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反論する

立岩 真也 1996 『解放社会学研究』10号(1996,日本解放社会学会)
『生の技法 増補・改訂版』書評へのリプライ

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『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙
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■繰り言と反省

 丁寧な書評をいただいた。感謝する。感謝した上で反論せねばならない。なお、この文章は、共著者の一人である立岩だけが書いている。第3章・第4章等について評者から寄せられた指摘は重要な指摘であると思う。また、この本の各章は相当の時間をかけて討議しながら書かれたものであり、単に各執筆者が書いたものの寄せ集めではない。ゆえに私なりの感想と返答はあるが、それでも各章は、最終的には各々の章の著者のものであるから、ここでは私が何か言うことはしない。私自身が担当した部分についてだけ述べる。
 読み方は読み手に任される(ことになっている)以上、仕方のないことであるのかもしれない(私は実は仕方ないと思いたくないのだ)。だが、総じて、この本で是非記録せねばならないと、考察せねばならないと考えた部分、精根傾けた部分が読まれ、そして論評されて欲しかったと感じる。
 これはかなり頻繁に感じることだ。それなりに落ち込んでしまう。もちろん、核心をついた(これは私の主張に同意してくれることと同じでは、全くない)評言に勇気づけられることもある。 100%自分一人の確信だけで仕事をやっていけるほどの人間ではない、でも60%くらいはそういう独善的な人間なのかもしれない私は、その60%に加えて、気落ちしたり元気をとり戻したり、そういう浮沈を繰り返しながら、なんとか仕事をしている。
 なぜ読まれないのだろうか。文体によるのだろうか。私の文体――といった高級なことではなく指示語がやたら多いといったこと――の難については他でも指摘される。また、特に初版に書いた部分で、特に逆接で続いていくような箇所(「しかし… だが… けれども…」)では、――論の運び方自体に必然性はあるのだが――明らかに説明不足がある。日夜?改善するよう努力はしており、これからもたゆみない?努力をしていくつもりです。少なくとも新しく書かれた部分については、指示語が何を指すのかわからないといったところはないはずだと思うのだが(自分で書いたんだから、そう思うのは当たり前か)、やはりまだ不親切ではあるかもしれない。文脈上明白でも(明白だと私には思えても)、できるだけ、枚数が増えてもそれはあきらめて、言葉を補うようにしようと思う。評者によって個々になされた指摘について、また「難しさ」が――必要とされる場合(この本についてのことではない)であっても――嫌われるという一部の(評者のことではない)風潮に対して、反論や弁明はいろいろとあるが、そして一点については譲れないし単に表記の問題ではないので次で述べるが、とにかく、この件については、私は真面目に受け取っており、反省し、反省を明日に生かそうと思っております。
 しかし書き方のまずさだけとは思えない。なぜ明示的に書かれていることが読まれないのだろうか。たとえば、評者の論文(要田洋江「日本の障害者福祉制度に内在する問題」『解放社会学研究』9)に指摘され、提言されていること、ここ10年あるいは20年間、様々な人によって指摘され、提言されてきたことの大抵に、私はそう異論がないのだ。どこにずれが生ずるのか。そんなことの理由を考える前に、そういう「知識社会学的」な考察を巡らす前に、私にはしたいことがたくさんあるから、そんなことを毎日考えたりはしないけれども、気にはなる。ただ、その理由を詮索するより、何を書いたつもりだったのかを述べることの方が生産的だと思う。それは、私が、どこが読まれず、どこがずれていると考えているのかを述べることでもある。その前に一点だけ、表記のことについて述べる。これは、以上の私の疑問にも関係しそうなところであり、かなり基本的な部分に関わると考える。

