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「出生前診断は優生思想か」

立岩 真也(信州大学医療技術短期大学部) 1996/10/23
日本生命倫理学会第8回年次大会
cf.要旨集原稿

last update: 20130928

 出生前診断は優生思想のもとにあるのか。もちろん定義による。優生思想を,
A:人の性能をよくしようとし,悪くするのを防御しようとし,
B:そのために人間の生物学的側面に働きかけようとする思想,
 と定義するとしよう。とすると,最初の問いに対しては,その通り,出生前診断(→選択的中絶)――の少なくともある部分――は優生思想のもとにあると答える他ない。では,ゆえにそれはよからぬものか。だが,そのためには優生思想がよからぬものであると言わなくてはならない。歴史的な現実としての優生思想の何が批判されてきたのか。
 第一に,α:因果関係について主張されたことが極めて怪しいものだったことである。 第二に,β:この思想の実現が,国家による強制として,時に殺害として,行われたことである。
 だが,この技術の場合は,αについては,診断と結果の間に相応の因果関係があることを否定できない。βについては,少なくとも現象的には個々人の選択としてなされており,殺害が行われているわけでもない。つまり,従来批判されてきた部分はかなりの程度解消されている。優生思想の問題がαとβに尽きるなら,出生前診断に問題はないことになる。
 だがそれで終わるか。まず,B:遺伝〜出生前,が問題になっている限りにおいて,優生思想の実現は,生まれるあるいは生まれない存在の外側にいる他者によってなされる他ない。その他者が,β:国家なら問題だが,女性ならよいのか。その通りと言えるとしたら,その根拠はなにか。女性の「自己決定権」だろうか。だが,産む産まないの決定がその女性に委ねられるものとして,その決定の中に質をめぐる決定は含まれるのか。少なくとも「自己決定」という語に惑わされてはなるまい。生まれる自己は不在であり,ここでなされることは「治療」についての選択でもない。不在の自己の外側にいる者は,それだけの意味においては全て同格である。そこで
 βを β':私(達)の価値によって他者の性質を決定すること,と書き換えるとしよう。
 A+Bからβ' が直接に帰結するのは明らかである(Aはその目的を示し,Bはそれが他者に対してなされる行為であることを意味する)。
 つまり,β' それ自体に倫理的な問題があるとすれば,A+B:優生学それ自体に倫理的な問題があるのであり,出生前診断・選択的中絶――の少なくともある部分――に倫理的な問題があることになる。

 ※10分間で喋れるのはこれぐらいだと思う。もちろんより綿密な検討が必要とされる。  その作業は,私自身の仕事としては,『所有・他者・生命』(仮題・1996年刊?)の  第9章で一部でなされる。もとになっているのは2つの論文9201・9204(論文etc.一  覧を参照のこと)だが,大幅な改稿がなされている。以下,その草稿を掲載する。   (注は省略する。また,確定稿になるまでにはなお検討が必要な草稿であることをお  断わりしておく。)
[参考]

『所有・他者・生命』(仮題・1996年刊?)草稿・第9章の抜粋

□90 優生

 □91 出生前診断(略)

  □11 出生前診断
  □12 障害者の社会運動の批判
  □13 女性の運動の批判・応答
  □14 残されている問題

 □92 女性の「自己決定」という設定の錯誤

  □21 決定の対象は「自己」ではない

 これは「女性の自己決定」の問題であり,医療者はその決定のための情報を提供し,その決定を受け,それに応えているだけだといった言い方がある。しかし,これは女性の「自己決定権」として語りうることなのだろうか。
 この場合の決定の主体と対象は何か。決定する主体は親である女性である。そして,決定される対象は少なくとも自分=女性ではない☆21。自己決定は,簡単に言えば,「自分のことは自分で決める」ということなのだが,ここでは明らかに自分のことを自分で決めているわけではなく,ごく単純に考えて,「女性の自己決定」と言うことができないことは明らかである。
 第5章で,産む産まないことの決定を女性に委ねるというあり方がどのようなものとして考えられるかについて検討した。そこで私は,それを女性の身体に対する決定権という論理とは別のものと考えた。またそれは,ここで正当化が問題になっている選択的中絶の決定とはまったく別のものだった。ゆえに,産む産まないことの決定を委ねることは,この選択的中絶の決定権が女性にあるということを全く意味しないものだった。
 では,第5章で行った主張とは別の論理で,女性の生殖に関する自己決定を言い,選択的中絶に関する自己決定を言うことができるだろうか。
 第一に,生産者がその生産物に対する権限を持つという考え方がある。しかし,このことをこれまでの章で否定した。そして私が行った議論が承認されないとしても,母体内で生産されるのだとも言えば言えようその存在は,やがて他者となる存在である。
 存在が現れるか否かについては,「私達」がそれを決めることができる。子供の数も決めることができる。しかし,子という存在のあり方に対する決定は別のことだ。このことは「私」の側に属することだから,「あなた」がとやかく言うことではないという議論に対しては,それは違うと言いうる。それは,ここにはやがて子として存在を始めることになる存在,(潜在的な)他者が含まれているからであり,人となった状態が想定されているからであり,それに対して「私の」ということが無制限にできるわけではないからである。その他者に対して「私」と「あなた」は同格の存在である。
  □22 負担者であるがゆえの権利という論理

