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「ケア」をどこに位置させるか
立岩 真也
1997/05/31 『家族問題研究』22:2-14(家族問題研究会)
1.問い方について
★01
「ケア」が語られる際に問題だと思うのは、「家族ができないから」「家族だと大変だから」という言い方(だけ)がよくされることである。「家族社会学」にもそういうことはなかっただろうか。「社会の変容」「家族の変容」(核家族化、女性の「社会進出」、高齢化…)から育児や介助の「社会化」を言うという筋道である。その通りの現実があり、それが重要であることは疑いない。またその実態を調査し報告することの意義をまったく否定しない。けれども、問うべきことはこれだけではない。
以下、主に「介助」★02を念頭におく。家族がする/しないということについて、(分け方はいろんろありうるが、ひとまず)以下の3つを考える必要がある。
1)家族がみる(第一次的な)義務がある(=他の人には(第一次的な)義務がない)ということ(現実に民法における「扶養義務」の規定、生活保護法における「補足性」規定他はそうなっている)に正当性があるのかという問題★03。
2)介助を使う本人にとってどうか、
3)1.その家族にとってどうか、2.それ以外の人達にとって(所謂「社会」にとって)どうか。
「家族が大変」という問題設定はこの中の3)の1.に(だけ)主に関わる。調査研究にしても、そうした観点から、例えば介護負担が調査されることが多かったと思う。もちろんそれはそれで大変重要なポイントではあるが、それはすべてではないということである。
そしてこれらは皆、別のあり方との比較において問われる主題である。1)は、同時に、この原則を採らないとしたらどういう原則を立てるのかという問題である。また3)は、家族に担わせる場合と、そうでない場合とを効率性、合理性の観点から比較することでもある。例えば介助を担うのは家族(だけ)でないとして、では代わりにどのようにそれを行うのがよいのかについて考える、また両者を比較してみることが課題になる。家族の負担から「社会」の負担へと主張するとして、もちろん負担が消えてなくなるわけではない。また、ここには無償の家事労働としてなされてきたこの仕事をどういうものとするのか、ボランティアや所謂有償ボランティアをどう評価するかという問題も関わってくる。こうした問題に答えようとするなら、実態を把握するだけではすまず、いろいろと考えてみる必要がでてくる。そして、このような主題についても、これまで(家族)社会学は十分な仕事をしてこなかったのではないかと私は考える。
以下、2.で1)について、3.で2)について検討し、4.で3)の一部を検討しつつ、どうするかという主題に戻り、5.で具体的なあり方について述べる。
2.まず家族に義務が課せられることの不思議さ
「家族による介助、介助に関する資源の提供が、現実には行われている。この国では以前からそして今でも、介助は家庭でなされてきた。これに対して、高齢化や、核家族化や、女性の「社会進出」のために家族の機能が衰弱し、それに代わって別の領域、例えば政府がこれを担当せねばならない、せざるを得ないという言い方がよく、ほとんど決まり文句のように、耳にたこが出来るほと、なされる。過去の多くの人は急性の病等で今よりもっと素速く死んでいったから、長い期間の介助が以前も必要だったわけではないことは押さえておこう。とはいえ、高齢化や核家族化自体は事実であり、それを否定しようというのではない。問題なのは、このような言い方の中で、「本来は」誰が行うべきなのか、家族なのか、家族だとしたらそれはなぜかが問われていない、あるいは曖昧にされていることである。「義務」「規範」について考えることを、結果として、避けてしまっていることである。家族が十分に世話できるなら、家族が経済的に十分に負担できるなら、家族が行うべきなのか、負担すべきなのか。ここから考えるべきだ。家族が行わねばならない根拠はあるのか。」([1995a:231-232])
ひとつにこういう問い方がある。答は別の論文([1991][1992])で検討したし、上に引用した文章[1995a]に書いた。家族にだけ義務を課すべき根拠はどこにもない。
にもかかわらず義務が課されることと「近代家族」についての「(家族)社会学的」了解との間の齟齬と、この齟齬に対する「学」の側の無自覚さについては[1992]で述べた。例えば「第一次的福祉の追求」といった言い方が家族の「定義」の中でなされるが、これは、追求しようとその当人達が思っている、当人達が追求しているということなのか、それとも(誰かによって?)追求しなくてはならないとされているということなのか。前者と後者の意味は異なる。そして近代家族が自発的な関係であるとするなら、後者の「義務」は自発性自体からはけっして出てこないものであるはずだが★04、それをどう考えるのか。こうした問題を曖昧にしてきた。家族の「定義」にしても、曖昧にしてしまうような定義がなされてきた。だから、もっとはっきりさせた方がよいと私は思って考えてきた。