■「彼ら」と呼ぶことについて

 「彼ら」という語を私は選択した。その人達は、たとえば過去及び現在現実に私が参加してはいない組織の構成員達であって、私はその中に含まれておらず、そして複数である。だから「彼ら」である。性別のことがあって(日本語では「彼ら」は普通男性を指してしまう)気になったが、他によい代名詞がないので「彼ら」にした。そして、その彼らは、ほとんどの場合、「障害者一般」ではない。したがって「障害者」という語を用いることもできない。理由は、ひとまず、以上である。
 さて、評者は次のように書く。「「彼ら」という第3者的なものの言い方が、障害者を排除している気分にさせられた … 現在は障害を持ってなくとも事故・病気あるいは高齢となりいずれは障害を持つ身になるのではないかと思うととてもひとごととは思えないからである。これでは、共に生きる社会づくりの連帯は導けないと思うからである。」
 そういう「気分」になったのは事実だろうから、そのこと自体についてとやかく言っても仕方がないが、これは私の感じ方、考えとはまったく異なる。多分私もそのうち(いわゆる、というのは相当程度に重い)障害者の仲間入りをすることになるだろう。しかし、だからといって、たとえば「私達」という語を使うことは、そのように当然表記すべきとき以外、私は絶対にしない。それはまず上記した理由からであるが、さらに言えば、「明日は我が身」という事実から「連帯」を言うという論法――これは福祉という領域ではきわめて頻繁に用いられる――を、私は、そのような契機が(私にも)実際あり、それを否定せず、認めてよいと思うけれども、基本的にはとらない、とれないからである。そして、このことを私は重要な論点だと考えており、第8章(pp.230-231)で論じてもいるのだ。
 「明日は我が身」でないと「連帯」は導かれないのか(評者その人が「明日は我が身」でないと「連帯」を考えられない、感じられないような人だと言いたいのではない)。「共感」を否定するのではない。共感という契機を大切なものだと思うけれども、同時に、私ではない「彼(ら)」であるからこそ、私はその人(達)を大切に思うということはないか。その人(達)が提起するものを重く受け止めるということはないか。私は、(私でない)「彼ら」がいてくれた、(私ごときでない)「彼ら」がやってくれた、という思いで、時に――常に、ではない――尊敬の念をこめて「彼ら」という語を使い、この本を書いた(「私」が「私(達)」を尊敬したりはしないのだ)。それを読み取ってほしいとは言わない。しかし悲しくはある。そして、そういう私の「気分」を別にして、以上述べたことから、つまり「私達」と安易に言うことの危なさから、「みんないつかは障害者になるかもしれないんだよ、だから…」という言い方の危うさから、評者の指摘を受けて表記を変更することを私はしない。このままで行くつもりである。そして、たとえば「彼ら」を別の表記にしたりすることによって、より「わかりやすい」「読者に受け入れられる」「親しみがもてる」等々の文章になるのだと誰か考える人がいるのだとすれば、私は、それは違うと、そんな「わかりやすさ」はいらないし、時に有害であると、そんなことで何か「わかった気」になってもらったら困る、それは「わかる」ことでもないでもないと、言う。
 ついでに、「この国」という語の選択について。文脈上読み誤るはずはないとは思ったからこう書いた。より積極的には、「わが国」とは書きたくなく、「日本」でもしっくりこなかったからだ。私にとって「この国」という表現は、「文学的表現」でもなんでもなく、この国を突き離し、評者と同じく「甘くならない」記述をしたいという思いがあってのことだ。ただ「日本」を「この国」と書いたことぐらいでは、一定のスタンスを示すことができたとしても(しかもそれを評者には逆にとられたのだ)、それ以上どうということはない。わかりやすさのために、「日本」の方がよかったのかもしれない。

