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彎曲する空間

―医療に介入する社会学・序説2―

立岩 真也(たていわ しんや) 信州大学医療技術短期大学部 1997.11
日本社会学会大会 於:千葉大学
「報告要旨」


■ はじめに。

 はじめにお詫び。この報告には何も新しいことがありません。ごめんなさい。特に「中身」がありません。これは「問い方についての覚え書き」といったぐらいのものです。つまり,「彎曲」の中身を何か明らかにした報告であるというより,「彎曲している」という言い方,言い方の意味について少し述べてみようというくらいのものです。
 (そして,これは「医療社会学」についてというよりむしろ,医療を語る言説全般,特に医療の内部から医療について語る言説を念頭に置いたものです。なんのかの言っても前者は後者よりましな部分があると思う。ただ,前者=「医療社会学」については以下で述べることが全然あたらないのかといえば,そうでもないだろうと考えています。)

 多分,医療の分野を研究する数少ない研究者の多くは,Aは「変だ」とか,「よくない」とか思って,研究を始めたのではないだろうか。そしてその時,曖昧模糊としたものであっても,「よくなくない状態」はあるはずである。また,「変だ」という時にもどこかに「(あまり)変じゃない状態」があることが想定されているはずである。それ=Bは何か。
 A・Bはひとまず「実感」の側にあるのかもしれない。また,まず論理として「他でもありうる」ということが言えて,そこからのずれとしてAが言えるような場合もあるだろう。ただこれらの場合には,さしあたり差異が言えただけなのだから,Bの方がAよりなぜましなのかを言うという仕事は残っている。
 以上,α:何のどこがどういう意味で変なのか,変じゃないのか。どうして変である方がよくないのか。これを言うこと。言うために考えること。
 次に,β:AとBとの差異を生じさせているのは何かと考える。ただこの問いに十全に答えることは難しい。複雑な社会的諸現象の因果関係を確定するのは難しいから。代わりに,何をはずしたら,あるいは何を付加したら,Aは(ある程度)Bに近付くかもしれないと考えることはできるし,やってみることもできるかもしれない。そして,それだけでも(目的によるが)かなりの程度よいのかもしれない。
 一つに行うべきこと――行うべきことの全てではまったくない――は,こういうことを,実に素朴に,考えることではないか。と思う。αは実証研究・歴史研究自体で代替できるものではなく,β〜実証研究のために必要でもある。そしてこうした――一つ一つは単純な――作業を積み重ね,組み立てていくこと。でないと現実の複雑さに対応できないと思う。こうした素朴な仕事が,医療社会学,というより社会学全般において,十分になされていないのではないか,と感じる。(cf.『私的所有論』(以下『私』)第1章)★01。

 ◆例えば,「医療化」というお馴染みのタームがある。明らかにこれはネガティブな意味を込められて使われてきたと思う(〜A)。(こういう感覚さえほとんど存在しないといった医療現場の状況であるからには,――社会学が得意であるところの――「疑ってみる」「相対化してみる」こと自体,やはり相当の意味があるのだな,とは思う。ただ…。)
 ではその何が変なのか。何がいけないのか。そういうことがあまりはっきりされていないように思うのだ。最初からはっきりはしていない,これは当然だと思う。ただ,いつまでもはっきりしないのは困る。1.(近代)医学の語で,概念枠組みの中で記述されることだろうか。2.それに基づいて,〜(近代的)医療システムのもとで処置されることだろうか。3.そういう記述−認識・実践が「日常世界」に侵入してくること,「日常世界」を変質させてしまうことだろうか。3.など「実感」としてはわかる。しかし,もう少し考えてみないと,という感じがする。

 ◆例えば,以下に記す,要するに「要旨集」の原稿とほとんど同じこと。これはどんなことになるのか。

…以下,「要旨」とほぼ同じ(引用を追加)…

 例えば,医療の供給者と利用者との関係を契約関係とすることは徒らに両者を敵対関係に置くものであってよろしくない,信頼関係が大切だといったことが言われる。例えば,利用者は非力であり,決定主体であることができず,この時,供給者がその弱さを補うような存在としてあらなくてはならないといったことが言われる。しかしこれはとても不思議なことだと言わねばならない。そして,この不思議さがそれとして了解されているかどうかも疑わしく,不思議が不思議として受け取られないこと自体がこの場を編成しているのだと言える。例えば