 次に,実際上の負担を負う者が,それに対する権利も持つという考え方がある☆22。現実に負担が親に課せられているという状況があり,そうであるがゆえに,その負担を負わなければならず,それが自らの生き死ににさえ関わってくる者が,その決定を行うしかないではないかということが語られてきた。たしかにその重さは時に苛酷だ。
 重荷を負うことになるのは私なのだから,誰も私に代わってはくれないのだから,という言い方をせざるをえないのはわかる。そして,他の者が子の存在を負うことを,負うことができるにもかかわらず放棄している限り,その者達が親に何か指図したりできないと考える。しかしこのことは,その者が負担を担っているから,権利があるのだということとは異なる。
 誰かが(どれほどか)その義務を負うのであれば,その者が(それに応じて)権利を持つとすることにしたらどうなるか。他者の援助をあおがねばならない存在が,そのことのゆえに,自らのことを他者に決定されてよいということになる。これは,周りの者達に負担をかけることと,その者が自分の生を生きていくこととは独立のことであり,生きていくことがまず確保されるべきであり,そのために負担を周りの者が負わなければならないと考えるなら,認められない。また,育児の負担を負うことができない者には子どもを持つことは認められないという主張を認めないなら,やはり認められない。もちろん,負担が家族に,さらに母親一人にかかっている限り,それに耐えられず,そのことを言うのは当然である。しかし,負担が苛酷であることを問題にすることはできても,また親が負担を負わなくてはならないのは不当だと主張することはできるとしても☆23,負担を負っていることをもって,権利があるとは言えない。
 以上から,子どもを産むか産まないかというそもそもの決定に関して女性・親に権利があるとは言えても,子どもの質に関わる場面について女性・親に積極的な権利があるとは言えない。
 たしかに,女性が国家や男性に対して,親の,さらに女性の権利を主張しなければならなかったことには相応の理由がある。しかし,この場面では,誰もが誰かに比べてより特権的な立場に立てるのではないということである。子という他者に対して親は特権的ではない。
 だから,これは第一義的には女性の権利の問題でもない。女性の問題だとすれば,それは,女性の問題として現われていること自体においてである。産むことが女性の身体に起こることであり,その女性がそのことの当事者であることは確かだ。そこで産むこと,健康な子を産むことが女性の側に課せられているとすれば,この規範とその強制を問題にすべきである。また,現実に育てることが女性の側に課せられてある以上,困難が女性に多くかかってくるのも事実だ。しかしそれも男女間の不平等,あるいは社会的な支援体制の問題としてまず考えるべきことである。
 その行いがよいのか悪いのは別として,決定を誰かに――たとえば「自己」に,しかし女性はここでは自己ではないことを述べたのだ――委ねるという主張を否定した。となると,その行いのよい悪いを直接に考えることになる。このことを考える時に,それが何を目的にして行われるか,どういう効果を与えるのか,誰に与えるかを私達は考えることになる。まず,第3節で,「当事者」に対する効果としてこれを語れるか,検討する。

 □93 「当事者」の不在

  □31 「本人の不幸」という主張は成り立ちえない

 病・障害を持っている人にせよ持たない人にせよ,ある人のある病・障害を治せる場合にも治すべきでない,とは言わないだろう。まず,その決定は本人の選択だとされ,その人は,可能なら治そうとすることがあるだろう。だから,ここでは障害・病はない方がよい(というよりは痛い,とか不便だ)と,本人において言いうる。
 しかし生命の消去となるとどうか。大抵の場合は生きることが選ばれる。では,本人がそう思わない場合はどうか。自殺を禁ずべきという立場を取らなければ,やはり本人にまかせるしかない。これは不思議だと言えなくはない。死ぬということは,相対的な価値判断がなされる場自体が消え失せるということなのだから,「死んだ方がまし」という言い方はどのように成り立ちうるのか。だが,人は時にそうした判断を行う。本人の生だからそれは許容される。あるいは,許容するしないにかかわらず,自らの行為として行われる。
 そして,こうしたことはみな,人が生きている中で,生が始まること,終わることを思うことにおいて成り立つ。当たり前のことだが,まず第一に,生きていないと死ぬこともできないということであり,第二に,今生きているなかで,生や死に対する想念があるということである。
 このようにみた上で,選択的中絶の場合について考えてみよう。
 本人に定位して選択的中絶を正当化する主張,「生まれてくると本人が不幸だから」といった議論がある。これが成り立ちようがないことをまず述べよう。
 第一に,障害を持っていたところでその人の生が不幸だなどとは言えない。障害・疾患を持つことは不便だったり苦痛だったりするかもしれないが,それらは様々に軽減することができるだろう。それで苦痛や不便さがなくなってしまうとは限らないが,だとしてもそれは,障害を持って生きることが不幸だということとは違う。私達は憶測として,しかも憶測とは思わず障害を持つ者の不幸を語るのだが,実際,不幸だなどと思っていない人はいくらもいる。また,自分の今の状態を不幸と感じ,他人には自分のような苦痛をなめて欲しくないという人がいるにしても,それをそのまま他者にあてはめることはできない。
 第二に,幸不幸は,生きている上でその状態に対して言われることだ。ところがここでは存在しない状態と生まれて障害を持つ場合が比較されている。そもそも比較の可能性があるのか。考えられるとすれば,これなら生まれてこない方がよいと思うといった場合だが,そんなことがそうそうあるわけではない☆24。またそう思う人がいるといって,そのことを,他者に対して一般化することはやはりできない。
 それ以前に,上の死んだ方がましだという場合にしても,その人はやはり生きていてものを言っているのだが,ここではそうではない。第三に,幸不幸が本人に定位して考えられるものだとすれば,ここには,そうした場自体が欠けている。ある状態が人に苦痛をもたらすなら,その原因を人為的に作るべきではないし,要因を除去することも必要だ。しかしここで行われることは違う。たとえば幼児に対する治療や予防接種,さらには胎児治療にしても,本人の存在(の想定)の上で行われることである。それはその者の同意が得られてはいないかもしれないが,その存在を維持するためになされることだ。だが選択的中絶において行われるのは,そうした属性を持つ存在,存在することになる可能性を消去することである。その本人が不在となるのだから――胎児は人かどうかという論議とは別の水準で――本人の観点を取ることが原理的に不可能なのである。
 「けれども…」,と反問されるかもしれない。「周囲にある私はどうでもよい,生まれる本人の幸不幸を思ってしまうのは偽りだとは思えない」,と言うのだ。私達も,あらゆる感情は利己的なものだ,などとつまらないことを言おうというのではない。もう少し考えてみよう。
 先にあげた第三の意味で当事者の視点が成り立たず,ゆえに第二点の決定も不可能なことを認めた上で,あるいはそうしたことを考えずに,第一の場面の基準を周囲の者が設定し,この基準で当の者の幸・不幸を周囲の者が想定するということがあろう。生まれる存在の個別性を考えずに,ただ誰であれ生まれる子が幸福である方が,生きやすい方がよいという考え方である。その価値基準自体に対する批判はここでも可能だ。またそれはしばしば周囲の者の都合と混同され,そのことの隠れ蓑に使われると批判されもしよう。だが,だからといって私自身の利害とは別のものと私に思われるこの感情を全面的に否定はできない。誰かが生まれてくる,その者が相対的により幸福である方が,苦労が少ない方がよい。これは理解できる感情だという気が確かにする。
 しかし,これは当の者達にとってはどういう意味を持つだろうか。こうした選択の中で生まれてきた子にとっては,私がいるという事実だけがある。そしてある存在が消去されたとしたら,その存在は不在である。それだけである。では障害をもって生まれてきた存在が,措置が取られなかったことを不幸と思うだろうか。あるいは思うかもしれない。しかしそれにしてもその感情は今生きている自らのものである他ない。ここにある私以外でありえない私の視点から,はじめて私の幸・不幸を語ることができる。
 だから,どのように生まれる者の幸福を想定してみようと,存在の予めの消去がなされる限り,それは個別の存在から何かを語ることとは異なる。それはただ,私達が外的な,すなわち私達の視点に立ち,当の存在の視点を消去する限りで成り立つことなのである。本人にとって不幸だからと,しばしば私達が口にしてしまう時,そこにいささか言い訳めいたものがあることを感じているように思う。それに対して,「生命倫理学者」はしばしば堂々とこのことを口にする。これは途方もないことだと思う。

