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権利を擁護するNPO

立岩 真也 1996.11.24
第69回日本社会学会大会 於:琉球大学 cf.要旨集原稿


(当日配付した文章)
※ 以下は、草稿「私が決めることの難しさ――空疎でない自己決定論のために」(『分析・現代社会――制度・身体・物語』、1997年、八千代出版、所収)の注と参考文献を今回の報告に合わせて変更したもの。

 以下では、まず、なぜ(供給者による供給だけでなく、また、供給者が利用者の権利に配慮しようというだけでなく、それと独立したものとしての)権利擁護が必要なのか、その一端が述べられている。(もちろん、それ以前に、何が誰の権利――以下では決定権が取り上げられた――なのかという問いはあり、Tで少し触れられているし、立岩[1997a]で主題的に考察されるが、今回は省略する。そして、多くの場合には、この問いを省略しその先を考えればよい。)
 次に、なぜNPOか、その一部が述べられている。NPO(Non Profit Organization)はその言葉通りの意味では、非営利組織であり、営利企業と対比されるが、同時に、非政府組織でもあり、実質的には、非営利、かつ、非政府組織である。以下では、非政府組織であることの意味が少し述べられている。営利企業とNPOとの対比については検討されていない(この点については立岩・成井[1996:49-51])。
 だから、本報告は基本的な――言うまでもない、かもしれない――事々の確認にあてられているのであり、具体的な組織に即した検討は――注に僅かのことを記したけれども――別に行なわれる。この分野では何より研究者の数が少なく――先行研究もいくつかあるけれど――研究の量自体が足りない。個別の事例についての詳しい報告の蓄積が望まれるし、この作業への研究者の参画とその研究結果の集積・流通がなされるとよいと思う。

■T 自己決定という言葉がいる場所

 ■1 はじめに

 この章では、特に医療や福祉と呼ばれる領域での「自己決定」という主題に関わることのいくつかについて、少し考えてみる。★01
 まず一つ、自己決定は大切であるという話がある。実際のところはたいしてリアリティのない人にとっても、なにせ自己決定や「インフォームド・コンセント」(説明の上での同意)は流行なのであり、セットで販売されているといった具合だから、正面きって、総論として、それに反対する人はいない。もう一つは、そんなこと言ったって現実はそんなに単純じゃない、なかなかやっかいだ、そういう中でやっているのだ、という実感レベルの反応、あるいは反感である。こういうのは現場の人が得意とするところだ。こうして、講演などで語られることと、その裏でひそひそと語られることの乖離がある。もちろんこれは時と場合によるのであって、むしろ後者がおおっぴらに語られることもある。また、「人間関係」を重視したり、「依存型のパーソナリティ」を勘案した――本章でこれから述べることを考えた場合に、どのような用いられ方をされるのか曖昧であり、危険でありうる――「日本型」の自己決定やらインフォームド・コンセントなるものが語られることさえある★02。このような具合に語られること自体が現実の一部を構成している。さて、その現実とはどういうものか。
 第2節で、自己決定が周囲の人にとってどういうものか、列挙する。第3節で、それへの対応策として語られることに、少なくとも限界があることを述べる。第4節で、第2節で述べたことの一部をもう少し詳しく説明した後、考えられる方法について検討する。
 その前に、次項で、本章では検討できない自己決定に関わって検討すべき主題を、示すだけ示しておく。★03

 ■2 決定の手前にあること

 一つに、ある存在に決定(能力)を想定できない場面、自己決定できる状態以前あるいは以後にある(と私達が思っている)場面がある。この時にどうするのか。植物状態や脳死のことが想起されるだろうが、それだけではない。たとえばまだ具体的に人として現われない存在、自らの決定が不在である存在に関わる決定をどう考えるのか。たとえば、人の質を出生前に診断することに基づいて行われる選択的人工妊娠中絶、障害新生児の治療停止。これに関連して、決定能力、判断能力があることと生存する権利、生存のための資格とを結びつける議論があり、それはたとえば自己決定能力をもつものが人間であり、人間でないものは生存の資格をもたないといった主張をする。さらに、「クオリティ・オブ・ライフ」(生活の質・生命の質)といった言葉が、「自己決定」と場面を使い分けられ、あるいは組み合わされて、ここに入り込んでくる★04。なぜこうした主張が現われ、それが、どのように決定の不在な場に入り込んでくるのかを含めて、検討する必要がある。
 一つに、自己決定としてなされることのすべてを、自己決定であるから認める、そういうことでこの話は終わるのだろうか。たとえば、代理出産を依頼する側が自己決定として依頼する。それに応ずる代理母の側も自己決定としてそれに応ずる。両者とも自己決定であり、他の誰に対しても危害を加える意図はなく、また実際誰も直接的な危害を被ってはいないとしよう。また、自分の利益についての本人の判断をそのまま採用できない(自己に不利なはずの決定を自らが行っている)というのが、自己決定を制約しようとする時の一つの主張なのだが、ここではこの主張も当てはまらないとしよう。すると、どこにも問題はないことになるのか。★05
 私の身体が私のものである(私の決定権の対象である)ことをそのまま認めればそれでよいということになる。ただ、それでよいと思わないなら、自己決定を前提において、その先を考えればすむという話ではない。
 これらのことは、一番基本的なところから考え直してみる、というより考え始めてみる必要があることを示していると思う。何が、どうして、その人の(決定のもとにある)ものと言えるのか。またこの原則がいったいどのあたりに位置づくのか。たとえば第一番目
にくる原則なのか、それともそうではないのか。自己決定権とは、自己=私が、あるものをどうするかについて決定権があるということなのだが、近代的な意味での所有権も、あるものをどう扱うについての決定権のことである。だから、このように言う限りでは、「自己決定権」は「私的所有権」であるとも言える。だから、自己決定について考えることは私的所有について考えることでもある。
 これから述べることにしても、それを少し先に進めれば、考え始めること、と今述べたことにつながるだろう。生活のあり方を決めること、とりわけ今まで決められなかった状態にあった人がその状態から脱することを当然のことだとしよう。だから自己決定を主張しよう。しかし他方で、どのようにも制御、決定できないものがあり、また、制御、決定しようとしないものもある。私が決定し、制御することに価値を置くというあり方に抗しながら、しかし私の決定を確保するという途があるはずだ。ただ、これらのことについては別のところで検討している。本章では、私が基本的な主題と考える事々の後に来る、あるいは、まずはその手前に現われる、より「現実的」な主題について考えることにしよう。