■書いてあること・1

 この本で行われていることのひとつは――関連するが、独立してもいる別の意図については、後で述べる――ここ20余年の、身体に障害のある人達の(の中のある部分の)試みが提起しているものを、社会というコンテクストの中で――しかしそれを自明に前提せずに――捉え返し、それが提起している意味を考え、それを取り巻く社会のあり方を考え、その試みの可能性を測るという仕事である。(「教科書」ならともかく、新たに書かれるものには、何かしら先に進むあるいは元を問い返すという姿勢がある必要があるのではないか。いやそんなことの前に、)たとえば当事者の主張を主張として検証していく時、その歴史を歴史として検証していく時、いろいろと疑問が立ち現れてくるのではないか。たとえば、ある試みは貴重な試みだと思ったとする。ではどこに意義があるのか。また、ある主張を受け入れられないと思う、あるいは無理な主張だと思う、と同時にそれを全面的に無視したり否定したりもできないと思う。運動の内部にも亀裂があったりする。どう考えたらよいのか。こういうことを考える仕事があると思う。確かにこういうところに入りこんでしまうと話が難しくなってくることもある。けれども、今後どうあるべきか、どういう道が可能かを考えるためにも、一度はやっておかなければならない必要な作業ではあると思う。この本で、私達が受け取り、考えるべきことの全てを扱うことができたわけではない。しかし意図はそのいくつかについて、特に以下のbについて、考えてみることにあった。
 a:一つに障害というものをどのように捉えるのか。障害…dis-ability…できない・能力がない、ということをどう考えるのか。たとえば「優生思想」を否定できるのか。あるいは否定するとはどういうことか。私達はこのことをよく知っているわけでは、わかっているわけではない。このことについては、この本ではまったく十分に展開されていない。ただ第6章(岡原正幸との共著)と第7章では少し触れられている。(ちなみに第6章の原型は石川准氏によって書かれたものであり、それに付加されたのはわずかな部分でしかないが、そのわずかな部分が、きわめて不十分なものではあるが、このことの考察にあてられている。石川氏の文章は彼の著書『アイデンティ・ゲーム――存在証明の社会学』、新評論,256p.、2200円、に収録されている。)この主題に関わる考察は、初版が出た後に書かれたいくつかの文章(出生前診断・選択的中絶を巡る考察[立岩1992a][立岩1992b]もその一つ、本誌第8号掲載論文[立岩1994]もその一つ)に引き継がれ、特に立岩[1994]や「能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について」[立岩1996予定]などでbの論点に接続していくことになる。
 b:特にこの本の後半で主題化されるのは、「共に生きる」とか「支え合い」とか言うが、具体的にそれをどう実現するのかということだ。誰がどのように支えるのか。このことを考える上で注目されるのは、障害者の運動の中に、少なくとも理念として、政府によるサービス(のための資源)の供給という意味での「福祉」を拒否し、より「直接的」な支援・連帯を求めるという道に向かった部分があったことだ。