「結果を考慮することから中絶をみようとするならば,まず中絶を行う理由を一つずつはっきりさせた方がよい。
1.先天奇形であることが判っているかその確率が非常に高い場合の新生児の生命を断つため。
2.もし生まれたら非常に劣悪な家庭的,社会的環境に苦しむと予見される,子供の生命を断つため。
3.妊娠の継続により母親の生命がおびやかされる場合,母の生命を救うため。
4.人口調節のためにこれ以上の出産を止めるため。
5.経済的その他の理由の個人的事情により母親が望ましくない妊娠を除くため。
 上記の理由は1〜5の順に,胎児の利益が減少し母(あるいは社会)の利益が多くなるように並べてある。3番目の理由では,母と胎児の利益は等しくなっている。この場合は胎児の生命か母親の命かであり,どちらかを選ばなくてはならない。先に留意したように第一の理由および第二の理由による中絶は胎児の最善の利益のためのもの,および胎児期の安楽死とみられる。」(Brody[1981=1985:162-163])☆25

 「胎児の利益」という語自体が意味不明である。その者の視点に立つ――不幸であるかどうかなどわかりはしないのだから,その内容についてはもちろん疑問がある――と言いながら,本人は(その想定の中においても)不在なのである。どんなにしても,他者という位格を認める限り,その他者自身において,正当化することはできないことをはっきりと認めるべきなのである。このような生命倫理学における議論の倒錯については既に指摘した(第7章3節)。

  □32 抹殺とする批判を採らない

 他方で,このように考えるなら,同様に本人を論拠にして選択的中絶を否定することにもならないと言えるか。
 人が死ねば既にその人は存在せず,存在しない状態と存在している状態との相互を比較する場が失われているということは,人が死ぬ場合,殺される場合一般に言える。にもかかわらずなぜ死ぬことが忌避され,殺すことが禁止されるかといえば,それはまず,生きている状態から未在の状態を思い,それを私達が恐れるからだ。死んでしまえばそこには意識がないから幸も不幸もないというのはその通りなのだろうが,しかし,私達は,今生きている中で,死ぬことを恐れる,あるいは現在生きていることを享受し,さらに未来に生きることの中に喜びを見出す。こうして,一般に私達は生を選択する。
 さらに私達は,たとえその人の欲望が直に聞き取れないとしても,欲望の存在を想定できないとしても,その者は死んでいけないと思うことがある。それは私達の欲望や恐れを他の存在に拡張しているのかもしれないし,それとは別の原理,あるいはほとんど名づけられない感情によるのかもしれない。しかし,脳死の状態にある存在を私達がやはり生きていると感じることがあるように,そうした感覚自体の存在を否定することはできない。
 だから,選択的中絶を否定できないと言うためには,先の第三点を述べるだけでは足りない。中絶によって当事者が不在に「なる」というだけではなく,当の存在を,私達が死ぬべきでない存在として,つまりは「人」として「ある」としない場合に初めて,これを禁ずる根拠が当の存在に即してないのだと言える。
 私達は結局のところ,胎児を消去を禁じられる存在,人,として認めるかどうかという問題に立ち至っている。もしこれを認めるなら,人工妊娠中絶一般が禁止される。人工妊娠中絶の是非を巡っては様々な議論があるが,多くの国では禁じられていない。禁止すべきだとした時には,そもそも選択的中絶の是非を問題にすること自体が成り立たないのである。むろんそれは,ひとまず,法的に,存在の消去が禁じられない,罰せられない,ということでしかなく,そこにこの決定に関わる当事者の思いがないというのではない。本来なら行われるべきでないことを否定しようというのではない。しかし,この行いを,殺害であるとして,法的に,他者への強制として,禁止することはできないのだということは確認しておかなければならない。
 いったん実定法から離れたらどうだろうか。当の存在が現実に存在する時,前項で第三点としてあげた視点の不在という指摘は成立しない。現実に存在するその人は,前項の第一点を考える時に,普通は生を選択するだろう。また第二点を考えても,やはり生が選ばれるだろう。だから,もし当の者がいるのであれば,この技術の利用が肯定されることはないだろう。ところが,この技術は,その存在の可能性を消去してしまうものだった。この技術が行使される以前に,その存在は既にいるのか。いるのだと答え,それゆえに行われることが殺害であるとするならば,この技術は――そしてすべての人工妊娠中絶は――否定されるだろう。私見は第5章3節で述べた。人工妊娠中絶を殺害であると,殺害であるから禁ずるべきだとはしないならば,選択的中絶もまた殺害であり,殺害であるから禁ずるべきだとはされない。
 けれども,なお選択的中絶をそのまま率直に認める気になれないとすれば,それは,中絶一般として語ることが妥当なのか,選択的中絶については中絶一般とはまた別に考えることがあるのではないかという感覚に発しているのではないか。
 例えば,大海上で幾人かがボートに乗っている。誰かが降りなければ,そして死ななければそのボートが沈んでしまう。くじ引きでその者を決めることと,誰かをその者の属性ゆえに降ろすこととの間に違いがあるか。ここで,違いはあり,後者を認め難いと考えるとすれば,やはり中絶一般と選択的中絶の間に差異はあるのではないか。
 だが,後者を認めない根拠はどこにあるか。或る者の属性ゆえにその者が不当な扱いを受けるべきでないということだとするなら,そしてここに不利益を受ける当の人格を想定しえないのだとすれば,選択的中絶を許容できないという言明も成り立たないのではないかとさらに反論が可能だ。つまり,もう一度当の存在の視点というところに立ち帰った時,やはり選択的中絶を他から区別して否定することが成り立たないということである。

  □33 範疇に対する差別?