■U 自己決定で困ることと困らないこと

 ■1 負担であり負担でない

 なぜ自己決定が問題になるのか。逆に言えばなぜ自己決定が実現されなかったのか、阻害されているのか。理由はひとまず単純である。しかしあまりに単純なことなので、ついつい忘れてしまうと困るから、確認しておこうと思う。
 自分で決定して、決定したことを自分でやるのであれば、そしてそれが誰にも迷惑をかけないのであれば、ひとまず誰も困らない。ところがここでは、決定はできるのだが、第一にその決定の実行は他人が行なう、第二にその実行に関わる負担を他人が負う。
 第一点。決定するのはその人だとして、あるいはその人であるべきだとして、実際にその決定に基づくなり基づかないなりしてそれを行なうのは別の人だということである。もちろん、他人にやらせることはこの領域に限ったことではない。たとえば市場で購入の対象になるものはすべてそういうものである。消費者である私と別に物やサービスの生産者・提供者がいる★06。ただ通常の取り引きであれば、サービスの提供は、供給者にとって確かに負担ではあっても、それに見合うものを代わりに得られるのだから、提供者は消費者の要求に応えるはずである。サービスの量・質に応じて対価を受け取れることは、少なくとも腕のよい供給者にとっては悪いことではない。腕の悪い供給者は損をするかもしれないがそれは普通は仕方のないことだとされる。ところが、この業界ではそうならない――つまり、利用者の決定に応じることが提供者の利益に通じない――ことについては、第4節でもう少し詳しくみることにしよう。
 第二点。「社会」福祉、「公的」医療保険による医療では、このサービスの提供に関わる費用を本人だけが負担するのではなく、他人、周囲の者も負担することになっているという事情がある――また家族やボランティアによって無償の行為として行われる場合は、提供者自身が負担者でもあると捉えることもできる。その他人である私達にとって、当人の言うことを聞くのは面倒なことだ。
 要するに、自己決定した人の言うことは聞くのは負担であり、負担であることからする不利益がありうるということである。だから、自己決定は実現されにくい。
 ただ、いちがいに自己決定を受け入れることが不利益だとも言い切れない。決定がどういう方向を向いたものか、どういう内容の決定であるのかにかかわる。たとえば、当人が当人の決定として、(皆さんに迷惑をかけないように、あるいは、自分が自分のことができないことに耐えられないから、あるいは、自分が自分に関わることを決定できなくなることに耐えられないから)死にますというのであれば、そして私達が、死んでほしいとは言わないまでも、迷惑をかけてもらいたくないというのであれば、その当人の決定はその周囲の者達にとってよい決定であり、ゆえに、そのような自己決定を期待することがあるだろう。
 死に対する「自己決定」としての安楽死・尊厳死に対する危惧はこういうところから出ている。このような決定のあり方を認めないとすれば、なんらかの手を打たなければならない。実際、尊厳死をめぐって周囲の人達の思惑が影響しないようにさせようという条件の設定もそういう努力の一部ではあって、また、それでも依然として表明される安楽死・尊厳死に対する批判・疑念は、その効力を疑うものとしてある。★07

 ■2 面倒でなく面倒である

 何にせよ決定というものはそれ自体ある程度のうっとおしさを伴う。そして決定するとは、決定の結果を背負うということでもある。その結果どうなるかわからないが、決定した以上は、その結果はその人が請負うというのである。
 このように、決定にかかわることによる負担というものがある。たとえば、治療を停止するべきか否か。「自己決定」の場合には、それを本人が決めてくれるわけだから、その分周囲は楽になるということもありうる。言われたことをやっていればよいのであれば、楽と言えば楽かもしれない。ならば、その限りでは利益となる。責任の範囲をはっきりさせておいて、供給者は自分の責任とされることだけをやればよいのであれば――もちろんその範囲内のことはきちんとやらなければならないのだが――、それ以外のことを気にする必要はなく、また自らの職務の範囲外で起こったことに責任を負う必要もない。米国等において医事紛争に対する対応策として一般化されたインフォームド・コンセントの用いられ方には、こういう部分がある。
 もちろん決められたことさえやってくれればそれでよいという場合には、当人にとってもそれで十分なのである。だが、とくに医療が関わる場面ではそれですまない。直らないことがあるという否定しようのない事実がある。注文して、注文通りにやってもらってそれで用が済むというわけには必ずしもいかず、注文通りの結果が得られるかどうかわからず、また結果として注文通りにはならないことがあり、結局は死んでしまう。ここで、決定を委ねられても、決定のためにと情報を渡されても、私としてはどうしたらよいかわからない、うろたえてしまうことがあるだろうと思う。結局は、自分で決定できないものが私に訪れることになるのだ。たとえば、私は早晩死ぬのだと言われたとして、さてそれで私はどうしようというのか。途方にくれてしまう。だが、それをともかく本人に委ねてしまう。それで周囲は心理的な負担から逃れられることによる利益を得ることができるかもしれない。人の命にかかわることを決めなくてはならないということはなかなかつらいことであるかもしれない。それを本人がやってくれるのであれば、その負担から逃れることができるというのである。
 だが逆に、かえって困ってしまう可能性もある。その人が受け止めてしまわなくてはならないことによって、うろたえてしまうのだが、うろたえてしまう人を抱え込んでしまう
医療関係者なり当人の関係者なりも困ってしまう。その人にとって困難であることによる困難が私達にかかってくることがある。だからその困難を回避しようとして、例えば死や死の気配を遠ざけようとする。