◇「患者の権利宣言」(1984年)について:「日本の多くの医療は『ほどこす』ものという意識があり,また権利は信頼関係や人間愛をこわす,という意見も根強い。たしかに権利ばかりをふり回すと人間関係はぎくしゃくする。しかし,相手の人権を認め合うところから,人間愛や,これを基礎にした信頼関係が生まれるものだろう」(『朝日新聞』,和田[1997:87]に引用)
◇「患者の権利宣言」(1984年)について:「「患者の権利は,患者の法的権利を述べたものではなく,あくまでも倫理的な意味での権利宣言だと理解したい。医療に患者の気持ちを取り入れてほしいという願望の表れだろう。」(『読売新聞』,和田[1997:88]に引用)
◇「わが国では,これまで患者の側に,「すべて先生におまかせします」という傾向があった。医師の側にも,「患者のことは自分が最もよく知っている。誠意をもって,最善を尽くすのだから,すべて自分にまかせてくれればよい」という考えが,かなり根強く存在していた。このことが,患者の信頼と医師の最善の努力を通して,従来,医療によい効果を与えてきたことも否定できない。…わが国のこれまでの医療の歴史,文化的な背景,国民性,国民感情などを十分に考えながら,わが国に適した「説明と同意」が行われるようにしたいものである。」(日本医師会生命倫理懇談会「『説明と同意』についての報告」『ジュリスト』950(1990-2-15:151,森岡恭彦[1994:184-210],土屋[1997]に引用)
◇「患者の人権の擁護,医療における患者の自己決定権,インフォームド・コンセントの尊重という文脈の中で,例外を除けば”親子の情”として行われてきた医療の原則が崩れ,医療は医師と患者との民法上の契約という意味あいが強くなってくる。…しかし,こういった診療形態は確かにわかりやすいが,そこには良き時代の医師と患者の間の暖かい人間関係はまったくみられないし,こうなって良いものなのか,心ある医師は悩む。」森岡恭彦[1994:53-54],土屋[1997]に引用)
◇「ICもがん告知も,医師と患者の間のゆるぎない信頼関係がなにより大切という医師側の著者の結論は,弱い立場の患者側に身をおく者にとってはやはり心が和む。」(米沢富美子,森岡[1994]の書評,『朝日新聞』1994-11-27 見出しは「医師と患者を結ぶ信頼関係何より大切」)
◇「いわゆる患者の自律性を強調するあまり,医療者と協調するのではなく,両者が敵対関係に立つかのごとき医療過誤をめぐる法廷闘争,パターナリズム批判の台頭が示すような医療者と専門家への不信,マス・メディアの浸透を介して信頼よりも caveat emptor(買主は警戒せよ)の横行など数限りない。医療者への信頼を失って,はたして病気は治癒するのだろうかという疑念を率直に実感せざるをえない。」(矢次[1996:50])
◇「大阪医大の矢次氏(哲学)の論文は医師患者関係におけるパターナリズムとオートノミーを論じたものであるが,この関係を自律に重点を置く消費者モデルまたは契約者モデルとする見解に否定的で,医師を病者を癒す愛他的立場にあるとみるペレグリノを支持している。オートノミーの強調される今日においても,医師の行為規範にはこの愛他主義が基本的であり,論者も共感するところが多かった。」(塚本泰司(関東中央病院,医学・医事法学 この文章中に「大学に籍を置かぬ我々一般の医師」とある),太田編[1996]の書評,矢次[1996]に言及,『日本生命倫理学会ニューズレター』12:6(1997.4.30))