さらに言えば、「再分配」としての「福祉」がなされるしかないような社会構成全体を認めないのだとする主張――そしてそれは前記aの「できないこと」(「できること」)をめぐる社会編成のあり方を認めないという主張でもある――があったことだ。(それはこの時期の各国の障害者運動を見る時、かなり独自なものである。ここには、「新左翼運動」と称される部分を含めた70年代の日本の社会運動がもった質も影響してるだろう。)私はこの立場を採らない――理由はこの本に書いた――が、そこには受け取るべき、少なくとも考えるべき意味がある。もちろん、より「現実的」な、別の立場もあった。1970年代以降の障害者の社会運動には、そういう振幅があったのだし、その幅の中で葛藤や対立を含みながら運動がなされてきたのである。
 「何を中心に議論を展開しているのか不分明である」と評された第7章の主題はこうした振幅、対立を含んだ動きを追い、その展開を検証することにある。そして、私はこのことを明示的に述べている。このような振幅があり、対立があり、その中に受け取るべき貴重な提起があることを、述べている。これは、歴史を見る場合に他にもいくつかありうる線の引き方の一つではあろう。しかし、少なくとも強引すぎはしない、その事実を確認しうることである。
 書評中の「ところで、本章を読んで「青い芝の会」は」から始まる段落の一つ一つの文はそれなりに理解できる。「わかりやすい文章」で書いてある。しかし、この段落の各文のつながりはいったいどうなっており、全体として何を言わんとしているのか。たとえば「ただしこう述べるからといって、私は運動の違いを強調したいのではなく、…」。強調したくない気持ちはわかるとしよう。しかしその「気持ち」とは別に「違い」は存在する。その「違い」はどこに行ったのか。私はもっぱら「違い」を言うべきだと言うのではない。ただこの箇所の後、「アメリカなどに見る障害者主権の人権闘争と同じ歩み」と言う時、この「同じ」――私は「同じ」と言いうる部分があることも認める――と「違い」はいったいどうなっているのか。「海外の実践を国内に取り入れる速度がはやい」ことを私も認める。しかし、80年代初頭に米国の動きを取り入れていこうとした動きは、それ以前からの運動の蓄積を前提としつつも、それと直線的に連続したものではない――このことは第8章に記されている。そしてそれは単なる歴史的事実ではなく、たとえばADA(障害のあるアメリカ人法)に対する評価が日本の障害者運動において一様でないといった事実にも直接につながってくることなのである。評者のような文章の運びは、こうした事実に対する解釈の試みを不要にし、事実をも不要にする。このような文章、ものごとを論じるスタイルは「不分明」でなく、第7章は「不分明」であると言われるなら、私はそれに納得することができない。
 第8章で私が行おうとしたのは、このような振幅をもった運動を踏まえた上で、誰がどのように支えるのがよいのかについて考えることだ。そして増補・改訂版の第8章は、初版の第8章の基本的な論点を維持しつつ、よりはっきりとした論理として明らかにした。
 この章で言っていることは、1)α:誰が責任を負い、義務を負うのかということ、(その具体的な一つの形としての)誰が費用を負担するのかということと、β:誰が主導権をもって実際のサービスを利用し提供するかということとは分けることができ、2)前者αについては負担できる全ての人が負担の義務を負うと考えるべきであり、具体的にそれを実現するのは、政府を介した費用の徴収と分配という方法であり、3)後者βについては民間組織、当事者組織の果たす役割が大きいということである。