■V 何が言われてしまうか

 ■1 言われてしまうこと

 ざっとあげただけで以上のような要因が絡んでいる。自己決定を認めることはひとまず周囲にとって負担だが、周囲の利害に添う決定だったら利益になる。決定を本人に委ねることによって心理的な負荷を免れることがありうるが、その本人にかかった負荷が周囲に波及するなら結局周囲にとっても負担になりうる。
 決定をめぐる決定は以上のような背景のもとに行われている。本人におまかせという割り切り方もあるけれども、それではかえって現場が混乱することもあるだろう。そうしたことをどのくらいのところで処理しているか。これはかなり込み入ったことになっているだろうし、かなり微妙なものでもあるはずだ。その込み入り方をよく調べるてみるとおもしろいだろう。エスノメソドロジーといった手法がこういう領域の分析を得意とするのかもしれない。既にいくつか優れた研究もある。★08
 ただここでは、ごく大雑把に捉えた場合に、以上に述べた利害が働いていることが確認されればよい。その先を考えてみよう。
 もちろん、以上に指摘したようなことを人が知らないわけではない。そこで何が言われるか。たとえば、負担を免れようとすることに対しては、もっと私達が、自分のこととして、そういうことに関心をもつように、また提供者はもっとよく利用者の要求を聞くようなよい提供者にならなければならないことが主張される。本人がうろたえてしまうということに対しては、ケアという言葉や、ターミナル・ケアという言葉がはまることになる。うろたえてしまう当人をほっとくことなく、それを支えましょう、サポートしましょう、医療者がこのような私達の生そして死の全体に対応できるようにあるべきだと主張されることがある。
 これはひとまずまったく当然のことであるように思われる。しかしこれまで見たことから示唆されることはこういうことではない。たしかに以上で、利用者と、その人を巡って利害関係のある供給者等の当事者の二者だけを取り出し、しかも主に後者について述べてきた。だがこのことは、後者の側をなんとかすればよいという話に結びつかないし、その人達の自覚が解決策であるということを意味しない。むしろ、素直に見れば、こうした関係の中で何かしようということの限界があることが明らかである。供給者がよい供給者になることを期待する、供給者の良心に期待する、これも供給者にやってもらう、という主張の仕方には限界がある――にもかかわらず、このように語られてしまう機制が分析されてよい。

 ■2 閉所は閉所でしかない

 まず見落さない方がよいのは、こうした場が、実際には供給者と利用者(と時には利用者に関わる少数の人)との閉じられた場として構成されているということである。それはまず入所施設や病院といった具体的な建物によって仕切られているのだし、その中のことが外側には現われない、知られないことによって閉じられているのである。
 生存権の保障といったことが、「正義」「正論」としてある以上は、それに正面きって反対する人はあまりいない★09。しかし、建て前としては基本的人権の尊重等々が主張されるにしても、閉じられた中ではどんなことでもできてしまう。たとえば知らせるか、知らせないか、どのような処置を行うか、そこには以上に述べたような事情が様々に絡んでいるはずなのだが、その都合によって、どんなようにも采配できてしまう★10。そして、周りの人はそのことを知らないでいられる。外側にいる(と同時に負担者ではある)私達にとっては、原則を表向き否定することなく、しかし実際には否定しており、しかしそのことを実感する必要がないというのは大変便利なことではある。見えない限りにおいて、あえて知ろうとしない限りにおいて、それですんでいる。
 だから、この関係の中で、その関係を何かましなようにしようというようなことをやっても無駄である、とは言わないが限界がある。このような場の構成され方自体が第一の問題だということである。もし、生存や自己決定の尊重を建前としてであれなんであれ認めるのであれば、その場の編成自体を変えていくことであり、可視化していくことであり、決定のあり方についての決定の規則を立てることである。たしかに個々の決定には、微妙な、個人的な事情等々が様々に絡むのだから、やっかいである。しかし、一つにはこの方法しかない。

 ■3 改心は改心でしかない

 次に、供給者が――心を入れ替えて?、再度――登場するということ自体がまったく奇妙なことであること、積極的な理由が何もないことを確認しよう。
 第一に、現在、供給者が決定に関わる立場にいるのは、その当人やその周りの人がそうでなければならないと思いこんでいるという理由を除けば、関係の中で事実供給者が占めることがある位置によるものでしかない。つまりその人は、利用者と対峙する直接的な供給者であり、もし利用者が決定しないとすれば、また他の誰も決定しないとすれば、その人が決定するしかない。また医療の場であれば、第一次的な情報を独占してしまっている場所におり、生死に関わるかもしれないその情報の扱い方について、当の利用者も、また他の誰も決定しないのだとすれば、その情報を得てしまった人が、それをどう処理するか、決めるしかないということである。
 だから悩んでしまうのはわからないではない。良心的な人であるほど、悩んでしまう。
しかし基本的には奇妙な構図である。たかだか技術の提供者でしかないものが、なぜ悩むことができるのだろうか。その人には悩む資格などないのである。そうではない、私はただの技術者ではないと言うかもしれない。そのように思うのは自由である。しかし、他者との関係の中でどのようにその正当性を主張しようというのだろうか。その人に頼まれもしない役割を自分がその人に対して演ずることの正当性は、自分が単にそういう役割を演じるべきだと思うことからは調達しえない。他に決めてくれる人がいないから自分が悩むというのはわかる。しかしそうであるなら、私は決める立場にいないから、誰かそれを決めてくれと(だけ)言えばよいのである。
 第二に、以上述べたきたような要因が働く中で、その人達の利害によってどのような匙加減も可能になってしまう、このことを構造的に排除できないということである。だから、その解決をその人達に求めることはできない、少なくとも限界があるということになるはずである。

 ■4 部分は部分でしかない

 病があってそれを医療行為によって直すことは、生きて死ぬことの一部でしかない。病に関わるのと別の生活があるし、病に関わる部分に限っても、医療は病にどう対するかということの中の一部分でしかない。そこで、その人の一部しかこれまで見ていなかった、、だから人間の全体を見ないといけないといった類いの主張がなされることがある。
 だがそんなことが可能だろうか。たしかに、病を病んでいるのは一人一人の人なのであって、その人にとっては、その人がいて暮らしていることと、病があること、病があって治療を受けていることは切り離すことはできない。病気だけを病院に届けて、自分は自宅で待っているというわけにはいかないということである。ゆえに、医療という仕事も接客業であり、最低限の接客態度は身につけてもらわないと困るし、知識も必要だし、そのための教育も必要だろう。しかし、医療者に限らず、人はたいてい一つのことの専門家にしかなれない。まずは技術者であると見限った方がよいのではないか。
 病院の中核は治療のための施設であることだろうし、医療者が医療者であることの中核は医療行為を行うことだろう。それが他の部分をも担おうとするなら、これはそれに付加される部分である。しかし、所詮それに限界があるのなら、むしろ極小化していく、限定したものにしていくという方法があるだろう。従来やってきた仕事の拡張を供給サイドに期待するのではなく、技術を全体の一部と位置づけ、技術によって覆えないし覆うべきでもない部分の多様な支援のあり方を作っていく方がうまくいくはずである。そして技術者に必要なことは、自分がやっていることが部分でしかないことを自覚することであり、自分ができない部分を他に委ねることである。