そして結論だけ言えば、家族に第一次的な義務を課す(家族外には課さない)ことに正当性はない★05。そして義務がないと主張することは、同時に、家族にだけ特権が付与される(相続にあたっての優遇、等)ことの正当性もないと主張することであり、その特権が放棄されてよいと主張することでもある。ここから例えばどのような「家族政策」が帰結するのかといった主題が現われる。
3.「家出」の意味
次に、「当事者」にとって、よい、気持ちのよいことであるのかということ。ここ10年余り、家(と施設)を出て暮らす障害者について調べてきた(安積他[1990][1995])。もちろん、ここにも家族に頼る場合に必要量が充足されないという「不足」の問題はある。だが、(親が年をとったとか、死んだとかいう)「不足」(あるいは「虐待」)だけから家を出る★06のでは必ずしもない。介助という行為が、(少なくとも多くの場合)「距離」を必要とすること。そして家族という関係自体に、ある距離が必要とされること。もちろん私達が調査してきた主に20〜40歳代の障害者と高齢者の意識は異なるだろう。多くの人は家族を頼りにしている。あるいは頼りにせざるをえないでいる。このことは各種の調査からも明らかである。けれど少なくとも、ケア、介助という行為に、常に何か近しい関係、また「ふれあい」が求められているのだと予め前提するならそれは違う。
「例えば、ディズニーランドに行くことがボランティアと一緒に遊ぶということなら、ボランティアはその人との関係がおもしろいだろうし、ボランティアされている人もおもしろいかもしれない。けれども、自分が親しい人とそこに行く、しかしその親しい人と別の介助者が必要だという時には、その介助者はできるだけ無色透明である方がよい。そういうことをわかった上でそれをボランティアとして自然に行える、人間のできた人もいるかもしれない。しかしこれはなかなかに難しいことではある。」([1996:134])★07
「介助者との関係に対する考え方は一通りではない。介助という関係に人と人のつながりを求める人もいる。特に人とのつきあいを介助者との関係以外にあまり求められない人に多い。しかし、人間関係が他にも様々にある人の場合は違う。このことに私達はあまり思い至らないかもしれないが、少しでも考えてみれば当然のことだ。一人でいられる時間と人と関係する時間があって生活は成り立っていく。つきあいたい人、つきあわねばならない人とつきあって帰ってきた時、介助が必要だから介助者が近くにいることは避けられないが、その時間は脇にいて控えていてほしい。介助に過剰な意味を込めてもらっては困るのだ。この時には、介助という仕事は地味な仕事で、コミュニケーションや自己実現を性急に求められても、それはかなわない。思い入れだけではやっていけない。」([1995a:134])
「(一人暮らしを始める前に)既に家族との関係が疎遠になっている場合は大きな変化はないが、家族との生活の後、介助をめぐる状況の悪化に押し出されるというかたちでなく、家族から離れることができた場合には、かえって、家族との関係が、以前とは違った良好な関係として再び構築されている例がいくつもあった。」(杉原他[1996:262])
4.有償/無償をめぐる利益/不利益
利益/不利益という言葉を私達は安易に使うが、何と比べて、どういう基準で不利益であるのかをはっきりさせながらこのことを考えなくてはならない。家族に(無償で)担わせることによって、その家族(実際はその中の女性)が損をし、誰かが(しかし誰が?)得をしているという言説が例えば「マルクス主義フェミニズム」等から発せられる。だが、少し検討してみると、その多くが随分不用意なものであることがわかる。ただここでは詳述できない★08。その一部をとりあげる。
現状としては、男が稼いで(他の仕事はしないで)女が家族の面倒をみる、またボランティア活動をする(若干の支払いがある場合もある)。これについてはいろいろ言われているが、十分な議論はされていない。なんだか変な感じがするが、どこがどう変なのか、どうすればよいのか。費用を社会的に負担して有償化する場合と比較してみるとどうか。別稿で述べたことを、そこで用いた図を省いて、ほぼそのまま紹介する。
α:今、この社会に存在する無償の行為と有償の行為の大きな分割は家族成員間での分業、性別分業としてある。無償の行為がなぜ成立するかといえば家族内でお金が分配されるからである。妻が無償で仕事をする。夫が稼いできたお金を妻も使う。
β:このような労働、分業の編成を変えないでサービスを無償の部分に委ねるなら、家族の中で行われていたことが同じ成員による地域での扶助という形に移される。つまり主婦のボランティアである。直接に家族が家族のためのサービスを行うのではないが、やはりその無償の行為の提供者(多くは妻)は、家族の他の成員(多くは夫)の稼ぎで消費生活を行うことになる。学生が無償の提供者でありうるのも大抵は親が生活費を援助しているからだ。つまり、家庭内分業自体は残り、有償・無償の仕事を行う人も以前と同じ人である。家族の中の誰か(妻や子)が行い、その誰かの生活を家族の他の誰か(夫や親)が支えるという構造は少しも変わっていない。当の家族以外の援助を行う点だけが違う。そして、無償と言いながら、実は間接的にその無償の行為を可能にしている有償の仕事をする人が控えており、その人から給料という形ではないにせよお金を受け取ってはいる。
