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書評:P.シンガー『生と死の倫理』

立岩 真也(たていわ・しんや) 信州大学医療技術短期大学部教員/社会学専攻 199803
『週刊読書人』


  脳死、障害新生児の治療停止、安楽死等々に関して、比較的知られているもの、そうでもないもの、様々な事例がとりあげられる。そして、「人命をすべて平等の価値を持つものとして扱え」の代わりに「人命の価値が多様であることを認めよ」、等、五つの古い戒律に五つの新しい――ただ、私にはそう新しいと思えない――戒律が対置される。
  理論的な記述はそうない(かなり丁寧で長い訳者解説がある)。無意味な延命処置をいつまで支持するのだ、著者が当然と思う方向に現実は既に変化しつつあるのだ、と記述は続く。しかし、筆者は「功利主義」の立場に立つのだが、ここでどういう快苦の計算とその集計がなされているのか。私は著者の天真爛漫さ無邪気さが時に嫌いではないが、少なくとも本書について論理は明晰でなく、そのことの危うさがある。
  生死が問題になるその当人の利益について。快苦を感じない存在にその存在にとっての生存の「価値」は存在しない。殺してならないのは、簡単に言ってその存在にとって死ぬのが恐いからである。この主張自体、特に後者は(前者と後者は異なる)よく考えてみるべきものだ。そしてこの疑問を傍に置いても、快苦や恐怖の不在はその存在の命を奪ってよい積極的な理由にはならない。さらに、「生命の質」についての筆者の記述を読むと、「価値のなさ」はこれらの場合に限定されず、随分拡張されている――具体的な記述についてはこの点が一番問題になるだろう。
  もちろん、それに周囲の利害が加えられる。いない方がよい、あるいは臓器をもらうと都合がよい。そして当人は苦痛も快も感じていない。あるいは死を意識していない。だったら、死んでもらおうということになる(著者は脳死を死とするのでない)。誰も利益を得ておらず不利益だけがあることはなくしてよいという主張は受け入れられる主張のように思われる。だが右の例はそういう場合か。さらにこの主張は、自明に受け入れられるべきものなのか。利益が同じで周囲の不利益の度合いが異なる二つの場合での選択はどうか。例えば同じ生活(快)を得るための社会的負担を多く求める人とそうでない人がいるなら、後者の人が選ばれるかもしれない。それでよいか。また、私自身、脳死状態をいつまでも延長させるべきだという主張、そういう意味での「生命尊重論」はとれないのだが、では、このことは筆者の議論によってのみ説明されるのか。
  本書で一義的な社会的決定が回避され、それなりに穏当な印象の論調となっているのは、「周囲の人」の扱い方による。筆者は家族の利害を家族外の利害に優先させ、家族の決定を尊重すべきだとする。しかしその理由は何か。家族が負担を負っているから。では、「社会」が負うならどうか。こちらが正しいと言いたいのではない。この時、「社会」が決定者として現われ、新生児の生殺を決めるかもしれないこと、選好と決定が置かれている仕組みを考えるべきなのであり、その解析に向かう装置が筆者の論にはないことを言いたいのだ。安楽死についても、安楽死への「選好」が存在する条件は問われない。ある程度の常識の範囲内で筆者は語る。筆者と読者の共通性によって読者は筆者に感応し、その時に本書は説得の書であり納得の書となる。自分では考えないし、物議をかもしそうなことは言わないが、都合のよい選択肢を支持するそれなりに著名でもある論者が一人いるという安心がその人を呼び寄せてしまうといった怠惰は拒絶しなければならない。他方に、この書の情緒への訴え方、事実の記述の偏りを感じる人がいて当然だと思うが、それは単なる事実誤認でなく筆者の思考の構造に由来する。だから基本的なところから、少なくともこの舌足らずの「書評」の何十倍かの分量の検討がなされるべきである。それは筆者の思考が、現実の私達の思考でもあるからである。

◆Singer, Peter 1994 Rethinking Life & Death, The Text Publishing Company, Melbourne=19980225 樫 則章 訳,『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』,昭和堂,330p. ISBN-10: 481229715X ISBN-13: 978-4812297155 2415 [amazon][kinokuniya] ※ b 0p/d01 d/be ts2007


UP:1998
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