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遺伝子治療の現状を離れて少し考えてみる
立岩 真也
1998.02.21 遺伝子治療を考える市民の会議
◆遺伝子治療は、少なくとも現在のところ、それほど画期的な治療法ではない、応用範囲も広くないというのが実際のところだと思う。そのことを無視すると、現実とかけ離れた議論になってしまう。このことはよく踏まえるべきことだと思う。
◆ただこのことは十分踏まえた上で、「その先」のことについて考えておいても悪くはないと私は思う。その理由は、
1)技術と治療の現状、その問題点、それについて検討すべきことについては他の、より技術の実際に詳しい人から、適切な指摘があるに違いないと思う。
2)極端なことまでまず考えておけば、問題を「縁取る」ことはできる。他のことは、その限界内で――もちろん新たに詳しく深く考えなくてはならないことはたくさん出てくるにしても――考えることができる。
3)大枠が押さえられていれば、細かなところはある程度「専門家」にまかせてもよいということもあるかもしれない。「市民」が「まず」関与すべき部分は、大枠を示すことであるかもしれない。
◆「研究」の段階、「診断」の段階、「治療」の段階を分けることができる。そして通常、(少し広い意味での)「治療」は「診断」を含むだろう。ただ、遺伝子診断と遺伝子治療とは、少なくとも現在のところ、むしろ連続していない場合の方が多い。診断ができるだけで治療法が存在しない場合(ハンチントン舞踏病、等)があり、やはり治療法は存在せず人工妊娠中絶に結びつく場合(ダウン症、等)がある。ここでの主題は「治療」だから主題的にはとりあげられないだろうが、これらをどう考えるのかは、現状では遺伝子治療をどう考えるかという以上に大きな問題であり、そして遺伝子治療について考える際にも無関係ではないだろうと思う。
◆様々に考慮すべき点――説明を受けた上での同意、危険性の問題、等々――はあるとしても、治療というものをたいていの場合私たちは受け入れる。とすると遺伝子治療とその他の治療はどのように違うのかという問題をまず考えてもよいと思う。
関連して、ADA欠損症などの場合に、認められ行われているのは「体細胞」の遺伝子治療だが、他に「生殖細胞」の遺伝子治療がありうる。これは今のところ認められていないが、それはなぜか、またそれでよいのかを考えることから始めてもよい。つまり、なぜ、遺伝子治療が、また特に生殖細胞の遺伝子治療が問題とされるのか、議論の対象になるのかである。
例えば外科手術はあくまで「事後」的な措置であって限界がありそうだけれども、それゆえの、結局は部品の(不完全な)修理でしかないという安心感のようなものもある。それに比して遺伝子治療についてどこか不安な感じをもつとすれば、遺伝子治療にそうと言いきれない部分があるように思っているからではないか。
1)「神を演じている」「自然の摂理に反する」という批判がある。しかし、これに対しては(「私は神様を信じません」という揚げ足とりはおくとしても)、治療をする時に私達は既に人為的な手段を講じている、その意味では「自然」に反したことを既にやっているのだという指摘がある。この指摘はとりあえず当たっていると言わざるをえない。「人間改造」という言い方もある。しかしどんな治療にしても何かは変えているのだから、どこまでが(よからぬ)「改造」であって、どこからがそうでないのかという問題はやはり残る。だから以上はそのままでは使えない。あるいはもう少し上手に言わないといけない。
2)「普通」の状態、「標準」の状態にすること、戻すことはかまわないが、それ以上を狙うのはよくない、「治療」と言えないという主張があるのかしれない。しかしそうすると、例えば生まれてくる子を平均的な身長はある子にすること、肥満とは言えない体重の子にすることには、それを「治療」と呼ぶかどうは別として、問題がないということにならないだろうか。
3)人間の「本質」的な部分については手をふれてはならないという言い方があるかもしれない。しかし、背の高さは人間の「本質」だろうか。そうではないと考えるとすると、背の高さを変えることには問題がないということにもなるが、それでよいか。
4)遺伝子は人間を規定する「プログラム」であるという意識があり、それを書き換えてしまうことの恐さのようなものがあるのだろうか。しかしこれにしても十分ではないと思う。遺伝病の原因になるものもまたある種のプログラムであるには違いないからである。これに対して、それは普通の正常なプログラムとは異なると言うことはできるかもしれない。しかし、上記したのと同じ問題が生じるだろう。つまり、どんなプログラムを書き換えてはならないのか、あるいは書き換えてよいのかという問いが残っているのである。
5)生殖細胞の遺伝子治療の場合に特に言えることして、本人の意向がそこには存在しないということがある。ただ、医療全般においても、本人の意向をうかがえない場合にはまず治療を行う。治療を行わないなら、むしろ義務を怠ったということになるだろう。だから、本人の意志を確認しないで行なわれるのは生殖細胞の遺伝子治療の場合だけではない。
しかしこれらはみな、重要なポイントではあると思う。例えば5)。本人の意志がない場合に行なわれる治療にしても、それは通常、苦痛を取り除くために行なわれている。そして2)を別様に考えてみる。あるべき状態、あるいは標準的な状態を設定しているのは誰かと言えば、それは私達である。5)の条件を介して、そして対症療法ではなくプログラムの書き換えであることに関連して、私達の価値とか都合のよさのようなものがより大きく入ってきやすいし、少なくとも理論上、実現されやすい。1)の指摘もこのことを言っているのかもしれない。
つまり、特に生殖細胞に関連する遺伝子「治療」について、それが本人がいない間に行われることであり、その上で、私達の「欲求」「都合」「価値」に発して行なわれうること、そしてそれが遺伝子への関与によって実現しうることに私達は危惧をいだいているのではないか。別言すれば、私達は、私達の欲求が「他者」において実現してしまってはならないと、私達の価値が及ばないところに「他者」は現われてくる(べき)ものだと――奇妙に思われるかもしれないが、しかしやはりどこかでは――考えているのではないか。そこで、その本人の身体的な苦痛を除去する以外には技術を使うべきではないと考えているのではないか。(この社会では、例えば「太り過ぎている」こともまた苦痛であるかもしれない。しかしその苦痛を与えているのは私達であるとすれば、それを個人の改造によって実現すべきではない、ということになるかもしれない。)
とすると、いくつかの病や障害についても、同じように考え直した方がよいかもしれないと思う。例えば(遺伝子治療ではなく、選択的中絶の対象になっているのだが)ダウン症という障害がある。主に「知的障害」として現われる。だが、それは本人にとって苦痛なものなのだろうか。その症状は様々だからいちがいに言えないとしても、私にはそう思えないところがある。とすると、私達は選択的中絶を何のために行なっているのか。
「生殖細胞」の治療は原則禁止という方針がこの先もずっと貫かれるか、私は疑問に思っている。そのためにも、「先走って」ということになるかもしれないが、考えておいた方がよいと思う。本人の身体的な苦痛以外を「治療」の根拠とすべきでない、とひとまず言ってみた。ただこれ自体そう確かな基準と言えるのか、その根拠は明確か、また、では「寿命」や「老化」のことはどう考えたらよいのか、等、たくさんのことが残されている。すぐにここで述べたような遺伝子治療が実現するといったものではない。だからゆっくりと考えることができるだろうと思う。
(具体的にとりあげているのは主に「出生前診断」ですが、拙著
『私的所有論』
(1997、勁草書房)で関連したことを述べていますので、よろしかったらごらんください。)
UP:1998
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