリスでどう機能しているか」(『ノーマライゼーション 障害者の福祉』一九九八年一月号)等。またホームページ<生命・人間・社会>(仮称)http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm* でも関連する文章、情報を見ることができます。(ただし、インターネット・エクスプローラーのいくつかのヴァージョンではアクセスできないとの指摘があります。この点御承知おき下さい。)

 *2002.04〜http://www.arsvi.com


UP:1998 REV:
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