■W 方法

 ■1 供給者は利用者でないことの再確認

 第2節で、利用者にとっての決定が、供給者にとっての負担になりうることを述べた。本節では、いくつかの論点を加えて、この領域で特にこうなってしまう事情を確認し、そこから、とりうる方策を検討する。★11
 第一に、利用者と利用者でない人とは別人であり、その人の利害と私の利害とは無縁である。たとえばその人はひどい精神病院で暮らしている。しかし私はそうではない。だから、私はそのひどい状態をなんとかしようとは思わない。とは限らないにしても、そうなってしまうことはしばしばある。
 第二に、提供者と利用者の関係。両者の間には対立関係があるといってさしつかえない。これもとても単純な事実である。利用者の方はより少なく支払ってより多くほしいのだし、供給者の方はより少なくしか供給したくない。双方出し惜しみする。利用者の言うことをきかない方が得なことがある。あれが食べたいこれが食べたいという要求を聞かずに、お仕着せのメニューを与えた方が面倒でないのだし、排泄したい時にいちいちその手助けをせず、その時間を予め定めてしまった方が楽である。自分がまずいことをやってしまった場合、そのことが知られてしまったら不利益だから、情報を秘匿しておいた方がよい。このことが語られないとすれば、そのことの方が奇妙である。
 第三に、力関係として提供者の方が有利になりやすい要因がいくつかある。一つには、利用者の方は多くの場合当該のサービスの一時的な利用者だが、他方はそれを職業にしているということがあるだろう。また、提供者の側はそのことによって利害を束ねる職能団体を形成し、政治的な圧力団体となることがあるが、他方で、利用者の方は、個人としてそれに対している。また、供給される財について、供給者の方がより多くの情報をもっているということがある。(ただこのことが、ここで検討している領域に特有のことであるかというと、そんなことはない。ほとんどどんなものであっても、消費者は消費する物やサービスの生産方法等々について、生産者ほどよくは知らない。)
 こうした関係を調整するものとして市場では価格メカニズムがある。供給者の方が提供したくなくても、それでは金を払ってもらえないとなれば仕方なく提供せざるをえない。最終的な評価を消費者がする。その評価が悪ければ買ってもらえないから、いろいろ工夫をする。結果さえよければそれでよいのだから、どんな工夫をしたかを個々の消費者は知る必要はない。だが、第四に、この領域ではこうした調整機構が十分に働くことがないし、働かせようとすることにも限界がある。
 よいものに高い値段をつけ、悪いものを買わない、あるいは安く買い叩くことによって、その範囲において、提供者は消費者の言うことをきかざるをえない。だが、このことは、金持ちはよいものを提供されるが、貧乏人はそうでないということでもある。お金のあるなしで、生死が左右されてしまうということにもなりうる。
 またそれではまずいのだとして、社会的に負担することにする場合にしても、価格差をどのようにそのシステムの中に組み込むか。もちろん、意志決定に関わるコスト自体が算定されていなかった、たとえば相談や何かには十分な保険点数がついていなかったのだから、これを計算の中に含めるなど、ある程度のことはできる。しかし、それにしても質の違いに応じて価格差を設定することは困難だから、これだけを決定的な手段とするのは難しい。市場では、そもそも一致しない利害が価格メカニズムによって調停され、利用者の利害も反映されるのだが、このメカニズムは以上では不十分にしか働かない。かといって、当節はやりの「自由化」をすればよい、自由競争にゆだねればよいとも言えないということである。とするとどういうことが考えられるか。このような問題が立つはずである。

 ■2 政府にさせることとさせないこと

 供給を監督し制御する主体としてまずあげられるのが政府である。たしかに政府には大きな責任があり、果たすべき役割があるだろう。しかしこれがどこまでのことを行なうことができるか。あるいはどこまでのことを行なわせるべきか。
 第一に、当然のことだが、それは政府がどんな性格を有し、どんな性格を有さないのかに関わってくる。
 ここで十分な検討をすることはできないが、他になくて政治的決定にあるものの一つは、それが強制力をもつということである。だから、政府がどういう役割を果たすべきかを考えるということは、一つには、どのような場面で強制力を行使すべきかという問いについて考えるということでもある。たしかに強制力が必要とされる場面がある。権利とは、それを侵害することが禁じられるもののことであり、その侵害の可能性があるなら強制力により侵害は排除されなければならない。だから権利法が必要★12であり、また、強制的な調査や資格の剥奪や営業停止処分、等々が必要とされる場合があるだろう。
 政府の果たすべき役割の中には、市場で解決が困難な問題の解決がある。先に述べたように、悪い商品は長期的には市場の中で淘汰されていくだろう。だが、たとえば野菜だったら見ただけで、少なくともその味のよしあしはわかるかもしれないが、薬をいくら眺めてもそれがよいかどうかはわからない。使ってみないとわからない、しかもわかってからでは遅いということも多々ある。しかも、たとえば医療過誤や薬害のことを考えればよいのだが、利用者にわからない方が、少なくとも短期的には、提供者に都合のよい場合があるし、結局最後までわからなかったらやはり都合がよい。経済学で言う「市場の失敗」の一因としての「情報の非対称性」があって、それが利用者=消費者にとって不利に働いているのである。こうした場合に、情報の開示等を強要する役割が政府に課せられる。
 ただ、個々のサービスの質といった微妙な部分について、それをどう評価しどう制御するか。一律の基準を作り強制力の行使を背景にそれを実行させることは難しいし、またそれが有効な手段であるとも必ずしも言えない。そこで強制力を伴わないガイドラインのようなものを作ったとしよう。だが、今度はそれだけで終わってしまう。
 また政治的決定は多数派の同意を得なければならないし、決定までには時間がかかる。これは時に困ったことだし、手続きの煩雑さ等々の改善は可能だし必要だろうが、かといってこうした性格を全て抜き取ることはできないし、また抜き取るべきでないものもある。しかし、政治的決定にかからないでも、過半数の同意を得られないにしても必要なものはあるだろうし、その必要なことを行なうとすれば別の回路で行なうしかない。
 第二に、政府自体が供給サイドにいるということ、直接的な供給主体でもあるということを押さえておく必要がある。そしてこのことと、政府が常に一定の領域について単一の主体であること(日本国には日本国政府しかない)とが関係する。
 福祉サービスは基本的にそういう構造になっている。「措置」という制度下、今日供給者は指定され、与えられるものは一種類であって、ユーザー側は基本的に選択しようがない。例えばある施設に措置されるという形で生活の場所が決められ、そこですべてのサービスが一括して、現物で、選択の余地なく与えられる。例えば利用者が供給者を選べるとなると、供給者はそれが気になり、職を奪われたら困るから、何か工夫をすることになるのだが、そういう動因が基本的に働かないような構造になっている。
 医療制度は福祉制度よりは少しはよいかもしれない。同じような病院が地域に複数あったり、医者を選ぶことがある程度可能であれば、供給者Aは嫌いだからBに乗り換えるということぐらいはとりあえずできるようにはなっている。しかし、基本的に医療保険制度下では、とりあえず、形式的に同じことをしていれば同じだけのお金がくる。そういう形で、福祉制度における措置制度ほどではないにしても、選択性、利用者側の意向が提供者に反映されないようなシステムになっている。