 何が不思議なのか。第一に,論理的に繋がらないということである。仮に,A:病者=利用者に十全な決定能力,あるいは決定の意志がないとしよう。この時,では,B:医療の供給者に決定を行う権限があると言えるか。言えない。Aに決定が不在であることは,Bに決定が委ねられることをいささかも意味しないのである。たしかに,その場にAとBしかおらず,Aの決定が不在であり,しかも決定が余儀ないものであり,Bが決定するしかないような,あるいはBが決定について悩んでしまう状況が現実に存在するだろう。しかし,ここで問題とされるべきは,そのような状況が設定されていること自体であり,なされるべきは,Bの決定を前提として議論を進めることではなく,Bに悩んでしまう権限があるのかと考えること,ないはずだというところから考え始めることである。★02
 第二に,利用者と供給者の間には,対立の可能性が,つねにその対立が現実化されるのではないにしても,現実的な可能性として存在する。このことを閑却して「信頼関係」云々を言うのは,まったく現実的ではない。★03
 第三に,供給者側の能力の問題である。仮に,医療という技術を提供する存在が,利用者の意向を尊重しつつ,決定のあり様に(も)関与する存在であってもよい場合があるとしよう。しかしその供給者にそれを担えるだけの能力があるか。これは,
個々人の資質のあり方というより,職業や職業教育の構造に関わることである。★04

…ひとまず中断…

 これは,ひとつに「普通のサービス業」との比較において「変」だという話だということになるだろう。
 これに対して,(時に,例えば「普通のサービス業」と,比較するという発想自体がないことがあるのだが,それはともかく),「同列に並べられない」とか「同列に並べるべきではない」という言い方もある。この場合には,「差」はあるのだが,それは正当化されうる差であるというのである。ほんとうにそうであるのか,考えてみる。そういうこともできる。

 ※「消費者主権」の可能性について考えるとは「自己決定権」について考えるということでもある。「自己決定」だけで押していけない部分のあることは確かなことだと思う。それを示す多くの事例もある。ただ,このような場合にこそ,分けて,一つ一つ考えていく,その作業を通して全体を見る必要がある(冒頭で「一つに行うべきことと述べたのは,例えばこういうことである)。のに,そうした作業が十分に行われていない。例えば,自己決定の困難,あるいは自己決定を正当化の根拠とすることへの懐疑が,医療者への「信頼」へと滑っていく。まったくまずは驚愕するほかないこの滑稽で悲惨な状況を,社会学者はもっと正面から批判してよいと思う。

 またひとつに,(左で「第一に」と述べた部分だが)論理としてつながっていない,という指摘でもある。主張されている要素aと要素bがつながらない,あるいはaは必然的にはbを導かないという指摘である。
 また,普通に考えていけば,こういう関係であるはずなのに,そのことが全く無視されているではないか(「第二に」と述べた部分)という指摘,また主張されていることを認める場合には,当然一定の条件を満たしてないといけないのだが,はたして現実にそうかという指摘(「第三に」と述べた部分)である。
 そして以上の指摘では,こちら側にある価値は明示されていない。ただ,もし患者=利用者がよりましなサービスを受けようと思うなら,そしてそのことを当然のこととして受け入れるのであれば…等という話と接続するようにはなっている。
 そして例えば最後のものは,「実証研究」のあり方と関わるものだ。もし〇〇を主張するのであれば,当然△△は必要条件でとなる,では実際にその条件は存在するのか,調べてみたら,存在しなかった,とすると,〇〇という主張をとりさげるか,△△という条件を満たすようにしなくてはならない,…。
 (「実証研究」しうる対象は無限にある。だから無限の実証研究を積み上げていってもよいのだが,それではきりがないと思うなら,どこかで標的を,落とし所を決めないと,ということである。)

…以下「要旨」の続き…

 少なくとも以上を検討する必要がある。そして以上から,医療社会学が行ってきたことを検証してもよい。たしかに医療社会学は以上に簡略に述べたことに関わる多くの事実を明らかにしてきた。ただ,ある前提を立てた時に導かれる帰結は何であるのか,それと現実との偏差は何であるのか,といった問いの立て方が自覚的に採用されることはあまりなく,そしてこのことは,医療という領域を特殊なものとして語る言説空間,そして医療実践の空間に,それを解明の対象とする「学」が巻き込まれてしまうことに繋がりはしないか★05。また代わりに何を構想するかという構想力を欠けさせることにならないか★06。