 障害者差別であるという言い方がある。これを検討してみよう。
 一方の都合によって他方の生に不当な介入をすることは認められない,しかし被害を被る者がいない行為は禁止されない,というのが一般的に承認されている考え方である。胎児をこのような意味での相手方の当事者とは考えないことは既に述べた。次に問題になるのは,同じ属性を持って生きている人(達)への侵害となるのか,「障害者差別」と言えるのかということである。
 第一に,今生きている者が殺されるわけではないというごく単純な意味でなら,これはその人達に対する直接的な侵害であると言えない。ではどのような意味でなら言いうるか。
 第二に,私のような者は生まれない方がよいという思いがあることは否定できない。私は生きていてよいと言われるかもしれないが,それは,生きている者はその限りでその生存を認めるということであって,その発想がここで消去されているわけではない。しかし,生きているという理由からだとしても,あなたに対して行うことではないとは言い得る。たしかに,これは胎児とそうでない者とに対して別の基準を設定することである。しかし,この基準が実際に働いているなら,直接的な侵害行為であるとすることはやはりできないだろう。
 第三に,実際に生きている私に危険が及ぶようなことがないとしても,私のような存在が現われることが拒まれるという点に問題があると言えないか。どのような時に私達はそれを問題にするだろうか。一つには,その属性が大切なものである時ではないか。では,障害はどのような属性だろうか。
 とくに生まれながら障害があって生きている当の人にとっては,障害はあらかじめ自分にくっついてあり,これからもそのようにあるものだ。取り外しがきかないものについてはあれこれ言っても仕方のないところがある。自分は生きているのだから,生きていることはよいとして,障害の「評価」について聞かれても,とまどってしまうところがある。
 しかしこれはまず取り外し不可能という事実を前提としているところがある。それだけを取り外し,除去できたらどうか。まず治療という行いは――他に影響を与えず,というわけにはなかなかいかないのだが,ともかく――個体性を維持したまま,症状をなくす,軽減する行いである。また予防という行いは,――もちろん,この行いが個人に影響を及ばさないということではまったくないのだが,ひとまず――個人の身体と結びつく前に,個人が現われる以前に,病の原因,条件を除去する行いである。私達はこれを認めることがある。もちろん同時に,私達は,実際には治療や予防の効果がたいして期待できないことから,それを行わないことがあるだろう。また,薬が苦いことや,副作用の心配や,入院しなくてはならないことや,検査が面倒なことや,その他様々な私達が実際に被る影響を勘案して,治療も予防も選択しないことがあるだろう。けれども,このことは治療や予防そのものを否定することではない。苦痛を取り除くために,また不都合を解消するためにそれを受け入れることがある。☆26
 他方で,治療を必要としない人もいるはずである。病や障害と呼ばれるその属性が大切なものであり,自分の一部であるから,それが除去されることを拒絶する人がいる。その中のある人は,そうした行い一般を,自分(達)を否定する行いであるとして批判する。そしてここでは,遺伝相談をした上での産まない選択や妊娠中絶に限らず,治療や環境の改善による属性だけの除去にも反対することになる。
 また,ここで消去されるのは,確かに現実のこの私ではないが,その技術が私の場合に適応されていれば,自分はいなかったという言い方がなされるかもしれない。この場合,治療についてはともかく,中絶に対しては否定的である。また,たとえば受精前の決定としてある属性(を有する可能性を持つ)者を産まないことも,等しく侵害だということになるだろう。
 しかし,他方にそのように思わない人がいる。考え方が異なる時にどうするか。当の人がそこにいるのであれば,まずはその人の希望を聞くことになるだろう。いない場合にはどうなるのだろう。少なくとも次のことは言える。それはなくすべきではない,治されるべきではないと考える人がいたとして,それ自体で,それがそうでない考え方よりも正しい考え方であるとはいえない。また,その主張がその病や障害をもつ人達,もつことになる人達を代理し,代弁しているとすることはできない。二つの異なる見方がある場合に,それだけでは,一方を他方よりよしとすること,その一方の見方を一般化して採用することができないということである☆27。もちろん以上からは,ではどうするかという指針は出てこない。ただ,本人の意志が聞き取れない場合にも,もし可能なら,治療は行われることはあり,もし同じ範疇の障害がある人も――自分の場合はともかく――それを認めるとすれば,あるいはその禁止を求めることはできないとするならば,障害という属性を奪うからそれが問題だという主張はそこでは成立していないことになる。☆28
 このように考えると,以上検討した三つの意味で差別を指摘し,それゆえにこの技術の使用を問題だとすることは必ずしもできないということになる。
 第3節で述べたことは,第一に病や障害があって生きることが不幸であるという言い方に対する反論であり(第3節1),第二に出生前における当事者の不在についてである(第3節1・2)。この第一点,障害者や病者が生きていることが肯定されることと,病や障害が肯定されることとは,同じではない☆29。選択的中絶の場合には,障害が除去されるのでなく,障害をもつ存在が除去されるのだから,事情が違うと言うかもしれない。だが遺伝相談の上で,子を持たないとした場合にはどうか。この場合と妊娠中絶と,同じにできないとは思う。しかし,もし人工妊娠中絶を認めるなら,禁止はされない。また胎児に何らかの権利を付与することによって語ることをしないなら,この差異を大きく見積もることはできない。
 とすると――「本人の不幸」という倒錯した議論には反論しえた,だがその上で――障害者差別であるという主張には,また出生前診断に対する批判全般には,根拠がないということだろうか。