 ■3 供給システムの変更

 まず、前々項と前項の第二点を考えるなら、供給のかたち自体を変える必要がある。通常の取引だったら効く利用者の側のコントロールが十分に効かないことが問題なら、そして政府もまたそういう供給者であるなら、利用者、あるいは利用者サイドにいる人、人達、人達の組織が供給を直接コントロールできる方法を編み出していくという方向が考えられるはずである。
 第一に、供給主体を複数化することによって、価格を同一としたままでも、ある程度の競争を可能にし、それによって質を向上させるという方法が考えられる。これは、資源の徴収・分配の機構と実行の機構を分け、前者は政府が担当するが、後者については民間の活動の範囲を拡大させる、というより、利用者がその資源の使途先についての選択を実質的に行えるようにすることを意味する。もちろん、民間への依託等はこれまでも、主には財政的な事情から、広範に行われているのだが、それは十分な効果を生んでいない。ここでは詳しく論じられないが、十分でないのには理由があるから、その理由であるものを除去すればよい。
 このような機構の改変を前提した上で、第二に、利用者自身が供給者を制御できるような供給組織、供給形態を考えることができるだろう。利用者に近い組織、あるいは利用者自身がコントロールできる組織が実際のサービスの供給を担当する、という方法が一つあり、実際にそのような活動が始まっている★13。

 ■4 NPOによる介入

 以上は供給のあり方自体を直接に制御するという方法だった。それ以外に、決定、供給に関わる、@:利用者=当事者に対する★14、A:供給者に対する、B:ひとまずは第三者である私達に対する、C:政治に対する様々な働きかけがありうるし、実際ある。そしてもちろん、以上はさしあたっての直接的な対象による区分であり、たとえば、政府に働きかけて供給者を制御させる、有権者に働きかけて議会を動かす、等々、複数の主体に関わる何段階かの経路がいくつもある。また、たとえばCにしても、法律の制定のための活動、裁判闘争など法律を用いた活動と分けることもできる。
 いったいどれほどのことが行われているのか。何をやっているのかを個別に知るという仕事が、そういう仕事がおもしろいと思う人にとっては、ある。うまくいっていない小さな組織や大きな組織もたくさんあるのだが、なぜうまくいっていないのかを知るという仕事があるし、どのような条件があったら、どのようなことが可能なのかを考えるという仕事がある。
 ひとまず権利擁護の活動★15といってよい、これらの活動はまず利用者自身によって行なわれる。常時利用者側にいる人達の場合にはこうした活動は比較的容易なはずだ。たとえばずっと障害のある状態にいる人達は、そのことによって自らの利害を主張せざるをえず、また主張する場合に有利な立場にあった。自分の障害のこと、障害があった上での生活のことはよく知っているから、知識の面でも、利用者と提供者(=専門家?)との関係について先にあげた提供者の優位が言えない。職業を得ることができず、生活保護なり年金なりでなんとか生活を維持しながら、無給の活動に従事することができたという事情もある。
 それが、病気がある人や高齢者だったりすると、そのままでは通用しないことがある。たとえば知的な障害がかなり重いということもあるだろうし、病気で動けない、体の状態が悪い、そういった人達を含めた場合に、消費者の運動、利用者の運動としてどこまでそれが行けるのか。それは確かに難しい。また一時的な利用者でしかない場合、利用が生活のごく一部を占めるにすぎない場合にも、継続的で集合的な動きを組織するのは難しい。こういう場合には、第三者が関わることになる。
 そんなことが――供給者にはできないと述べたのに――できるのか。もちろん、たとえば弁護士という仕事が当人の資質や良心のあり具合と相対的に独立に成立するのと同じに、少なくとも仕事としてなら、できるのである。
 もちろん難しい問題はいくつもある。身体の障害の場合は、主体は障害をもっている当事者が担っていて、指示するのはその当事者であり、指示される者はそれに従えばよい。指揮命令系統がはっきりしている。ただ、知的な障害があったりする場合には、そう単純ではない。つまり、援助する、その者の側に立つということが具体的にどういうことなのかは、例えば知的障害が加わってくることでたしかに難しくなってくる。しかし、難しいことをどうするのか考えるのが、そういうことに関心があったり、そういうことを研究したりする人達の仕事なのだから、考えていけばよい。また、たとえば知的にノーマルな人達からどういう形で援助を受けるのか、どういう形の援助を受け入れられるかということを知的障害者の組織が実際に考えてきた経緯もある★16。そういったことも参考になるだろう。
 供給者の側は職業として、職業者集団としてそれを行なうのに対して、利用者の側はそうではないと先に述べた。これに対抗し、そして必要な仕事を行なうためには、組織を組織として、仕事を仕事として成立させるための資源をどのように得るのかかが課題になる★17。
 これらが、もし真面目に自己決定を実現しようとするなら、考えるべきことになるし、実際に行なわれることを調べることが、調べるべきことである。最後に、行われ始めているしこれから行われるだろう一つの方法とその意味について述べる。