…終わり…

 例えば,何を対置するのか,どのような処方を考えるのか。
 1)簡単に言って,まず,「否定する」「なくす」という選択肢がある。しかし(たいていこの場面で批判者は腰くだけになり)それは無理だということになる。しかしほんとに無理なのか,なぜ無理なのか考えてみたってよい。
 2)もうひとつ「よくする」という選択肢がある。これしかないということになる。「医療がよくなる」「医者がよくなる」。「患者の日常世界をよく理解した医者になる。」だが,これだけか。あるいはそれは可能か。
 3)代わりに,「局限する」「見限る」という選択肢もあるかもしれない。「医者は医者のする仕事だけしていればよいのだ」,というように。
 1)と2)はどちらかいうと「内属」した視点からなされる。そして自然とそうなってしまう。そういう「力」が働いているからだ。だが,3)もまた,ありうる途としてある。そして実際,こうした途を行こうという現実の動きは起こっているのだ。 さすがに医療社会学は,3)を見ないほど素朴ではない。ただ,「内属」してしまっていく言説・実践がどのような機制によって成立していると考えるのか。それは,医療という実践が他に比べて固有に特異なものであるからだろうか。もしかしてそうではないかもしれない。というように考えてみること。
■注

★01 こういうことをわりあいはっきり述べたのは,1992年の『社会学評論』に掲載された「近代家族」について論じた論文,また1994年の日本解放社会学会報告「差別しないことについて」でだった。また,こういう視点で性別分業の問題を考えてみるとどうなるか,1993年の関東社会学会・日本社会学会での報告とそれを受けた論文で述べた。これまで書いたもののリスト,また文章本体の多く,そして各種情報をホームページ「生命・人間・社会」(仮称)でご覧になれます。http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1.HTM。
 本報告の前提となる基本的な主題についての検討は『私的所有論』で行った。「自己決定」の問題がその第4章「他者」第3節「自己決定」(1「自己決定は肯定される」2「自己決定の/を巡る困難」3「自己決定は全てを免罪しない」4「決定しない存在/決定できない事態」5「自己決定のための私的所有の否定」6「条件を問題にするということ」)で検討されている。医療の領域が具体的に念頭に置かれている。他に本報告の内容に関連してこれまでに書いたものは[96/03/08][96/11/10][97/06/01],これから書くのは[98/01/15]。なお本報告の主題については別書を用意したいと考えている。
 「たとえば社会学と<倫理>とはどのように関わるか。一つに,人は倫理のレベルでものごとを語っているが,実際にはそこは利害が作用している場であって,それを無視してはならないと理解することであり,そのような「教訓」を受け取ることである。もちろんそれは正しい。しかし,そのこと自体は,こと細かには知らないまでも,どこかでもう私達が知っていることではないか。世をすね,斜めに構え,常識を破壊する学,というのが社会学の一つの定義なのだが,ここではそれが既視感をもって受け止められる。
 これを打破する特権的な方法はない。ただ,主流となっている現実であれ,今はまだ傍流の動きであれ,それを,十分に,記述することによって,また,可能な限り,思考することによって,事態の必然性と恣意性,限界と可能性を示せた時,「そんなことはもう知っている」という私達の怠惰をうつことができることがある。繰り返すと,この本は必要な本である。ただその先の作業がある。そして著者達はこのことを分かっていると思う。」([96/03/30])
★02 「良心的であるほど,その人は悩むのだが,しかしそこにしばしば欠けているのは,(少なくとも自分だけが「悩む義務」がないのと同時に)自分には「悩む権利」がないのだという当たり前のことの自覚である。悩む(悩んでしまうほど良心的である)ことと(過剰な)自尊はしばしば相伴って現われ,それが決定を他の人達に渡そうとしないことにもつながってしまう。」(『私』:144)