 □94 なぜ私達は行うのか

  □41 不快/不都合

 たとえば,生命は天が与えたものであり,それを改変すべきでないという主張がある☆30。しかし,天を信じない者,たとえば私はそれに説得されない。信じないことが正しいというのではない。しかし信じない者を含めた議論をするしかないということだ。だから,あくまでも地上に住む私達のこととして考えるしかない。
 周囲の者の側に決定は与えられている。周囲が感受するものによってある属性をもつ存在の可能性が消去されるということ,そうした問題として捉えねばならないということである。だからまず,なぜ,私達はそういう決定を行おうとするのかを問うべきだ。
 環境保護運動・反公害運動の中で,「障害のある子」「奇形児」が産まれない社会へ,というような言い方がなされることがある。またたとえば障害のある人をみて,「あんな人にならないように気をつけよう」と親が子に言う。「食べ物に気をつけよう」と自分に言い聞かせる。これはどこかおかしいのではないか。そういう指摘がある。☆31
 しかし,たとえば薬害HIVの被害者の「私のような被害者をださないように,国は責任をとるべきである。」といった発言は受け入れられるだろう。また,そのように発言するのが,被害者本人でなくても,受容されることがあるだろう。
 とすると何が問題なのか。両者のどこが違うのか。「あんな人」というように,「人」が指図されているということだろうか。言うことが現に生きている人に対する非難になることではないか。しかし,これに対しては,生きている者に対してはその生きる権利を奪わずむしろ積極的に支えるが,障害の発生は予防するようにすればよいのではないか。これは可能でありうるし,またそれを認めることがあるだろうと思う。たとえば,HIV感染者,エイズ発症者の生活・生命を支えながら,HIVの予防策,エイズの治療策を模索することは可能だろう。だから,両者は両立しえないわけではない。これは,別段,「偽善」であるということではないと思うし,いったん生まれてきたからには仕方がない,殺すわけにはいかないという理由からだけでもないと思う。
 一方でなされるのが妊娠中絶であるのに対して,他方では予防や治療であるということだろうか。これは無視しえない違いだと思う。しかし,少なくとも食べ物や何かに気をつけようという限りでは,これは予防策――本当に予防になっているのか疑わしいにしても――としてあり,それゆえにそれをよしとするかといえばそうでないと思うとすると,両者の差異は,また先のような言い方がなされ,それが環境保全の理由としてあげられることに対する抵抗はこれらのことに,少なくともこれらのことにだけあるのではないと思う。
 (苦しまなくてよかったかもしれないのに)苦しむ,苦しんで死ぬことになる,私のような,あるいはあの人のような人を今後出してはならないという時と,「あんな人にならないように」「あんな人を出さないように」と思い,言う時とでは多分違う,というか,違う部分が加わっている。
 一つは,姿や行動が奇異であること,了解不可能のように思われること,実際了解不可能であること,知能が低いことを取り出して,そのことについて「あんな人」とし,「あんな人にならないように」と思い,時には行動を起こすことである。
 ところがそれは,そのように思われる側からすれば,そのようである自分を否定されることだ。本人も,自分のその部分を嫌だと思っているかもしれない。そうでないかもしれない。どちらにしても否定される。私がそれを私の大切な一部だと考えている時に,それは自分が否定される行いだ。また,自分にとってそれは大切なものでないと思っている時にも,そういう自分にとって二義的なものによって存在自体が否定されるのだから,やはりそれは否定されることである。
 そしてここに,このように思う当事者,あるいは消される存在と同じ性質をもつことによって消されることに反発する代理者(の集合)の存在を想定する必要は必ずしもない。たしかなことは,私の価値,好みによって,存在のあるなしを決めているということである。もちろん,私は,私の好みによって,誰かが好きであったり嫌いであったりする。しかし,その好みによって,そうした存在(の現われ)を否定するということはまた別のことだ。
 もう一つは,要するに私(達)にとって負担だという理由で行うということである。
 (通常より多い)他者の助けなしにはあることができず,他者の助けなしには不便である場合があるが,それだけであるような場合がある。本人にとってはやっかいでない場合がありうるが,そのまわりの人にとってはやっかいであることがある。つまり,私達にとって不便であることがある。知的障害や精神障害や身体障害の少なくともある部分,相当に大きな部分は,そういうものである。
 そういうものが周りにいるのは負担であり,大変である。そこで,負担が軽減されるという意味において,出生前診断・選択的中絶は良いことである,あるいは良いことではないにしてもやむを得ないことだとする考え方があるだろう。
 これは,「社会」や「社会の発展」を口にし,人の手を借りずにすませられる人口,労働可能な「優秀」な人口の割合を増やすことが望ましく,あるいは増やさなければならず,そのためには社会の決定として云々,といった具合に語られることもあるだろうし,そんなことは思ったこともないが,親の現実の家庭や労働やの実情からどうしても無理だと,苦しい決定としてなされることもあるだろう。
 また大抵の人は,何がどれだけ大変なのか知っているわけではない。現実の負担という前に,それはそう根拠のない恐れに近いものであるかもしれない。また,現実的な負担と別に,自らとは異質だと思える存在,自分が希望するような子でない子,育てることに喜びを感じることができないだろう子,を自らに背負いたくないといった思いもあるだろう。
 このように見てくる時に,私達はこうした様々な動機に軽重の差をつけたくなる。しかし,一人の重い決定にしても,この社会の環境にも左右され,結局はこの社会の状態をどのようなものとするのかの決定に関わっている。心理的な負担にしてもそうだ。この社会に薄く分散する意識が一人の決定に重くかかってくるだろう。重みの度合いはこうした状況の如何によって決まってくる。だから単に軽重の区切りを入れるというだけではすまない。また,こうした状況そのものが問題である時,それが変わるまでといって,問題を先送りすることもできない。動機が軽かろうと重かろうと,ここではこれらを皆一緒に,周囲の者にとっての都合というところから考えたい。
 まず私達は,親の手によろうと,それ以外の人々の手によろうと,いかなる程度であれ,確かに負担ではあるということ,このことを否定することはできないし,否定する必要もないと考える。そして手間のかかる人はいない方が楽だ。これも事実といえば事実で,認めるしかないことだとした方がよいと思う。障害を持つ者がいることが,他者にとって不都合である,迷惑であること,これを否定する必要もないと思う。その点で,私はGの発言を,その言葉の通りには肯定しない。その負担,大変さを多くの場合確かに過大に見積もっていること,その重荷とは現実的な負荷である以上に社会的なまなざしの問題であること,そのように社会があるのは確かだが,それでもある属性が他者にとって確かに負担・不都合であることは事実として認めてよい。そして,場合によっては,障害を持つ者達との関係が他とは異質であること,その者が私にとっての自明さを持った存在ではないということ,このことも認めてよいと考える。
 周囲の者達にとって面倒で厄介な存在ではあるが,それだけである,そしてそれだけが理由になっていることがあるということである。染色体検査で主に想定されているのはダウン症である。たしかにその「症状」は様々であり,内臓等に種々の疾患を生ずることはあるのだが,主に「知的障害」として現われるその障害は,それ自体として,その障害を持つ人にとっては,どんなようにも不利益なものでない。
 だから,他者の質を予め決めること,その中でも私達にとって不都合なものをなくすという行いについて考えることである。自分のことについては自分で決めてもらうしかない。男が女になろうがその逆を行おうがかまわない。しかし,他者を,このような理由で決定するのはどうかである。
 批判はこのことを巡る「卑怯さ」に向けられている。つまり,たかだか私達にとっての不便さ,不都合さをその者自身に振り向けることによって,あたかも私達のことでないかのように装うことを指弾するのである。