 私はなぜこのように考えるのがよいのか、そのような結論に至る根拠を明示した。家族、性別分業、ボランティア(有償か無償かという問題)といった契機を考えに入れながら、議論を進めていったから、議論は若干複雑にはなっている。しかしこれらの契機を入れずに考察することは、もちろんできなかったのである。
 それは、70年代以降提起された「みんなが自然に(当然のこととして)支える」というそれ自体は否定されえない理念の実現不可能性と理念が実現されない時に生ずる結果(支えることの偏り、押し付けが生ずる)を考えた時に、そして、「福祉」の何が批判されたのかを考えその批判を生かす道を探っていった時に、出てくる道筋である。だからここで私は、第7章で記述された一つの立場(これは「青い芝の会」という集団の一部にあっただけでなく、もっと広範に存在した、また存在する)を、その提起を受け止めようとしながらも、論拠をあげて批判し否定しているのである。私は、そういうことを行うことが研究者の仕事だと考え、社会運動に対して、社会に対して、果たしうる役割だと考えている。
 第9章では、「自立生活センター(CIL)」の活動がとりあげられているが、この組織の登場とその活動は、第7章に記述された20数年の試行錯誤を経た後、選択された実践的な解の一つであり、それは第8章に提示された方向を進むものである。当事者の運動の現実は、この社会の中で――唯一、と私は考えるが――可能な道を辿って今に至っているのである。これは、彼らが自らと自らをとりまく現実に対して誠実であった、誠実であるしかなかったからである。
 その運動の過程は、この本で述べられているようには、当事者によって語られない。それは当然のことだ。言語にすること、論理として語ることが仕事ではないからだ。しかし、ある論理(形)をもった現実の中で現実に誠実に対抗しようとすれば、その営みは必然的に論理をもつものになる。研究者はそれを追跡し、その構造を言葉にし、その意味、可能性(や不可能性)について、考える。運動の実践、その道筋は、そしてそれを把握しようとする記述は、必ずしも単純なものではない。しかし、その複雑さは現実の複雑さにちょうど見合ったものなのである。
 第7章から第9章は、このような一貫した視座から、より正確には私達(=共著者達)が調べる中でその相手から私が獲得のきっかけを得て構築してきた視座から、書かれている。そして、筆者が違えば(たとえば私だったら)同じことは書かなかったと思うけれども、第6章までに論じられていることも、この部分に完全に連続している。評者は別の本にしたらと言う。だが、どうしてもこの本のような章立てをもつ本が、一度は、1冊の本として書かれねばならなかったのである。ただ、第7章以降でごく簡単に描いた論理を、今度はそれだけ採り出し、特に家族・性別分業について大幅な加筆を加えながら、ていねいに書いていけば、相当の分量にはなるだろう。そういう仕事もやってみたいと思っており、いくつかの文章を書いてもきている。ただ、私としては、そのまた前提、基礎理論の基礎理論ともいえる「私的所有」をめぐる考察(これは前記のaに関係する)を先行させるつもりである。さらに理論的なところに踏み込んでいって、はたして読者がいるのか、たいへん心もとないけれども。