★03 「契約関係は日本社会には「なじまない」から,医者と患者の間の「信頼関係」が大切だといったことが言われる。「信頼関係」はきっと大切なものではあるだろう。しかし,良心や心構えでどうこうなるというものではない構造的な要因が絡んでいるからこそ,「患者の自己決定」や「インフォームド・コンセント」が主張されてきたのであり,それを無視するのはその意味を否定することでしかない。このことは文化の差等々とまずは独立に言いうることである。」(『私』:143-144)
「…問題を生じさせてしまう関係自体の問題性が消去され,権利を侵害する可能性を有する側の「良心」の問題として語られてしまうことの倒錯,この倒錯を倒錯としない倒錯をはっきりさせることである。供給者(医師等)はもっとよく利用者(患者)の要求を聞くよい供給者にならなければならないと言われる。間違ってはいないだろう。しかし,両者の利害は対立する。少なくとも対立しうることを前提にして考える必要がある。本節2でその要因の一端をごく簡単にだが述べた。それらは医療の領域に限らず構造的に生じうるものだった。さらに,供給されるサービスについての供給者と利用者の知識の差異,供給者は供給を職業とし,同業者の集団を作るのに対し,利用者は多くの場合,一時的に個人としてそのサービスを利用するだけであることによる力の差がある。ただ,これも医療に限らずどこでもよく生ずることであり,医療だけを特別視することはない。(教育や選抜のあり方等も背景とした)医療者個々人の資質に起因する部分があることを否定しないが,少なくとも問題はそこにだけあるのではない。よい人になればよいと言って解決しない。だから,問題が問題として現われている。にもかかわらず,供給者がよい供給者になることを期待する,供給者の良心に期待する,これも供給者にやってもらう,という主張の仕方には限界があるのに,この領域ではこのように語られてしまう,そして供給者サイドが語ってしまう機制が分析されるべきである。」(『私』:142) 「対立しうる要因」については,立岩[96/11/10][97/06/01]でも述べた。そして,注意すべきことは,またここであげた文章に述べたことは,当事者(=利用者)と直接の供給者の間の関係だけに対立の可能性があるのでないこと,そして,対立(の可能性)だけがあるのではないということである。
 「自己決定を認めることはひとまず1)@周囲にとって負担だが,A周囲の利害に添う決定だったら利益になる。2)@決定を本人に委ねることによって心理的な負荷を免れることがありうるが,Aその本人にかかった負荷が周囲に波及するなら結局周囲にとっても負担になりうる。」(『私』:131)[97/06/01]でより詳しく述べた。
 このような視点から「安楽死」について[98/01/15]で論ずる。
★04 末期医療に関し医師が担おうとするが担う準備もなく実際に担っていない役割について佐伯・山崎[1996]。これは実証研究としての成功例だと思う。
★05 cf.★03。「社会学は医療を特別視しすぎてないか…例えば専門性自体は医療に限られず,「専門家支配」もどこでも生じうる」(『私』:168)cf.[96/11/10]★06 「受験が上手な学生ばかり医学部に入ってきてよくないと指摘され,その指摘はその通りだとして,著者がそれに対して提案するのはリベラル・アーツ(一般教養)の重視である(終章)。これもよいことだと思う。けれども,問題にもっと直接に応ずる手はないものだろうか。あまり現実性のない話ではあるが,たとえばたくさん学生をとってしまうとか。そうすると供給過剰になるだろう。しかしそれは悪いことだろうか。あるいは,感染症から慢性疾患へという疾病構造の変化にともなって,医者が「技術者」から「援助者」になる,なるべきだと言う(第5章)。これもそうだと思う。しかし,たとえば医者はあくまで技術者であってよく,技術を発揮する場面がもし少なくなるなら,医者の仕事が少なくなればよく,技術以外の部分は医者でない人が対応すればよいのではないか。こんなことも考えられなくはない。医者がよい医者であってほしいという主張はまったく正しく,そのための改善策の主張も正しい。だが,権威主義や,受験における人気等々から医療と医者を解き放つことがもしよいことなのであれば,医療をもっと突き放して考えていくこともできるように思うのである。」([96/11/15])