βは特定の時期に特定の家族に負担が集中するαよりは、負担を分散できる点で理にはかなっている。しかしβも、個々の家族の状況、例えば2人分以上を稼いでこれる人がいるかといった事情に左右されるのはαと同じだ。
さらに生活費を得る人とその生活費で暮らしながらそのサービスに従事する人との組み合わせが家族の中(例えば夫と妻)に閉じられざるをえないことは、両者の自由を制約し、相互依存は関係の自由を制約し、どちらか一方の他方への依存は支配・従属の条件となりうる。この組み合わせがあること自体が悪いというのではない。この組み合わせの中でも満足し、平等だと感じることはありうるのだから。しかし、この組み合わせから容易に出られないように社会が組み立てられているなら(実際組み立てられている)、それは支配・従属の可能性と現実を構造的に産み出しているのだから、問題だ。2人1組の対の関係があることと、この形でなければ(3人目を含めて)生きていけないようになっていることとは別のことだ。むしろ後者は、例えば形式的な関係の解消を困難にすることによって逆に、人間関係の実質を破壊しうる。
そしてα・βとも「ただ」と言ってもみかけ上のことにすぎない。無償の仕事をしながら生活する妻の生活を可能にするために、その仕事に対する対価としてではないにしても、夫は支払っている。
それを有償化して何か経済的な不都合があるだろうか。ここには、払う分損するだろうという、単純な、しかしかなり広い範囲に行き渡っている誤解がある。国民の「負担率」をめぐる一見もっともらしい議論も、それに説得されてしまうのも、大部分、こうした感覚に基づいている。だが有償化とは、まずは、出す人もいるが、受け取る人もいて(そしてこの両者は別の人とは限らない)、差し引きはゼロというだけのことである。個々への配分の割合が変わり、現状より負担が増える人もいるが、逆の人もおり、合計すれば同じだ。この仕事に対して配分されたお金は、それを受け取った人による消費にまわるのだから、生産−消費がこのことによって減ることはない。
全社会的に負担する時には、その夫(だけでなく負担できる人全て)が負担し、それがサービスする人に払われる。こちらの方が、家族の中で有償と無償とを組み合わせる方法に比べ、権利の公正な保障ができる。
ならば、β(そしてそれとさほど違わない主婦の「有償ボランティア」)を、採用すべき基本的な「システム」として支持することはできない。
このような無償と有償の分業を家庭外に拡大することは不可能ではない。つまりは、ボランティアの生活を家族でない他の人が支えるということである。これは個々の家族の経済状態に左右されるよりは合理的な形だ。だが、それは結局活動する人にお金を分配することになり、有償の形に統一するのと結果的に変わらない。
とすると、その人自身による無償の活動と言えるのは、同じ人が一方では有給の仕事をし、別の時間に無償の活動に従事する場合だけである。それで全てがうまくいくなら、それでよい。だがうまくいくだろうか。(以上[1995a:237-240])
うまくいかないことを[1995a]で述べた。ボランティアの理念や意義はおおいに語られてよいし、以上はボランティアの否定をまったく意味しない。ただ、検討されるべきはこのことだけではないということである。以上から次のようなことも言える。
第一に、上のように損得の差し引きが全体としてゼロだと言えるのは、供給されるサービスの水準が変わらない場合である。別言すれば、社会的負担に移行することによってそのサービスの増加が見込まれるなら、それと比較した場合、現状から不利益を被っているのは低い水準に押さえられている利用者であり、利益を得ているのは負担者である★09。
第二に、介助に関わる負担だけを考えるなら、現状で得をしているのは、(損得の有無、損得の度合いは、税の徴収制度のあり方等によって変わってくるのだが、大雑把に言って)介助しない(介助される人がいない)人・家族、その負担が社会的な平均値以下の人・家族、他人の分も負担せずに済むことによって税金なら税金が安くて済んでいる人・家族であり、これらの人達は社会的負担に移行することによって(「他人」(の家族)」に関わる負担を負うことによって)損をすることになる。こうして、不利益を受けているのは、不払いで家事を行う、人の世話をする人、家族の全てではない。この利益/不利益は、家族を単位として権利や義務が設定されていること(2.)から生じている。家族あるいは女性全般が不利益を被っていると考えてしまう人は、社会的な負担とする場合も、その社会の成員である一人一人の負担は継続するという至極当然のことを十分に踏まえていない。
