HOME > Tateiwa >

「愛の神話」について

――フェミニズムの主張を移調する――

立岩 真也 19960229 『信州大学医療技術短期大学部紀要』21,pp.115-126


*この論文は以下の本に収録されました。お買い求めください。

カバー写真 ◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』
 生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110
 [amazon][kinokuniya] ※ w02,f04

1 考察の開始

  家族(内の特定の成員)に与えられている行為、家族と家族でないものとの境界は,どんな要因によって成立しているのか、どんな効果を生じさせるのか、どんな原理によって正当化あるいは批判しうるのか。その答として既にあるものに、私はあまり説得されない。そこで考察を始めた。
  これまで行ってきた前提的な考察1)2)において、私は、近代家族の特徴を愛情や自発的結合に求める時、家族(の成員・行為)の外延的な定義が不可能になること、家族に義務を付与する根拠が見い出されないことを指摘し、にもかかわらず、例えば法的には、家族の外延が設定され、義務が付与されているという現実(の不思議さ)に着目すべきことを述べてきた。「家族社会学」について私達が驚くべきことは、こうした事態に対する無自覚さである。これは、「機能」という語が全く曖昧に使用されていること、当事者による規定とその外の者(達)による規定との存在性格の違い、存在と当為の差異に無自覚であることによる2)。
  「社会福祉」について「社会福祉学」や「家族社会学」(に限らないが)で語られることにもまったく同様のことが言える。「核家族化」や「高齢化社会」が語られ、「家族が担いきれない」という現実が指摘される。それは現実としてその通りではある。だが、はたして本来家族は(もし担えるのであれば)「担うべき」なのか。この問いに対する答え方によって、実践的な指針はまるで異なってくる3)4)。にもかかわらず、この問い自体が発せられず、見られるのは、「担いきれない」という「現実」から、家族外の誰かが(たとえば「社会」が)「担うべき」という「当為」への横すべりである。
  これらと比較した時、フェミニズムが行ってきたことは、「普通」の状態の中に問題を感じ、それを言語化し、さらに別のものを対置しようとする試みであるがゆえに、現実の基本的なところを根本的に問おうとし、自らの主張の根拠を提示しようとするから、上記した主題を考える上で貴重な作業となっている。
  フェミニズムは、一つに現実を説明しようとする。ある規範が存在するというだけの理由でそれが存続するとは考えにくいとすれば、それ以上の何かが働いていると考えるのはもっともである。そこで利害関係の存在が疑われる。利害が一致しているからその状態が存続しているかもしれず、あるいは多数者・強者の側が物的・心理的な利益を得ているのかもしれない。また、利害の不等性を覆い隠す何らかの装置があるのかもしれない。
  もう一つは正当性の検討、あるいは批判の根拠の吟味である。利害は当然対立することがある。論理によって現実が決しているというのではないが、対立の中で対立する双方が持ち出さねばならないのは論理である。どういう基準から正当あるいは不当なのかを示さねばならない。
  だが、問おうとする対象自体の複雑さと、その時々の現実に対応せねばならないことによって、フェミニズムの主張の中には様々な要素が混在し、その中には根拠が明らかでないもの、主張自体に曖昧さのあるものがあり、その各々が十分に吟味されないままになっている。家事労働の問題一つをとってもそう単純な問題ではない。家族と家族でないもの、例えば市場との境界という根本的なことに関わっている。その着眼を損わずに、分析・分節の作業を行うことが必要だと考える。
  本稿は、特に家事労働を巡る議論に持ち出される「愛のイデオロギー」という理解について検討する。そこに「批判」の言説全般にしばしば現れる問題点が見出されることを指摘し(→2)、これまでの考察1)2)から言い得ることによって議論を立て直し(→3)、それでも残る問題を指摘する(→4)。ゆえにここで行われるのはきわめて限定された作業でしかないが、議論を先に進めるための準備として一度やっておく必要はある。
  これからの考察において念頭にあるのは、例えば以下のような言明である。

@「家事労働は、金になろうとなるまいと、労働にはちがいなく、主婦がやらないとなれ ば誰かに代行してもらわなければならない。その意味で「有用で不可欠」な労働であり ながら、女性に対してどんな法的・経済的な補償も与えられず、無権利状態におかれて いるとなれば、これは不当に報酬の支払われない「不払い労働 unpaid labor 」だとい うことになる。……主婦はそれを「愛」の名のもとに行っている。」(上野5)pp.38-40)
A「「愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与えて祭り上げることを通じて、女性の 労働を搾取してきたイデオロギーである……「愛」とは夫の目的を自分の目的として女 性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福と見な して献身と自己犠牲を女性に慫慂するための、イデオロギー装置であった」(上野5)p. 40)
B「女は自分の生存のみと引き換えに働かされているのに、それは労働者の家族というも のが形成されたおよそ十九世紀後半以後、先進資本主義諸国において、ロマン主義的愛 のイデオロギーと定義すべき特殊な「愛」のイデオロギーによって神秘化されてきた。」
  (Dalla Costa6)p.23)
C「愛をめぐる特殊なイデオロギーこそ、無償労働としての家事労働を正当化するために 資本が作り出し、維持しているものだ」(Dalla Costa6)p.24)
D「資本主義の下では、愛は「素晴らしいこと」であるどころか、労働関係を覆い隠す神 秘化の中でももっとも重大な神秘化にほかならない。賃金も支払われることなく家事労 働を供給するよう女を駆り立てているのは、この「愛」なのである。」(Dalla Costa6) p.24-25)
E「女に単なる生存と引き換えに際限のない重労働を負わせるという極悪非道なやり口を、 資本はこの愛という言葉によってごまかすのである。「愛は惜しみなく与える」という わけだ。」(Dalla Costa6)p.40)