■文献表

森岡 恭彦  1994 『インフォームド・コンセント』,日本放送出版協会
太田 富雄 編 1996 『現代医療の光と影』,晃洋書房
佐伯 みか・山崎 喜比古 1996 「末期患者の意向尊重をめぐる医師の役割認知に関する研究」,『保健医療社会学論集』7:26-36
佐藤 純一・黒田 浩一郎 編 1997? 『現代医療の神話』,世界思想社
土屋 貴志  1997? 「インフォームド・コンセント」,佐藤・黒田編[1997]
和田 努   1996 『カルテは誰のものか――患者の権利と生命の尊厳』,丸善
矢次 正利  1996 「医療と人間の疎外」,太田編[1996:40-63]

■1996年に書いたいくつかと1997年以降に書いた&話したもの

◆96/03/08「医療に介入する社会学・序説」,
     『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14):93-108 30枚
◆96/03/30「書評:黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』
     (世界思想社,1995年)」,
     『日本生命倫理学会ニューズレター』10:6-7 2.5枚
◆96/11/10「だれが「ケア」を語っているのか」
     『RSW研究会 研究会誌』19:3-27 100枚
◆96/11/15「書評:村上陽一郎『医療――高齢社会へ向かって』
     (読売新聞社,1996年)」
     『週刊読書人』2160:8 3.5枚
◆97/02/22「「市町村障害者生活支援事業」を請け負う」
     全国自立生活センター協議会・所長セミナー シンポジウム →97/06/07
◆97/04/30「書評:ヒュー・G・ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」
     計画』(現代書館,1996年)
     『日本生命倫理学会ニューズレター』12:5-6 2枚
◆97/05/31「「ケア」をどこに位置させるか」
     『家族問題研究』22:2-14 40枚
◆97/06/01 「私が決めることの難しさ――空疎でない自己決定論のために」
     太田省一編『分析・現代社会 制度/身体/物語』,八千代出版:154-184
     50枚
◆97/06/07「ピア・カウンセラーという資格があってよいとしたら,それはどうし
     てか」
     全国自立生活センター協議会・協議員総会 シンポジウム 
     『資料集』 12枚
◆97/08/09「「市町村障害者生活支援事業」を請け負う」
     『ノーマライゼーション研究』1997年版年報:61-73 35枚
◆97/09/05『私的所有論』
     勁草書房,465+66p.,6000円+税 約2000枚
◆97/10/25「専門性がなんのやくに立つのか?」(講演)
     第22回北信越医療ソーシャルワーカー研究会 「抄録集」に抄録
◆97/11/01「少子・高齢化社会はよい社会」(講演)
     信州大学医療技術短期大学部公開講座 受講者用配布資料有
◆97/11/08「彎曲する空間――医療に介入する社会学・序説2」
     日本社会学会第70回大会 於:千葉大学
◆97/**/**「「年二七六万円」を夫が払う?――妻の家事労働の経済的評価を考
     える」『開花』
◆97/11/21「聞きたいことをいくつか」
     『日米障害者リーダーシンポジウム資料集』 12枚
◆97/12/**「ケア・マネジメントはうまくいかない――ロンドンにいってきました」
     『こちら”ちくま”』5 12.5枚
◇98/01/01「ケア・マネジメントはイギリスでどう機能しているか」
     『ノーマライゼーション 障害者の福祉』1998-1 10枚
◇98/01/15「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」
     『仏教』 20枚
◇98/02/01(「障害」の定義について?)
     『現代思想』
◇98/02/**「知的障害者の当事者運動の成立と展開」(寺本晃久との共著)
     『信州大学医療技術短期大学部紀要』23 (但し掲載の可否は未定)
     50枚
◇98/03/**(聴覚障害は「障害」でないという主張について?)
     長瀬修・石川准編,『障害学への招待』,明石書店

cf.『私的所有論』の書評

稲葉振一郎氏(岡山大学・経済学)「稲葉振一郎のインタラクティヴ読書ノート・
別館」
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~sinaba/inabahp.htm

 (略)


REV: 20161031
立岩 真也
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