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私が決め、 社会が支える、 のを当事者が支える

立岩 真也 1996.05.25 於:明治学院大学
家族問題研究会大会シンポジウム「ケアと家族――自立と自己実現を求めて」
cf.配付原稿

last update: 20130928

■α 問い方について

 「ケア」が語られる際に問題だと思うこと:「家族ができないから」「家族だと大変だから」という論理。「家族社会学」にもそういうことはなかったか:「家族の変容」から「…の社会化」を言う…。その通りの現実があり、 それが重要であることは認めるけれど。

「家族による介助、 介助に関する資源の提供が、 現実には行われている。この国では以前からそして今でも、 介助は家庭でなされてきた。これに対して、 高齢化や、 核家族化や、 女性の「社会進出」のために家族の機能が衰弱し、 それに代わって別の領域、 例えば政府がこれを担当せねばならない、 せざるを得ないという言い方がよく、 ほとんど決まり文句のように、 耳にたこが出来るほと、 なされる。過去の多くの人は急性の病等で今よりもっと素速く死んでいったから、 長い期間の介助が以前も必要だったわけではないことは押さえておこう☆04。とはいえ、 高齢化や核家族化自体は事実であり、 それを否定しようというのではない。問題なのは、 このような言い方の中で、 「本来は」誰が行うべきなのか、 家族なのか、 家族だとしたらそれはなぜかが問われていない、 あるいは曖昧にされていることである。「義務」「規範」について考えることを、 結果として、 避けてしまっていることである。家族が十分に世話できるなら、 家族が経済的に十分に負担できるなら、 家族が行うべきなのか、 負担すべきなのか。ここから考えるべきだ。家族が行わねばならない根拠はあるのか。」[9504]

 ひとつにこういう問い方がある。答は別の論文([9102][9211])で検討したし、 上に引用した文章で書いている。家族にだけ義務を課すべき根拠はどこにもない。(にもかかわらず義務が課されることと「近代家族」についての「(家族)社会学的」了解との間の齟齬と、 この齟齬に対する「学」の側の無自覚さについては[9211]。)
 もうひとつは、 家族に担わせる場合と、 そうでない場合とを効率性、 合理性の観点から比較すること。★01
 そしてもうひとつは、 「当事者」にとって、 よい、 気持ちのよいことであるのかということである。このことについて↓

■β 「家出」の意味

 家(と施設)を出て暮らす障害者について調べてきた(→『生の技法』)。(親が年をとったとか、 死んだとかいう)「不足」(あるいは「虐待」)から家を出るのでは必ずしもないということ。
 介助という行為が、 (少なくとも多くの場合)「距離」を必要とすること。以下はボランティアによる介助に関して書いたことだが…
「例えば、 ディズニーランドに行くことがボランティアと一緒に遊ぶということなら、 ボランティアはその人との関係がおもしろいだろうし、 ボランティアされている人もおもしろいかもしれない。けれども、 自分が親しい人とそこに行く、 しかしその親しい人と別の介助者が必要だという時には、 その介助者はできるだけ無色透明である方がよい。そういうことをわかった上でそれをボランティアとして自然に行える、 人間のできた人もいるかもしれない。しかしこれはなかなかに難しいことではある(この辺については岡原[1990→1995]※)。」[9611:241](※岡原正幸「コンフリクトからの自由――介助関係の模索」。岡原「制度としての愛情――脱家族とは」も重要。いずれも『生の技法』所収。)

「介助者との関係に対する考え方は一通りではない。介助という関係に人と人のつながりを求める人もいる。特に人とのつきあいを介助者との関係以外にあまり求められない人に多い。しかし、 人間関係が他にも様々にある人の場合は違う。このことに私達はあまり思い至らないかもしれないが、 少しでも考えてみれば当然のことだ。一人でいられる時間と人と関係する時間があって生活は成り立っていく。つきあいたい人、 つきあわねばならない人とつきあって帰ってきた時、 介助が必要だから介助者が近くにいることは避けられないが、 その時間は脇にいて控えていてほしい。介助に過剰な意味を込めてもらっては困るのだ。この時には、 介助という仕事は地味な仕事で、 コミュニケーションや自己実現を性急に求められても、 それはかなわない。思い入れだけではやっていけない。」[9504:134]

「(一人暮らしを始める前に)既に家族との関係が疎遠になっている場合は大きな変化はないが、 家族との生活の後、 介助をめぐる状況の悪化に押し出されるというかたちでなく、 家族から離れることができた場合には、 かえって、 家族との関係が、 以前とは違った良好な関係として再び構築されている例がいくつもあった。」[9626]

■γ 代りに

 ではどうすればよいか。必要なことは、 非常に切り詰めてではあるが、 [9504]等で述べた。生きる権利があり=全ての人がその権利を尊重する義務があるのなら、 全社会的な(個々人に対しては強制的な)負担が選択され、 それが可能なのは政治という領域であり、 負担を求める実務を担うのは政府である。
 しかしそれは、 サービス供給の全てを政府が担うべきことを意味しない。政府による供給にはいくつかの難点がある。また、 価格メカニズムが働かないし、 また必ずしも働かせるべきでない領域であること等から、 政府による資金の供給+市場の利用というのでも難点は解消されない。非営利組織、 特に当事者主体の非営利組織の果たす役割がここにある。(この点について[9622]等で論じた。またこうした組織としての「自立生活センター」の活動について[9505]等)。NPO(非営利組織)について千葉大学報告書『NPOが変える!?――非営利組織の社会学』。)

★01 以下[ ]内は別紙「論文etc.一覧」内の番号に対応。
★02 家族に担わせることによって、 誰かが(しかし誰が?)得をしているという言説がたとえば「マルクス主義フェミニズム」等から発せられるが、 少し検討してみると、その多くが随分不用意なものであることがわかる。このことについては[9401][9412]。


REV:20190928
家族
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