  □42 死/苦痛

 けれども,これだけに尽きない。死をもたらすことがあり苦痛をもたらすことがある。そしてその死や苦痛は,大抵の人にとってマイナスであることがある☆32。
 病気を治すために技術が用いられることには同意するが,それ以上のことはしたくない,するべきでないという感覚は存在する。病であるとは何か。簡単にしよう。病とは苦痛であり,死をもたらすものである。そしてその苦痛は,他者の価値を介することのない苦痛である。それは,まずはその人にだけ現れるものである。
 様式の違い,及び(自身に委ねられる場合の)不都合さとして現象する「障害」と,苦痛を与え死を到来させるものとしての「病」とは異なる。もちろん,両者が同時にその人に入りこんでいる場合はあるだろう。しかし,両者の違いは曖昧で,境界は定められず,両者を区別する意味はないとまで言うのだったらそれは違う。私達は区別することができるし,区別している。☆33
 いずれ死ぬにしても,さしあたっては死にたくない。また苦しみたくない。だから,医療,リハビリテーション,そして予防…が支持されることがある――ことがある,と言うのは,他の価値に比べた場合に,それが選ばれないことがあるからである(注26)。治療は,行動の自由を得るために,苦痛から逃れるために,死が訪れる時期を引き伸ばすために行なわれる。「遺伝子治療」についてはどう考えるのか。たとえば私なら,それをも,受け入れるだろう。
 それは本人が判断している。本人の意志が聞き取れないと場合であっても,その本人はそこにおり,その周りにいる私達はきっとそうだろうと思う。この程度の推量は許されるだろうと私達は思っている。このことは,第2節3項に述べたことと対応する。一方の極に,ただ周囲の者にとってだけ迷惑であるものがある。ただそれにつきないということである。
 しかし,出生前,ここにはまだその本人はいない。だから,結局それは私の苦痛ではないか。なぜなら,まだ,私しかそこにはいないのだから。苦痛があるだろうと考えるのは私である。しかしそれでも,ある種の苦痛は,その者にとっても耐え難いものだろうと私は思う。その苦痛を生きている時には,もう生きているのだし,その生はその人にとって価値のあるものだから,その苦痛を緩和しようとしながら生きさせようとする――また,ある場合には,苦痛より死を選ぶことを認めるかもしれない。しかしここはまだ,苦痛を凌駕する生は現われていないと私が思う時,私は,その者を生きさせることをやめる。遺伝相談なりを受け,確実に,あるいは高い確率でその病が発生することがわかったとする。そこで子をもたないことにする。☆34
 しかしこれは,第3節に述べたことに戻ってみた時,どういうことだろうか。α:ないこと――零――と苦痛――負――とが比較されていると私は思っている。しかし,苦痛とは,その者が在ってはじめて存在するはずのものではないか。苦痛は存在――正――とともにしか現われないものではないか。とすると,これは,β:実は存在と苦痛とが比較され,苦痛によって存在を否定していることに他ならないのではないか。
 これに対してどのように答えたらよい答と言えるのか,わからない。それでも少し考えてみよう。βは,その者が,既に,在ってしまっているという現実の上で,はじめて現実には成り立つことではないか。しかし,現実には,その者はまだいない。だから,βはここにはない。では,私は人という存在のない苦痛といったもの,場をもたない苦痛といったものを考えているのだろうか。そうではないだろう。私は苦痛をもつ存在を「想像」している。その存在が現実に既に在ってしまう時には,その存在を受け止めざるをえないだろう。しかしそれはまだない。まだないことにおいて,正であるだろう生の現実性は薄れ,想像される存在の苦痛が,決断させる。第5章で,自らを越えて在ってしまうことを受け止めること,受け止めてしまうことが,私達が人を特権化してしまうことに関連があるだろうと述べた。同じことがここでも言えはしないか。苦の多い存在であるよりも苦の少ない存在であってほしい。しかし,あってしまったら,既に,その者はその者だけの生を生きるのだから,比較のしようがない。