  基本的な主張は、A:家事労働は支払われるべきだが支払われていない労働だ、B:それを愛のイデオロギーが隠している、というものである。Aは、第一に本来支払われるべきものが不払いであることを言うことによって不当性を主張する。第二に、男性(あるいは資本、あるいは国家)が利益を得ていることをもって現実の説明の一部とする。利益を得ているなら、この利益を放棄することはしないだろうからである。だが同時に、不当な損失を女性が被っているのだすれば、この現状の変革がなされてもよいはずだ。にもかかわらずこの不当な現状が存続していることの原因の少なくとも一端をBが説明する。男女間の現実の不当性が覆い隠されているというのである。また、この「神話」は、家事労働が労働であるという見解に対置される観念、したがって否定されるべき観念でもある。
  例えば、フェミニズムの理論的営為の一つの集約的な成果と見なされているらしい上野5)の主張がこうしたものだ。これに対しては、様々な批判がなされているが、議論の中核であるこの部分に踏み込んだものはそうない。
  まずAについて。主張されているのは、家事労働は本来なら支払われるべき労働だということである。ひとまず支払いを想定してみるだけというのでは、初めからこの基準を採る意味はない。この支払いは、当事者達の多くが現実に行っているわけでも、支持しているわけでもないから、誰かが(これが、残念ながら、多くの場合特定されていない)支払うべきことを、現実がどうだということと別に、論証せねばならない。その上で、家事労働を市場での労働と比較してその賃金を算定し、それと(例えば夫が払うべきだとすれば)現実に払われている妻の生活費とを比較し、前者が後者を上回っていることを証明せねばならない。これらについての考察は別稿7)に委ねる。
  本稿ではBを検討する。家事労働の現状を当然とする「愛の神話」が「神話」――この語はこのような場合、信じられてはいるが「虚偽」である観念・言明を指す――なのであれば、本来家事労働は支払われるべき労働ではないという主張に対する反論の可能性は出てくる。Aの課題に部分的に答えることになるわけである。さて問題は、それが、どのように、言えているかだ。

2 何が言われたか

(1) 合意の内部にあるとする主張

(2) 幻想?

3 義務はない

(1) 愛情は特定の行為・行為の義務を導かない

(2) 関係は特定の行為・行為の義務を導かない

(3) 批判の言説と批判されるものの位置

4 言いえたことと言いえなかったこと


文献
1) 立岩真也:愛について――近代家族論・1.ソシオロゴス,15:35-52,1991
2) 立岩真也:近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない.社会学評論,42-2:30-44,1992
3) 立岩真也:接続の技法――介助する人をどこに置くか.安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也,生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学,227-284,藤原書店,東京,1990
4) 立岩真也:私が決め,社会が支える,のを当事者が支える――介助システム論,安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也,生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学,増補・改訂版,227-265,藤原書店,東京,1995
5) 上野千鶴子:家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平.岩波書店,東京,1990
6) Dalla Costa, Giovanna Franca:Un labora d'amoure, Edizioni delle donne, Roma(伊田久美子訳,愛の労働,インパクト出版会,東京,1991)
7) 立岩真也:夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備.千葉大学文学部人文研究,23:63-121,1994
8) 立岩真也:身体の私的所有について.現代思想,21-12:263-271,1993
9) 立岩真也:能力主義とどうつきあうか.解放社会学研究,8:77-108,1994
10) 立岩真也:制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における.ソシオロゴス,10:38-51,1986
11) 立岩真也:個体への政治――西欧の2つの時代における.ソシオロゴス,11:148-163,1987
12) 立岩真也:出生前診断・選択的中絶をどう考えるか.江原由美子編,フェミニズムの主張,167-202,勁草書房,東京,1992
13) 立岩真也:出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか.生命倫理研究会生殖技術研究チーム,出生前診断を考える,95-112,生命倫理研究会,東京,1992
14) 立岩真也:生殖技術論・2――自己決定の条件.年報社会学論集,6:107-118,1993
15) 立岩真也:生殖技術論・3――公平という視点.Sociology Today,4:40-51,1993
16) 立岩真也:生殖技術論・4――決定しない決定.ソシオロゴス,17:110-122,1993
17) 立岩真也:何が性の商品化に抵抗するのか,江原由美子編,性の商品化,203-231,勁草書房,東京,1995
18) 立岩真也:能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について.差別と共生の社会学(岩波講座 現代社会学15),岩波書店,東京,1996
19) 立岩真也:女性の自己決定権とはどのような権利か.早川聞多・森岡正博編,現代生命論研究――生命と現代文明,国際日本文化研究センター,京都,1996


和文題名  :「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する
著者名   :立岩 真也
欧文題名  :On Myth of Love : A Transposition of Feminism's Assertion
ローマ字著者名 :Tateiwa, Shinya
所属名   :信州大学医療技術短期大学部
欧文所属名 :School of Allied Medical Sciences, Shinshu University

key words  :家族,家事労働,性差別,フェミニズム
      family, domestic labor, sex discrimination, feminism


  Some feminists insist that A: domestic labor should be paid but is not paid labour , and B: myth of love hides this fact. This paper examine B. Historicity of idea of love as devotion is frequently pointed out. We can certify it by knowledge given by social history, but its historicity and relativity do not result in criticism of this idea. Instead I prove that if we adopt definition of love we cannot but admit principle of self-decision and contract in family relationship, duties on family members become denied. Based on this recognition we can make clearer assertions.


UP:1996
家族  ◇家事労働  ◇フェミニズム/フェミニスト (feminism/feminist)  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)