■理解できない誤解について

 さて、かように熱を入れて語ったとしても、こういうことに興味のない人にはどうということはないものなのかもしれない。それにしても、前記した1)〜3)は、「障害者の自己決定権を尊重するかかわりを持つことができる介助者の養成や介助者を確保し供給する仕組みについて、障害者が参画するシステムを構築する必要があろう」(前記要田論文、p.125)と記している評者にとっても関係があるはずだ。そして、――今記した第7章から第9章へ至る流れを理解してもらうのはそう容易でないかもしれないと認めるにしても――、少なくともこの部分は、非常にはっきりと、明晰に、筋道を立てて、分かりやすく、述べられているところである。しかしこの部分に対する批評は、まったく受け入れがたいものになっている。
 「(すべてを公という立場、すべてを私という立場に対し)CILはそのいずれの立場もとらない」とは――上の評者が補った( )内自体が不正確だが、それは置こう――、評者の言うような「公私ミックス(多元的福祉システム)であり、どちらかというと、現在のアメリカが志向する社会政策」を指すのではまったくない。これは、文体や表現の問題ではまったくなく、この箇所(第9章 p.275)の前後をごく普通に読んでもらえれば明白であり、けっして読み誤ることはないはずの部分である。米国が志向するのは、α:資源のレベルで政府を介する支出と私的な(そして家族による)支出を並存させよう、むしろ後者に重きを置こうというものであって、私が日本のCILが主張することとしてこの本で述べ、この本での主張としてこの本に述べ、また先に紹介したこととは全く別のことである。
 実際、評者が引用している箇所にも「米国出自の当事者主体の組織の利点」と書かれているではないか。私は、米国の民間組織のあり方、その運営・経営のスタイルにとるべきところがあるのだと、何度も繰り返し、述べているのであって、それはβ:直接的な供給システムのあり方に対応する。
 また、「「北欧型の全社会的な負担」というあり方は、「すべて公」という選択に」まったく近くない。「このような記述に矛盾は」まったくない。それ以前に、私は「すべて公」という言葉を使っておらず、もちろん評者のような使い方で使ってもいない。まず私は「北欧」について、この箇所でしかふれておらず、それは引用されている通り、負担のあり方(α)としては評価できると考えているということである。この意味で、私は「北欧型福祉国家」を敵視する人達とまったく立場を同じくしない。そして私は、なにより北欧の全般的なそして細かな状況を知らないから、北欧における実際のサービス提供のあり方(β)についての評価はさし控えざるをえず、実際論評していない。またそれは、αに即して述べているこの文脈では必要ないことでもある。北欧諸国においてα・βとも政府が直接の権限をもって担当するという方が優勢なのか、βについて当事者・利用者(側の組織)の参加が進んでいると考えるか、どこの国のどの時点のことかによって、評価も変わってくるだろう。ただ、前者から後者への移行(当事者の主体性を重視する方向への移行)が少なくとも一部に存在すること、そしてその一例としての、スウェーデンのラツカらの試み[Ratzka1991=1991]、デンマークのクローらが実現させたオーフス方式と呼ばれるシステム[Krog1993=1994]は、彼らの活動が始まる時点でのその国々の福祉システムの欠陥を指摘して現れてきたものだということは確認しておこう。こうした当事者による運動の経緯があって、日本のCILによってあるべきシステムと考えられるに至ったシステム(それが日本で今現実に実現されているというわけではない)が北欧において実現されているのだとすれば――評者はそのように思っているようだ――それはそれでよいことである。しかしそのことは、私が述べたことのどんな部分をも批判する根拠、材料にはなりえない。
 評者は実際にアメリカに行って、これではだめだと思った。北欧にモデルがあると思った。(私はこのあたりの話を評者に実際に聞く機会に恵まれたのだ。)それは大変よく理解できる。私もかなりの部分その通りだと思う。しかし、そのことをもって、この書評のような評をするのはあまりにも乱暴であると言うほかない。
 第9章冒頭の部分の理解がこういうことであるのだから、さらに私にこの章をめぐる応答の文章を続ける意味があるのかどうか。ともかく、私は、この章で、自立生活センターの基本的な発想・主張と社会の中での位置づけを確認し、組織のあり方(についての工夫)を紹介し、今現在やっていることの概要を読者に伝えたいと考えた。いくつかの独立して書いた文章がもとになっているせいもあり、だがそれ以上に最低限必要な情報を押し込む必要があったから、いろいろなことが書いてある。と同時に、盛りこんでもよかった様々な情報を、ここでは、定価2900円――それでも十分に高い――の範囲で、落としている。それでも初期の目的はなんとか果たされたと私は考える。もちろん個々の部分をもっと調べて展開していく必要はある。たとえば組織運営のあり方、組織の構造・動態について、評者の言われる通り、より立ち入った調査研究が行われる必要があるだろう。例えば圓山里子氏(東京都都立大学院)のような人によって、そういう論文(修士論文)も書かれ始めてはいる。私自身も、資料、データの収集は継続して行っており、1年に1回くらいはその活動(とその問題点)について報告していきたいと考えている。