 ■5 情報という戦略

 一つの問題は情報が遮断されていることだった。実態を把握し、その情報を流通させることによって可能になることがある。また、これは直接的に利用者を組織化する必要なく行なえることでもある。
 まずそれは、情報に基づいて@:消費者が選択的な消費を行うことによって需給関係に影響を与え、それによってA:供給者に影響を与えることを狙う。また、情報からの遮断が、要求の水準を規定していたのだから、今利用している供給者に対する、@:利用者を要求はより厳しいものにする。そして、供給者が、いくらかはその体面を考えるなら、また他の供給者との横並び意識があるなら、直接の需給関係からの圧力以外からも、A:供給側が影響を受けることがあるだろう。
 公に表明され受け入れられていることになっている理念と現実との乖離があり、しかしその乖離が表に現われないことによって私達は呑気でいられると述べた。だから、実態を個別に明らかにするこの行ないは、B:私達に対する行ないでもあり、私達にとって不快でありうる行いである。ただ、明らかにされた時に、私達は、何か理屈を見つけてなんとか今の事態を正当化するか、あるいは事態の改革にしぶしぶ従うか、どちらかを迫られることになる。そしてもちろん、これは、直接的な供給者であり、供給者の管理者でもあるC:政府に対する影響も効果しうるものである。
 もちろん、問題になっているのは情報の秘匿自体であり、情報の開示自体が課題だった。それが強制力によって開示されるべき場面があることを先に述べた。しかし、情報の提供に応じないこと自体が否定的に評価され、客が減るといった結果を生じさせられるなら、強制力の行使を求めなくとも、情報を引き出すことは可能になる。また、提供する商品の質に自身のある供給者にとってはこれは悪い話ではない★18。たとえば環境保全等の分野では、それに関する個別の企業の「成績」を出して消費者に提供するといった試みがすでにある。同様に、医療行為の成績を評価するという試みもある。もちろん、慎重にやらないと、たとえば成功率の高い手術だけを行ない、治療困難なケースを回避してしまうといった事態を生じさせる可能性がある。しかしこうした技術的な問題の解決は不可能ではない。
 あまりにも当然な手法である。しかし、まず研究者は、誰も、この種の――つまり、対象の固有名詞を明らかにした――調査を行なったことがない。それは一つに面倒だということであり、その面倒なことをあえてやってみようとするほど本当のところはそれに利害関心がないことによる。また一つに、仮にやろうと思ってもそれが不可能だということである。対象者の協力を得なければやっていけないのだが、その協力を求める相手は、不都合なデータを提供することや他と比較されることに応じたがらない。
 一つの可能な方法は利用者に対して調査することである。その結果に対して供給者の側からその「客観性」について反論が出されるかもしれない。だがこの場合には、その反論を裏付ける証拠の提出を求めることができる。
 ただそれでも限界があり実際の供給のあり方を知る必要があるとすれば、それは対象者=供給者がそれに応じざるをえないという背景のもとで初めて可能になる。つまり、利用者=消費者の権利として求められ、それに応じざるをえない場合、応じないことが社会的評価や営業実績に響く場合にこれが可能になる。だから、もし実際の効果をもたらすことを目的とした調査を行おうと思うなら、それを可能にする力とともに行うことである。研究者が利用者=当事者や当事者を援助する組織にもっと注目してよい理由はここにもある。★19