  □43 いずれも勝手な行いであることの中の差異

 第5章で,私があるものを他者として受け止める時,そこには資格,積極的な契機を必要としないのだと述べた。しかし,まだ全く現われていない場合,また――そのような状態があるとして――全く何も感じていない場合,あなたという他者はいると言えるだろうか。私にとってあなたはいる。あるいは想像される。しかし当の存在における存在はない。しかし私は他者について思っている。
 だから,この時,それを生かそうとする,現われさせようとするのも,そうしようとしないのも,私の思いであるしかない。その限りで等価であると言う以外にない☆35。だから,その限りでは,いずれにしても――このような言い方をしてよいなら――これは,「身勝手」な思いであり,行いである。
 このことを確認した上で,私達は,その身勝手さがどのようなものであるのか,考える他はない。@:私達にとっての都合によって産むのをやめる,という私達の選好があり,行いがある。A:そのような決め方を認めないという私達の選好があり,行いがある。B:苦痛を想像し,産むのをやるという私達の選好がある。
 いずれにしてもまだ具体的な他者はいない。まだあらわれていない時に,それらは,いずれも私達の側にある抽象的な,一般的な原則のようなものである。そして,畢竟そのようなものでしかないものによって,決めてよいのかと迷う。
 ただ,A:自分達の都合で決めるのはやめようと思って,あるいは何も考えずに,子が現われてしまう時,具体的な他者が現われてしまう時,既に,その存在は生きようとしている。そのことによって,ただの私の思いでしかなかったかもしれないものは,そうでなくなる。それでよかったという現実が,後から,やってくる。
 B:私は他者のことを想像している。それで行う。それにしても,なお,こうした行ないが何か空虚であるとすれば,それは,長く健康な生の方がよい生であろうと思う私の感覚によって,何事かを決定した,変えたということである。この時,私(達)はたしかに他者の世界を,より苦痛のない世界へと変容させようとしている。それは私の都合というわけではない。しかしそれでも私がそのように思うのであり,私が決定している。多分,それは「よいこと」ではない。というのも,この決定があればなかった生が少なくとも一つあることになって,そしてその生はあった瞬間から,たとえばそれが短いものであったとしても,独自の生として現れ,しばらく持続し,やがて終わるのだから。なぜそのことに耐えられないかと問われた時に,最終的には,私には耐えられないように私は思う,ということでしかないからである。しかし,それだけの精神の強度をもつことができない私達は,生が現われることを受け入れない(ことがある)。
 @:私の利害を通したということで,具体的な他者を侵害したわけではない。だがそのような「態度」がよかったのかとは言える。
 負担や有用性を考量しなければならない場面があることを否定しない。その負担を受け入れるなら社会の存続自体が不可能になるといった場合には,どうしても考えなくてはならないだろう。しかし,この社会はそのような社会でない。
 その他者にとって負担である属性,障害を持つことを許容しないこと,全てを自己達にとって都合よく他者を存在させることを問題にすることができる。社会にとって有用である,あるいは害がないということによって成員を決定するという行い,そのようにして形成される他者との関係,そうして構成される社会は,居心地の悪い,つまらない社会であると言いうる。他者がどういう存在であれ,それはそれでよい,そういう存在を他者といい,そういう存在によって構成される場を社会というのだと考え,負担や貢献を口にする議論に反駁することができる。
 先に残した,障害者差別だという批判は当たらないのかという問いを考えよう。繰り返すが,これは私達が行う行いである。なぜ行うか,その理由は述べた。ここに,必ずしも,障害者に対する敵意があるわけではない。様々な見込み違い,勝手な思い込みが介在している場合も多いだろうが,偏見があるわけではない場合もありうる。むしろ,負担についての「正しい」認識の上で行うことだってある。そして,ともかくもその人が生きている場合には,生かそうとするだろう。これだって嘘とは言えないと思う。障害者差別だと言われて,とまどってしまうとすれば,それはこのようなところからも発しているはずである。
 では批判は当たらないのか。生きている障害者が具体的な侵害を被っているわけではない。そして彼ら以外に具体的に存在する障害者はいない。こういう場面には差別ということがありえないのだと,問題とすべきことはないのだと考えるなら,差別はなく,問題はない。けれども,そう言えるのか。
 第1節で,「間違いなく,出生前診断・選択的中絶は除去する技術であり,それが行われる時,障害者はいない方がよいという契機が必ずあることは認めざるをえず,このこと自体問題にしうる」と述べた。そこでは,ここから,障害に対する評価という問題が浮上したことを指摘し,第2節以降,このことについて一定の検討を行い,評価が間違っている,評価を変更すればよいと言ってすむほど,単純な問題ではないことを述べた。しかし「 」内の言明の妥当性はまだ維持されている。これまで行ってきたことは,このことをはっきりさせることだった。病や障害が苦痛や不便を与えるものであったとしても,それは生まれる存在にとっては,生きていることを否定するだけのものではない。これは,当の者の苦痛を思ってという場合を含めて,私達にとっての不都合,私達の価値からなされることであり,ことでしかない。障害に関わる差別の一つの大きな部分は,能力に関わる差別であり,それは,自分ができる/できない,他人の助力を必要となる/しない,その度合いによってその人とその人の生を否定することである。社会にどのような人を迎えるのか,この技術においてなされるのはこうした基準による選別であり,ゆえに,これに対する障害者の側の批判は当然のものだった。この選択的中絶という行いがそれだけの限定された範囲にとどまるとしても,それはそれ自体として問題化されうるのである。もちろん,厄介なもの,異質なものを除去していこうとするその発想から,この技術に限定されない行いが行われる可能性はあり,ゆえに,「差別につながる」という言い方でこの技術が問題化されてきたのだし,それに対して,そうとは限らない,「障害者福祉」と「選択的中絶」は両立しうるのだという反論がなされてきた☆36のだが,仮にこの反論が成立しうるとしても,批判の本体は失われることはないのである。

 □95 禁止と強制とその間

  □51 検査の制限の可能性

 よくないと言いうる。では,禁止あるいは制限されるのか。よいことか悪いことかという問題と別に,禁止すべきか否かという問題がある。第1節で述べたような議論の場の構成によって,こうした距離を取った発言が登場する状況がなかった。しかし,これは考えるべきことである。もし法として人工妊娠中絶を条件をつけずに許容するとした場合には,もちろん,この行為はその法律によって禁止されないことになるのだが,それはここでの問題ではない。それがよいかどうが問われているのだから。
 @:人工妊娠中絶を全面的に禁止しないという前提のもとでは,少なくとも殺害・抹殺であるという理由によって,この行為を禁ずることはできない。とすればそれ以外の根拠によってこれを禁ずることができるのかを考えるべきである。
 A:直接的な他者の権利の侵害行為以外は禁止されないという立場をとれば,胎児あるいは同じ範疇の者に対する侵害という理由で,禁止すること(これは結局のところ法的に禁止することを意味する)はできない。
 B:ただ,Aは一つの立場であり,また「直接的な」という範囲をどこまでに設定するかによって,その結果も変わってくる。これまで,選択的中絶について,確かにそれは便利で好都合なものではあるが,このことが――この本で述べたことが受け入れられるとしてだが――それを正当化するものではないこと,むしろ,この社会にある価値に反するものであると捉えられることを述べてきた。不快であり不都合であるという理由によって成員を限定することがよいことだとは思えないと述べた。そのいくらかを認めて,あるいはさらに別の理由で,これが社会のあるべき状態に対する侵害であり,つまりはその社会の中にある人に対する侵害だと捉えることもできるなら,統制は正当化されえないわけではない。質を決定しないという選択を社会的な決定とすることも考えうる。
 C:これをどのように考えたらよいのか。直接の回答にならないが,一つには,統制の効果について考えることだ。それは,私達がどのような状態を目指すのかを考えることでもあると思う。皆が一様に同じ意識を持つことか。そうだとしても,ある意識を持つこと自体を禁ずる術はなく,また意識を持つように強いることが可能か,また妥当かが問題だ。では,ひとまずそこを離れ行為に焦準を合わせるとして,それが単に禁じられている状態が目指すところなのか。むしろ,社会の全域を覆うものでないにせよ,また個々の人の思いの全てを占めるものでないにせよ,他者を認めてしまうという感覚があることを提起し,その感覚の存在を認めさせること,このことについて考えることを求めることに意味があるのだとすれば,社会的・法的な統制という方途を採らない,という道もあるのではないかと思う。
 D:ただ,選択的中絶は,子をもたない決断からはさらに少し離れた不安定な位置にある。第5章で,殺さない存在の始まりについて,「客観的」な線を引くことはできず,この時に,最終的に女性に委ねると述べた――これは苛酷な要求でもある。それにしても,それはそう確かな行いではない。選択的中絶の場合,現われていないと思う,その思いが不確かなだけ,この行いは不確かな不安なものではある。その意味で,なおさら,それは晴々としたものではない。妊娠の回避との間に小さくはない隔たりがある。
 E:そして,検査が楽になる――身体的な負担の大きさや危険性は検査に対する批判の論点の一つだったのだが,ここではそれが通用しなくなるということでもある。また,診断可能とされる対象が拡張される。そして病院の経営面からも検査が拡大することに利点が見出される。こうして,より簡単に,気軽に行うことができるようになり,広く行われるようになる。こうした可能性があるし,既にその兆候はある。
 @ACは,制限に消極的な理由である。ただ,BDEを考えた場合,とくにEを考えた場合にはどうか。よくすることと悪くしないこと。ひとまず両者を分けうるとしても,所詮は標準なり,最低のラインなり,当然の水準,望ましい水準をどこに設定するかによって,それはどのようにもなる,地続きのものである。手の指の数,身長,肥満…☆37。結局は,私達の好みによって,私は私でないもののあり方を決定していると言うしかないような場面がある。とすると,その全てではないとしても,私達は私達の未来の世代(の社会)を決めてはならないという理由によって,この技術の行使,具体的には検査の範囲を制限することを考えることができる。