ただ、介助の必要は多くの場合、人生の一時期に集中的に現われ、それを特定の人が担わねばならないことによって、他の社会的活動を停止せざるをえないといったことが起こる。これは労働力の利用法として効率的であるとは言えない。
また、介助の必要は(かなり高い)可能性で生ずる。しかも生じない可能性は予めわからない。「社会化」を、いざという時のための保険のようなものだと考えることもできる。一生介助を受ける必要がない場合もあるかもしれないが、それはそれで運が良かったということである。積み立てたお金を使えずに損をしたとは思わないだろう。掛け捨ての保険のようなものだ。自分のために蓄え、使わずあるいは使い残して死んだら無駄になるが、保険のシステムでは自分でないにしても誰かが使うことになり、その分、自分が自分のために貯金する額よりも保険料は安くてすむ。「助け合う」「支え合う」のは自分のためになる。「互酬」という言葉が使われることもある。そしてこの場合に、単位を大きくとることは非効率的な選択ではない。家族という単位も小さな保険会社と考えることができるが、単位として小さすぎるのであり、この範囲を拡大することはこの保険システムの安定性をもたらす。このように、他人のためではなく結局自分のためだという言い方もできるし、実際頻繁になされる。これがかなり説得力があることは認める。しかし、これは未来の不確定性の上に成り立っている。民間の保険を考えればよい。払い戻しが多い人の加入を認める保険の保険料は高額になるから、保険料が安い方がよいと思う人は既に病気や障害を持っている人が加入する保険に加入しないだろう。生まれる前に生まれた後のことはわからないと言うかもしれない。しかし例えば遺伝子の検査によって将来病気にかかる確率の高い人がわかるようになったとしよう。その人(あるいはその親)は、保険への加入を断られるか、割り増しの保険料を払わねばならなくなる。(この段落は[1995a:230-231])
以上を踏まえた上でどう考えるか。これは損得勘定自体からは出てこない。第一点について、負担の増加を認めるとしよう。第二点に、仮に「リスク」がわかっている場合でも加入を拒否しないとしよう。とするなら、人はよく生きていく権利がある、同じことを言い換えれば、そのように生きていくことを支援する義務が人々にはあるということである。その義務をその人の家族と家族でない人とは同じに負う。これが原則となる。その上で、この方法が、大抵の人にとって十分に効率的、合理的であるという主張をすることになる。
この原則自体はまったく単純なものである。ただ、社会は原則(だけ)で動くわけではない。当然利害が絡む。また効果的、効率的であるということはそれ自体としては少しも悪いことではなく、むしろより効果的である方がよいのだから、合理性、効率性という観点を省くことはない。このように考えていくなら、各種の現状批判の言説や改革の正当化の言説の中に、そのままに受け入れられない、損得の計算の仕方が間違っているものが数多くあることに気付く。と同時に、効率性にどれだけの意味をもたせるのか、例えば「互助」という言い方だけで主張していってよいのか、はっきりさせる必要がある。★10
5.代りに
どうすればよいか。必要なことは、非常に切り詰めてではあるが[1995a]等で述べた。
サービスは基本的に有償とし、税金等の再分配としてその資源が提供されることがまず選択されるべきだと考える。政府は費用を集め配分する主体としての役割を果たす。
第一に、有料化しないと必要な「量」を得られないからである。第二に、契約関係にすることで、時に頼りなく時に独善的な相手に左右されず、自分の要求をはっきり主張し、「質」を確保するためである。だがそれだけでもない。第三の理由は、「負担」のあり方、「公−私」の関係のあり方に関係する。サービスを行なう負担を誰に求めるか。直接の提供者にか。つまりその人を「ボランティア」とするのか。あるいは自己負担、家族の負担か。いずれでもなく、社会全体がこれを担うべきだと考える。それは、負担できる人全てに負担を義務づけ、強制することを意味する。ただ、社会の全ての人が直接に参加することは望めないし、それを強制するわけにもいかないなら、実際に可能なのは、税金等のかたちで負担させることである。とすると、直接的な参加への回路を開いておくと同時に、また開いておくためにも、負担できる者は税金や保険料を負担し、それがサービスの提供に対する対価として支払われるのが最も合理的であり、また義務として負担を課せる(強制できる)のは政治的決定を介した場合だけである。これが社会全体による支援の実現の仕方として採用される。だからここで、有償とは自己負担のことではない。実際にサービスを提供する人がいて、その人をさらに別の人達が支える。(無償の行為を行う家族を金を稼いでくる家族が支えるという関係にもこれを縮小した形があるにはある。しかし、それが合理的であると言えないことは4.で述べた。また、義務が家族の中に閉じられることに正当性がないことは2.で述べた。)実際には全ての人がサービスの提供に関わらないとしても、全ての人が権利を擁護する義務を果たす。だからここには負担の一方的な押し付けはない。生きる権利を認めるとは、このように全ての人が義務を負うことだと考えるなら、むしろこちらが選ばれてよい。