■注

★01 本稿は立岩[1996]の一部を若干敷延したものであり、また、日本証券奨学財団からの研究助成(一九九五年度)を受けて行なわれた研究成果の一部でもある。ただ、具体的な情報をここに掲載することはできない。また、本稿が相手にするのは福祉や医療といった領域だが、先行研究について言及することもできない。「医療社会学」については、園田・米林編[1983]、進藤[1990]、園田編[1992]、黒田編[1995]、井上他編[1996]等、及びそこで言及されている文献を読めば、その概要を知ることができるだろう。また(特に身体の方の)障害者に関しては、いくらか偏ってはいるがしかし本稿の主題にとっては適切な文献として安積他[1995](初版は安積他[1990])がある。その文献表も参照されたい。また自己決定に関わる多様な事例は山田[1987]に紹介されている。
 本稿によっては得られない、文献、種々の組織や組織の活動等の関連情報は、ホームページ「生命・人間・社会」で提供される。
  http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm
 このホームページは、医療〜生命倫理、病や障害がある人の生活、生活の支援に関わる政策・制度、社会的諸資源、NPO(非営利組織)の活動、等々についてのデータ、文献案内、また集会・研究会・学会の案内、等々の情報を提供している。以下で◇付の文章の全文(【人】→【立岩…】等から、【】内はホームページ内のメニュー)、◆の付いた報告書の案内(【本】等から)を見ることもできる。情報、研究成果の提供、情報提供活動への参加、調査研究活動への参加を求めています。お問合せ、また◇の文章の請求、◆の報告書の注文は筆者へ。〒390 松本市蟻ケ崎1892-4立岩真也。tel & fax0263-39-2141、NIFTY-Serve:TAE01303@nifty.ne.jp)、Internet:tateiwa@gipac.shinshu-u.ac.jp。
★02 例えば「日本生命倫理学会」といった場で。そうした言説の分析は別に行いたい。
★03 本来ならその一部は本書に収まっていたかもしれないその考察は、立岩[1997a]で行われている。関連した文章として立岩[1994]◇。
★04 自己決定とはまずは自己のことについて自己が決定するということだろう。ところが、たとえば親の子に対する自己決定権という言葉が用いられる。親に決定権がないと言いたいのではない(あるのかないのかが考えるべき問題である)。ただ、ここで自己決定権という言葉はひどく拡張され、同時に曖昧に、しかしそれを言えばそれで話は終わったかのように使われている(このことを福本英子が指摘している――文献略→この文章が掲載されている『インパクション』97号の特集は「優生保護法と自己決定権」。こうした鈍感さが驚くべく広い範囲に存在するのであり、読者に驚いてもらうためには、本章の全てをそのことの指摘に当てるのもよかったのかもしれない。市野川(注07の文献参照)、加藤秀一…文献略…等に見られる慎重さ、思考を詰めていくその態度は、残念ながらどこにでもあるというわけではなく、それどころか、思考の上での最低限の手続きの適正さがしばしば保たれていないのである。なお、この注のある本文の段落に述べた主題については、立岩[1997a]の第5章・第9章で検討した。
★05 こうした主題について立岩[1997a]第3章・第4章で検討した。それでよいのかわるいのかという主題が社会学で主題的に考察されることは少ない。江原編[1995][1996]等の一連のシリーズはその例外であり、いずれも自己決定という主題に深く関わる。本文に述べた視角から「売買春」について考察した立岩[1995c]は江原編[1995]所収。
★06 ただ、福祉サービスの一部について少し事情が異なるのは、通常は自分自身で行なってきたこと、行うものとされてきたことを他人に委ねることになるということである。子供が成長するにしたがって、自分でできること、自分ですべきことと教わり、実際行うことになる部分が他人によって行われる。また、その一部は身体にかかわり、私秘的とされる部分にかかる。たとえば性的な行為、関係について他人から援助を受ける等。これまで正面きって問題にされることがなかったことが語られ始めている。
★07 こうした点を含め、市野川容孝…文献略…等を参照のこと。
★08 例えば前節でも少し言及した病院における死の扱い方についてSudnow[1967=1992]
★09 それにしてもその「正論」が、決定の実行に関わるコストを誰が負担するのかという問題がどういうレベルで語られているのか。まずはたとえば介護する人の困難という言い方で語られるだろう。また次に、いずれは私達もそうなる、そうなった時にこんなにひどいんじゃ困るでしょという言い方、現在の負担は不測の自体に備えるための保険、将来のための保険なのだから、という論理のもとで語られるだろう。けれどもそれでよいのか、それを考える必要がある。立岩[1995a]、[1997a]第7章で筆者の考えを述べた。
★10 例えばALSと略称される原因不明の病気がある。全身の筋肉が徐々に動かなくなっていくのだが、やがて自発的に呼吸できなくなる。人工呼吸器をつける(つけなければ死んでしまう)ことになるのだが、これをつけるか否かが病院によって、また担当する医師によってまちまちなのである。このことを問題にしたのは、ALSの患者会だけである。
★11 本項で述べることを立岩[1997b]◇でもう少しだけ詳しく述べている。また本節以下は、政府、市場、そしてNPO(非営利組織――非政府組織でもある)の各々、そしてそれらの間の関係が主題になるのだが、これについては立岩・成井[1996]◇。この文章も入っている千葉大学文学部社会学研究室[1996]◆には、NPOに関わる法制、人材、財政、等々についての報告があり、かなり網羅的な文献表がある。なお、以下でその中のいくつかを例示する個々のNPOについては、日本証券奨学財団の研究助成を受けて作成したデータベースがあり、その一部は注01に記したインターネットのホームページから提供されている(【(民間)組織】→【医療…に関係するNPO】、等)。
★12 患者の権利法を作ろうとする試みがある(患者の権利法を作る会編[1992]等)。例えば米国にある障害者の権利に関わる法律(八代・冨安編[1991])はこの国にはない。
★13 障害をもつ当事者自身が各種のサービスを供給する組織である「自立生活センター」の活動について、またこうした組織を含めた社会サービスの供給システムのあり方について、立岩[1995a][1995b](以上安積他[1995]所収、安積他[1990]の増補・改訂版であるこの本の第2刷は1996年3月現在の62団体の一覧表を掲載しており、1997年刊行予定の第3刷で改訂予定、他に【(民間)組織】でも見ることができる)、圓山[1996]、それに至る障害者運動の経緯について立岩[1990→1995]。
★14 病や障害に関わりながら、しかし医療やリハビリテーションの供給者が提供しない(し、できない)部分に関わる部分での活動を行う「セルフ・ヘルプ・グループ(自助組織)」が様々にある。これについての研究も次第に蓄積されつつある(岡[1995]が充実している――またセルフヘルプグループを援助する機関、セルフヘルプ・クリアリングハウスについて岡[1994b])が、これから行うべきことも多い。例えば、多くの「患者会」が、ある医療機関なり、ある医師なりのもとに集まる患者の会という成立の仕方をしている。製薬会社が資金的な援助を行なうといったこともある。薬害HIV、薬害エイズに直面することになってしまった血友病の患者の会の場合、医師や製薬会社が加害者であってしまった以上は当然のことだが、このような組織形態は維持されない。そして多くのメンバーが死んでいった。ある場合にはそのまま壊滅するが、そのあるものはまた別の性格をもつものとして新たに活動を始める。たとえばその経緯を追うこと。供給者から独立し、しかし影響力を行使できる場にどのようにしていられるのかについて考えること。
★15 障害者の権利擁護のための活動を行っている組織として、たとえば「DPI日本会議」。法律家等による「リーガル・アドヴォカシー育成会議(LADD)」も発足している。米国の組織DREDF Disability Rights Education and Defense Fund, Incが橋本[1996:115-129]に紹介されている。雑誌の特集として、『JB』(ジョイフル・ビギン)5号、『季刊福祉労働』71号。短い文章が多く、情報量としては十分とは言えないが、様々な試みの概要を知ることができる。成年後見制度、療護施設におけるオンブズマン制度、「東京精神医療人権センター」による病院内PA(患者権利擁護)活動、療護施設自治会全国ネットワーク、LADD、ピープル・ファースト、等々がとりあげられている。
★16 知的障害者の当事者組織「ピープル・ファースト」についてWorrell[1988=1996]『季刊福祉労働』61号、寺本[1995]◇(【人】→【寺本…】)。
★17 千葉大学文学部社会学研究室[1996]◆。関連して、現在任意団体として活動している組織が法人格を取得できるようにする所謂NPO法の制定を巡る動きがある。1996年初頭までの動向については上記の報告書に含まれる立岩[1996a] にまとめた。他に立岩[1995a][1995b][1996c][1996d]を参照のこと。立岩[1996d]は任意団体として活動している組織の法人化の活動実態と法人格の必要について、経済企画庁の委託によって行なわれた調査報告(住信基礎研究所[1996])の特論として書かれたものだが、公開されている方の報告書には収められていない。ホームページに収録してある。
★18 企業の利益本位の体質から問題が生ずるというのはとりあえず正しいが、しかし、利用者に利益を与えない、危害を加えることが、長期的に利益をうまないのは明らかであり、適切な情報があれば消費者(の少なくとも一部)が合理的な行動をとると仮定できるのであれば、情報を流通させることが問題の解決策となりうる。そしてこれは、商品の質に限らず、供給者の行動全般にも(もし消費者がそれを消費の際に勘案するならば)影響を与えうる方法である。
★19 「療護施設自治会ネットワーク」が全国の身体障害者療護施設の実態調査を開始している(全国療護施設生活調査委員会[1996]、療護施設自治会の活動について高山[1994])。また、「全国公的介護保障要求者組合」から情報部門が独立した「自立生活情報センター」が全国の自治体の介助等に関わる制度についての情報を収集し、提供している(自立生活情報センター編[1996])――その一部は前記ホームページからも提供している(【自立生活情報センターからの情報】)。繰り返すが、このような試みは、どんな研究者によっても行われたことはなく、これらの組織が発信するほどに有用な情報を恒常的に組織的に提供している例は、どんな政府(地方自治体)機関にも、研究機関にもない。
 医療機関やNPOを紹介するガイドブックとして掘越・根本編[1991]、根本+アルス[1993]、等。組織としては「ささえあい医療人権センターCOML」(【(民間)組織】→【医療…に関係するNPO】、http://www.asahi-net.or.jp/~wu5t-kmnu/coml.html)