■書かれていること・2(と別になされるべきこと)

 「書かれていること・1」だけ読むと、この本はひどく暗くて重たい本だと思われるかもしれない。そういうわけではない(分量が多いのは事実だが)。この本には、まず、こういう人達がいるんだ、こういう考え方、感じ方、試みがあるんだ、それをもっと知ってほしいという宣伝の意図がある。また、障害がある人に対して、こういう生き方がある、こういう制度や組織があるから使った方がよいという情報を提供をしようという意図がある。たとえば第8章・第9章には、制度が紹介されている部分がある。これは他に十分にそれを紹介したものがなく、またこの本が実際に使われることを目指し、また実際にそのように読まれている本であるからには、落とすことができない部分である。表現上の難点、そして上記してきた、なにかと考え始めてしまうという事情による難がありながら、それでも、そうした本として読まれてきているのはうれしいことだ。
 ただこうした部分については、初版そして増補・改訂版にも記したことだが、別のメディア、例えば雑誌、パソコン通信、もっと薄くて安い2年おきくらいには新しくしていける本の方がふさわしいだろう。雑誌メディアで私が担当したものとしては『季刊福祉労働』(現代書館)の連載(全15回、この3月が最終回)、単行本としてはこの本にも紹介した「全国公的介護保証要求者組合」の人達が中心になって書いた本(同じく現代書館)の出版が予定されている。パソコン通信でも、そろそろ本格的に医療関連情報も含めたインターネット上での情報提供――制度や民間組織の活動の紹介、それになかなかうまく相互に連続・連携していかない調査研究に関わる情報提供も――を始めようと考えている(興味をもたれる方はTAE01303(@niftyserve.or.jp)まで)。
 もちろん、情報が提供されるだけではだめなはずだ。また、ぐちゃぐちゃした部分を除いた(むしろ、そういう作業いったん済ませた後の)より簡潔な主張がなされ、その実現の方法論が示される必要があるだろうし、また具体的にそれを実現させていくための戦略が必要だし、なにより実際の活動が必要だ。ただ、それはまずは当事者が担うことだし、実際に担っている。それに対して研究をなりわいとする者に何ができるのか、というふうに私は考える。「啓蒙」というような仕事もあるのかもしれない。ただ、それもまた、当事者達がより有効に行えていると思う(私なんぞが書いたものより、安積が書いたものの方がおもしろいのである)。私としては、これまでの「思弁」に偏った仕事と上記した情報提供の仕事をしがら、当事者(の組織)に向けては、助言と言うに足る助言ができるなら助言を、そして批判を、そして共同の作業を――既にそれは私が割ける時間の上限に迫りつつあるのだが――できる範囲で、続けていく。そして私が受け入れられない理屈を言う政策立案者や研究者やに対しては、理屈による対抗を行っていく。「「共に生きる社会」をいかに日本社会に構築していくか」が評者の問題関心である。それに応えて――「共に生きる」ってどういうこと、とまぜっかえしながら――せいぜいがんばって、私にできるのはこういうことだ。そして、『生の技法』という一つの本の中でできると考え、できたと考えたことについては既に述べた。

■謝辞

 繰り返すと、このように書いた本がこのように――しかも、多くの点において考えを同じくし、ことに実証的な分野において評価されるべき研究を行ってきている評者に――読まれるのかということに、筆者の一人である私は、唖然とし、呆然自失してしまった。そして興奮してしまって、随分長い、興奮した文章を書いてしまった。一部非常に攻撃的な文章になっているが、評者を攻撃する意図はもちろんない。それは興奮――大変気持ちの悪い興奮だった――してしまったからである。日本社会の現実はシビアなんだ、それを変えないといけない、もっとわかりやすく実態を伝えないといけない、という評者の思いはわかる。アプローチや戦略が違うということもあるだろう。また、「明らかなこと」の手前の部分への偏執というものは――私自身はそれなりの社会的、社会学的な意味があると信じているけれども、それでも――相当程度、趣味的なものなのかもしれない。気持ちの悪い興奮から覚めて虚脱した状態で、そういうことも思う。しかし、ここまで述べたどの部分も言い直すつもりはない。もう一度、この本を徹底的に擁護しなくてはならないと思わせてくれた評者に、感謝する。

□文献

石川 准  1992 『アイデンティ・ゲーム――存在証明の社会学』,新評論
◇Krog, Evald 1993 En Muskelsvindler, Fisker & Schou, Denmark=94 大熊由紀子監修・片岡豊訳,『クローさんの愉快な苦労話――デンマーク式自立生活はこうして誕生した』,ぶどう社,150p.,1600
◇Ratzka, Adolf D.1991 Independent Living and Attendant Care in Sweden: A Consumer Perspective=1991 河東田博/小関・ダール瑞穂訳,『スウェーデンにおける自立生活とパーソナル・アシスタンス――当事者管理の論理』,現代書館,133p.,1442円
立岩 真也 1992a 「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」,江原由美子編『フェミニズムの主張』,勁草書房 :167-202
◇――――― 1992b 「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」,生命倫理理研究会生殖技術研究チーム『出生前診断を考える』:95-112
◇――――― 1994 「能力主義とどうつきあうか」,『解放社会学研究』8:77-108
◇――――― 1996 「医療に介入する社会学・序説」,『病と医療の社会学』(岩波講座現代社会学14)

 →『生の技法 第3版』


UP: REV:20161022 
『生の技法』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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