上述した立場を取る場合、通常、その実際の供給を担当する主体としても政府が指定される。ここがよく間違えられるところである。資源を誰が出すかということと、誰がサービス供給に携わるかとは別のことだ。社会的負担を主張することは、政府がサービスの提供まで直接担当することを意味しない。次に、供給主体を別にすることをなぜ主張するか。理由は単純で、利用者にとってよいサービスがよいサービスだということである。誰からどのようなサービスを受け取るかに関わる決定は利用者に委ねられるべきだと考える。つまり資源の供給とサービス(の提供者)についての決定を分離し、前者を政治的再分配によって確保し、後者を当事者=利用者に委ねればよい。しかし、個人が単独で供給された資源を利用し、サービスを利用することは難しい。ならば、そこに組織が介在すればよい。しかしその組織として行政機関は必ずしも適任とは言えない。★11
第一に、政府はその行政の区域について常に単一の主体であるため、競争が働かない。利用者にとっては選択肢が存在しない。
第二に、市民の直接的な参加が難しい。活動に従事する人を非常勤の公務員として登録するという手もある。しかしそれでは、サービス提供のあり形の企画・決定まで市民が担うことはできないだろう。
第三に、市民参加、というよりむしろ利用者の(そしてその代弁者の)参加が求められる。価格メカニズムがうまく働くなら、供給者サイドに委ねておいてもよいかもしれない。供給者はその製品を買ってほしければ、品質等々に気をつかい、消費者に受け入れられるものを供給しようとするだろうから。全ての商品について、消費者がそれを管理するのは大変なことだが、それをしないで済んでいるのはこういう事情があるからだ。しかし第一に、一定のサービスに対して定額制のシステムが採用される場合には、価格メカニズムは働かない。また、価格の上乗せ分が自己負担になるといった場合を考えるなら、価格によって質を制御すればよいとも言えない。(供給者と利用者の利害は対立して当然である、というか、対立しうるというところから考え、その上でそれをどうするかを考えていかないと、結局供給者側の利害によって利用者側が求めているものを得られないことになってしまう。このことが、「ふれあい」とか「助け合い」とか、我と彼の差異をうやむやにしてしまう言葉が使われ、「ケア」という語が用いられる中で曖昧にされてはならないと考える。cf.[1996c][1996e][1997a][1997b])
このような場合、利用者に近い組織、あるいは利用者自身がコントロールできる組織がサービスの供給を行うという方法が一つある。障害を持つ当事者を主体とする「自立生活センター」がそうした活動を行っており、うまくいっているところ(介助費用に関わる制度が相対的にととのっているところ)では質量ともにこれまでにない水準のサービスを提供しえている([1995b])。★12
注
★01 この文章の多くの部分は以前に書いたものからの引用や、その要約である。千葉大学文学部社会学研究室[1996]の中に付論として書いたいくつかの文章を用いた部分が多いが、それらの文章自体が過去に書いたものの要約的な性格を持つものなので、この場合の出典はいちいち記さない。他については記す。煩雑なので、私の単著の文章は[1990]のように著者名を省いて記すことにする。なお、そのいくつかは入手するのが面倒だと思う。ホームページhttp://alps.shinshu-u.ac.jp/ITAN/GED/TATEIWA/1.htmで読む(読み込む)ことができる。また書店で買えない本、また安く買いたい本について、御注文下さればお送りする。問合せは 390 松本市蟻ケ崎1892-4 fax 0263-39-2141 NIFTY-Serve ID:TAE01303,internet ID:tateiwa@gipac.shinshu-u.ac.jp 立岩まで。*
*HP・連絡先等変更:現在のHPは
http://www.arsvi.com
★02 障害者の運動の中では、言葉として「介護」より「介助」が優先されることがある。また「ケア」より「パーソナル・アシスタンス」といった言葉が使われることがある。
★03 正確には、まず自分でやりなさい、駄目だったら家族がやりなさい、それでも駄目だったら政府が担当しますという順序になっている。本稿は第二番目と第三番目の順序の立て方を問題にしているのだが、もちろん、第一番目をどう考えるかが最初の問題である。このことについていくつかの文章を書いてきたが、立岩[1997b]にまとめた。
★04 「愛情から行う」ことがあるかもしれない。しかしこのことと「愛情があるなら行うべきだ」とすることとは別のことである。[1991][1992][1996b]で述べた。