  □52 積極的な権利としての選ばない権利

 現在のところ,出産は個人的な選択,行いである。まず産む当事者がいる。だから,これに対してなされ得ることは,選択的中絶を禁止する,強制する,どちらも行わない(当事者の選択にまかせる)という三つになる。
 した方がよいという根拠を見出さなかった。もちろん,気持ちの悪いものを除去しよう,都合の悪いものを除去しようという――それが私達の生の大きな部分を占めていることはまったく確かなことである――を最初に置けば異なるのだが,もしそうではないのなら,した方がよいとも,するべきだとも言えない――これを逆に辿れば,この技術,技術を用いた行いに抵抗を感ずるなら,それはこの本に記したことに発しているということでもある。
 選択的中絶を強制するには,第一に,単に侵害でないから禁止できないという以上の理由が必要である。すなわち,右に権利はないと述べたことを覆し,やがて他者となる存在の質を,周囲の都合によって決定することに対する正当性の付与が必要である。子どもを産むか産まないかに対する自己決定を認めれば,産むなという強制は,不当な介入であり,認められないはずだ。また,産むことはある者(達)の決定を介して,その者の身体においてなされる。ここに介入して検査と中絶を強要する場合,それは,ある者の主張・見解を排除するというだけでなく,具体的な身体に対する介入であるから,さらに強い正当化の根拠が必要となる。ここには,選択的中絶を行うべきであるという正当性の付与以上の,親の決定を排するためのさらに強力な根拠が必要となる。以上から,全体的な決定として出生前診断を義務づけることは認められない。
 「自己決定」の立場に立つ人は,もちろん義務化せよなどといったことは言わないだろう。だからあらためて右のようなことを記す自体にあまり意味がないのだろうか。その人は,自分の利害に関わらない限りで,勝手にしろと言うに決まっているのだから。ただ,問題はそれに尽きない。行いを制限されないというだけの自由だけが認められるということであれば,その行いの結果については自分で責任を負うべきだということにもなる。生まれた以上は,独立した人であり,その子に対する援助はその事情と関係なく行われるべきだと主張することはできるかもしれない――それさえも,家族の扶養義務という原則の下で容易ではないのだが――としても,今度は,私達が負担に関わる以上,それは直接の親に関わるだけのことではなく,私達も利害関係者であり,決定に関わってよいはずだということにもなる。ゆえに,検査を受けないでよく,生まれた者は誰であれ生きてよいのだということを本当の現実として認めるのであれば,単に,それは個人の選択であると言うのでは足りず,このことを,いやいやでもなんでも,私達が実質的に認める必要があるということである。
 義務化するのでもなく,禁止するのでもないとしたら,この場合事実として産む側の当事者がおり,結果としてその決定は最終的にその者達に委ねられることになる。それは親の側に,女性の側に積極的な権利があるということとは違う。当事者は考えなくてはならず,選択しなくてはならない。
 一つあるのは,出生前診断→選択的中絶という選択をしないという選択を,現実的に存在させる道を考えることである。そしてこれは,そうした選択を自ら肯定する者が決して多数派ではない現況下で,実際に取りうる方向である。
 この時,質の決定に関与しない,選択をしないというという選択があるのだということ,そのような選択が認められるべきことを主張すること,そしてそうした選択の上でも産む側の当事者と生まれる者とが現実に暮らせることを求めていくこと,そのために扶養義務を制度的・実質的に,解体あるいは大幅に縮小すること☆38,また,そのように考えない者がいることを事実として認め,それに論争を仕掛けていくこと,社会の全体的な決定として,政策として,これを推進することを批判すること,こうした選択が現実に行われる場,検査・医療の場において,検査自体も含めいかなる意味でも義務ではないことをはっきりさせること,どのような情報を与えているのかその公開を求めること,それだけでなく,障害を持つ者が産まれると本人も不幸で社会も不幸だなどとどうしても思ってしまう医療従事者の考え方ではなく,少なくともそれだけではなく,それと対立する考えが伝わるようにすること,現実に障害を持って生きていく生き方についての情報を提供すること,そのために,不幸であるという声に抗して生きている障害・病を持つ者の参与をこの場にそして様々な場に求めること,といったことが考えられるだろう☆39。
 出生前診断・選択的中絶に対する批判を追い,それを検討し,とりあえずここまでを述べた。できる限り,論点,主張点をはっきりさせたつもりだ。以上述べたことのどれかを,あるいは全てを否定し,別のものに入れ替えれば,この技術の利用に対する別の賛成論あるいは反対論が可能だろう。私は批判者の批判のすべてを受け入れることはなかったが,批判の中核的な部分は残っていると思う。そして批判者も以上をさらに批判することができる,論争をしかけ,他者の見解を批判し,自らを擁護することができるだろうと考える。

 □96 積極的優生について(略)

  □61 積極的優生
  □62 積極的優生は不愉快だから禁止される

 □97 引き受けないこと(略)

  □71 否定するのでなく,場から降りること
  □72 小さな場に現われること
  □73 私から遠ざけること


※全体の章立ての仮案は以下の通り

 □10 主題
 □20 所有
 □30 批判
 □40 他者
 □50 範囲
 □60 政治
 □70 代案
 □80 能力
 □90 優生


  ※この報告は立岩『私的所有論』第9章の一部に用いられました。


REV:20130928
優生学/優生思想  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇全文掲載
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