■ 文献表

安積 純子・岡原 正幸・尾中 文哉・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店、320p.、2500
―――――  1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』、藤原書店、366p.、2987
千葉大学文学部社会学研究室 1996 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学』、千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会、366p. 1500◆
江原 由美子 編 1995 『性の商品化――フェミニズムの主張・2』、勁草書房、336p.2781
―――――  1996 『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張・3』、勁草書房、409+20p.、3708
橋本 義郎  1996 『権利と行為の社会学――セルフ=アドボカシー実践のために』、エルピス社、162p.、1545
堀越 栄子・根本 悦子 編 1991 『ふれあいの医療ガイド――医者に行ってもわからないことがわかる本』、学陽書房、387p.、2300
井上 俊 他 編 1996 『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14)、岩波書店、238p.、2100
『JB』5   1995 特集:人権、現代書館、99p.、1030
自立生活情報センター 編 1996 『HOW TO 介護保障――障害者・高齢者の豊かな一人暮らしを支える制度』、現代書館、150p.、1500
患者の権利法をつくる会 編 1992 『患者の権利法をつくる』、明石書店、280p.、1830
『季刊福祉労働』61 1993 特集:話の祭典・知的障害者[ピープル・ファースト]の 国際会議、現代書館、1236
『季刊福祉労働』71 1996 特集:権利擁護――障害者・高齢者・子ども、現代書館、156p.、1236
圓山 里子  1996 「障害者の介護保障と介助サービス――東京都における自立生活運動を中心として」、東京都立大学社会科学研究科社会福祉学専攻修士論文
岡 知史   1994 「セルフヘルプ・クリアリングハウス――それはなぜ必要なのか」、『月刊福祉』77-2(1994-2):58-63
―――――  1995 『セルフヘルプグループ(本人の会)の研究――わかちあい・ひとりだち・ときはなち Ver.5』、自費出版、458p.、3000(102 東京都千代田区紀尾井町7-1上智大学文学部社会福祉学科 03-3238-3645fax:0297-72-3118 KGG01217@niftyserve.or.jp 郵便振替口座00370-7-417(岡知史)
黒田 浩一郎 編 1995 『現代医療の社会学――日本の現状と課題』、世界思想社、278p.、1950
根本 悦子+アルス 1993 『患者のための医療ガイド』、三省堂、243p. 1600
進藤 雄三  1990 『医療の社会学』、世界思想社、238p.、1950
園田 恭一・米林 喜男 編 1983 『保健医療の社会学』、有斐閣、332p. 2060
園田 恭一 編 1992 『社会学と医療』(講座人間と医療を考える5)、弘文堂、258p., 4200
Sudnow, David 1967 The Socail Organization of Death=1992 岩田啓靖・志村哲郎・山田富秋訳、『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』、312p. 2884
住信基礎研究所 1996 『平成7年度「市民公益団体の実態把握調査」依託調査結果報告書』(経済企画庁依託調査)、住信基礎研究所(〒107 東京都港区北青山2-11-3 03-5410-7651(代表) http://www.stbri.co.jp
高山 直樹  1994 「社会福祉施設における権利保障システムの構築を目指して――身体障害者療護施設利用者の自治会活動を中心に」、『和泉短期大学研究紀要』16:85-94
立岩 真也  1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」、安積他[1990:165-226]→1995 安積他[1995:165-226]
―――――  1994 「自己決定がなんぼのもんか」、『ノーマライゼーション研究』 (特集:自己決定の光・そして影)3:86-101◇
―――――  1995a 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、安積他[1995:227-265]
―――――  1995b 「自立生活センターの挑戦」、安積他[1995:267-321]
―――――  1995c 「何が性の商品化に抵抗するのか」、江原編[1995:207-235]
―――――  1996a 「資料:新聞紙上のNPO/NPO法制化を巡る動向」、千葉大学文学部社会学研究室[1996:32-39]
―――――  1996b 「医療に介入する社会学・序説」、井上他編[1996::93-108]
―――――  1996c 「NPO法+人を雇う→おもしろいことをやる――自立生活運動の現在・最終回」、『季刊福祉労働』70号、pp.155-162◇
―――――  1996d 「社会サービスを行う非営利民間組織の場合――自立生活センター(CIL)から」、住信基礎研究所[1996:特論4-11]◇
―――――  1997a 『私的所有論』、勁草書房、465+66p. 6000
―――――  1997b 「誰がケアを語っているのか」、『RSW研究会誌』◇
立岩 真也・成井 正之 1996 「(非政府+非営利)組織=NPO、は何をするか」、千葉大学文学部社会学研究室[1996:48-60]◇
寺本 晃久  1995 「PEOPLE FIRST 「知的障害者」と呼ばれる人々とそのセルフアドヴォカシー運動の研究――欧米の事例をもとに」、千葉大学文学部行動科学科社会学専攻卒業論文◇
Worrell,Bill 1988 Advice for Advisers、National People First Project=1996 河東田博訳、『ピープル・ファースト:支援者のための手引き――当事者活動の支援と当事者参加・参画推進のために』,現代書館 1030
山田 卓生  1987 『私事と自己決定』、日本評論社
八代 英太・冨安 芳和 編 1991 『ADAの衝撃――障害をもつアメリカ人法』、学苑社 2800
全国療護施設生活調査委員会 1996 『人権ガイドラインを展望する――全国療護施設生活調査委員会活動報告書・第1集(1994年〜1996年)』、全国療護施設生活調査委員会、134p. 1500(+送料300 連絡先:206 東京都多摩市唐木田1-30-15 伊藤勲 0423-39-6750 fax0423-39-6243)

●NPOデータベース

 上記の報告書(『NPOが変える!?』)の文献リスト中に◆印がついている書籍からの情報※、独自に得た情報、等をもとに、データベース・ソフト上で作成したNPOリストがあります。(※著作権の問題もありますから、記載情報の全てを収録しているものではありません。名称、住所、電話番号、等の基本的事項を入力した上で、当該の組織についての情報が記載されている書名・頁数を記し、参照を求めるかたちになっています。◆印のついた書籍と合わせて使うと便利です。)
 1996年11月現在、総計約10,000件。ただし、同一団体でも情報源が別の場合は別のレコードとしているので――eg. 3冊の本で1つの組織が紹介されている場合は3件―――、かなりの重複があります。名称(ふりがな)、所在地等による検索、選択が可能です。活動分野別の選択もある程度可能です。
 「桐」ver.5の文書ファイルで約 4.3mega bytes。また、他のデータベース・ソフトに読み込めるかたちのファイルにしてお送りすることもできます(圧縮すると現在のところフロッピー1枚に収まります)。
 まだ未入力の部分が多くあるなど十分なものではありませんが、これを提供します。1万円です。(このデータベースのデータの一部は前記したホームページにも掲載されていますが、時間がなく十分に行なえていません。)なお、入力作業は今後も続けられます。お金が必要です。資金提供(についての情報提供)者を求めています。一定の資金が恒常的に得られると、このリストを安く、あるいは無料で配付することも可能になります。

 *このデータベース作成作業の一部は,日本証券奨学財団からの研究助成を得て行なわ  れました。     (51行×14頁)


REV: 20161031
NPO  ◇立岩 真也
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