★05 もちろんこれは大原則だから、実際に変更するのは難しい。より現実的?なアイデアとして、障害者の側から「扶養義務の定年制」という提案がある。これはおもしろいと思う。もちろん民法改正などそう簡単にできないことだが、他の手段を使っても現実をそこに近づけることはできる。
★06 同居しつつ家族の介助を得ないという場合があるから、この言葉は必ずしも正確ではない。ただ、生活保護の受給権の問題もあり彼らの多くは実際に家を出る。
★07 この辺については岡原[1990a][1990b]も参照のこと。
★08 [1994a][1994b]で検討した。女性は男性と比較して、市場で働くことが少なく、稼ぎが少ない。なぜこんなことになっているのか。こうすることによって女性以外の誰かが(誰もが)得しているのだという見方がある。しかし考えてみるとそう簡単に言えない。
まず女性を労働市場において差別する(労働能力と無関係な性別という属性によって不利益を与えることをここでは差別と言う)ことによって、市場(資本家そして消費者)は利益を得ない。第一に、労働市場からの締め出しは可能な労働供給量を減らすから、労働を購入しようとする側にとっては不利である。また賃金等に格差を設けることも、実は利益にならない。例えば、同一の労働に高い賃金と低い賃金を設定するのと一律に両者の平均値を設定する場合とを比較してみればよい。他方、男性労働者は明らかに(不当な)利益を得ている。しかし、夫と妻の賃金が家庭内で合算されるなら、その家計総体をみた場合、やはり経済的な利益はない。(これらについては[1994b]でもっと詳しく論じた。)
女性に家事をやらせるためだという考え方がある。しかし、そのようにも考えられない。例えば、「専業主婦化」の前、女性は家事労働を担うとともにいわゆる生産活動にも従事していたのだが、そこから撤退させることが利益になるだろうかと単純に考えてみてもよい。「不払い労働」という言い方で、女性の置かれている状況の不当性と、男性・資本・国家の側が得ている(不当な)利益を言う主張があるが、これも詰めて考えていくと妥当性は疑わしい。ここでは詳しく論証できないが、ひとまず以下のようなことを指摘しておこう。第一に、サービスの対価を誰に求めるべきかという点をよく考える必要がある(例えば育児労働の対価の全額を夫に求めることは、妻は育児に関わる負担主体でなくなることを意味する)。第二に、たしかに主婦の労働に対する支払いは行なわれていないが、主婦はともかくもその生活費を得ている。第三に、家の中で働かせるという要素だけでなく、家の外では働かないという要素も考えに入れる必要がある。
たしかに(子供の、そして大人の)ケアの仕事は、少なくとも一時期については相当の時間をとられる。しかしそのために、それ専用の要員として女性を家族に用意しておく(用意してその生活をともかくも保障する)ことにどれほどのメリットがあるだろうか。それが社会的に(すなわち家族外の人々にとって)効率的であるという証拠はなく、むしろ、効率的でないとみる方が妥当だと考える。そしてこのことは、妻に家事をやらせている(やってもらっている)夫についても言える。
歴史的にみた時、「専業主婦化」は、夫一人でも家計を維持していけること、妻が働かなくてもすむこと自体が、当の家族の家計の余裕を示し、自らの位置を高めることであるとされたことによるものと考えられる。経済的な合理性の観点、労働の配分の合理性の観点から見れば無駄であり、ある場合にはやせ我慢であることを人々はあえて行ったのである。すなわち、この社会に存在する事態は、資本・市場の側からの要請ではない。また、少なくとも家庭内だけを見、家計の一体性を考え、生活の水準だけを見た場合に、夫が利益を得ているのでもないということになる。
ただし、このように述べることは、ここに女性の男性への従属が存在しないということを意味しない。労働市場内部で、あるいは労働市場の内側と外側との境界で、男性労働者が不当な利益を得ていることは上に述べた。たしかに家計としては夫と妻の収入は合算され、両者が例えば20万円ずつと30万円+10万円、40万円+0とでは総額は同じにはなる。ただ、この関係において、妻は生計を夫に依存することによって、従属的な立場に置かれうる――常にそれが顕在化するというわけではないのだが。
つまり、西欧では19世紀以降、日本では主に戦後に現われ、今や衰退しつつあるとも言えよう専業主婦化というひとつの歴史的過程があり、それと同時に(その中に)――労働を不当に安く買いたたいているというのではない――男性による女性の支配、格差の保持がある。もちろん、パートタイム労働、「兼業主婦」が広範に存在するわけで、これについては別に考えるべき要素が出てくる。ただ、以上に述べた部分については、基本的な論点は動かない。(以上について[1994a])
★09 「介助といった活動の少なくとも一定部分は、直接には生産の維持・拡大に結びつかない。労働なり設備への投下が次の生産の拡大に結びつく分野に回ることによって経済が成長する。有償化すれば、労働(サービス)がより多く有償化された領域に振り向けられことになる。つまり、成長をもたらす部門に集中的に労働と財が投下された結果、介助などの「単に」生活を維持するための活動が切り詰められたのだと考えることができる。
もちろん、第一に、サービスが提供されることによってサービスを利用する人が生産活動に従事できるようになる場合があるだろう。第二に、人生のある期間は介助等に忙殺される一方、その前後を含め職に就くことができなかった人が、その活動の社会化によって、職業に従事できる、続けられるようになる場合があるだろう。これらを考えれば事情はかなり変わってくる。実は、「生産」にとっても、有償化、社会化は効果的なのだと言いうる可能性がある。
このことは見逃すべきではない。だがそれと同時に、私達は、少なくとも現在、生産の拡大が――それがやがて人々の生活全般の向上に寄与するのだという主張(だから今は我慢した方がよいという主張)も聞いた上でも――今の生活を犠牲にしても獲得しなくてはならないほどのものなのか、という問いに直接答えてもよい。我慢して増やすことより、今の一人一人の生活を大切にしてよいし、またそれが可能なところに私達は来ているのだと考える。私達は、形のあるもの、形が残るもの、そしてその増殖に対する欲望、むしろ形のないもの、形なく消えてしまうものに対する恐怖のもとに生きてきたのだが、ただ何のためということもなく生きていることを肯定すること、あるいはそれを受け入れること、それを耐えることを選んでよいのだと思う。」([1995a:237-238])
繰り返すが、「国民負担率」の高低とサービスの水準、労働力の配分の問題とは、関連するけれども、まずは分けて考えた方がよい。その上でなお上記したことが残る。所有と配分という主題について、基本的なことは[1997b]に記した。
★10 「保険」という発想(とその限界)については[1997b]第7章2節で考察した。
★11 以下、より詳しくは、政府、営利企業とNPO=非営利(+非政府)組織の性格について検討した立岩・成井[1996]。またNPOの法的な位置づけのあり方も含めて[1996d]。
★12 もちろん、民間組織が必要な全体を覆えない場合にどのように対応すべきかといった問題は残る。(これに対する基本的な回答は以上から可能である。使えないお金を供給しても権利を保障する義務を果たしたことにはならない。実際に使えるものとして供給されるまでが義務として社会(その代行者としての政府)に課された範囲である。ただし、この部分に対する民間組織の参画が妨げられることがあってはならない)また、実際の費用の供給システムをどうするか。利用者に対する現金支給という方法もありうるが、現物支給(供給主体への費用の供給)とした場合、実際にサービスを提供する人に渡る部分と供給・媒介組織に渡る部分をどう考えるのか。これらの問題は具体的なシステムを考えていく上で非常に重要である。しかし基本的には、以上で述べた「分業」が採用されてよいはずである。
なお以上は、もちろん家族がその行為を担うことを否定するものではなく、双方の合意があれば、家族は、家族でない人と同じに、介助という仕事をする一員として位置づけられる。(公的介護保険を巡り、家族による介護について保険からの支給対象とすべきかという議論がある。他の選択肢を実際に用意し、選択を現実的に可能にすることを前提として、認められるべきである。)
制度の紹介は[1995a]でもある程度行ったが、自立生活情報センター[1996]が詳しく、役に立つ。種々の制度、民間の活動は[1992-1996]でも紹介し、「公的介護保険」もとりあげたが、より詳しい検討はこれから。社会サービスのシステムの変更のあり方についてはヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会[1994]も参照されたい。「自立生活運動」の生成と展開については[1990]。「自立生活センター」の活動([1995b])は、この運動のさらなる展開と捉えることができる。
文献
安積 純子・岡原 正幸・尾中 文哉・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店、320p.、2500円
――――― 1995
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』
、藤原書店、366p.、2900円+税
千葉大学文学部社会学研究室 1994 『障害者という場所――自立生活から社会を見る』、千葉大学部文学部社会学研究室、375p.、1200円
※売切れ→ホームページ(注01)からご覧ください。
――――― 1996 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学』、千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会、366p.、1500円
ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会 1994 『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』、ヒューマンケア協会、88p.、1000円
自立生活情報センター編 1996 『HOW TO 介護保障――障害者・高齢者の豊かな一人暮らしを支える制度』、現代書館、150p.、1500円
岡原 正幸 1990a 「コンフリクトからの自由――介助関係の模索」、安積他[1990:75-100]→安積他[1995:75-100]
――――― 1990b 「制度としての愛情――脱家族とは」、安積他[1990:121-146]→安積他[1995:121-146]
杉原素子・赤塚光子・佐々木葉子・立岩真也・田中晃・林裕信・三ツ木任一 1996 「障害者の住まい方に関する研究(第3報)」、厚生省心身障害研究、主任研究者:高松鶴吉『心身障害児(者)の地域福祉に関する総合的研究 平成7年度研究報告書』:253-263
立岩 真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」、安積他
[1990:165-226]→1995 安積他[1995:165-226]
――――― 1991 「愛について――近代家族論・1」、『ソシオロゴス』15:35-52
――――― 1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」、『社会学評論』42-2:30-44
――――― 1992-1996 「自立生活運動の現在」、『季刊福祉労働』55号から69号まで連載(全15回)
――――― 1994a 「妻の家事労働に夫はいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」、『千葉大学文学部人文研究』23:63-121
――――― 1994b 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」、『Sociology Today』5:46-56
――――― 1995a 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、安積他[1995:227-265]
――――― 1995b 「自立生活センターの挑戦」、安積他[1995:267-321]
――――― 1996a 「もう一つの仕事、という越えかた」、千葉大学文学部社会学研究室[1996:134-135]
――――― 1996b 「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」、 『信州大学医療技術短期大学部紀要』21:115-126
――――― 1996c 「医療に介入する社会学・序説」、『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14):93-108
――――― 1996d 「社会サービスを行う非営利民間組織の場合――自立生活センター(CIL)から」、住信基礎研究所『平成7年度「市民公益団体の実態把握調査」依託調査結果報告書』(経済企画庁依託調査)、pp.特論4-11
――――― 1996e 「だれがケアを語っているのか」(講演)、『RSW研究会 研究会誌』19:3-27
――――― 1997a 「私が決めることの難しさ――空疎でない自己決定論のために」、『分析・現代社会――制度・身体・物語』、八千代出版
――――― 1997b
『私的所有論』
(仮題)、勁草書房、約500p.、約6000円
立岩 真也・成井 正之 1996 「(非政府+非営利)組織=NPO、は何をするか」、千葉大学文学部社会学研究室[1996:48-60]
Where should be "Care" Placed ?
Tateiwa, Shinya
信州大学医療技術短期大学部助教授
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家族問題研究会大会シンポジウム「ケアと家族――自立と自己実現を求めて」、
1996年5月25日 於:明治学院大学
当日配布した印刷物の表題は「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える」でした が、[1995a]と重複するので、ちょっと変えてみました。
本文+注で約40枚です。
UP:1997
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介助・介護
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家族
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立岩 真也
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